いつか来る別れのために

ひなみ

はじめての”さよなら”

 目を開けると、私は真っ白な部屋の中にいた。

 ここはどこだろう。眠たい目を擦りながら、記憶を辿ろうとする。

 しかし、頭の中にもやが掛かったように何も思い出す事はできない。それでもなぜかやけにスッキリとした、晴れ渡る青空のような心持ちでいるのは間違いなかった。


 「誰かいませんか?」

 ベッドから起き上がり声をあげる。そうしてしばらく待ってみるものの、相変わらずこの静寂は続いている。

 ぐるりと辺りを見渡すとテーブルや椅子、本棚、観葉植物などを確認する事ができた。

 まず始めに目についたのは本棚。『いつか来る別れのために』『永遠は続かない』『人体錬成と人の業』などのように難しそうな本が立ち並ぶ。


 次に目を引いたのは姿見だった。ゆっくりと立ち上がりその近くまで歩を進める。鏡の中の私は、この部屋と似通ったまっさらな色のワンピースを着ていた。私は私と視線を合わせながら、記憶を取り戻そうと再びほうけていた。

 それでもやはり何も浮かんではこなかった。


 ここから外に出られれば誰かしらがいるかもしれない。

 深く考えるのを後回しに扉のある方へ向かう事にした。

 ドアノブに手を掛けて回す。けれど扉が開く事はなかった。そもそも、このドアノブには鍵が存在していないのだ。それなのにどうしてか、何度強引に回してもうんともすんとも言わない。

 こうして無限にも感じられるような時が流れ、私はベッドへと吸い込まれるようにして眠りにつく。


 キイという大きな音で意識を取り戻した私が、そちらの方をみやると扉はいつの間にか開いていた。不思議な事もあるものだ。そのまま私は外へ出ようとする。すると不意に、どこからともなく血のような生臭い匂いがしたような気がした。


***


 三度目の目覚め。またもや私はベッドの上に横たわっていた。さっきのは夢か何かだったのだろうか、それにしてもやけに現実感を伴っていたなと振り返る。

 ガシャンと、何かが割れるような物音が近くで聞こえた。そちらに首を向けると見知らぬ男性が私を見ていた。


「――ああ、待っていたよ。おかえり」

「え?」

 白衣を着た男性が私を出迎えた。彼は、袖で目元を拭うような仕草を確かに見せた。


「はじめまして……ですよね? 失礼ですけどあなたは?」

「そうか、そうだよね。はじめまして。僕は烏丸からすま。例えば名前であったりでいいんだけど――君は何か覚えている事はないかな?」

 彼は大げさな身振り手振りで私に問い掛けていく。

「いえ、特に何も……」

「そうか。では、体の調子はどうだい? どこかが痛むとかきしむとか、喉がよく乾くだとか、そういった事は?」

「今のところはありません。それにしても、ここは一体どこなんですか?」

 辺りには何かの器具のようなものが並んではいるものの、見覚えなどは当然なかった。


「私の研究所だよ。そして、君の家でもある」

「それはどういう」

 この言葉を即座にさえぎるように彼は口を開いた。

「君は僕の配偶者なんだ。つまり――」

「あなたは私の夫だと言うのですか……?」

「覚えていないのなら、にわかには信じがたいだろうね。けれど、これを見てごらん」


 複数枚の写真を手渡される。そのどれを見ても私と思しき人物が、笑顔やピースサインを作っていた。そして彼の指にはめられていたリングは、私のそれと同一のものだった。

 あまりの事に声にならない。ただひたすらに、夫かもしれないこの人の事を見ていた。


「少しは信憑性しんぴょうせいが出てきたかな」

 彼はそう言って笑った。

「それにしても、最近の写真がないのはなぜでしょう?」

「ああ。君は事故に遭って、それからもう五年の間、眠り続けていたんだよ」

「え、そんなにですか? でも、ごめんなさい。それなのに私、何も覚えてなくて」

 その言葉は力なく、振り絞るようにしか出す事ができなかった。

「心配には及ばないよ。これから一緒に、ゆっくり時間を掛けて取り戻していけばいいんだから」

 彼は私の手を握る。その体温は暖かく心地の良さを感じた。


 相変わらず記憶は戻らないまま、それから一週間ほどが経った。

 烏丸さんはいつも付きっきりで健康状態などの心配をしてくれる。どうやら悪い人ではなさそうだ。

 この短い間でたくさんの話をした。相変わらず外には出させてはもらえないけれど、それはもうどうだっていい事だった。記憶が戻らないにしても私は、この人と一緒にいる運命なのかもしれないとも思い始めていたからだ。


 ある日、暇つぶしにつけていたテレビには、幸せそうな家族の特集が映し出された。

 優しそうな若い両親と可愛い子供達の仲睦なかむつまじい様子に、思わず私も笑顔になる。

 子供。その時、引っかかるような違和感が頭の中を駆け巡った。それが何かはわからないけれど、私は大事なものを忘れているのかもしれない。

 瞬間、何かが溢れ出てしまったかのように体が熱を帯びる。心拍は速く、呼吸がいつものように上手くできない。頬に触れると私はどうやら涙を流しているようだ。

 テレビを消してそのまま横になると布団を頭まで被る。この感情の理由がわからないまま、とにかく音もなく涙を流し切る事にした私は、いつの間にか眠っていた。


***


「やあ、おはよう」

 もう何度目の目覚めになるだろう。でもこれで最後だ。

「やっと、思い出したよ。まなぶさん」

「ああ、よかった。じゃあ改めて……おかえり、夏帆かほ

「ただいま。でもね、私全部思い出しちゃったんだ」

「全部?」

 彼の表情は明らかに変わった。


「あなたと結婚して一緒に暮らして、結局子供はできなかったけれど、あなたはそれでも構わないって言ってくれたよね」

「ああ、ああ」

「とっても幸せだったの。それがずっと続くんだと思ってた。でも買い物から帰る途中で、私は事故に遭って死んじゃったんだよね」

「馬鹿な事を! 君は死んでなんかいない。現にここにいるじゃないか!」

 取り乱したように声を荒げる彼の姿を初めて見たかもしれない。

「ねえ、最後まで聞いて。あなたは私に何かを隠しているよね?」

「そんな事はない……!」

 目が泳ぎ、髪をわしゃわしゃとして、悟られないように腕組みをする。

「嘘つく時の癖、変わらないね。でもそれはもういいの。また会えたからもういい」


 彼を取り巻く風景が段々とぼんやりとしていく。


「ふう。ちょっと眠るね。何だかまぶたが重くって――」

「ダメだ。ダメなんだよ! 今、目を閉じてはいけない!」

 彼の声も周りの雑音も、もう何も耳には届かない。握っていた手の温もりは冷えて、視界は真っ暗、彼の匂いも立ち消え、涙の味すらもしない。まるで一つ一つの感覚を遮断しゃだんされていくかのようだ。

「さよなら――」

 それでも心の中で最期の言葉を呟いた。


***


 目を開けると、私は真っ白な部屋の中にいた。

 ここはどこだろう。眠たい目を擦りながら、記憶を辿ろうとする。

 しかし、頭の中にもやが掛かったように何も思い出す事はできない。それでもなぜかやけにスッキリとした、晴れ渡る青空のような心持ちでいるのは間違いなかった。


 「誰かいませんか?」

 ベッドから起き上がり声をあげる。そうしてしばらく待ってみるものの、相変わらずこの静寂は続いている。

 ぐるりと辺りを見渡すと、この部屋には何一つ置かれてはいないようだ。随分と殺風景だけれど、そこまで気分の悪くなるようなものでもなかった。


 そして扉だけがその存在を知らしめるように佇んでいる。ここから外に出られれば誰かしらがいるかもしれない。

 ドアノブに手を掛けて回す。

 ガチャリと開くと、そのまま私は外へ出ようとする。すると不意に、向かい側から爽やかな草原の香りがしたような気がした――。

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