道化師との遭遇

葛瀬 秋奈

第1話にして最終話

 深夜、なんとなく眠れなくて散歩に出た。夜中とはいえ森の中を歩いているとたくさんの音がする。

 風が揺らす木々の葉音。フクロウの鳴き声。小動物の足音。もう少し暖かくなればカエルの合唱も聞こえてくるだろう。

 だんだん楽しくなってきて歩みを早めると、少し開けた場所に出た。月光が差し込んでスポットライトみたいになったその場所に、道化師が一人で立っていた。


 道化師といっても白塗りメイクはしていない。星の飾りがついた特徴的な帽子からはみ出たまっすぐな鼠色の髪は肩の辺りで切り揃えられ、両目は布で覆われている。

 十代前半の女の子に見えるがよくわからない。そもそもこの森に人間はいない。見覚えはないが妖精の仲間だろうか。


「こんばんは」


 気がつくと道化師に挨拶していた。見知らぬ道化師に挨拶する道理もないが私はきっと「わからない」ことに怯えていたのだろう。挨拶を交わしてしまえばその瞬間から既知になると信じて。

 上を向いていた道化師の顔はこちらを向いて微笑んだ。目は塞がれているはずなのにまるで見えているみたいだった。そして大仰な仕草で優美にお辞儀をした。


「こんばんは、良い夜ですね」

「あ、普通に喋るんだ」


 道化師の唇から紡がれた言葉があまりに普通だったのが逆に意外でうっかり声に出てしまった。咄嗟に手で口を塞いだが道化師はクスクスと笑っている。恥ずかしい。


「……失礼しました」

「別に構いませんよ。正直なんですね」


 貴方も大概ですね、という言葉をかろうじて飲み込み、代わりに軽く睨んだ。相変わらず見えているのかよくわからない顔で笑っている道化師がジェスチャーで切り株に座れと指示してくるのでそれに従った。


「今夜の観客は貴方だけ」


 道化師は唇に指をあててそう言った。私はその仕草に見惚れながらこれから何が起こるのかと内心ドキドキしていた。

 腕を下ろして息を吸い込むと、道化師は知らない言語で歌い始めた。透き通ってふわふわした心地のいい声だが、どこか物悲しい響きだ。歌が終わると私は拍手を贈った。


「意味はわかりませんが綺麗な歌ですね」

「ええ、大切な人からもらったんです」


 何故か本当はその人への祈りの歌なのだろうと直感的に思ったが口には出さなかった。道化師はずっと口元に微笑みを湛えていた。


「さようなら、お元気で」


 私は手を振って道化師と別れた。

 後日、何度か同じ場所を通ってもあの道化師と会うことは二度となかった。それでも夜中に散歩をしているとあの歌声が頭をよぎることがある。別に会いたいわけでもないが。

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