腹を満たせば敵は来る
「2.0は譲れない。宝玉の買い手は腐るほどいるんだ」
アララギの交渉術など深いものではない。アララギはそれを知りつつ、出来る限りの高値で売ろうとしていた。片眼鏡をかけた宝玉商の男は、決して高くはない背を更に屈めて、訝しむようにアララギの顔を覗き込む。
「アララギ。無理をするな。お前の人脈が言うほど広くないってことは俺も知ってる。高く吹っ掛けたいのは分かるが、この宝玉、低層天徒のものだ。せいぜい出しても1.3ってところだな」
リユは別段動揺するでもなく、ハラハラするわけでもなく交渉の様子を見守っていた。彼女が危ぶむのは「売れないこと」。予想より0.2低く見積もられるのは、足元を見られる自分たちに交渉術がないからだ。リユはアララギの服の裾を少し引っ張って譲歩するようサインを出す。アララギはそのサインに気づいてか、気づかずか最後の目玉を持ち出す。
「この裏街道、宝玉商グループの一派。アリュウ達は狩猟者を丸ごと取り込もうとしてる。自分たちが金を出して、宝玉売買を取り仕切るつもりでいるんだ。ジャドー、あんたみたいな単独の宝玉商が、生き残るためにはどう振る舞えばいいかくらい、分かるだろう」
ジャドーと呼ばれた宝玉商は、長く伸びたあご髭に手をあてがい、感心してみせる。ジャドーとアララギは結構な馴染みだ。アララギとリユが天徒に両親を殺された孤児であることも知っている。学もなく技術をつける手立てすらなかった男、青年アララギがここまで知恵を働かせている。商人としてはタブーだが情の一つでも動いたようだ。
「1.6でどうだ?」
「1.8」
「分かった。それならお前さんへの賛辞も含めて1.7だ。これで充分だな」
リユはアララギが握りこぶしを強く作ったのが分かった。彼にとっては快心だったのだろう。1.7ペセトあれば三日は温かい部屋に寝泊まり出来て、美味しいものの一つや二つは食べられる。その事実にリユはわずかばかりの安堵を覚えていた。商談を終えて店を出るアララギとリユ。そんな二人にジャドーは釘を刺すことも忘れない。
「今みたいなやり取りが通用するのは、俺くらいなもんだ。気をつけろ。ボーイ」
」
アララギはボーイ、少年と自分が揶揄されたことなど別に構わなかった。彼の関心はどうやって自分とリユの空腹を満たすかに移っていた。
持て成された料理にアララギは貪りつく、かじりつくということはしなかった。リユはとっくの昔に食事を始めていたが、それを見守っている。リユがある程度の空腹を満たしたと知るとアララギは、脂ぎった揚げ物に手を出していく。リユは布巾で口元を拭う。
「なぜ優しくする」
「同じ被害者だからだ。鏡を見ている。それ以上の理由はないよ」
リユがアララギのコップに酒を注ごうとすると、彼はそれを止めてむしろ食べ物を幾つかまたリユの皿に盛った。リユは遠慮するつもりもなかったので、また箸を進める。すると、いつものことだ。二人の安楽には陰がつきまとう。アララギは食べる手を止めると、リユに視線をやる。
「外を見ろ。白服の連中がいる。公安か」
「たかが食いっぱぐれの狩猟者に公安?」
リユがたしかめる間もなく、アララギは机を蹴り飛ばし、すかさずナイフを取り出す。素早い反射神経で、乱射される弾丸をかいくぐると白服の一人。そのみぞおちを打って気絶させる。勘と敵味方をかぎわける臭覚。それがアララギをモンスターにもしていた。リユは後方に位置を取りながら、白服の数を確かめる。
「三、四! 扇状に、いる!」
四人もの白服がなぜ自分たちに。そう疑問を持つ間もなく、催涙弾を白服は放つ。視野が狭められ、苦しい戦いを強いられると二人が思ったその時。アララギに匹敵するほどのスピードで白服たちに刀を振り下ろし、一気に仕留めていく女性がいた。驚愕。その女性はスラリと長い足、加えて透き通る白い肌の持ち主で、目は鋭く吊り上がっていた。出血し、倒れ込む白服を横目に女は刀を鞘におさめると、アララギとリユを派手な身振りで静止する。
「この状況で、誰が敵で味方か! 野生で生きた君たちなら、分かるよね」
アララギの背後にはガタイのデカい男が立っている。彼はアララギのナイフを取り上げると「行こうか、アララギ君」とだけ告げた。アララギは長い足の女と屈強な男、この二人と今戦う必要はないと思ったようだ。素直に従い、リユも銃口を下に向ける。長い足の女はシャアナと名乗る。
「あなた達、二人の親御さんが殺された理由。知りたいでしょう? なら私たちと一緒に行く動機も出来そうだけど」
だがアララギにとって両親の死は、感情を麻痺させるためのファクターに過ぎなかった。十年も時を隔てた今。両親の死の謎に迫る。それよりもアララギには欲求があった。深い飢餓感にも似た欲求。アララギはリユやシャアナが次の言葉を口にするより前に、両手を広げてみせる。
「たらふく三食食える環境。それと俺は女がいりゃ文句は言わねえ」
シャアナは右眉を少し吊り上げると、この感情を失ってしまった青年と、彼に尽き慕うリユにますます興味をそそられていた。
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