ちーくきす。

Planet_Rana

★ちーくきす。


 人間は二度、死ぬのだという。

 生命活動の停止と、存在したという事実の忘却。


 物理的に、概念的に。


「忘れられることが『死』と等しいなんて、死後のことすら分かったもんじゃないのにどうやって決めているのかしらね。考えるのが得意な生き物が考えることはよく分からないわ」

「僕らも同じ『人間』の枠に生きているはずなんだけどね。そこのところは同感だよ」


 紙パックのリンゴジュースを片手に、適当な相槌を打たれて頬を膨らませる。

 夏なのに長袖長ズボンな男性が、カーディガンを羽織ってスマホを弄っていた。


「今の話題も、私の口から生まれた瞬間に認識者が居なくなって消えちゃったわね」

「嫌味のつもりかな。これでも聞いているつもりなんだけど」

「ガチャ引いてる音が聞こえてるんだよ……いいけどさ」


 彼と私の世界観は違う。人生観も価値観も、違う。


「一期一会だなんて、よく言えてるよね。『死ぬまでに一回ずつでも会えてれば十分』みたいな意味に思えてくるんですけど」

「世界の総人口がうん億人という時点で、ほぼ全ての人類に出会うことは難しいからね。交流の時間も保持されない邂逅に、意味があるとも思えない」


 すれ違う度に、誰かの内側で産まれて、死ぬ。

 記憶されることが「生」ならば、忘却されることが「死」ならば、の話だ。


(例えば、今この瞬間に限って彼は私の顔を認識していない。私の会話は、彼のスマホ画面と一緒に記憶される。今日の私のことは、ぼんやりとしか記憶に残らないんだろう)


「ふぅん、そっか。それじゃあ、私と長ったらしい期間を一緒に過ごした貴方にとって。私ってどういう存在なわけ?」

「これから別れる人。これから二度と話せなくなる人」

「……」


 私は深呼吸して、それから彼を手招きする。

 顔を近づけた男の額に、強烈な頭突きが叩き込まれた。


 言葉にならない痛みに悶えつつ、涙目になった彼の手からスマホが落ちる。

 鉄の板はフロアタイルに転がって、ベッドの真下に潜り込んだ。


 カーテンが揺れる。パイプベッドが軋む。

 大部屋の角、壁を一枚挟んだ廊下で、医者か看護士が指示を飛ばす声がする。


「あのさ」

「はい」

「確かに手術したけどさ。だから連絡入れたんだけどさ、もう一度言うよ。これ、尿管結石の手術。目を覆う様な深刻な症状でもないし、死なないから」

「……」

「涙目にならないの。痛くて泣きたいのはこっちだよ」


 赤くなった額をさすって、ふかふかの枕に頭をのせる。


 縫い留められた小さな傷痕。内視鏡を使ってのものだからそれほど大きい穴をあけたわけじゃあないし、掻っ捌くより痛みは少ないに違いない。


 黒い糸で編まれた治療済みの傷痕は、今はガーゼの内側だ。


「まさかとは思うけど、スマホの音とかサウンドトラックから引っ張って来たりしてないよね? いつも通りガチャを回してただけだよね?」

「自分で撮ったガチャ動画をひたすらループ再生して、精神安定剤に……」

「嘘でしょ。それなくても話すのに」

「僕が目合わすの苦手だって知ってるくせに」

「……やだ。こっち見て」


 ぐい、と。弱った風に声を潜めて服を引っ張る。

 スマホ越しに眺めていた横顔は、はっきりとこちらに視線を向けた。


 潤む黒目に色の濃い隈。私を心配して刻まれたそれを、優しく撫でる。


 私は、彼に会えて良かったと思う。

 次があっても、彼と会えたならいいと思っている。


 彼も私も若い身空なので、この先長くお付き合いできればと思うのだが。


 今日はなんだか顔を忘れたくも忘れられたくもなかったので、そのまま「ぐっと」引き寄せることにした。


 いつか必ず別れが来る人生だとしても。

 明日の君と会うことを楽しみに、今日を生きることにしようか。





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