腐敗

玉樹詩之

 腐敗 

 僕は自分の心を守るために、自らそれに手をかけた。他人を侵入させないために、心をシャットダウンしたのである。開いていても碌なことは無い、他人は必ず僕の心を傷つける。

 何をしたのかも分からない。僕は突然クラスメート全員から無視されるようになった。確かに友達の一人と喧嘩はした。だがなぜそれが無視に繋がるのだろうか。僕には全く理解できなかった。彼が僕より多く友人を有しているからか。彼が僕より信頼されているからか。彼が僕より人間的に好かれているからか。何にしても、若い時の友情ほど軽薄なものはない。すぐに裏切られる。若さとは感情の赴くままに行動できることだ。理性が成長しきっていない分、感情論に頼るしかないのだ。あいつは嫌い。あいつは好き。感情に任せると思考が二極化しすぎる。彼らにはゼロか百しか無いのだ。僕は逆に考えた。あんな奴らといるなら一人でいる方がマシだと。

 一匹狼になった僕は、勉強に集中した。毎日とても有意義に知識を蓄えられている気がする。昼休みも食事を終えるとすぐにイヤホンを装着し、クラシックを流しながら読書をした。周りの音なんて気にも留めない。そもそも、無視されているので誰も僕のことなんか気にしない。そう考えることによってさらに僕は自分一人の世界に入り込むことが出来た。今となっては読み終えたページ数。または聞き終えた曲数で大体の時間が計れるようになり、例え昼休み後が移動教室でも遅刻することなく授業に参加することが出来た。そんなこんなで何とか高校一年の一学期を終えることが出来た。初めは戸惑い、とても辛い思いもしたが、心が腐ってしまった今、僕の前に敵は無かった。


 二学期が始まった。僕は誰とも遊ぶことは無く、しっかりと夏の課題も終え、アルバイトである程度の資金調達もした。と言っても特に欲しいものは無いのだが、金があって困ることは無い。そう考えた僕は貯金をした。

学校が始まったことにより、また見たくもない顔ぶれを見ることになった。久しぶりに見た彼らの顔は日に焼けていた。そしてそこかしこで「課題が終っていない」やら、「遊びすぎて金が尽きた」というような声が聞こえて来た。僕はそれを聞き流しながら、頬杖をついて空を優雅に泳ぐ雲を眺めていた。そこには自由があった。誰にも縛られずたゆたう雲は、僕の憧れであった。真っ青一面の中であんなにも浮いているのに、雲は自分のペースを崩さず前進だけをしていた。しかし僕はああはなれない。そう思うと空を眺めているのが馬鹿馬鹿しく思えて来た。

 初日に授業は無く、簡単なホームルームが済まされると早々に下校となった。僕は何故だか帰りたくなかった。誰かの机に悪戯でもしたかったのだろうか。心を閉ざしてしまった僕は、僕自身何を考えているのか分からなくなっていた。そうしてぼんやり座っていると、一人の女子生徒が僕の机の前に立っていた。ふと意識が戻った瞬間に気付いたが、彼女はいつからいたのだろうか。僕がそんなことを考えていると、彼女は明らかに僕に用があるように前のめりになって机に手をついた。


「何で帰らないの?」


 別にいいだろう、僕の勝手だ。そう思ったが、口には出さなかった。


「おーい、無視しないでよ」


 そう言われた瞬間、僕は勢いよく立ち上がった。なぜ普段無視されている僕がそんなことを言われなくてはいけないのか。そんな筋合いはない! 僕は憤然と彼女を睨んだ。すると先ほどまで明るかった彼女は、ひっ。と怯え、顔色を真っ青に変えて後退りした。そんな彼女の顔を見て、僕は後悔した。彼女はクラスメートでは無かった。


「あ、ごめん……」


 僕は咄嗟に謝っていた。恐らくその表情からは怒気も失せていただろう。


「ううん、大丈夫。私が急に話しかけたのも悪かったし」


 彼女は息を整えてから、僕にそう言った。


「えっと、僕に用事?」

「あ、うん。その、噂で聞いたって言うか……」


 どうやら彼女は僕がこのクラスで無視されていることを知っているらしかった。僕は「いいよ、分かった」と言って彼女を制した。すると彼女も口を噤み、しばし沈黙が立ち込めた。彼女は何をしに来たのだろうかと僕は考えた。しかし何も思い浮かばなかった。


「私さ、隣のクラスなんだけど、その、私もあんまり行き場が無くてさ」

「クラスで?」

「うん」


 そう言う彼女は、いじめられる容姿では無いように思えた。太りすぎでも痩せすぎでもなく、顔も整っていて可愛らしいリアクションを取る。僕はふと、これは僕に対しての罠なのでは無いかと疑った。


「なんて言うか、あまり話が合わなくてね」

「そっか、まぁ僕もそんな感じ」


 僕は彼女に同調しつつ、相手の出方を伺った。


「たまにでも良いからさ、ここに来ても良いかな」

「……うん」


 特に情報を引き出せそうにないと思った僕は、素直に承諾した。しかし本当は彼女と話してみたいと思ったから、承諾したのかもしれなかった。


「ありがとう! じゃあまた今度ね」


 彼女は嬉しそうにそう言うと、教室を出て行った。その背中を見送ると、僕は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出しながら椅子に座った。久しぶりに同年代と話したせいか、口の中がカラカラに乾いていた。どうやら相当緊張していたらしい。しかしそれと同時に、僕の心が再び目覚めようとしているのを感じた。その証拠に、今の僕は少しだけ、いつ会えるか分からない放課後が楽しみになっていた。

 数分間茫然としていた僕は、抑えようのない喉の渇きを感じて立ち上がった。そして下駄箱近くにある自動販売機で炭酸ジュースでも買って帰ろうと思い、鞄を背負って廊下に出ようとドアに手をかけた。すると廊下から、甲高い女子の笑い声が聞こえてきた。僕はドアから少し離れ、聞き耳を立てた。


「あいつ、マジで二組の奴のところ行ったの?」

「ぽいよ。さっき二組から出て来たし」

「マジか、ウケる。あんな男のところ行ったってなにも変わらないのにね。自分の顔に自信あるならキモイ担任とかに付け込めば良いのに」

「確かに、まぁ馬鹿だから仕方なくない?」

「そっか、賢かったら人望ゼロ男のところになんて行かないか」


 二人の女子生徒は下品な笑い声を廊下に響かせながら去って行った。その後も何か喋っていたようだが、遠すぎて聞き取ることは出来なかった。そうして完全に彼女たちの声が聞こえなくなるまで教室内で立ち尽くし、その間に喉が渇いていることも忘れて僕は帰宅した。

 自室に籠っていても気分は上がってこなかった。むしろ籠っているからこそ気分もふさぎ込んでしまっているのかもしれなかった。しかしそれでも僕は部屋から出ることはしなかった。特にこれと言った理由も無いのだが、やはり今日の放課後に盗み聞きをしたあの言葉が僕の心を傷つけたらしかった。あの出来事が起こる数分前まではしっかりと心を閉ざしていたのに、ほんの少し一組の彼女と話したことで鎖が緩んでしまった。そしてまるでその瞬間を待っていたかのように、あの心無き声が僕の心を抉った。肺は少しも関係ないのに、僕は胸いっぱいに息を吸おうとすると途中でむせた。起きていても苦しいだけなので、僕はベッドに向かって身体を横にした。少し楽になったような気もしたが、そんなことで心が楽になるのなら、精神病何てものはこの世に存在しないだろう……。

 息苦しさを感じて勢いよく上体を起こした。いつの間にか眠ってしまったらしい。それに上手く呼吸が出来ていなかったみたいで、とても胸が苦しかった。僕は両肩が大きく上下するほどの荒々しい呼吸を繰り返し、なんとか息を整えた。そして現状を把握するために辺りを見回し、まず初めに時計を見た。すると針は六時を指していた。朝だろうか、夜だろうか。僕はそんなことを考えながら喉の渇きを思い出した。いずれにしても、僕は部屋から出る必要があった。折角整った呼吸を乱さないようにベッドから出ると、自分の四肢が思い通りに動くことを確認し、部屋を出た。階段を下り、廊下を抜け、リビングに入る。そしてその奥にあるキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。それをコップに注ぎ、一気に飲み干した。久しぶりに喉を潤した水分は、とても甘く感じた。

 麦茶をしまってキッチンから離れると、リビングから小さな庭へと繋がる窓に近寄った。まずはカーテンを開け、施錠を解き、窓を横にスライドさせてシャッターを開けた。――すると眩しい朝日が僕の全身を溶かすように差し込んできた。一瞬それに怯んだが、僕はシャッターを最後まで上げ、空を見上げた。するとそこには相変わらず自由に空を泳ぎ回る雲が居た。

 少しの間朝日を浴びた僕は、制服に着替えなくては。と思い、窓を閉めて部屋へ戻った。そしていつも通りの手順で制服に着替え、寝間着はベッドに放って机の上に置いてある学校鞄を背負った。少し早い気もしたが、あまり空腹でも無かったので何も食べずに家を出た。

 自転車をこいでいると次第に空腹感を覚え始めた。しかし今更引き返して朝食を食べるというわけにもいかなかったので、僕は他のことを考えるようにした。すると最初に浮かんできたのは一組の彼女のことであった。なぜ彼女はイジメを受けているのだろうか。なぜ僕に接近してきたのだろうか。なぜあんなにも悲壮感を漂わせているのだろうか。それを突き止めたくて僕は彼女に会いたいのだろうか。単純に彼女のことを好きになってしまったのだろうか。それともただの同情だろうか。そんなことを考えていると、いつの間にか学校の正門にたどり着いていた。車通りの少ない道を選んで来て正解だったと思った。もし大通りなんかを通っていたら、考え事の最中に撥ねられていたかもしれない。そう思える現在の自分。つまりは生きている自分を自覚し、僕は少し笑った。

 教室の前まで行くと、中から声が聞こえて来た。また女の声であった。悪口に関しては、男よりも性質が悪い。本人に聞かれないよう隠れて悪口を言い、そうかと思うと、いざ本人が現れてみるとニコニコ愛敬を振り撒くのだ。僕はそれを思うと吐き気がした。


「あいつの席ココでしょ?」

「うん、そうだよ」


 考え事をしていると、中から声が聞こえて来た。


「じゃあ昨日ここで話したの?」

「うん、何かちょくちょく目が合って気持ち悪かった」

「ウケる。あいつ本気なのかもね」

「それは困る。だって地味だし」

「そりゃ無視もされるよね」


 会話が一歩ずつ進む度、僕の動悸は高まった。まさかこれは……。僕はそう思ってドアに付いている小窓から中を覗いた。するとそこには昨日の放課後話した一組の彼女が居た。昨日見たばかりの彼女の顔を見まがうはずも無く、僕は思わず呼吸を忘れた。もう一人の女なんてどうでもいい。ただ、彼女が僕に嘘ついていた。この事実だけが僕の生命を断ち切ろうとしていた。ぐっすりと休んだおかげで心をしっかりと閉ざすことに成功したと思っていたが、それは間違っていた。やはり僕は彼女にだけは希望を抱いてしまっていた。息が苦しくなる。吸う量も吐く量もどんどん低下していく。このまま死んでしまう。そうか、僕はここで死んでしまうのだ。そう思ったとき、僕は既に廊下に倒れていた。

 ――その倒れた衝撃と大きな音で僕は目覚めた。どうやら夢だったらしい。僕は胸いっぱいに空気を取り込もうとしたのだが、途中で苦しくなってむせた。ゆっくりと上体を起こしてベッドに腰かけた。時計を見ると六時を指していた。またか。と思いながら、僕は自室の窓に歩み寄ってカーテンを開けた。外は暗くなり始めていた。これは確実に夜の六時だ。そう思うと急に気が楽になった。

 今一番の安心は、彼女の言葉が夢であったという事だった。しかし同時に、僕が彼女のことを疑っているという事が、今さっき見た夢で証明されてしまった。安堵と失望。その二つの感情が僕の心を引き裂こうとしているのを感じる。僕は自分の感情をコントロールすることが不可能になっていた。夢のことを考えると、他にもいろいろな感情が湧き出て来た。悔しさや嬉しさ、怒りや悲しみ、両極端の感情が、同時に湧き出て来た。このもどかしさに耐えることが出来ず、僕はベッドに突っ伏した。そして再び眠ってしまおうと考えた。しかしまたあの夢を見てしまうかもしれないと思うと、僕は目を閉じることが出来なかった。その後、結局眠ることは出来ず、両親にあれこれ言われる前に夕食や風呂や歯磨きを済ませ、僕は再び自室に戻った。これら一連の動作が、現在が夢では無いことを物語っていた。徐々にだが平静を取り戻し、ベッドに入った。正直眠ることはなるべく避けたかったが、明日に支障をきたすので眠らざるを得なかった。あんなホラー映画よりも怖い夢を二度と見ないために、僕は楽しいことを考えながら目を閉じた。しかし楽しいことなど一切ありはせず、結局浮かんでくるのは明日彼女と何を話そうか。それだけであった。

 それから数日間、彼女が僕の前に姿を現すことは無かった。どうやら杞憂だったらしい。それこそ一日目二日目くらいまでは彼女のことを頭の片隅で考えていた。しかし今となっては何も考えず、感じなくなっていた。つまり僕のもとに平穏が帰って来たわけだった。心が色を失い、閉まっていく。やはりこうでなくてはいけない。僕の周りには誰もおらず、僕の中には誰もおらず。誰一人として僕の心を傷付けることは出来ない。僕は再び自分を守るための防壁を作り上げることに成功したのであった。僕はどこか得意げに、これは僕だけが出来る一流の技だ。言葉の威力を知らない愚民には到底真似出来ない。そんなことを考えながら登校の準備を進めた。

 板書をノートに写したり、体育で軽く汗を流したり、一人で少量の昼食を摂り、午後の残り二限を乗り越える。こうして何事もないごく普通な一日が幕を閉じようとしていた。そう、何事も無いことが大事なのだ。何もなければ何も考える必要は無い。僕は机に広がっているノートと教科書を机の中にしまい、足元に置いている鞄に筆箱を放り込んだ。そしてそれを拾い上げると、さっさと帰宅してしまおうと廊下に出た。するとドアを開けて一歩外に出た瞬間、僕は一組の女子集団の一人と僅かに接触した。恐らく相手は気付いていただろうが、全く気付いていないフリをして通り過ぎて行った。僕は去り際の背中に舌打ちでもしてやろうかと思ったが、そんな愚かなことは止めておこうと思い直して廊下を歩き始めた。


「ちゃんと言っておいた?」

「うん、言った」

「じゃあ今日も実習棟の一階ね」

「うん、そこに呼び出しておいた」

「おっけー、じゃあ向かおうか」


 女たちはそう言うと、脳みそにキンキン響くような笑い声を上げて階段を下って行った。今日もごく普通に一日を終えようと思っていたのだが、なぜか逆らえない引力がそこに生じていた。僕はあの忌々しい女たちの背中を追って階段を下った。そこまでならまだよかった。なぜなら彼女たちのことを無視して下駄箱に向かうことも出来たから。しかし僕はそうしなかった。引き続き彼女たちの背中がギリギリ見える距離を保ち、いよいよ実習棟に足を踏み入れようとしていた。


「誰も来てないよね?」

「来てないわよ。先生だって何も言って来ないし」

「気にし過ぎなのかな」

「そうよ。殴って気晴らししましょう」


 そう言って廊下の突き当りまで行くと、右に折れた。僕はその場所を知っていた。あそこは確かトイレがある場所だ。そしてたった今聞いた「殴る」と言う単語、僕は少し怖気づいた。しかしここで引き返すわけにもいかなかった。この先のトイレで、きっと恐ろしいことが行われる。いや、行われ続けていたのだ。そう思えば思うほど、恐怖が募って来た。いけない、これ以上考えることは止めよう。僕はそうして思考を振り切ると、鞄を背負い直して廊下の突き当りに向かった。


「おまたせー。じゃあ今日もここに座って」


 トイレの近くまで行くと、先ほどまで追っていた女の片割れの声がドアの奥から聞こえて来た。僕は更に少しだけトイレに近付くと、壁に身を寄せて耳を澄ませた。


「いやぁ、久々だけど、まさか夏休み中に新しいネタが掴めるとは思ってなかったわ」


 女がそう言うと、しばしの沈黙が流れた。一組の彼女は何かで脅されているのだろうか。恐らくこの沈黙はそうに違いない。突入するのは今だろうか。僕は瞬時に色々なことを考えた。しかし結局考えるだけで行動に移すことは出来なかった。


「あんたの弟、本当に良い仕事してくれるね。万引き下手すぎ」


 トイレの中で聞き慣れない声がそう言うと、四、五人ほどの笑い声が聞こえて来た。誰もここに近付いて来ないと高を括っているのか、女たちは臆することなく笑っていた。その笑い声は次第に収まって行き、そして完全に静まると思った瞬間、ドアを一枚隔てた先で、パチン。と言う音がした。すると再び笑いが起こった。きっと中で何かが行われたのだ。僕はすぐにそれを察したが、行動には移せなかった。


「一人ずつね」


 笑いが静まった後に誰かがそう言うと、つい数秒前のことがリピートされたように、パチン。と鳴った。それを聞いた僕は、息を殺して恐る恐るドアを押し開けた。すると中では、イスに座らされている彼女と、その行為が見られないように囲む数人の女子生徒がいた。そして恐らく彼女の目の前にもう一人、たった今彼女のことをはたこうとしている女がいるだろう。と僕は思った。

 振り上げられる右手が見えた。僕はそれと同時にドアを静かに閉め始めた。そしてドアが閉まると同時に、パチン。と言う音が聞こえて来た。僕は音を立てないように振り返り、背後の壁に設置されている非常ベルを見つけた。これしかない。そう思った僕は忍び足でそこまで歩み寄ると、非常ベルを力強く押して男子トイレに駆け込んだ。


「ちょっと何。これからだったのに」

「白けたわ。帰ろうー」


 相変わらず声のボリュームは落ちておらず、おかげさまで男子トイレまでそれが聞こえて来た。続いてバタバタと女子トイレから流れ出て行く足音が聞こえたので、僕は男子トイレを出て女子トイレに向かった。


「大丈夫?」


 念のため声を潜め、静かにドアを開けた。すると中には椅子に座ったままの彼女がおり、僕と目が合うとすぐにその視線を逸らした。


「早く出よう。ここにいちゃいけない」


 僕はなるべく優しくそう言うと、彼女を立ち上がらせ、非常ベルの混乱に乗じて学校から抜け出した。

 僕は自転車のことも忘れ、なるべく学校から遠いところまで逃げようと歩いた。途中何度も走りたくなったが、茫然自失としている彼女を置いて行くわけにはいかなかったので、徒歩で距離を稼ぐしか無かった。

 僕と彼女は学校からだいぶ離れた場所にある公園にたどり着こうとしていた。そこへたどり着くまでに、何人かの野次馬とすれ違った。恐らく学校で何が起こったのか興味津々なのだろう。僕たちはそんな下賤な輩を横目に、僕の実家付近の公園に入った。そしてひとまず彼女を休ませるために、僕たちはベンチに腰かけた。しばらく沈黙が続いたが、全然気にならなかった。


「……どこから?」


 今にも消えてしまいそうな声で彼女はそう言った。


「……初めから」


 慎重に言葉を選ぼうと思ったが、彼女のその一言で完全に思考が停止してしまった。どこから。か。初めからと言ったら、彼女は僕のことを侮蔑するだろうか。しかしそんなことを考えようと、言葉を発してしまった今、僕は彼女の返事を待つことしか出来ない。


「そっか……。君には話してみようかな」

「僕で良ければ」


 図々しいかとも思ったが、ちらりと見た彼女の横顔に笑みが浮かんでいたので、僕は少し安心した。


「最初はなんでもなかったの。あの子たちとも仲良かった。と思う。でもこうなっちゃったってことは、やっぱり最初から嫌いだったのかな」


 彼女はそう言うと、自嘲の笑みを浮かべて一間置いた。


「弟がいるの。それも聞いたよね? あのバカが万引きなんかしてさ。それをあの子たちに見られちゃったの。……はぁ、それをネタに叩かれるってことは、やっぱり嫌われている証拠だよね」

「君を嫌う理由なんて無い。僕はそう思うよ」

「ありがと。少し、ううん、結構元気出た」

「それは良かった。……これも僕が思うになんだけど、彼女たちは共通の敵が欲しいだけだよ。敵がいると自分が一人じゃ無いって思える。僕たちはただ、その標的になってしまっただけだよ」


 我ながら臭いことを言ったなと思った。しかし横からはクスクスと彼女の笑い声が聞こえて来た。


「かもね。でもなんで自分なのってたまに思う」

「僕もあったよ。突然周りから誰もいなくなって、話しかけても答えが返って来なくて、その代わり僕の周りには悪口だけが飛び交った……。ほんの少し喧嘩しただけで、こんなことになるとは思わなかったよ。でも今は何も感じ無い。他人の言葉や態度が僕の心を腐らせてしまったのかもしれない」

「なんか一緒かも。突然不幸が私に降りかかって、一瞬でどん底まで落ち込んで。挙句の果てには同級生に殴られるって……。初めてあのトイレに呼ばれて、写真を見せられて、それで殴られたとき、すごく悲しかった。怒りよりも、悲しかった」

「心が腐ってしまった者同士。だから僕たちは惹かれ合ったのかもしれない。僕は言葉に、君は暴力に。そんな些細な違いはあれども、いや、それほど多岐にわたって、心は傷付き易い。僕たちは互いに心を癒すために、出会ったのかもしれない」

「それも運命かな?」

「一括りにするなら、運命かもね」


 僕がそう言うと、彼女は笑った。


「独りじゃないって良いね」


 彼女のその言葉の重みを僕は知っていた。いや、たった今知ったのだ。誰かが居る。それも自分のことを理解し、さらに理解しようとしてくれる誰かが居る。独りでいても苦しくないと思ったが、それはただの強がりだった。独りなのと、誰か一人でも仲間がいること、この二つには大きな差が、大きな溝があった。友情関係が崩壊してしまっている今、僕は隣に座っている彼女のことを誰よりも大切にしようと思った。この関係だけは断ち切ってはいけない。同じ辛苦を味わった者として、僕は彼女の横に寄り添っているべきだと思った。この腐敗した二つの心が癒えるまで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

腐敗 玉樹詩之 @tamaki_shino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ