僕を知っている君が消えて、僕を知らない君と出会った。
成井露丸
👩
「あなた誰? ――
木枯らしが吹く冬休み明けの登校路。
君は、掴んだ僕の右手を振り払った。
驚いたような顔で。怯えたような顔で。
その日、僕を知る君がいなくなり、僕を知らない君と、僕は出会った。
*
「――カプグラ症候群?」
大通りに面したサイゼリアで僕はその病名を復唱する。
膨らんだ胸元まで開いたニットから、黒いタンクトップの肩紐が覗く。
テーブルの上にはミラノドリアとエスカルゴが並んでいる。
日曜の昼下がり。
恋人の
学生時代に優里奈を出産した亜紀さんは、母親に見えないくらい若くて綺麗だ。
「珍しい心の病気だって。――土曜日に精神科に連れて行ったの。そしたら、それだって」
「どんな病気なんですか?」
「あなたが経験したままのこと。親しい人が別人に入れ替わったと思いこんでしまう病気」
亜紀さんは、自分も偽物だと思われているのだ、と言った。
お腹を痛めて産んだ実の子に、別人だと思われているのだと。
*
あの日の朝に会った優里奈は怪訝な目を向けてきた。
「――ねぇ。偽物の人。本当の真道くんは、何処に行ったの?」
「は? 何言ってるんだ、優里奈? 僕は、僕だよ」
「ふざけないで。真道くんの格好して、真道くんの髪型を真似て、真道くんのふりをして。――誂わないで!」
「――優里奈?」
最初は冗談かと思った。だけど、どうやら優里奈は本気だった。
本気で、僕のことがわからないみたいだ。
わけがわからなかった。
立ち去る君の背中を見ながら、僕はただ立ち尽くした。
*
スマートフォンで「カプグラ症候群」を検索する。
ヒットしたページに亜紀さんが言った通りの説明が書いてあった。
「家族も全員が別人だと思われているんですか? 優里奈に?」
彼女はゆっくりと首を左右に振った。
「私だけ。夫についてはわからないの。今、海外出張中で、まだ優里奈と会っていないから。――でも、弟の祐樹のことはわかるみたい」
「――弟?」
優里奈に弟なんていたっけ?
一年半付き合っているけれど、聞いたことがない。
「もしかして、あの子、真道くんに話してなかったかしら。祐樹くんのこと?」
僕は無言で頷いた。
優里奈が僕に秘密を作っていたのだとは思いたくないけれど。
「ちょっと微妙な関係だからね。あの子も話したくなかったのかも。祐樹くんは、夫の連れ子なの。ずっと引きこもっているんだけどね。本当は真道くんとも同じ学年なのよ?」
そう言って、亜紀さんは氷の浮かんだグラスを口元に運んだ。
「――待ってください。……ってことは、『弟』って言っても同い年ってことですか?」
「そうなのよ。複雑な家庭でごめんね」
優里奈の両親が再婚だというのは聞いたことがある。
でも、その相手の連れ子が同い年の異性――義弟だなんて。
優里奈は、誰か僕以外の同級生男子と、一つ屋根の下で暮らしているのか?
そういえば隣のクラスにずっと学校を休んでいる男子がいた。
そいつの名字もたしか――美月だった。
「とにかく今は病気のことですよね。――カプグラ症候群」
「そうよね。一過性の可能性もあるらしいから、――戻ってくれるといいんだけど」
精神の病気は、医者にもわからないことだらけなのだそうだ。
ふと病気になった彼女自身のことを考える。
突然、母親と恋人が偽物に入れ替わったとして、
――頼れる相手は、どこにいるんだろう?
*
「おはよ〜、真道! 最近、美月さんと一緒じゃないんだね?」
朝、一人で、学校への道を歩いていると、元気な女子が隣にひょっこり現れた。
ボブヘアを揺らす制服姿の少女は、
小学校以来の友人で、いわゆる幼馴染だ。
彼女である優里奈を除いたら、一番親しい女友達かもしれない。
「ちょっと――あってな」
「あ!? もしかして、ついに美月さんと別れちゃった?」
「――別れてねーし」
言い返したものの、そんな自分の言葉が、こじらせ男みたいで、しんどかった。
僕は別に振られたわけじゃない。
僕らはまだ別れたわけじゃない。
ただ彼女が病気になっただけ。
優里奈はまたすぐに思い出す。
「ニシシ。冗談だよ。でもフラれて凹んだら、いつでもこの宮下絵里さまの胸に飛び込んできていいんだからね? 幼馴染の女神様が慰めてあげましょう!」
「いらねーよ。そんな小さい胸じゃ、慰めにならん」
「オオオオ! 言ったなぁ!」
そう言って彼女は笑う。
こうやって馬鹿を言い合える気の置けない関係って、ありがたいなって思った。
心の荷が少し下りた気がした。
その時だった。絵里が目を細めた、
「――ねぇ、真道。――あれ何? 誰?」
幼馴染が後ろの方を、小さく指差す。
僕は振り返り、その方向へと視線を送る。
そこには優里奈の姿があった。
でも彼女は、僕が見たこともない男子と、――手を繋いで歩いていた。
――僕は生唾を一つ飲み込んだ。
相手は、色白で根暗そうな奴だった。
*
そのヒョロヒョロした男子が、美月祐樹だった。
一年生の春にいじめられてから一年以上引きこもっていた隣のクラスの生徒。
突然、学校に来始めたかと思ったら、優里奈と異様に親しげに振る舞い始めた。
その突然の出現と行動に、周囲はざわつき始める。
もともと僕と付き合う前から、優里奈は学年で一、二を争う美少女として人気だった。
だからそれなりの注目を集める。
何人もの友人が「別れたのか、真道?」「悩みがあったら相談に乗るぜ?」なんて声を掛けてくる。
カプグラ症候群のことはまだ生徒たちには秘密だ。
だから周囲は何か個人的なことが僕と優里奈の間にあったと考えるんだろう。
昼休みに入ると、優里奈はお弁当箱を持って、教室を出ていった。
思わず席を立って、廊下を覗く。
優里奈は、隣の教室の前で例の
そして二人は廊下の向こうへと消えていった。
「――大丈夫? 真道?」
振り返ると絵里が心配そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫って、何がさ?」
「――だって」
「心配してくれて、ありがとうな」
小動物みたいな幼馴染の頭をポンポンっと叩くと、彼女は唇を尖らせた。
*
二週間程が経ったある日の放課後。
そいつは向こうからやってきた。
「
放課後の下駄箱置き場。
目が隠れそうなくらい前髪を垂らした男――美月祐樹が、声を掛けてきた。
「――そうだけど?」
「単刀直入に言うけどさ。僕の優里奈に付きまとうの、やめてもらっていいかな?」
「……は? 今、なんて?」
そいつは俯きながら、両手を握りしめて、少し震えていた。
まるで小心者が、勇気を振り絞って悪に立ち向かうみたいに。
「――お前みたいな、イケメンリア充のヤリチンは、優里奈にふさわしくないんだ!」
全然、意味がわからない。わからなすぎて何も返せない。
こいつ何いってんの? お前が俺の何を知ってんの?
「ゆ……優里奈は生まれ変わったんだ。そして、ボ……僕と一緒になるんだ!」
吃りながら一方的に捲し立てると、そいつは背を向けて逃げていった。
僕はただただ立ち尽くした。
*
『一過性じゃないって。優里奈は私と君を別人だと思い続ける。そう覚悟してって、先生に言われたわ』
電話口の亜紀さんが、泣きそうな声で言った。
優里奈にとって僕は――僕ではなくなったのだ。
脳の奥が、ただただ痺れた。
目を閉じると優里奈の姿が浮かぶ。
その笑顔が浮かぶ。
僕らは二人で、よく河原を歩いた。
『ごめんなさいね。真道くん』
「仕方ないですよ。病気ですから。亜紀さんこそ――」
『私はいいのよ。母親だから。……君は、どうするの?』
「……僕は」
出会った頃から君のことが好きだった。
僕はずっと君と一緒にいたいと思う。
だから――
「諦めませんよ。僕は――優里奈のことが好きですから」
*
学校の休み時間。優里奈と祐樹が連れ立って抜け出していくのが見えた。
周りに気づかれないように、僕はその後を追った。
二人は体育館に入っていった。その側面にある通路を抜けて、祐樹は緑色の引き戸を開く。そして彼女と一緒にその中に入っていった。――体育倉庫だ。
僕は二人を追って扉の前まで来ると、微かに開かれた隙間から中を覗き込んだ。
埃っぽい部屋の中。跳び箱を背にした君は少しのけぞり、あいつの唇を受け入れていた。
君に触れるあいつの手が、ゆっくりと下へと這っていく。
制服のスカートの下へと忍び込んだ。
*
彼女が病気になって一ヶ月が過ぎた。
宮藤と美月が別れた。
美月は根暗男と付き合いだした。
噂はもう、学年全体に浸透している。
「――大丈夫? 真道くん? ――もし辛かったら、私が……」
「大丈夫。大丈夫だよ、絵里。ありがとうな」
それでも僕は優里奈のことが好きだから。
ようやく気づいたんだ。
名前なんて、ただの記号なんだって。
だから――
*
二人でよく歩いた一級河川の河原。
目の前に、君が立っている。
「何よ、突然呼び出して。真道くんのそっくりさん?」
彼女にとって、僕は別人。
僕は恋人だった宮藤真道じゃない。
でも、それが何だっていうんだ?
僕が誰だろうと、構わない。
君が忘れたのなら、思い出を上書きすればいい。
僕の名前なんて、ただのファイル名みたいなものなのだから。
――だから。
「よく分かったね。僕が別人だって。――そう僕は、宮藤真道じゃない。生き別れの双子の弟――
「――生き別れの弟?」
荒唐無稽な嘘に、君は両目を見開く。
「ああ、そうさ。周りの目を全部欺いてさ。真道と入れ替わったんだ 彼の全てを奪うために」
「……どうしてそんなことを?」
冬の風が僕らを包み込む。
何度も君と歩いた、この河原の道。
「――君のことをずっと好きだったから」
だからゼロから始めようと思う。
僕と君との新しい恋物語を。
まるで今日、出会ったみたいに。
僕を知っている君が消えて、僕を知らない君と出会った。 成井露丸 @tsuyumaru_n
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