ファクター

結騎 了

#365日ショートショート 079

「運命には人智を超えた変数がある。ある子供が靴下を左足から履くと、数時間後に雨が降る。鉛筆が転がって床に落ちると、スズメの飛行速度が少しだけ上がる。全く関係ない事象が関係しあい、複雑に絡み合うことで、運命は前に進んでいくのだ。この靴下や鉛筆を、我々はファクターと呼んでいる。彼女を救いたければ、死に繋がるファクターを探すのだ」


 男は絶望していた。

 何度も、何度も、何度も。幾度となく時間を跳び、同じ3ヶ月を繰り返しても、郁美を救うことができない。


 恋人である郁美を交通事故で亡くしたあの日。絶望する男の脳裏に何者かの声が響いた。「お前に頼みたいことがある。今しがた死亡した特異の巫女、野方郁美の命を救ってほしい。そのために、お前に力を与えよう」。

 それは神か悪魔か。いや、向こうの都合など知ったことではない。郁美の命を救うことができるなら……。次の瞬間、男には時間を跳躍する能力が備わっていた。えいっ、と念じれば自在に時間を跳び越えることができる。こんな現象は映画で見た。タイムリープといっただろうか。行き先はもちろん、郁美と出会ったあの日だ。

「や、やあ。……こんにちは」

「ありがとうございます。すみません、気づかなくて」

 そう、この日だ。前を歩く郁美が綺麗な紫色のハンカチを落とし、それを俺が拾った。笑顔でハンカチを受け取る女性の、気丈に見せて打たれ弱いところも、癖毛に悩んでいることも、寝相が驚くほど悪いことも、俺は知っている。しかし、そんな意味深な視線はきょとんとした表情に打ち消されてしまう。仕方のないことだ。俺たちは紛れもなくなのだから。

 声、曰く。「野方郁美の死には、なんらかのファクターがある。運命は些細なファクターに大きく影響されていく」「彼女を救いたければ、死に繋がるファクターを探すのだ」

 男は、時間跳躍を繰り返した。その度に郁美の身の回りのファクターを探す。出会いから事故までの3ヶ月。その期間のどこかにファクターがあると声は言う。ありとあらゆる可能性を考慮し、試さなくてはいけない。

 事故の日に乗っていた車、これを別の車種に買い替える。跳躍。事故の日に走ったのとは別の道路を通る。跳躍。郁美がつけている腕時計かもしれない。跳躍。郁美の髪型がロングに変わればどうか。跳躍。郁美の靴がヒールじゃなければあるいは。跳躍。郁美が男を知らないままでは。跳躍。郁美が…… 郁美の…… 郁美は…… 郁美と……

 どうして、どうして郁美を救えない。どうして。車に押し潰された郁美を目にする度に、男の心はちぎれていった。


 やがて、繰り返される3ヶ月が千回を超えた頃。男はある可能性に行き当たった。


 最後の跳躍から3ヶ月後。事故の日の夜。郁美はゆっくりと目を閉じ、眠りについた。部屋の灯りが消えるのを見届けた男は、ハンカチを拾わなかったことを後悔してはいなかった。

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ファクター 結騎 了 @slinky_dog_s11

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