第16話 相模の王
信長は安土城を失った為に、清州城を居城とした。
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。
織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。
天正10年(1582)7月10日
信長は重臣の柴田勝家と滝川一益を天守閣に呼び出した。羽柴秀吉は光秀攻めの際は京に戻ってきたが、再び中国の毛利を攻めに舞い戻った。
「お主達を呼んだのは相模の北条について、どのように攻めるか話し合うためじゃ」
敵の総大将、
天文7年(1538年)、第3代当主・北条氏康の次男として生まれる(「北条系図」『群書系図部集第四』)。ただし、黒田基樹は『石川忠総留書』に「氏政亥五十二」と記されているのを根拠に天文8年(1539年)生まれが正しいとする説を提示している。また、天文18年(1549年)に公家の飛鳥井雅綱が氏康の子である西堂丸と松千代丸に蹴鞠を伝授した記録が残されており、そのうち西堂丸は兄・新九郎氏親の幼名と推定できるため、残された松千代丸が氏政の幼名であったと推定できる。
兄・氏親が夭折したために世子となり、北条新九郎氏政と名乗る。従って、氏親が死去してから2年後の天文23年(1554年)6月までに元服したとみられる。氏政は元服後、北条家歴代のものであり、かつ兄氏親と同じ、仮名新九郎を称した。天文23年(1554年)に父が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。夫婦仲は極めて良好であった。
永禄2年(1559年)12月23日に父が隠居して家督を譲られ、北条家の第4代当主となる(『年代記配合抄』)。 これは飢饉への対応として、氏康が当主を退き、新たな当主のもとで復興にあたっていくものとみられるから、以後しばらくは氏康が領国支配を主導し、両者は「御両殿」「二屋形」などと称される。
家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされている。民意を重視し、検地や徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏の常套であった。
永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名を糾合した大軍で小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。北条氏は窮地に陥ったが、盟友・武田信玄の支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退する。越後国に撤退した謙信が第4次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していく。
永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦では、初戦こそ里見義弘の前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得た。これによって上総国に勢力を拡大した上、上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。同年には武蔵岩槻城主・太田資正の長男・氏資を調略して資正を武蔵国から追い、武蔵国の大半の支配権を確立した。これに対し謙信は武蔵羽生城などを拠点として対抗する。
永禄9年(1566年)、謙信を盟主としていた上野国の由良成繁が氏政に帰順した。これに連動して佐野昌綱・北条高広らも氏政に帰順し、上野国にも勢力を拡大する。更に氏政の従兄弟で下総国の古河公方・足利義氏の重臣・簗田晴助も一時的に氏政に和したため、謙信と同盟している常陸国の佐竹義重との直接対立が顕在化する。佐竹氏に協調する里見氏、佐竹氏の客将となった太田資正などと臨戦状況となる。
永禄10年(1567年)、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総国の支配権を失った(三船山合戦)。
この頃、駿河国の今川氏は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで当主・義元が討死して以降領国の動揺を招いており、武田・今川間の関係も悪化していた。永禄11年(1568年)12月に甲駿関係は手切となり、信玄による駿河今川領国への侵攻が開始され(駿河侵攻)、義元の嫡男であり氏政の従兄弟かつ義弟でもある今川氏真(氏政の妹・早川殿の夫)は没落した。信玄は北条氏へも今川領国の割譲をもちかけていたが北条氏は駿相同盟を優先して氏真方に加担し、甲相同盟も破綻する。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、一旦は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。
更に掛川城に籠城していた氏真を救出するため、武田方から離反した三河国の徳川家康と和議を結び、氏政は氏真を保護した。そして自分の次男である氏直を氏真の猶子として、駿河領有の正当化を図った。また、信玄に対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上杉景虎)を養子(人質)として差し出し、上野国の支配領域を割譲して同盟を結んでいる(越相同盟)。この信玄との関係悪化によって愛妻・黄梅院と離縁するという悲劇を味わっている。なお、近年になって離縁は史料の誤読に基づく事実誤認であるとする異論も出されているが、黄梅院が永禄12年(1569年)6月に死去した事実は確認できるため、その場合でも愛妻の突然の死という悲劇を目の当たりにしたことになる。
永禄12年(1569年)9月、碓氷峠から侵攻した信玄は小仏峠の別働隊を併せて小田原城を攻撃するが、氏政は父と共に籠城して武田軍を撃退している。この後、北条氏は甲斐国へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みる。父の替わりに本隊を率いた氏政は、武田軍を追って弟の北条氏照・氏邦等が布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。この事態に対し武田軍は、進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指していた。それに比べて追撃が遅延した氏政の到着を待つことなく、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、津久井城の内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。武田軍も北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまうこととなった(三増峠の戦い)。
その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退。元亀元年(1570年)には駿河国の北条方支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国は信玄によって併合された。
元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。この同盟は条件の調整不足等より、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も越中国の平定の方に力を注ぐようになっていた。
元亀3年(1572年)の信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信が戦死している。
甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まり、天正2年(1574年)に謙信が上野国に進出すると氏政も出陣し、利根川で対陣した。しかし謙信の関心は既に越中国に向けられており、決戦には至らなかった。閏11月には父が「一国に等しい城」とまで称した簗田晴助の関宿城を攻め落とし、翌天正3年(1575年)には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とした。更に下総国の結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大してゆき、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃した。天正5年(1577年)には上総国に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を実現した(房相一和)。なおこの戦いにおいて嫡男・氏直が初陣している。
天正6年(1578年)に謙信が死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱がおこった。氏政はこの時、下野国において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国に派遣した。8月下旬には氏政自身も景虎援助のため、上野国の厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原へ引き返している。
また、これと同時に同盟者で義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍を依頼した。勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵するが、景勝は北信の上杉領や上野沼田の割譲を条件に勝頼と和睦し(甲越同盟)、勝頼は景虎・景勝間を調停し和睦の成立に至るが、同年8月の勝頼撤兵中に和睦は破綻する。氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを図るも、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬の到来による積雪で、無念の撤退を強いられる。翌天正7年(1579年)に景勝が乱を制する形で景虎は自害した(その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ)。
景虎の敗死により氏政は甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃する。天正8年(1580年)に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。上野国では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。
このため、同年3月10日には石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている。 8月19日に氏直に家督を譲って隠居するが、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握したとされているが、黒田基樹は発給文書の分析から、内政面と軍事の一部の権限は早い時期に権限を氏直に移譲して、氏政は外交と軍事の主要部分を担当したとしている。
天正10年(1582年)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出す。駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させた。その後、伊勢国からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認すると、これに呼応し駿河国の武田領に侵攻した。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院殿と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。
信長は滝川一益を上野厩橋城に派遣して関東管領とし、上野西部と信濃国の一部を与え、関東の統治を目論んだ。既に北条氏は氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出ていたが、これについて信長から明確な回答がなかったため、氏政は三島大社に氏直の関東支配と織田家との婚姻祈願の願文を捧げている。また一益の仲介により、下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、織田氏の関東支配に協力している。氏政はこの時点での信長の勢威を恐れており、織田氏との友好関係は保たれていた。関東の北条領は一益の文書では南方と呼ばれ、重視されている。
『信長公記』によれば、氏政は、3月26日、4月2日、4月3日と立て続けに、
しかし、信長は北条氏に好意的な対応を見せず、むしろ刺激するようなことをしていた。
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