別れがあるということは、

朝田さやか

出会いがあったということ。

「……ねえ。本当に明日、私たち卒業しちゃうのかな」


 卒業式前日の教室に最後まで残っていたのは、優実ゆみと私の二人だけだった。窓から吹き込んだ風は私の言葉を寂しく撫でて、薄い茜色の空気に混ざって消えていく。


「そうだよ。私も信じられないけど」


 小さく笑う優実の愛らしい瞳が私を捉える。こうして机一個分を挟んだ距離で語り合えるのも、あと数回だけだ。上京する優実と地元に残る私。肌寒かった風が温かく感じられるようになる頃には、私たちは離れ離れになる。


「嫌だなあ。ずっとこのままこのクラスでいたい」

「あんだけ一人暮らし楽しみーって言ってたくせに」

「そうだけどさ」


 入学時に文系を選択してから一度もクラス替えが行われない「文系特別クラス」でともに過ごした三年間。思い出す日々の全部が色付いているのはたぶん、このクラスだったからだと思う。取り留めもない一日さえ、ずっとこの手に掴んでいたいと思うほどに。


「明日のスピーチ文、考えた?」


 トランペットみたいな優実の声が、今日はより一層響く。最後のHRで一人ずつ喋ってもらうから文面考えといて、と担任に告げられてから、軽く数時間が経過していた。


 卒業アルバムにメッセージを書きあったり、写真を撮ったり、適当に喋ったりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。日が傾き始めたことに内心驚きつつも、まだ立ち上がろうという気には全くなれなかった。


「ううん、考えるだけで今から泣きそうだからまだ」


 静けさに飲み込まれそうな教室をぐるりと見回せば、三十個の机が物憂げに佇んでいた。ここ数年、希望人数が減少していた文系特別クラスは私たちの代で廃止され、既に今の一、二年生からはなくなっている。の「文特ぶんとく」という実感が胸を苦しさで満たす。この教室に足を運ぶのも、残り一回。そう意識してしまった途端に、体が涙で飽和しそうだった。


「んははは、ほんっとに涙もろいよね、あずさは」

「感受性が豊かって言ってよ」


 椅子に足を広げて座って、手を叩きながら笑って、ベリーショートの髪の毛は風に吹かれてもびくともしない。この街全体を赤く染める夕陽よりも眩しく、私の世界を染める人。


 高校生活を振り返ればいつも、すぐそばに優実がいた。色付いた日々に輝きを与えてくれたのは、他でもない優実だ。


「まあまあ、また同窓会とかするっしょ」


 際限なく振りまくその笑顔に、何度元気をもらったことか。私を見つめる瞳はまっすぐで、一欠片の憂いさえ帯びてないように見えて。希望に満ち溢れた黒い宝石から、目を背けたくなる。


「そうだけど、でも」


 ……明後日からの毎日にみんなは、ううん、優実はいないじゃん。


 言いかけた言葉が口の中で消えていく。初めて二人で遊んだ日に一口もらった、あのサイダーみたいに。残るのは、さっきまでの甘さの余韻と、言い様のない切なさだけ。


「でも、何よ」


 そう優実が尋ねるように。途切れた言葉の続きを躊躇いもなく強いれるくらい、私たちの距離は近いはずなのに。


「やっぱりこのメンツでいられて楽しかったから、寂しさでいっぱいだなって」

「まあねー、もう家みたいなもんよね」


 机一個分の距離が、全てのように思えた。他人の感情の変化に敏感だからと委員長をしていた優実さえ、私の気持ちには気づかない。この感情を上手く言葉にできない限り、私は優実に触れることができないままだ。


「優実は、泰輝たいきと離れ離れになるのはいいの?」

「んー、よくないけど仕方ない。遠距離でも上手くやるよー」


 優実の表情が、今日初めて切なげに歪む。暗い感情を我慢するときに下唇を嚙む癖に、あえて気づかないふりをした。


 ――明るいキャラを装ってるだけなのよ。だから笑顔でいられなくなった時はさ、梓の横に行っていい?


 そう言った日の優実が、ひどく遠い。ぶつけられない黒い感情を、手のひらで握りつぶす。切り忘れた爪が皮膚に食い込むくらい必死に力を込める。でないと、訳の分からない涙を流す羽目になるから。


「そっか。ごめんね、今日は私に付き合ってもらって」

「ん-、いいのいいの! 梓が珍しく私といたいなんて素直に言うから、叶えてあげたくなった」


 ほら、私相手には笑う。にこぉ、って効果音がぴったりな人懐っこい笑顔を浮かべて。


 私は全部が自分勝手だった。嫉妬と悔しさと寂しさと嬉しさと、ぐちゃぐちゃに入り混じった感情が昂る。頬を撫でる風はせいぜい、目じりの涙を乾かすくらいしか役に立たない。体から発散される熱を静められるほどの寒さは、残っていなかった。


「ありがと」

「うん。……梓、どしたの?」


 私から零れ落ちた言葉は震えていて、そのわずかな震えを、優実は見逃してくれない。心配そうに眉をひそめる優実の、名前通りの優しさが心に沁みる。出会ってから私は、この優しさに何度助けられただろう。


「出会わなければよかったなって」


 唇が抑えこぼした言葉が、空気を滲ませる。


「こんなに別れるのが寂しくなるくらいなら、最初から出会いたくなかった」


 優実と。情けない気持ちはいくらでも溢れ出すくせに、たったこの三文字は言えない。優実は驚きも嫌悪もしなかった。私の全部を受け入れるみたいに、口角を僅かに上げた。


「明日、私たちは別れるよ。それで、みんなばらばらになる。それは事実だけど、でも」


 心地よく心に響くこの時の声は、まるでフルートの音色のようだった。そこで一呼吸を置いた休符の間に、夕焼けの金色が私たちを照らす。


「別れるってことは、一度出会ってるってことだよ。それが、入学式の日だったとは私は思わないけどね」


 それは特別な響きだった。優実に「梓」と名前を呼ばれるときのように。


「初めて声をかけた時かもしれないし、一緒に部活見学に行った時かもしれないし、金欠だからって節約しながら初めて二人で遊んだ日かもしれないし、私が梓に弱みを見せた日かもしれない。いつ出会ったのかなんて誰にも分からないけど、明日別れが来るってことは絶対にどこかのタイミングで出会ってるってことよ。出会わなければ別れられないから」

「うん」


 私はこの二文字の相槌に、どれほどの気持ちを込められただろう。輝きを放った日々が、頭の中に浮かんでは消えていく。


「明日の別れはさ、私たちが出会って、三年間の時間を共有できたっていう証明になるんだよ。だから、出会わなければよかったなんて言わないで!」

「……うん、そっか。ありがとう」


 その日私たちは、金色に染まる街を並んで歩いて帰った。



「みんな、三年間ありがとうございました。私は涙もろいから、もう既に……っ」


 次の日、最後のHRで私は予想通り泣いていた。後から後から流れ出す涙、言葉を続けられなくなった私に「がんばれ」の声がかかる。


「泣いちゃって、るんですけど……っ。聞きづらい、のはごめんなさい」


 視界がぼやけて上手く見えないなか、それでも一人一人の顔を順に見回していく。


「三年間クラスが変わらないから、苦手な子がいたらどうしよう、とか、最初はとても不安だった、んですけど、」


 私の拙い言葉を、みんなうんうんと頷きながら聞いてくれていた。なかには私につられて泣きそうになっている子も。


「みんなが優しくて、いい子でっ、みんなだったから、こそ私は三年間、毎日学校に行くのが本当に楽しかった、んだと、思います。私の、高校生活を、彩ってくれて、ありがとう。それぞれ、の道でっ、頑張りましょう」


 それでも、最後まで優実の顔を見ることはできなかった。優実と目を合わせたら、取り返しのつかないほど泣いてしまいそうだったから。


 私の深いお辞儀と同時に、教室が大きな拍手の音に包まれた。それは三十人で叩いたとは思えないほど、大きな音だった。


 その拍手のまばらさが際立ち始めたころ、次のクラスメイトが前に立つ。席に座るまでずっとうつむいていた顔を上げると、出席番号順、次にスピーチをするのは優実だった。


「ほらほらしんみりしないよ! 笑ってお別れしたいから」


 私がたっぷり泣いたせいで濡れていた教室の空気が乾く。どんな時も優実が前に立てば、みんなが笑顔になった。


「三年間、委員長させてくれてありがとう。みんなの助けがあったから、私はやり遂げられたんだと思う。同中の知り合いがいなくて不安だったけど、みんなといられて、仲良くなれて幸せでした」


 優実の声色が教室中を照らして、活気を与えていく。色付いた世界が輝くのを、私は今日も目の当たりにした。私は優実のこのパワーに憧れて、そして尊敬していたんだと思う。


「特に、――梓!」


 その三文字は、私の耳で特別に響いた。どくん、と大きく跳ねた心臓は光に当てられて、みるみる濃密な感情で満たされていく。


「こんなに仲良くなれてよかった。いつも隣にいてくれてありがとう」


 耐えられなかった。堪え切れるはずがなかった。名指しなんてずる過ぎた。


「ふえっ」


 ……お礼を言うのは私の方なのに。


 想いが涙に形を変えて、体から止めどなく溢れ出していく。優実に抱くこの気持ちは、親友というには育ちすぎた、だけど恋と呼ぶには未熟な想いだった。誰にもとられたくなくて、私を一番にして欲しくて。こんな自分勝手な感情も、きっと優実なら受け入れてくれる。


「優実、と出会えて、よかった、ひっく」

「私も。梓と出会えてよかった」


 太陽のように眩しい笑顔が私を照らす。私は月のようにその光を反射して、眩しく笑っていると思う。にこにこと見つめあった後、優実がなんだか照れながら私の席へすたすたと近づいてきて、手を差し出した。私は躊躇せずにその手を握る。やっとゼロセンチの距離に近づいた。


「ありがとう、梓」

「ありがとう、優実」


 明日からは触れられなくなるとしても、その別れは寂しいものじゃない。だってそれは、私たちが出会ったことを証明する、大切な別れなんだから。

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