ひと時の別れ

櫻葉月咲

私はずっと待っているから

『きっと一人前になって咲羅さらを迎えにいくから……待っていて』


 そっと頬に手を添えられ、尚斗なおとが言った。

 咲羅が好きな切れ長の瞳は、心做こころなしか少し潤んでいる。


 ほんのりと頬が赤く染まっていると思うのは、窓辺から差し込む夕焼けがそうさせているのだろうか。

 咲羅は一度二度と目を瞬かせる。何を言われたのか一瞬わからなかったのだ。


(そんなの、まるで……)


 その言い方では、勘違いをしてしまう。


(プロポーズみたい、だなんて)


 尚斗とは高校の時から付き合い、今年で三年目になる。

 今の今まで好きだと言われた事は、数え切れないほどあった。

 けれど、遠回しであってもこうして言ってくれた事はなかったのだ。


『咲羅……?』


 返事は、と甘い声で訊ねられると、せきを切ったように愛しさが溢れ出した。


『うん、待ってる。待ってるから……絶対に私の所に帰ってくるって約束して』


 言葉の意味を理解した途端、自然と涙腺が緩み、ぽろぽろと涙が頬を伝う。

 頬に添えられた尚斗の手を、ゆっくりと濡らしていく。


『三年なんかすぐだよ。毎日じゃないけど、時間がある時は電話するから。だから泣かないで』


 尚斗の長い指先で頬を拭われ、その優しい温もりにまた涙が溢れた。


『泣いてない、泣いてないわ……』


 言いながら、咲羅はぎゅうと尚斗に抱き着いた。

 強がりを言ってしまうのも、こうして甘えてしまうのも、尚斗を好きが故の事だった。


『はいはい、そういうことにしとくよ』


 ほんの少し笑われた気がして、咲羅は抗議するべく顔を上げた。しかし、それよりも早く尚斗の腕に動きを阻まれる。

 息ができないほど強く抱き締め返され、少し苦しい。けれど今の咲羅にとっては、その温もりが何よりも安堵するものだった。


『咲羅』


 やがて尚斗が咲羅の名を呼んだ。


『うん……?』


 咲羅がゆっくりと顔を上げると、至近距離で尚斗の瞳とぶつかった。

 尚斗の瞳には咲羅だけが映っており、咲羅の瞳にも尚斗が映っていることだろう。


 じっと瞳の中にいる自分を見ていると、頬に尚斗の大きな手が添えられ、柔らかく唇を重ね合わされる。

 深く甘いキスになるまで、そう時間はかからなかった。



 尚斗がアメリカへ行く、と言ったのは丁度一年前の事だった。

 元々、進路をどうするか考えていた時期だ。なんら問題なく、その時の咲羅は受け入れていた。


 舞台や映画の勉強をするために、三年間の留学をしてくるのだという。

 尚斗の親戚にツテがあるらしく、その人の元で学ぶらしい。

 それを告げられたのが、高校三年生の冬の事だった。


 幸いすぐにというわけではなく、卒業してから一年の間はバイトをして資金を貯めろと言われ、それから一年が経とうとしている。

 その日になったら、尚斗は一人アメリカへ旅立っていく。


(覚悟はしてたけど……やっぱり寂しい)


 付き合ってから三年。出会ってから三年と少し。

 一日を過ごしていくうちに、段々と別れるという事が心細くなった。


(でも尚斗は出来るだけ電話するって言ってたし、これくらいで寂しいとか思ってたら駄目よね)


 咲羅はそっと目を伏せる。


「何も本当に別れる、ってわけじゃないのに」


 はぁ、と人知れず溜め息を吐いた。一人でいるとモヤモヤと考えてしまう。

 今、咲羅が居る場所は空港のロビーだ。


 尚斗がアメリカへ行く手続きなどをしている間、咲羅はソファで座って尚斗が来るのを待っていた。


(せっかく尚斗がアメリカに行くんだから……。こんなしんみりした顔見せちゃ駄目でしょ。しっかりしなさい、咲羅!)


 パシンと自分の頬を叩き、喝を入れる。

 ちらちらと咲羅に向ける視線があるが、本人は尚斗のことでいっぱいだった。


(せめて尚斗が向こうでも頑張れるように、今日は笑わないと)


 笑顔を作っているとすぐにバレるかもしれないが、不安にさせるよりはマシだろう。

 よし、と小さく拳を握る。尚斗の晴れ晴れしい門出を見送るため、咲羅はすっと瞳を開いた。


「咲羅、終わったよ」


 そうして咲羅が一人決心したと同時に、尚斗が姿を現す。

 上下共にラフなジャケットとデニムに、少し大きめのキャリーケースを手に提げている。

 端正的な顔立ちも相まって、モデルかと見紛みまがうほどだ。


「尚斗!」


 咲羅は尚斗の姿を見つけると、すぐさま駆け寄った。


「待たせたみたいだな」


 苦笑しつつ、尚斗が頭を撫でてくる。

 頭一つ分ほどの身長差があるからか、頭を撫でられる事は勿論、隙あらば軽くスキンシップを取ってくるのだ。


 それが向こう三年無くなってしまうのは、やっぱり寂しく感じた。

 今、自分は笑えているだろうか。

 心からの笑顔を見せているだろうか。


 そんな思いが頭を渦巻いているが、笑顔の仮面を被って乗り切る。先程決めた事を早々に破るのは、あまりにも短気が過ぎるだろう。


「搭乗まで時間出来たし、何か買ってこようか? お腹空いてるだろ」


 ちらりと時計を見た尚斗がそう問い掛ける。今の時刻は、そろそろ正午に差し迫ろうとしている。


「大丈夫、しっかりご飯食べてきたから」


 そう咲羅が言った瞬間、くるる、と可愛らしい音が鳴った。


「えーっと」


 あはは、となんとか笑って誤魔化そうとするが、尚斗は許してくれそうもない。


「咲羅……」


 呆れた声と共に、尚斗の手が咲羅の手を掴んだ。

 半ば引き摺られるようにロビーのすぐ近くにあったフードコートエリアに連れて行かれ、椅子に座らされる。

 そしてテーブルを挟んだ咲羅の向かい側に座り、尚斗はそれきり黙り込んだ。


「な、尚斗?」


 嘘を吐いたから怒らせてしまったのだろうか。

 無言でここまで連れてきた尚斗の出方を伺うように、咲羅はそっと声をかけた。


「──な」

「え、何?」


 ぼそりと呟かれた言葉は、あまりにも小さすぎてよく聞き取れない。


「朝飯くらいちゃんと食べろって言ったよな!? 俺に合わせてとか気にしないで、朝くらいちゃんと食べろって!」

「え、食べたけど……」

「嘘吐け! どうせ飯も食わんと『あれ着てこかな』やら『これにしよかな』とかギリッギリまで悩んどったんやろが! 俺には分かっとるんやぞ!?」


 段々となまりがきつくなってくる尚斗の言葉の節々から、これはまずいと気付くのに数秒もかからなかった。


「な、何も言えないです……」


 こうなってしまっては、咲羅も反論せず素直に謝るに限る。

 本気で怒ると、尚斗は方言全開となって訛りもきつくなってしまうのだ。何を言っているのか分からないわけではないが、それでも怒らせて喧嘩別れになってしまうのは避けたかった。


「はぁ……まぁいいけどさ」


 言いたいことを言うと満足したのか、いつもの優しい声が降ってきた。


「俺のために可愛い格好してきてくれたのは嬉しいよ、素直に」


 真正面から見つめられ、はにかまれると咲羅は弱い。ついでに褒められると、先程まで怖々としていた自分が馬鹿らしくなってしまう。


 咲羅は腰まである薄桃色のカーディガンを羽織り、小花柄のワンピースを着ている。

 ギリギリまで何を着ていこうか迷ったのは事実だが、尚斗は咲羅がどんな格好でも褒めてくれる、と思った。だから普段通りの服装は勿論、ほんの少しメイクに手を加えただけだ。


(素直に、って。私よりも照れ屋なんだから、無理しなくてもいいのに)


 ふふ、と向かいの尚斗に気付かれないように、小さく笑う。

 あまり感情を表さず、思ったことを言わない尚斗が自分のために想いを伝えてくれる──それだけで、鬱々とした気持ちが華やいでいくようだ。


「まだ何も食べてないってことだよな? 何か買ってくるから待ってな」


 そう言って、尚斗は席を立った。


「うん、美味しいものよろしくね」


 咲羅は努めて笑顔で尚斗を見送った。

 あと少しで尚斗が傍からいなくなる、そんな考えに蓋をして。



「……のお客様は、二番搭乗ゲートへお越しください。繰り返します──」


 しばらく他愛ない話をしながら、尚斗の買ってきた朝食兼昼食を二人で食べていると、尚斗の乗るゲートの案内アナウンスが聞こえてきた。


「じゃあ行ってくるよ」

「うん……行ってらっしゃい」


 あっという間に搭乗時間になった。

 時間にしては一時間もない気がするが、それでも咲羅にとっては充分話せたように思う。


「そんな顔するなって」

「わ」


 やや乱雑に頭を撫でられ、不意のスキンシップに心が追いつかない。


「そ、そんな顔って……どんな顔よ」


 照れ隠しで、拗ねた口調になってしまうのは仕方ないだろう。


「んー? 離れたくないって顔」


 そう言って、尚斗は咲羅の頬を優しくつまんだ。しばらくその柔らかさを堪能し、尚斗が手を離した時にはもう限界だった。


「なんで……なんで、そんなこと言うの。も、泣かないって、決めてたのに……っ」


 はらはらと涙が零れ、咲羅の頬を濡らしていく。


「俺も寂しいよ」


 泣きじゃくる咲羅の頭上から、ぽそりと声が聞こえた。

 そろりと顔を上げると、尚斗はなんとも言えない表情で咲羅を見つめている。

 ともすれば何かを堪えているような、咲羅につられて泣いてしまいそうな、そんな表情だ。


「でも……きっと立派になって、咲羅を迎えにいくから」


 そっと咲羅の手を取り、立たせる。テーブルを挟んでいるため距離はあるが、それでも尚斗の温もりが伝わってきた。


「だから待っていて」


 ゆっくりと紡がれた言葉を、その表情を、きっと咲羅は尚斗は帰ってくるまで忘れない。いや、何年経っても忘れないだろう。


「待ってるわ。待ってる……ずっと」


 ひと月前に言われた言葉と同じように、咲羅は泣き笑いながらもその時と同じ言葉を口にする。

 伏せていたまぶたを上げ、花が咲くように笑う。

 笑った先に見えた尚斗の顔は、同じように花開いていた。

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ひと時の別れ 櫻葉月咲 @takaryou

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