燕京の交歓

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 最近、炯庵(李徳懋)は急に多忙になった。検書官となり思っても見なかった宮仕えの身になり、又、畏友 湛軒(洪大容)から手伝いを依頼されたからである。

 今日は仕事が早めに終わったのでこれから、湛軒の屋敷に向かうところである。昨夜書き上げた送稿を持って。

 屋敷に着き来意を告げるとすぐに舎廊(書斎)に通された。机の前には、いつものように主人が寛いだ様子で座っていた。

 挨拶を交わした後、さっそく本題に入る。

 炯庵は送稿を手渡した。湛軒の文字通り“真友”である鉄橋こと厳誠についての人物評である。

 厳誠は清国の人である。外国人の彼と湛軒がどのように知り合ったのか。その経緯はなかなか興味深い。

 乙酉年(1765年)、湛軒は叔父に従って清国の都・燕京(北京)に行くことになった。かの地に行ったら是非やりたいことがあった。それは、清国の “同好の士”と学問や詩文について語り合うということだった。普通は壮麗な祖大寿牌楼や物珍しい天主堂の壁画等の名所を見たいというところだろう。

 燕京に着き、そのような人士を探したところなかなか見つからなかった。それはそうだろう、湛軒ほど多くの書物に目を通し、様々な事柄に通じている人物は清国といえども多くいる訳がないのだから。

 しかし、彼の願いが天に届いたのか、眼鏡に適う人物が現れたのである。科挙のために杭州から来た青年二人がまさにそうした人物で、彼らは乾浄にある旅籠に滞在しているというのである。

 湛軒はさっそく二人の宿所である天陞店を訪ねた。

青年の一人は厳誠(力闇)といい湛軒とほぼ同年齢、もう一人は潘庭筠(蘭公)といい湛軒より十歳年下だった。二人とも銭塘の出身だった。

 彼らは顔を合わすとすぐに意気投合した。言葉は通じないが、筆談は十分可能だった。実は湛軒は少しだが清国の言葉を知っていたが二人の言っていることは理解出来なかった。厳誠たちの言葉は南方のものであり、軒湛が知っている官話は北方のものだからだった。

 その後、彼らは毎日のように互いの宿所を往来しながら、筆談で経書について、詩文について、その他さまざまなことを語り合った。 

 その過程で、湛軒は二人の性格の違いを理解した。厳誠は名前の如く厳格で、潘庭筠は情が細かい雰囲気が感じられた。

湛軒が蘭公にそのことを指摘すると本人も自覚していた。

 ある日、二人が湛軒の宿所を訪ねた時、話題が音楽になり、湛軒は部屋の片隅にあった玄琴を引き寄せて一曲弾き始めた。

「鄙の調べで恐縮ですが」

 奏し終えた彼が言うと蘭公が涙を流しながら「哀調を帯びた良い曲でした」と評した。

 こうして、あっという間に二ヶ月ほどの滞在期間が過ぎて、帰国する日を迎えた。

 二人はとても別れを惜しんだ。もう二度と会うことはないだろうから。

 その後、彼らは文の遣り取りをしながら親交を深めた。

 だが、二年後、厳誠は世を去ってしまった。幽明界を異にし、永遠の別れとなってしまったのである。


「よく書けている。力闇はこんな人物だったなぁ」

 感慨深く呟く湛軒の言葉に炯庵は我に返った。湛軒が自分の文章を読んでいる間、彼は畏友の“真友”についてあれこれ考えていたのであった。彼は実際に彼にあったことはなかった。ただ、畏友が見せてくれた筆談集や手紙等を読んでその人物像に魅かれたのであった。それはどこか畏友 湛軒に似た雰囲気が感じられたせいかも知れない。

「あとは尺牘(手紙)と詩文を纏めるのだが手伝ってくれぬか?」

 畏友の依頼に彼は

「はい、是非手伝わせて下さい」

と快諾した。

 こうして清国の文人 厳誠の作品集「鉄橋話」が朝鮮の地で編纂されたのだった。

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燕京の交歓 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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