耳毛さん

ハヤシダノリカズ

私のヒーロー

「偶然も、そこまで続くと、なんだかもう、ストーカーなんじゃないの?って思うわ」

 前の席の椅子に横向きに座って、結子ゆうこはそう言った。

「いやいや、生活圏と行動範囲が似通ってるだけよ。私の恩人をストーカー呼ばわりするのはやめてよね」

 私が反論すると、

「その恩人を【耳毛みみげさん】呼ばわりする真由子も真由子だけどね」

 そう言って、結子はからかってくる。

「だって、名前も知らないし」

「その、耳毛さんも私たちと同じ高校生か、もしくは大学生なんでしょ? 傷つくと思うなー。何度も助けている女子高生に耳毛さんだなんてあだ名付けられてると知ったら。耳毛さん」

「そもそも耳毛さん、って言いだしたのは結子じゃん。私は印象に残ってる特徴を言っただけだったよ、最初は」

「あれ?そうだっけ?」

 結子はそう言って笑って、自分の席に戻っていった。鳴り響いているチャイムの下、先生が教室に入ってきた。授業が始まる。


 ---


 耳毛さんに初めて出会ったのは、学校帰りの土手の上だった。通学路にしている川の土手の上の道を自転車で走っている時、少し大きめの石ころか何かにハンドルを取られてこけた事があった。手足を少し擦りむいた程度で、怪我自体は大したことがなかったんだけど、自転車を立てて跨って、いざ帰ろうとペダルをこいでもスカスカに空回りしただけだった。自転車から降りてスタンドを立ててよくよく見れば、チェーンが外れていた。


 しばらく途方にくれた後、『しょうがない。押して帰るか』と思った時に、「あ、もしかして、チェーン外れたの?直せるか見てみようか?」と声をかけてきてくれたのが耳毛さんだった。

 背は私より少し高いくらいの、優しい表情を浮かべて話しかけてきてくれた彼は、薄手のパーカーにチノパンといういで立ちであったから、制服の無い高校の生徒か、大学生なんだと思った。


「ちょっと見せてもらってもいい?」

 と聞いてくる彼に、戸惑いながらも頷くと、彼はさっそくしゃがんで私の自転車のチェーンを触り出した。変速の為についているのだろう後輪の重なった歯車から外れてだらりとぶら下がったチェーンを素手で触って、バネでチェーンを張る部分をグイっと動かして、直してくれた。自転車のその部分がどうなっているかなんて気にもした事のない私は腰を曲げて、彼の背中側からその工程を見ていた。


 その時に彼に近づいて目にとまったのが、彼の右耳の穴と耳たぶの間からひょろりと伸びている細い一本の毛だった。風にそよぐその、人体のエラーかバグのようなその毛の事を結子に話してしまったもんだから、彼は私たちの中で耳毛さん、と呼ばれる事になったのだ。


 チェーンの油汚れで真っ黒になった彼の手を見てあまりにも申し訳なくなった私は、カバンからハンカチを出してお礼を言わなきゃとあたふたしていた。

 自転車の後部を左手で持ち上げて、後輪を右手で回転させて、「良し」と言った彼は私の方を向いて、「これで大丈夫なハズ。一応、自転車屋さんに見せた方がいいと思うけどね。今からこれで山を越えるとかじゃなきゃ、問題はないと思う。それじゃ!」と言って立ち去ろうとした。

「あ、あの、ハンカチ……」

 と、私がなんとか声をかけると、

「あぁ、この油汚れがそのキレイなハンカチに付いたら取れなくなるし、いいや」

 彼はそう言いながら、土手の脇に生えている雑草で手を拭って、

「公園のトイレでも探してくるよ。それじゃね、気をつけて」

 と、そのまま道なき土手の斜面を降りて行った。


 それが、一度目。


 二度目はコンビニで小銭を何枚か落とした時に拾ってくれたその人が耳毛さんで、お互いに『あっ、あの時の』という表情で目を合わせていたと思うけど、なんか気恥ずかしくて「ありがとうございます」という事しか出来なかった。


 三度目は日曜日に服を買いに街へ行った時だ。ガラの悪い二人の男にナンパされていた時に、耳毛さんは「ごめーん、遅くなって。待った?」と言いながら近づいてきて、二人の男に「僕の友人に何かご用でした?」なんて飄々というものだから、毒気を抜かれた二人は「ちっ」なんて言いながらどこかへ行ったっけ。

「あの、何度も助けて頂いて、ありがとうございます」

 今度こそは名前を聞かなきゃと思いながら、私は彼に礼を言った。

「ん、何度も?」

 彼はそう言って私の顔をまじまじと見た。

「えっと、自転車とか、小銭とか……」

 咄嗟には上手く説明出来なくて、しどろもどろに私は言った。

「あぁ!あの時の!そして、あの時の! あー。やっぱり私服だと印象が違うね。全然分からなかった」

 そう言って彼は笑った。

「自転車、あの後、お店で見てもらった?」

「いえ、普通に乗れて家まで帰れたので、自転車屋さんに見てもらうの、忘れてました」

「ま、単純な作りだからねー。電動アシスト自転車じゃなくてよかったよ」

「本当に助かりました。あんな、油まみれの手にまでなって……」

「いえいえ。あの土手の下の住宅街にね、バイク好きの友達の家がある事を思い出したんだよ、あの時。それで、『あぁ、アイツの家にはバイクを洗う時の強い洗剤とかあったな。そう言えば、しばらくちゃんと喋ってないな。ちょうどいい、会いに行こう』って思いついてね。久しぶりにその友達と話す機会が持てたし、こちらこそ、ありがとうって感じだよ」

 そう言う彼の爽やかな笑顔が眩しかった。

「あの、何かお礼をさせてください」

 精一杯の勇気を出して私が言うと、

「いいよ、そんなの。……っと、ゴメン。そろそろ行かなきゃ。友達との約束があるんだ」

「せめてお名前だけでも」

「名乗る程の者じゃございません。……って、やった!初めて言えた!このセリフ。言ってみたかったんだー。ありがとねー!じゃ!」

 おかしくて仕方がないといった表情でそう言いながら、耳毛さんは走っていった。

 いや、名乗る程の者だよ、耳毛さん。名乗らないもんだから、今でも結子と私の間では耳毛さん呼ばわりされてるんだよ。


 耳毛さんの事を考えていたら授業が終わった。

 授業内容は一切頭に入っていない。


 ---


「考えてみれば、ストーカーだったとしたら、もっと近づこうとして名乗ったり、真由子の名前を聞いてきたり、連絡先の一つも聞いてくるはずよね」

「そうよ。三回も助けておいてくれながら、お互いに自己紹介さえしていないんだから」

「ちっちゃな男の子が好きな変身ヒーローなら、聞かなくても名乗ってくれるのにね」

「最近のヒーローは『ババン!オレはマルマル!助けに来たぞ!』とは登場しないんじゃない?」

 結子と話しながら、私は初めて、耳毛さんが私にとってのヒーローなんだと気づいて、『耳毛さん、見参!』と言いながら登場する耳毛さんを想像した。

「なに?ニヤニヤしちゃってさ。恋する真由子、なのかな?」

 結子にそう言われて初めて、自分がにやけているのに気がついた。

 耳毛さんは、自分の事をさん付けしながら現れたりしない。


 ---


 生徒会の用事があるとかで結子とは別れ、放課後、私は一人で学校を後にした。お母さんにおつかいを頼まれていた私は商店街に向けて自転車を走らせる。


 商店街の脇の駐輪スペースに自転車を止め、そして、その真横にある公園に何気なく目をやると、ベンチに一人で座っている耳毛さんを見つけた。手にしているのは文庫本か。熱心にそれを読んでいる。

「みっ……」

 と言いかけて、口をつぐむ。耳毛さんじゃない。今日こそは名前を聞くのだ。


 おずおずと私は彼に近づく。誰かが近づいてくる気配を感じたのか、彼はこちらを向く。一瞬で私だと理解したのか、読書モードの無表情な顔に一瞬で感情の火が灯る。あの、笑顔だ。

「やぁ、よく会うね」

「あの、何度も助けて下さって、本当にありがとうございました」

「いやぁ、こちらこそ。念願の『名乗る程の者じゃございません』っていうセリフを言えたんだ。あれは、楽しかった。ありがとうございました」

 耳毛さんは立っている私に合わせてくれたのか、立ち上がりながら言った。

「名乗る程の者です!名乗らないから、み……じゃなかった。お名前教えてください」

「あはは。ゴメンゴメン。僕はミヤケ。ミヤケツヨシ。君は?」

「あぁ!スミマセン。まずは自分から名乗れって親には散々言われてきたのに!わた、私は井上、井上真由子と言います」

「なんだろね。縁があるのかな。今日で……、さん」

「四度目です」

 ミヤケさんの言葉を遮って私は言う。

「一度目は土手で自転車、二度目はコンビニで小銭、三度目は変な二人組の男のナンパから、助けて頂きました」

「あぁ、コンビニ。そんな事もあったね」

「えぇ。全部、助かりました。嬉しかったです」

「あ、真由子ー!」

 突然、結子の声がする。声の方を見ると結子が自転車をとめながらこちらに手を振っている。そしてすぐに走って私たちに近寄ってきた。からかおうという気持ちを隠す気もないらしい。ニヤニヤ全開だ。

「もしかして、もしかしたらだけど。その人が例の、み」

 みげ、とは言わせない。私は結子の腹に掌底を見舞った。

「おぅふ。もう!なにするのよ!」

 と言ってくる結子に私は目で合図する。『そう。この人が耳毛さん。でも、耳毛さんって呼ぶな!バカ!察しろ!』と。もちろん、ミヤケさんを背にして。ミヤケさんから私の顔が見えないように。

「そう。この人が私のヒーロー、ミヤケさん。なんと、三度もこの麗しの美少女を救った、その方です!」

 大げさに芝居がかった私のこの言い回しでなんとか誤魔化されてくれないか、ミヤケさん。

「あぁ、そうなんですねー。その節は、うちの真由子がお世話になりましたー」

 結子はなんとか察してくれたようだ。

 結子に向かって何かを言っているミヤケさんの右の耳にはやっぱり一本の毛がそよいでる。でも、それがなんとも愛おしい。やっぱり、これって、恋なのかな。


「ところでさ」

 ミヤケさんは言う。

「二人してさっきから、『み……』って、何?」

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耳毛さん ハヤシダノリカズ @norikyo

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