第18話 裏切り

 7月17日の戦いでは、先ず北条氏直が2万の兵を率い、滝川一益は手勢3千を率いて戦い、北条氏直の兵が敗走した。北条氏政はこれを見て1万の兵を弟の北条美濃守氏則(氏規)に与え滝川勢を囲み攻めた。一益は当初の手筈通りに後陣の上州衆を投入しようとしたが北条高広をはじめとする諸将の出足が鈍く進軍してこなかった。これを見て滝川一益は、関東衆は頼りにならないと考え、「運は天にあり、死生命あり、敵中に打ち入りて、討死せよ」と下知し敵中に討ち入った。この為、囲んだ北条方は逆に追い立てられ、最後には北条氏則が30騎程で打ってかかり滝川勢と渡り合った。この時、北条方の3百余人が討死したという。しかし兵を立て直した北条氏直が再度滝川勢を攻めると、滝川一益も終に破れ夕刻には敗走した。この時、滝川方の重臣・篠岡、津田、太田、栗田など5百騎が踏み止まって討死し、滝川方の上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した。


 北条 氏直は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。


 後北条氏は氏直の祖父・北条氏康の時代に甲斐の武田氏・駿河の今川氏と甲相駿三国同盟を締結していたが、父の氏政はその一角である甲相同盟において武田信玄の娘・黄梅院を正室としており、氏直は永禄5年(1562年)に氏政の次男として小田原城で生まれる(『平姓北条氏系図』・『石川忠総留書』)。兄の新九郎は早世したため、嫡男として扱われた。幼名は国王丸。仮名は新九郎。武田義信、武田勝頼の外甥にあたる。


 永禄11年(1568年)末には武田・今川間の関係悪化により武田氏の駿河侵攻が行われ、母である黄梅院は父と離縁させられ、実家の武田家に戻されたのち永禄12年(1569年)6月に病死した。


 永禄12年5月、氏直は没落した今川当主・今川氏真(叔母の早川殿は氏真の正室)の猶子として家督を相続し、将来の駿河領有権を得たという。ただし、駿河は武田領国化されたため現実のものとはならなかった上、黄梅院の死去で氏政の正室がいなくなったことや早川殿が男子を生んだことで氏直を改めて北条氏の後継者として位置づけることになり、遅くても元亀3年(1572年)までに縁組は解消された。なお、元亀2年(1571年)には氏康が死去して、氏政が名実ともに当主となり、武田との甲相同盟が回復する。


 天正5年(1577年)3月に古河公方・足利義氏より「新九郎」宛に書状が送られている。この文中には「氏直」の諱も書かれているために既に元服を済ませていたことが判明するが、書状の内容から元服した氏直が義氏にその旨を言上の書状を先に認めた上での返書と考えられ、実際に元服をしたのは3月ではなくその数か月前と考えられる。11月に上総国に初陣した。この戦は氏政・氏直が優勢に戦いをすすめたとみられ、安房国の里見義弘と和睦し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐことで北条氏と里見氏は年来の敵対関係から同盟関係に入った(房相一和)。天正7年(1579年)2月には垪和又太郎(実名不詳)と庄孫四郎(直正)に偏諱を与える一字書出が行われている。


 天正8年(1580年)8月19日、父の隠居により家督を継いで北条家の第5代当主となる。これは氏政出陣中に隠居を行った異例のもので、後北条氏は天正6年(1578年)の越後上杉氏における御館の乱および甲越同盟の締結を契機に再び甲斐武田氏と敵対関係となっており、尾張国の織田信長と同盟を結び、氏直と信長の娘の婚姻を達成してさらに同盟を強固なものとして勝頼との戦いを有利に運ぶためであったといわれ、通説では実権はなおも父が握っていたとされているが、実際には内政や家臣統制の権限は直ちに氏直に移され、軍事的な権限も一部が移譲され、氏政は外交と軍事の主要部分を担当していた。


 天正9年(1581年)、叔父・武田勝頼と三島で戦ったが、決着はつかずに終わった。翌天正10年(1582年)3月、信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡し(甲州征伐)、甲斐の遺領は信長の家臣・河尻秀隆、信濃国の一部と上野国の西部は滝川一益に与えられ、一益は関東守護を自称した。


 しかし6月に信長が本能寺の変で横死し、河尻秀隆が土豪一揆に殺害され、甲斐国が無主の国となると、氏直は叔父の北条氏邦らと共に4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始し、6月16日には倉賀野表(群馬県高崎市)に進出する。本庄に本営を置き、富田、石神に布陣、18日には金窪城で滝川軍と北条軍は激突し、初戦では氏邦が率いる先鋒が敗退したが、19日の神流川の戦いで氏直本軍が一益軍に勝利した。そして敗走する一益を追って上野国から信濃国に侵攻し、佐久郡・小県郡を支配下におさめ、諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付けた。更に木曾義昌(叔母・真竜院の夫)とも連絡を取り中信地方を制した。


 8月に氏直は甲斐北西部の若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置き、新府城を本陣に七里岩台上に布陣した徳川家康軍と甲斐若神子城において対陣した。「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望む氏直と、徳川軍との対陣は80日間に及んだ(天正壬午の乱)が、滝川一益敗退後に北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反し、家康方の依田信蕃がゲリラ活動を行い北条軍の補給路を脅かし、別働隊の北条氏忠・北条氏勝が甲斐国八代郡黒駒(山梨県笛吹市御坂町)において徳川方の鳥居元忠らに敗退すると戦線は膠着した(黒駒合戦)。その後、織田信雄・信孝兄弟の調停もあり、10月27日、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する。そしてこの結果として、天正11年(1583年)8月15日、家康の娘・督姫が氏直に嫁いだ。なお、天正12年(1584年)の沼尻の合戦を最後に氏政の出陣が見られなくなること、同年12月にはそれまで氏政が官途名としていた左京大夫を氏直が名乗り始めていることから、公の場においては氏直が北条氏の当主として認識されるようになっていった。


 家康と同盟を結んだ後、氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、太田資正らを圧迫した。しかし中央で信長の死後、その重臣だった豊臣秀吉が台頭し、関東惣無事令が発令されて私戦が禁止されたため、氏直は秀吉との戦いを意識して天正15年(1587年)から軍備増強に務めた。一方で秀吉の実力も認識していたようであり、天正16年(1588年)春には家康の仲介も受けて、8月に叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。


 なお、父や叔父の北条氏照ら強硬派が氏直・氏規ら穏健派と対立したとされているが、上野沼田城受取り後の氏政は上洛に前向きであることが各種書状で明らかとなっているため、氏政が強硬派とは一概に決めつけることはできない。また、氏規が上洛した直後に氏政が政務に一切口出しをしなくなったことが確認される。


 しかし天正17年(1589年)の秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きて、これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻した。このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく、既に真田に返還していることと、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしい旨を、秀吉側近の津田盛月・富田一白に対して弁明するとともに、家康に対しても同様に執り成しを依頼した。ところが家康は秀吉から小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼が実を結ぶことはなかった。


 天正18年(1590年)から秀吉による小田原征伐が始まった。氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築し、さらに野戦の場合を想定して、3月に箱根の屏風山等の陣場を巡検した。しかし山中城落城により結局小田原城で籠城することになる。籠城は4月から3カ月に及んだが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が秀吉に内応しようとした(氏直が事前に政晴を成敗した)ことなどから、7月1日には和議を結ぶことを決意し、5日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。


 しかしながら秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、家康の婿であったこともあり助命された。他方、氏政・氏照及び宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、11日に氏政・氏照が切腹となった。12日に氏直は紀伊国高野山へ登ることに決まり、21日に太田氏房・千葉直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏隆・北条氏光等の一門及び松田直秀・大道寺直繁・山角定勝・山角直繁・安藤清広・遠山直吉・北条氏資(高橋種資)・山上久忠・梶原景宗・内藤直行・宮城泰業等の家臣30余名を伴って小田原を出立し、8月12日に高野山に到着した。その後、高室院にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称す。


 天正19年(1591年)1月から氏直は、冨田一白と津田盛月を通して家康に口利きを依頼するなど赦免活動を開始し、2月には秀吉から家康に赦免が通知された。5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月19日には秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。さらに小田原に居住していた督姫も27日に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなっていたが、11月4日に大坂で病死した。多聞院日記によると死因は疱瘡と記述されている。享年30。氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、慶長3年(1598年)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。


 氏直には娘が2人いたが、長女は夭折、次女は池田利隆の許婚となったが慶長7年(1602年)に17歳で病死している。

 

 一方のジャンヌは怪物討伐に躍起になっていた。

 その怪物とは川天狗だ。

 東京の小河内村では、多摩川にある大畑淵という大きな淵に住んでおり、人間に危害を加えることはなく、いつも岩の上に寂しそうに座り、物思いにふけっていたという。ある年の春に姿を消したが、その年の秋にまた姿を現し、その隣に1人の美しい天狗の娘が寄り添っており、彼女に膳椀を貸した者は、礼としてミミズが熱病の薬になることを教わったと言われている。また、大河内と氷川の境にある水根渓谷には山天狗と共によく現れ、曇りの日や雨の夜、振袖姿で傘をさし、激しい山崩れの音を立てたという。また、渓谷で人に激しい飛沫の滝を見せたり、激流の音を聞かせることもあるが、この際に道の畦に足を踏み入れて谷を覗き込もうとすると、真っ逆様に川に落とされてしまうという。


 神奈川県津久井郡内郷村(現・相模原市緑区)では川天狗は姿を現すことはなく、夜に人が川で漁をしていると、大きな火の玉が突然転がって来ることがあり、これが川天狗の仕業とされていた。このようなときは、河原の石の上を洗い清め、獲れた魚を供えるとこの怪異は失せたという。また人が川に網を放つと、川天狗も姿を見せずに網を放つ音を立てたという。誰もいないのに大勢の人声が聞こえたり松明の火が盛んに見えるものも、川天狗と呼ばれた。

 埼玉県秩父市や山梨県の道志川でも神奈川と同様の怪異がある。民俗学者・伊藤堅吉による山梨県道志村の村史『道志七里』によれば、道志村では川天狗が川に住んで魚を好み、怪火を発するとある。ある川で人が死ぬと、その川のそばにある3本のトチの古木から青い火の玉を発したという。また、道志川のクソマタ淵という場所で子供が釣りをしていると、川天狗が黒い坊主姿で現れ「子供! 子供!」と呼んだという。夜に人が釣りをしていると、川天狗が網をうつ音を立てることもあり、その怪異に遭うと絶対に魚が釣れなくなったという。静岡県でも川天狗は川での漁を好むといわれる。


 関東地方から中部地方にかけては天狗火と呼ばれる怪火が伝わっているが、神奈川県や山梨県の山間部では、この天狗火は川天狗によるものといわれている。

 ジャンヌはハルパーで川天狗を倒す。

 👹 残り6匹

 年端のいかない少年が川べりで休んでいるジャンヌに近づいてきた。

「父ちゃんと母ちゃんは魔物に殺された。仇を討ってくれないか?」と、少年に頼み込まれた。

 少年の名前は喜右衛門きうえもんといった。


 氏直は鉢形城へと逃れた。

 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。


 初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となったほか、甲斐・信濃からの侵攻による最前線として重要な役割を担っていた。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。 また跡地の周辺には殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺える。


 稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、小田原征伐では3万とも5万とも言われる北国軍に包囲されて1ヶ月に渡って籠城したのちに「開城」という形になった。

 

 氏直は督姫に膝枕してもらった。

 督姫(永禄8年(1565年)あるいは天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。実名はふう。別名は富子、播磨御前、良正院。

 三河国の生まれ。松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、松平忠輝らは異母兄弟、亀姫、振姫は異母姉妹にあたる。


 天正10年(1582年)、本能寺の変により父の同盟者だった織田信長が死去して甲斐国や信濃国が無主状態となると、父と北条氏直による甲信地方を巡っての領土争いが始まる(天正壬午の乱)。当時の徳川氏と北条氏を比較すると、国力面や動員兵数においては北条氏が上回っていたが、黒駒の戦い、信濃豪族の取り込みでは徳川氏が有利という状況であった。このまま戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦した。この時の和睦条件の一つとして天正11年(1583年)8月15日、督姫が氏直の正室として嫁いだ。督姫は氏直との間に2女を生む。


 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。


 なお、氏直との間の2人の女子は、一人が文禄2年(1593年)に没し摩尼珠院殿妙勝童女の戒名が付けられ(実名は不明)、もう一人の万姫は慶長7年(1602年)11月20日に没した。慶長8年(1603年)3月1日に、百箇日の法事の御供養米が京都の本禅寺へと送られている。摂津河辺郡中筋村(現:兵庫県宝塚市)の村民が年貢の米に困り本禅寺から御供養米を分けてもらうため、日蓮宗に改宗し万姫の法名にちなんだ妙玄寺を建てている。


 文禄3年(1594年)12月27日、秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁した。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」と「後三年合戦絵詞」を持参している。輝政との夫婦仲は良く、5男2女をもうけた。


 慶長14年(1609年)4月2日に、息子の池田忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府の家康に会いに行った。総勢5千人余りの大行列だったという。3人の息子はこのとき、8歳の徳川頼宣と共に能楽を演じた。そのまま督姫と息子たちは5月5日まで滞在した。このとき督姫は母・西郡局のために、自分が家康と同じ浄土宗に変わることを条件に、輝澄を日蓮宗にすることを家康に願い出て認められた。


 慶長18年1月25日(1613年3月16日)に夫の池田輝政が死去した。5月27日には、輝政の死去に伴う相続の処理のためか駿府に到着している。6月22日には帰国したが、家康の配慮で輝政を亡くした督姫を慰めるためにそれまで留めていたという。


 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では池田忠継が出陣し、その家臣の菅権之佐から戦況や忠継の活躍についての手紙をやり取りしている。


 慶長20年(1615年)、家康と会うため滞在していた二条城で疱瘡にかかり、そのまま死去した。享年41または51。

 

 天正10年7月22日

 赤塚寛太が突如、織田方に寝返ったので氏直は唖然としていた。

「おのれぇ!赤塚ァッ!」

 寛太は火遁の術を使った。

 火を利用して敵の注意をそらす術。藁や薪に火をつける。火薬を用いて火矢や火車剣を飛ばすなど。忍者の流派によっては火薬の扱いに長けており、火薬を利用した忍術があった。その名残りからか、火薬によるロケット花火の打ち上げを年間行事として現在まで伝えている地方がある。

 今回は火車剣を駆使した。

 

 氏直は刀を抜いて赤塚隊と猛然と戦った。

 寛太はMk.23で氏直の頭をぶち抜いた。

 H&K MARK 23は、ドイツの銃器メーカーH&K社が開発した自動式拳銃である。MARK 23は、民生市場向けの製品名で、軍用市場向けにはMk.23などの製品名で販売されており、アメリカ合衆国ではMk.23 Mod.0の制式名称で採用している。日本では単にソーコム(SOCOM)やソーコムピストル(SOCOM PISTOL)などの通称でも知られる。

 Mk.23は、特殊な改造無しでサプレッサーが装着できるように銃口がネジ式になっている(民間用モデルにもネジが切られている)。しかし、スミス&ウェッソン社のMk.22 ハッシュパピーのようなスライドロックは不可能なため、消音効果は限られている。プロトタイプモデルのフェーズ1にはスライドロックが存在していたが、フェーズ3にて、なくても十分な消音効果が得られる等の理由から、不必要と判断され、オミットされている。また、銃口下部にはAN/PEQ-6と呼ばれるLAM(レーザー・エイミング・モジュール)を取り付けるためのレールが設けられている。AN/PEQ-6は可視レーザー、赤外線レーザー、フラッシュライトの機能を兼ね備え、それぞれを単独または組み合わせて点灯させることができる。


 その大きさも特徴の1つである。Mk.23の全長は245㎜、重量は1,210g(マガジンを装備した場合は1,576g)で、ベースモデルであるH&K USPに比べ重量も大幅に増量している。射撃精度は非常に高く、上記の射撃テストを通してもグルーピングが約25mの射程距離で半径約3cmの円内に収まる等、アメリカ政府が戦闘拳銃に求める最も厳格な基準を満たした性能とされている。また、二重のリコイルスプリングによる特殊な反動軽減装置を搭載しており、射手および銃本体に掛かる反動は40%軽減される。


 風魔小太郎ふうまこたろうは赤塚寛太の素性を徹底して洗っていた。

 風魔 小太郎は、相模国足柄下郡出身で、風魔一族ないし風魔忍者を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領。後北条氏滅亡後は江戸へ上り、盗賊になったとされる。根拠地は武蔵国や足柄山地ともいわれる。『北条五代記』の風魔と、風魔に関連する『見聞集』の逸話、『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎から生まれた伝説の忍者である。

 寛永18年(1641年)刊の三浦浄心『北条五代記』によると、天正9年(1581)に北条氏直が黄瀬川で武田勝頼・信勝の軍勢と対陣したとき、氏直が扶持した乱波の1人・風广(風魔・風摩)は「四頭(四盗)」と200人の徒党を率い、武田の陣に夜討ちをして相手を苦しめた。

 同書によると、風广は、謀計・調略に非凡な才能を発揮し、武田軍の兵士はその風貌について、身の丈が7尺2寸(約218cm)あり、目や口が裂けて、牙が4本出ているなど、人間離れしていると噂した、という。作中では、風广の出自などは明らかにされていない。

 万治2年(1659年)に『北条五代記』の絵入り本が刊行された後、同4年(1661年)に刊行された『古老軍物語』は、「乱波」とは「忍びの者」であり、風广は近江の甲賀出身の風間かざまの三郎太郞で、どんなに厳しい番所をも忍び入るので、「風間」と名付けられた、と解釈し直した。なお、「甲賀三郎」は、諏訪大社の縁起物語の主人公の名である。

 寛文6年(1666年)刊の浅井了意『伽婢子』では、武田軍が信州割峠(割ヶ嶽城)に出馬した永禄4年(1561年)頃、武田信玄が今川氏真から借りて秘蔵していた『古今和歌集』を盗み出して甲州の西郡を風のような速さで進んでいた犯人が、歩行の達者・熊若に捕えられ、「(前略)我は上州箕輪の城主・永野が家につかへししのびのもの、もとは小田原の風間が弟子也。わが主君の敵なれば信玄公をころさんとこそはかりしに、本意なき事かな。(後略)」と言い残して、殺される。


 同じ『伽婢子』の中で、越後国・春日山城にやってきて「牛をのむ」などの幻術を披露して人々を驚かせ、長尾謙信に召し出されて家臣の直江山城守の家から長刀と「女の童」を盗み出し、危険視されて逃亡した後、武田氏に仕官しようとして殺されていた「名誉の窃盗しのび」飛加藤は、元禄11年(1698年)の槇島昭武『北越軍談』では「小田原の風間が弟子」と同一人物とみなされ、風間次郎太郎の伝授を受けたとされるようになった。


 天文元年(1736年)の江島其磧の浮世草子『風流軍配団うちわ』では、風間の三郎大夫とその弟子の飛加藤は、2人で長尾謙信に仕え、武田氏との合戦で夜討ちや盗みをして活躍するが、のち風間は郷里の近江で逼塞する。飛加藤に三浦の大介殿着用の鎧を盗まれた北条早雲の家中はこれに対抗するため風間を召し抱えようとするが、譜代の家臣・大道寺新蔵人が「武士の正道ではない」と反対し、風間は後北条氏に仕えないまま物語が終わる。


 7月27日

 小太郎は命からがら、京の鳥辺野とりべのにやって来た。

 鳥辺野は、京の一地域を指す地域名。鳥部野、鳥戸野とも書く。平安時代以来の墓所として、徒然草や源氏物語に登場し、藤原道長が荼毘だびに付されたという。「東の鳥辺野」、「西の化野」、「北の蓮台野」を京の三大葬地という。

 森の奥にタイムマシンの『鵺』は隠されていた。

 パネルを2・0・2・2・0・2・0・1の順番に押した。

 スキンヘッドの鷹島の操縦で2022年2月1日に向かった。

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ジャンヌ・ダルク異譚  鷹山トシキ @1982

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