ヒーローの絵
久世 空気
第1話
女の死体が転がっていた。
男の死体もトイレに詰め込まれている。
腐った肉の匂いと、床や壁を這い回る虫。
おぞましい部屋の中で、その子が居る半径1メートルほどだけ清められ、黒い影に守られている。
これは一体何だ、そう考えるより先に胃の中の物がせり上がってきて、馬場はその場に嘔吐した。
他の子供が机の上でお絵かきをしている教室で、床の角の方で一人の園児が、熱心にクレヨンを動かしていた。クレヨンを握る手にはタバコを押しつけた跡がある。保育士の馬場は胸を痛めながらも、膝を付いて優しく声を掛けた。
「ダイヤちゃんは、どんな絵を描いたのかな?」
呼ばれた女児は大きな目をくりくりさせて馬場を見た。しかしその顔には子供特有の柔らかそうな頬や、みずみずしさは無かった。他の子より明らかに細く、また疲れたような表情をしている。
「わぁ、頑張って描いたんだね。これは何かな?」
画用紙の真ん中に描かれた黒い固まりを指す。ダイヤは口を半分開けたまま、うつろな目で馬場を見るだけだ。次は何て声を掛けようか思案していたら、かすかに声が聞こえた。ダイヤの唇が動く。馬場は「ん?」と首をかしげた。ダイヤはまるでないしょ話をするように口を耳に寄せた。
「ヒーロー」
馬場は驚いてダイヤと画用紙を見比べた。ダイヤは相変わらず表情のない大きな目で馬場を見上げている。描かれた黒い固まりには手足のようなものがついて、赤でグリグリと塗られた丸が二つ付いていた。
「ダイヤちゃん、どう?」
毎日、先輩の鈴木にそう聞かれるが、その日は馬場から鈴木にダイヤの絵を見せた。鈴木はじっと絵を見て
「これは、箪笥? それからテーブルとか家具があるから、家の中かな」
「ダイヤちゃんは、この真ん中の黒いのを『ヒーロー』って言ったんです」
「ヒーローね・・・・・・最近、怪我は無いのよね?」
馬場は首を縦に何度も振った。
「はい、新しい物は体にもないです」
ダイヤは児童相談所に保護されていたが2週間前から自宅に戻っている。母親の彼氏がダイヤを怪我させたためだ。その後母親は男と別れたと言い、児童相談所も母親の言葉を聞き入れてしまった。警戒はしているが、保育園を休むことも怪我が増えることもない。ただダイヤの元気は戻らない。
「園バスのお迎えに来ているのは結局誰だったんですか?」
バスによる登園、降園には運転手の他、保育士が一人同乗することになっている。その担当は出勤している保育士が交代で勤めている。ダイヤがバスを乗り降りするときに付き添っている保護者が母親ではないことは報告されていた。しかし確認する前に付添人は消えているのだ。ダイヤの状況は改善されているようだが、一体誰なのか。
「新しい彼氏とかだったら・・・・・・」
馬場が思わず漏らす。鈴木の表情が険しくなる。改善されているとは言え、理由も分からず楽観視することは出来ない。
馬場は鈴木とともに園長に相談し、今日の降園のバスに元々の担当の鈴木と、馬場も一緒に乗ることにした。
園バスは数カ所の停留所を経てダイヤが降りる場所に停止した。お迎えの保護者が居るところに、見知らぬ顔がいない。
「ダイヤちゃんのお迎え来てないね?」
と馬場がダイヤに問うが首をかしげるばかりだ。
「とりあえず、園に戻りましょう」
鈴木が提案した瞬間、それまで大人しくしていたダイヤがバスを飛び降り走り出した。
「追いかけます!」
馬場はダイヤを追った。ダイヤの走り去った方向から自宅に向かっているのはすぐに分かった。園バスの停留所から5分もかからない場所にある借家の一戸建て。ダイヤの母親が親戚のツテで借りていると聞いている。馬場が家に着いたとき、ちょうど玄関の扉が閉まるところだった。ドアノブを掴むと、すんなり扉は開いた。
「お邪魔します。保育園の馬場です」
いるはずの母親に声を掛けたが、その瞬間馬場は強烈な異臭に鼻と口を手で覆った。玄関は酷い惨状だった。ゴミが積まれ、一部袋が破けて生ゴミがあふれている。そこから見える廊下も、二階に上る狭い階段もゴミやガラクタで足の踏み場が無く、白いはずの壁は茶色に変色していた。
本当にここで生活しているのだろうか?
迷ったが、靴を履いたまま家に上がる。陶器らしき物が割れているから、靴を脱ぐ気になれなかった。廊下を歩いて左手に居間があり、そこのちゃぶ台の周りだけ、きれいに片づいていた。ちゃぶ台の上も何もない。そして居間の隅で、ダイヤが新聞紙を広げしゃがんでいた。
声を掛けようとして、絶句した。ダイヤはその場で小便をしていたのだ。終わるとさっさっと新聞を丸め、その近くにあったゴミ袋に放り込んでいる。
「ダイヤちゃん」
声を掛けるときょとんとした顔で、まるで見られたことに何も感じないように、ただ馬場がいることに驚いていた。
「おトイレ、使わないの?」
震える声で聞くと
「壊れてるから」
と小さい声で返事をする。
「お母さんは?」
ダイヤは黙って指を指した。指した方には台所があった。玄関より、より腐敗が進んでいるゴミが蓄積されていて、ハエが飛んでいる。
「え?」
見えた物が何か、理解が追いつかなかった。ゴミではない。人がいる。黒ずんでいるが、血だらけの人が、ゴミの中に埋もれている。「お母さん」? あれはダイヤの母親なのか? どう考えても生きているようには見えない。
馬場はふらふらとその場を離れた。手ぶらで来たことが悔やまれる。警察に、保育園に連絡しないと。ここに家電はあるのだろうか。
トイレのドアが開いていることに、その時気付いた。壊れているのと入れに、電気が付いている。一層強烈な刺激臭に、脳が警鐘を鳴らす。
家を出ろ、家を出ろ。
しかし馬場は両手で口を押さえたまま、それを見てしまった。トイレから突き出る男の首。壊れた便器に押し込められた男の死体。
馬場はせり上がってくる物にあらがうことが出来ず嘔吐した。ゲェゲェ吐きながら、あれは母親の彼氏だと思い出す。ダイヤを虐待していた張本人。何故ここに?
なおも家から出ろと言う脳の命令は続く。ダイヤを連れていかなければ。
居間に戻ると、何も無かったようにダイヤがちゃぶ台に向かって絵を描いていた。黒いクレヨンで、チラシの裏にグリグリと。その黒が盛り上がる。黒い影が湧き出るように紙からあふれ出る。その影に、ダイヤは頬ずりするような仕草をし、微笑んだ。
「ダイヤちゃん、それは・・・・・・」
「ヒーローだよ」
黒い影はダイヤを守るようにとぐろを巻いた。ただただ黒い煙のような物なのに、こちらを伺っているのがわかる。
「ヒーローが来てから、パパが動かなくなったの。ママが怒らなくなったの」
歌うように呟くダイヤの言葉に、馬場は流れる涙を止められなかった。自分でも何故泣いているのか分からない。
「ママやパパを怖くしてる悪者を、やっつけてくれたんだよ」
馬場はゆっくりダイヤに近づいた。ダイヤの周りの、穏やかな黒い空間に触らないよう、ダイヤの腕を掴む。
「保育園に戻ろう」
ダイヤは腕を振り払おうとするが、馬場は離さなかった。こんな場所に居てはいけない。何があったか分からないが、とにかく保護しないと。
「やだ!」
ダイヤが強く拒否する。
「ここに居ちゃ駄目なの」
「もうママと離れたくない!」
悲鳴のような叫びに反応し、黒い影が天井まで伸び上がった。
「家から出たくない! ママと一緒がいい!」
やめて、と言う馬場の口に、黒い影が入り込んでくる。感じたことのない痛みが、体の中から馬場をむしばむ。叫ぶことすら出来ない。床でもがく馬場を、ダイヤが悲しそうに見下ろしている。
「先生も、悪者だったんだね」
その瞬間、馬場の胸部から赤い血が噴き出し、黒い影が血しぶきから守るようにダイヤの姿を隠すのが見えた。
ヒーローの絵 久世 空気 @kuze-kuuki
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