俺の猫はクチナシ色の瞳

ひつじのはね

第1話 逢魔が時に

「今日も可愛いぞ、お前のために早く帰ってくるからな! あ、それいい! かわいい!」

 向けられたスマホに、ニケは半ば呆れた顔で蒼衣あおいを見上げた。よくある支子くちなし色の瞳がきゅうっと細くなり『よくもまあ、毎日飽きもせず』第三者がいたならきっとこうアテレコしたことだろう。もっとも、蒼衣はそんな顔もかわいいともう1枚パシャリとやったのだった。

 何しろ蒼衣がわざわざ実家から遠い大学を選んだのは、これが理由だ。あろうことか実家のマンションはペット不可、筋金入りの猫好きに、それは到底許容できるものではない。

「毎朝ニケに見送られて家を出て、帰ればニケがいる。ああ、俺の帰宅を待っている猫がいる幸せ……ずっと一緒にいような?」

 朝から感じ入っている蒼衣をよそに、当のニケは早く行けとばかりに目を閉じてしっぽを振った。



「なあ、お前今日――」

 授業の合間にやって来た拓也は、スマホを前に表情を緩めている蒼衣を見てとり、続く言葉を呑み込んだ。にやりと笑みを浮かべると、そっと背後から画面をのぞき見る。途端に、鼻の穴をふくらませたその顔が落胆に沈んだ。

「……蒼衣、俺はお前って今年十九だと思ってたんだけど?」

 むしろ同情すら込めて肩を叩く。

「思うってなんだよ、お前と一緒だろ。 あ、見る? 今日の撮れ高!」

「見ねえよ、全部同じだっつうの」

 画像フォルダを埋め尽くす、全く同じ白黒の猫、猫、猫。拓也からすればどれも何の変哲もないハチワレ猫でしかない。

「そりゃ猫は同じだけど表情も仕草も違うだろ? これ、今日の奇跡の1枚! な?」

 量産される奇跡の1枚にうんざりと引きつった笑みを浮かべ、華の大学生活、こいつはこれでいいのかと拓也の方が不安になる。

「な? じゃねえ! 全部一緒にしか見えねえよ⁈」

「お前……そんなだから彼女できないんじゃね? 全然違うだろ」

「お・ま・え・に言われたくないわ‼」

 心底残念な者を見る目を向けられ、青筋を立てた拓也が蒼衣を締め上げた。

「ま、待て待て、違う画像もあるぞ! ニケじゃないやつ!」

「そいつ、ニケなんて大層な名前なの? 捨て猫だろ? 女神の名前をつけるって相当アレだな……俺の女神ってやつ?」

 ピクッと肩を揺らした蒼衣は、そ知らぬふりで画像フォルダをさかのぼった。言えない、ニケがオスだなんて。三毛猫がミケなんだから白黒ハチワレなら二毛ニケだろう……なんて安直なネーミングだなんて。

 うん、女神の名前か。オスだけどいいじゃないか、格好いいし。そう、きっとそういうつもりで俺も名付けたに違いない。

「あ、ほら。通学路でたまに見かける子、カワイイだろ? 時々目が合うんだよ」

「マジで⁈ どれ……⁈」

 白黒フォルダ内に混じった確かに違うカラーリングに、拓也は思いきり食いついてスマホを手に取った。

 直後、蒼衣は再び締め上げられる羽目になる。

「フ・ザ・け・ん・な! どこにカワイイ子が映ってんだよ!」

 もちろん、塀の上だ。かわいいだろ、メスの美三毛猫で、あわよくばお近づきになろうと距離を詰めているところで――なんて説明はやめた方がいいかもしれない。蒼衣は珍しく懸命な判断を下したのだった。


「ミケちゃん、美人なのにな。なんであいつにはあの良さが分からないかな」

 蒼衣は足早に帰路につきながらスマホを取り出した。やなぎ色の憂いを秘めた瞳、野良の割に痩せぎすでもなく毛艶もいい、きれいな発色の三毛。ミケちゃん、今日はいるだろうか。今度こそ触れられる距離に近づけるかもしれない。

 ただ、この時刻じゃ撮れ高は望み薄だ。蒼衣は渋面をつくって周囲を見回した。ニケに早く帰ると言ったのに、帰り際に拓也に捕まり遅くなってしまった。見上げた空には家々や電線がくっきりと黒く見え、輪郭を残して街ごと黒く塗りつぶしたよう。まるで蒼衣まで影の一部に溶かし込まれていくように思えた。

 その時、視界の端に動いた影を認めて足が止まる。

「ミケちゃん?」

 なおう、と独特の甘い声が聞こえた気がする。ミケは触らせてくれない割に、ああやって甘い声で鳴くのだ。蒼衣は誘われるままに路地を曲がった。

 ――なぁおう。

 確かに、いる。路地の先を行く鳴き声に確信を深めた。塀に囲まれた路地は蒼衣の予想以上に暗く、紫色に明るい空のせいで、かえって夜目も利かない。

「防犯上問題じゃねえ? 街頭のひとつもつければいいのに」

 ぶつくさ言いつつ進む中、周囲は次第に影に沈んでいく。さすがに足下が覚束ないとライトを起動しようとしたところで、足に、何かが触れた。

「う、わっ⁈ え? ミケちゃん?」

「なおぅ」

 まさか、人慣れしていなかったミケちゃんが……‼ 一瞬よぎった不安を振り切って、蒼衣はスマホのライトを頼りにミケちゃんへ手を伸ばす。ライトを反射した柳色の瞳が一瞬きらりと光った。ミケは、蒼衣の手に柔らかな感触を残してわずかに離れ、誘うように振り返る。蒼衣は躊躇ちゅうちょなく足下の段差を乗越え、もう一歩近づいた。

その時ふと、小さな明かりの中に映り込んだ段差に違和感を覚えた。

(丸太と……しめ縄、みたいだ。こんな街中の路上に?)

 地に垂れた太い縄が、妙に気に掛かる。

 もう一度確認しようと振り返った蒼衣は、呆然と動きを止めた。

見えない……何も。黒く塗りつぶされた視界は、目を開けているのかさえ怪しい。

「……なぁう」

 聞こえた甘い声は、耳に吐息を感じるほどに近かった。



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