第2話 大事な猫をはなさないで

「――う、うう~ん。ニケ……重い」

 蒼衣は胸の上に乗っているだろうニケに手を伸ばした。毎朝寝苦しいったらありゃしない、上に乗らずに布団に入ればいいものを。

 しかし、手に触れたのは猫の柔らかさとはまた違った――? 寝ぼけ眼をこすって頭を起こすと、胸の上にあった重みが身じろぎした。

「目が覚めた?」

 触れた手を引っ込めることも忘れ、蒼衣はぽかんと口を開けた。

 オレンジをベースに黒とツートンカラーの派手な髪、腿までしかない随分とミニ丈の着物。裾からのぞく抜けるような白い肌が眩しかった。

「……覚めてない?」

 美しい少女は小首を傾げると、やや切れ上がったまなじりを緩め、大きな瞳を瞬かせた。

「覚め……てない気がする」

 思わず零れた台詞を拾い、目の前の美少女がくすくすと笑った。それにつれてオレンジと黒の耳がぴこっと揺れる。

「み、耳……それ、耳……」

 ぱくぱくと口を開閉して美少女の頭を見つめたままの蒼衣に、彼女は乗り上げるようにぐっと接近した。

「耳なら、キミにもついてる」

 ふふっと笑った空気が耳に触れ、蒼衣は思い切りのけ反った。

「わ、わ、わぁ⁈ あのっ、ここどこなんだ? 君、誰⁈ 俺ってまだ夢見てる⁈」

 ばくばくと早鐘を打つ胸を押さえ、蒼衣はようやく美少女以外に目を向けた。蒼衣が寝ていたのは、畳に障子の見覚えのない和室だった。ぷんと香るのは、畳の匂いだろうか。障子の向こうからはオレンジ色の薄明かりが室内を照らしており、時刻は夕方、もしくは朝らしい。

「夢じゃないよ、キミはちゃあんとここに居るんだよ。ここはどこでもない場所、世界からいなくなった猫のいる場所。……嬉しい?」

 そう言った少女の背中で、長いしっぽがゆらっと揺れた。オレンジと黒の耳がきゅっと後ろに反り返り、柳色の瞳が窺うように蒼衣を見つめる。

「猫の……? な、なあそれ、本物?」

 つい少女の頭から生えた猫の耳に手を伸ばしたところで、少女はちょっと身を引いた。

「あっ! ごめん、つい……」

「いいよ、触って。でも……先に、キミの名前を教えて?」

 ネコミミが本物だろうとアクセサリーだろうと、名のりもせずに手を伸ばしてしまった非礼に赤面し、蒼衣は身を縮めて小さくなる。薄明かりを背に、少女がじっとこちらを見つめた。右に、左に揺れるしっぽは、緊張しているのだろうか。

「本当にごめん。俺、蒼衣って言うんだ」

「アオイ……ありがとう! アオイって言うんだね!」

 思いがけずお礼を言われ、少女はぱあっと笑みを浮かべた。華やかな笑顔とは裏腹に、蒼衣の頭がズキリと痛む。どうしてここに居るのか思い出せない。もしや、自分は帰宅途中に事故にでも遭ったんだろうか。混乱する蒼衣の手を、柔らかい手が握りしめた。

「アオイ、行こ!」

「ど、どこへ⁈」

 突如手を引かれ、蒼衣は面食らいながら立ち上がった。

「いいところ! ねえアオイ、私の名前は?」

 飛びつくように蒼衣の首へ両腕をまわし、少女は思いきり身を寄せた。引きはがすことも抱えることもできず行き場を失った両手をばたつかせ、蒼衣はただ身体を硬直させるしかない。

「え、え、初対面だろ⁈ 知らないって!」

 言った途端、整った顔がむうと頬を膨らませた。そして伸び上がって耳元へ唇を寄せ――。

「なおぅ。なぁーおう」

 甘い声と共に、腕にはするりと温かなしっぽが絡んだ。

「ミケちゃ……えっ⁈ ミケちゃん?」

 反射的に出た言葉を反芻はんすうし、蒼衣はまじまじと目の前の柳色の瞳を見つめた。

「アオイがそう呼ぶなら、私はミケ」

 ほんのりと頬を染め、ミケは薄明かりを背に微笑んだ。



「――アオイ、こっち!」

「待って、ミケちゃん待ってくれよ! な、なあ、本当にここはどこなんだ? どうしてミケちゃんはそんな姿に?」

 縁側から外へ飛び出し、2人は夕闇の中を連れ立って走る。繋いだ手にしっぽまで絡めて、ミケはぐいぐいと蒼衣の手を引いた。まるで時代を逆行したような和風建築が並ぶ町並みに、着物なのか、そうでないのか曖昧な衣装を着た人々が闊歩かっぽする。その頭には一様に三角の耳が、裾からはしっぽが見え隠れしていた。

「あそこ! ほらアオイ、もうすぐだよ!」

 街を駆け、辿り着いた石段を見上げる。その先には、しめ縄の掛かった大きな鳥居が見えた。

「神社……? ミケちゃんはどこに行きたいんだよ?」

 息を切らして見上げた鳥居は、暮れゆく薄紫の空にくっきりと黒く見え、あの時の空と同じようで――。

 

 ふと、蒼衣を見つめる、支子くちなし色の瞳が浮かぶ。

 そうだ……早く、帰らないと。約束したのに遅くなってしまった。思考の中に淀んでいた霧が、晴れた気がした。ぐいぐいと手を引いて石段を登るミケに、遠慮がちに声をかける。

「あの、ミケちゃん、俺そろそろ帰らないと」

 ぴくっと肩と耳を震わせたミケは、そのまま振り返らずに石段を登り切った。

「ミケちゃん?」

 蒼衣は足を止め、なおも引っぱろうとする華奢な手を引いてみる。

「もうちょっと。ねえ、行こ」

「そうもいかなくて……随分と待たせちゃってると思うから」

 不機嫌そうに玄関へ迎えに出て、そのまま引き返してしまうニケ。気に入らない餌は食べてくれない二ケ。容赦なく踏んで起こしてくれるニケ。時々そっとしっぽを寄せてくるニケ。

 ああ、早く帰らないと。蒼衣は苦笑してもう一度前にある背中に声をかけようとした。

「ダメ。行っちゃ嫌」

 俯いたミケが、蒼衣の懐へ飛び込んで来た。

「私に、触りたいって言ってたじゃない。ほら、触っていいよ、触れるよ? アオイも、ここにいる方がいいよ」

 潤んだ柳色の瞳が、縋るように蒼衣を見つめている。柔らかなぬくもりに身体が強ばり、どうにも顔が熱を帯びてしまう。

 蒼衣は彷徨わせた手をそっとミケに添え、さらりと頭を撫でた。……これは猫、と自身に言い聞かせながら。

「ミケちゃんは野良だよな。そっか、寂しかった? ウチにはもうニケがいるけど、ミケちゃんが良ければうちに来てもいいんだよ」

 ミケは、蒼衣の胸に顔を伏せると、無言でぐっと抱きしめる腕に力を込めた。

ややあって、ミケはゆっくりと伏せた顔を上げる。儚げな笑みに、ぎゅっと胸が痛んだ。

「……ううん。いいの。じゃあ、あとひとつだけ。一緒にお参りして帰ろ?」

 蒼衣はホッと肩の力を抜いて頷いた。そのくらいなら、お安いご用だ。

 再び手を引かれるまま、鳥居へと一歩踏み出した時、思い切り身体が引き戻された。

「行くな‼ 馬鹿!」

 がっちりと蒼衣の腕を掴んだ手は、見覚えのない精悍な青年へ繋がっていた。

いや、見覚え、ない……? センターパートの黒髪、ぎろりと蒼衣を睨む、鋭い支子くちなし色の瞳。

「ニケ‼」

 蒼衣の口から迷いもせず飛び出した名前に、ニケはほんの少し驚いた顔をした。

 引き寄せられるままにたたらを踏んで、蒼衣はまじまじとニケを見上げる。その後ろには、不機嫌に揺れる黒いしっぽが見えた。

「お前、俺といるって言ったな? 早く帰るって言ったな?」

 腕組みして見下ろす仏頂面は、寝起きに見る光景と同じ。早く起きろとばかりに胸の上に乗って見つめるあの顔だ。蒼衣は思い切り破顔して伸び上がると、高い位置にある頭を撫でた。

「ごめんな、遅くなった。大丈夫、俺はちゃんと帰るから」

「……ならいい」

 プイと顔を背ける仕草も、耳だけこちらへ向けるそれも、やっぱりニケだ。ああ、かわいい。

「そうだ、スマホ! 写真写真‼」

 慌てて懐を探る俺の耳に、鳴き声が聞こえた。

「ミケちゃん? ……あれ?」

 さっきよりも鳥居の輪郭がぼやけた気がして、蒼衣は目を擦った。

「……陽が、沈む」

 ぽつりと呟いたニケの声を皮切りに、周囲はみるみる闇に呑まれていく。目覚めてから今の今まで、ずっと夕方であったことに気付いて、蒼衣の背中がぶるりと震えた。思わず目の前の腕を掴むと、支子くちなし色がしっかりと蒼衣を見つめ返す。

「蒼衣、帰るぞ」

「そうだな。それって俺のセリフだけどな」

 生意気な猫にくすりと笑うと、心に淀んでいたものが消えていった気がした。

 鳥居の向こうで佇むミケは、もう一度だけ鳴いて、ほんの少し微笑んだようだった。


「……帰ってきたな」

 閉じてはいなかった目が、徐々に周囲を見分けられるようになってくる。俺の猫は、と掴まれた腕を見やれば、そこには見慣れたハチワレがはっしと腕を抱え込んでいた。

「にゃーう」

「悪かったって」

 しょうの無いヤツめ、そう言いたげな支子くちなし色の目にそう謝って、蒼衣はくるりと踵を返した。ところでニケのやつ、どうやって家から出たんだろう。脱出経路を把握しておかねば。

「ありがとうな。おやつ、奮発しなきゃなあ」

 おやつ、の声に、力の抜けていた耳がピンと立った。日の落ちる中、こちらを見る広がった瞳孔があまりにキュートで、蒼衣はだらしなく頬を緩めた。

 今度、ニケとここへ来よう。人知れずいなくなった野良猫たちのために、せめておやつを持って祈りを捧げよう。どこでもない場所よりも、きっと天国の方が居心地がいいだろうから。

 夕闇の中を連れ立って歩きながら、少女の寂しげな微笑みを思う。

 俺、離さないようにするよ、この大事な猫を。蒼衣は抱えたニケの毛並みにそっと顔を伏せた。

 腕の中の柔らかな重みは、ちらりと蒼衣を見上げて、満足そうに鳴いたのだった。

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俺の猫はクチナシ色の瞳 ひつじのはね @hitujinohane

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