第17話 神流川の戦い
関東の戦国大名後北条氏は天正8年(1580年)頃から織田氏と同盟関係にあり、当主氏直と信長の息女の縁組も実現間近だった。信長が当時敵対していた武田勝頼の室は、氏直の父で北条家前当主北条氏政の妹に当たる。このため当初、氏政の政権は親武田を模索するが、上杉氏の御館の乱における勝頼との対立によって第二次甲相同盟は破綻した。この後、北条家は織田家との同盟に家運を賭けて取り組んでおり対武田に大軍の動員態勢をとった。
天正10年(1582年)2月、信長の嫡男・織田信忠を大将とする織田軍は単独で電撃的に侵攻した(甲州征伐)。結果的に北条軍や信長の本隊が進む以前に武田家はあっけなく崩壊する。この際、焦った北条家から織田家に対して侵攻の機をみるために戦況をうかがった記録が残っている。こうした記録により、織田家は表面上の友好関係で糊塗しながら戦後の利権などを有利とするために情報封鎖を敢行したのだと考えられている。
北条軍は戦意旺盛ながらも東海道から駿河方面への進出と甲州街道から甲斐国郡内、あるいは上野方面への方針が定まらず、旧領の駿河東部の武田家の勢力を駆逐するなど一定の成果を挙げたものの、戦略的には右往左往する。上野方面では3月12日に北条氏邦が真田昌幸に北条家に降るよう書状を送っているが、大きな戦果を挙げられず、武田家滅亡(3月11日)を迎えた。
甲州征伐終了後の3月23日、織田信長は重臣・滝川一益に上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与え、織田家に従った関東諸侯をその与力とした。一益は箕輪城、次いで厩橋城を本拠とし、北毛の沼田城に滝川益重、西毛の松井田城に津田秀政、佐久郡の小諸城に道家正栄を置いた。残る武田領は、3月29日、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曾義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵された。従って、北条家の領土の加増は無かった。
一益は新領地統治にあたり、関東の諸将に対して本領を安堵することを申し渡した為、近隣の諸将は人質を伴い次々と出仕した。この時、佐野氏の天徳寺宝衍と、倉賀野城主の倉賀野秀景は側近とされ、関東の佐竹義重・宇都宮国綱・里見義頼、更には奥州の伊達輝宗・蘆名盛隆と連絡をとっている。しかしながら、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、古河公方・足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていなかった。
天正10年(1582年)5月には、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催、嫡男(一忠)、次男(一時)を伴い自ら玉蔓を舞っている。この興行には北条家も参加しており、表面的には両家の友好ムードは一層高まっていた。
滝川家中では北条家の勢力を「南方」と呼び、丁重な応対が為されていたが、その一方で一益は祇園城(下野)を元の城主である小山秀綱に返還させるなど北条側に不利な裁定を下すこともあり、織田家との同盟に家運を賭けているとはいえ、関東管領の座を従前から志向する北条家としては内心穏やかならざる状況でもあった。特に、上野が織田直轄領の観を呈し、佐竹義重を頼っていた太田資正・梶原政景親子までもが一益に伺候すると、北条家にも焦りや織田家に対する不信感が芽生えていた。
一益は大永5年(1525年)、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたとされるが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする説の立場からは、若き頃は近江国の六角氏に仕えていたとされることがある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされている。後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。
信長に仕えた時期は不明であるが、『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際に「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めた、という記述がある。また信長の側室の一人であった慈徳院は一益の親族とされているが、慈徳院は弘治年間(1555年 - 1558年)に生まれた織田信忠の乳母であったことから、一益もこの頃には信長の家臣であったと推測されている。『妙心寺史』では、慈徳院は一益の娘であるとしている。妙心寺56世の九天宗瑞は一益の子である。
永禄3年(1560年)、北伊勢の桑名は美濃国との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得て北畠氏や関氏に対し備えることを一益が信長に進言した。尾張国荷ノ上の土豪で長島城主の服部友貞の資金によって蟹江城を構築したが、やがて友貞を放逐して蟹江城主となった。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担った(清洲同盟)。
永禄10年(1567年)と永禄11年(1568年)の2度にわたる織田家の伊勢国攻略(北勢四十八家を中心とする諸家を滅ぼした)の際には、攻略の先鋒として活躍している。源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟の木造具政を調略し、具教が大河内城を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任された。戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられ(大河内城の戦い)、永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠家の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和国宇陀郡の統治を行っている。
元亀元年(1570年)9月の石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦の開始で長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には信長の弟・織田信興が小木江城で討ちとられ、一益も桑名城に篭っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、さらに遊軍として各地を転戦することとなる。
天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。
天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣し、鉄砲隊の総指揮を執る。また同年には越前一向一揆を攻略。天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。
天正8年(1580年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。天正9年(1581年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。また、同年、京都妙心寺内に自らの子・九天宗瑞を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵は津田秀政の死後に、長興院と改名された)。
天正10年7月15日
一益は軍勢を
神流川は、上野(群馬県)および武蔵(埼玉県)を流れる利根川水系烏川の第2次支流である。
初戦は滝川勢が、北条氏邦の配下であった斎藤光透とその弟・斎藤基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と川井城を攻め、陥落させた。更に金窪原で行われた合戦では、信玄・勝頼の旧臣を主体とした上州衆と滝川勢が、北条氏邦の鉢形衆5千と戦い、石山大学、保坂大炊介を討ち取ったが、上州衆も佐伯伊賀守が討ち取られた。しかし最終的には北条方が敗れて追撃を受け二百余人が討ち取られた。またこの戦いに北条氏直も参加し、「鉢形衆3百人に加え氏直の身辺の者多数が討ち取られた」との記録もある。
北条氏邦は従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母としているとされていたが、元亀2年(1571年)における北条家中での序列がこれまで弟とみられてきた氏規どころか氏康の養子(実際は甥)である北条氏忠よりも下に置かれていたことが判明し、五男とみられていた氏規よりも年下でなおかつ妾の子ではないかと考えられるようになった。その後、天正10年(1582年)の時点では氏忠よりも上位に位置づけられ、天正14年(1586年)頃には氏規を抜いて三男氏照に次ぐ地位に位置付けられていた。歴史学者の黒田基樹の言に拠れば、氏邦が嫡出で年長であった氏規よりも高い政治的地位に位置付けられることは通常ではありえない事態であり、この判断は氏康次男で「御隠居様」としてなお北条家最高権力者の地位にあった氏政の判断とされている。北条家の関東支配において、氏邦の担う役割の重要性を十分に認識し、氏邦の功績に鑑みて瑞渓院と養子縁組が行われ氏照の次点とされたとする。
その後の永禄元年(1558年)、武蔵国北部の有力国衆の藤田氏の養子になったとされる。
永禄11年(1568年)甲斐武田家との抗争が始まると新たな本拠として鉢形城を構築した。領国は鉢形領と称されるようになった。
永禄12年(1569年)から開始された越相同盟の交渉において、かつて上杉家に従属経験のある由良成繁と由良への指南役を務める氏邦が交渉を取り纏める中心的な役割を果たした。元亀2年(1571年)同盟が破棄された後は、上野国の北条氏領国化を進める役割を果たした。
天正4年(1576年)、安房守を名乗るようになった。安房守は室町時代に上野守護職を歴任した山内上杉氏の歴代の名乗りであったが、氏邦がそれを名乗ることは、山内上杉家に代わり氏邦そして北条氏が上野国の国主になることを表明するものであった。
天正6年(1578年)5月、上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると、実弟の上杉景虎の援軍要請に応じた長兄氏政の名代として、次兄氏照と共に景虎支援のために越後に出陣した。北条勢は三国峠を越えて越後に侵入し、上杉景勝の拠点坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、次いで坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、北条方はそれ以上の攻勢に出ることができずにいた。やがて冬が近づき、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置して関東への一時撤退を強いられた。この冬の間に景勝は攻勢を強め、景虎は明けた翌年3月に自害した。
天正8年(1580年)に織田氏に対し北条氏が従属の表明を行った際、氏邦は負担として黄金3枚を負担している。
天正10年(1582年)の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐して戦い、滝川一益を壊走させた。直後の天正壬午の乱にも参戦した。天正10年7月までは藤田家を称していたが、それ以降から天正15年(1587年)11月までの間に北条姓に復姓している。
天正11年もしくは12年頃に、氏政の子直定を養子に迎えた。
天正17年(1589年)7月24日頃、沼田領の請取が行われた。沼田領を氏政は氏邦に管轄させ、氏邦はそれを宿老かつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させることにした。9月には猪俣邦憲は領域支配を開始させている。同年10月22日に真田家の管轄とされていた名胡桃城内で内紛が起こった。中山九郎兵衛が城代鈴木主水を追放し、猪俣邦憲に加勢を求めたため、邦憲は軍勢を派遣した(名胡桃城奪取事件)。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐を前にして小田原城で行われた評定の席において、小田原城に籠もることに反対し、駿河国に進出しての大規模な野戦を主張したが他の北条閣僚らに容れられず、小田原城を退去して居城の鉢形城に籠城し、単独で抗戦した。
しかし豊臣方は圧倒的な大軍であり、上野国・下野国・武蔵国北部は瞬く間に制圧された。鉢形城も完全包囲され激しい攻勢に曝されると、氏邦は降伏勧告を受け入れた。開城し、出家姿になり藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居した。戦後は城攻めの大将であった前田利家に預けられ、家臣となり、慶長2年(1597年)に加賀金沢にて50歳で病没した。金沢で荼毘に付された後に、遺骨は菩提寺の正竜寺に移された。この時、菩提寺での大法要に集まった参列者の列はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。
ジャンヌもアサルトライフルで北条氏邦軍と戦った。バララララララッ!!氏邦が蜂の巣になった。
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