最後を見届けない為に

嶋野夕陽

最後を見届けない為に

 今日終わりにしよう、明日こそ絶対に終わりにしよう。

 そうやって死にぞこない続けて、ある日気付くと、死ぬ理由がすべてなくなってしまっていた。

 数週間前に世界中を襲ったゾンビパニックが社会のすべてを破壊した。会社も学校も将来もない。

 死んだ者は、ゾンビとして起き上がり、生きているものを求めて彷徨い歩く。感情もなくうろつくだけのそれを窓から見下ろしながら、僕は袋麺を生のままかじった。

 引きこもる前に全財産をはたいて買い込んだ保存食とペットボトルの水が、部屋の中に所狭しと並んでいる。元々少食で動くことの少ない僕が、いつものペースでこれを消費し続けたとしても、あと数か月は余裕をもって生きていけるだろう。死ぬ日を探していた僕が生き残っているなんて、なんとも皮肉だった。


 僕の頭を便器に突っ込んでくれたあいつはもう死んだだろうか。

 仲良くしなさいと宣った教師はもう死んだだろうか。

 僕に無関心で仕事が大好きだった父はもう死んだだろうか。

 嫌だと言っても無理やり学校に行かせようとした母は、腐って玄関のドアを叩いている。


 死ぬ理由がなくなってしまった。

 嫌いな奴もいない、嫌なことももう起きない。学校に行く必要もなければ、父の冷たい視線を受けることもないし、わめく母の声に耳を塞ぐ必要もない。

 僕はただ無気力に窓から身を乗り出して、行き交うゾンビ共を眺めていた。


「あっ、食べ物!」


 声が聞こえてゆっくりとそちらへ顔を向けると、隣の家の窓から同年代の女が顔を出していた。隣家は最近すっかり耳が遠く呆け始めた老婆が住んでいたはずだから、勝手に中に入りこんでいるのだろう。取り締まる者のいない世界は、何をやっても許される。きっとその老婆ももう死んでいるに違いない。僕もこの女に殺されるのかもしれない。


「そっちに行くね」


 窓から身を乗り出し、屋根伝いにこちらまで近寄ってくる女をぼんやり目で追う。そうして勝手に部屋に入ってこようとするのを僕は止めなかった。

 女は僕の部屋にうず高く積まれた飲食物をみて、感嘆の声を上げた。これならどれくらい暮らしていけるとか、それを分けてもらえないかとか、そんなことを言っていたように思う。

 僕は返事をする気力がなかったから、それを黙って聞き流しながら、また生のラーメンをかじった。

 母だったものが玄関のドアを叩く。

 あぁ、煩い、死んだのにまだ煩い。


 女は返事をしなくても勝手にしゃべり続けて、執拗に食べ物を貰ってもいいかと尋ねてきた。鬱陶しくなった僕は一度だけ頷いて許可を出す。

 女は何か大きな声でお礼を言ったりして、リュックサックにそれらを詰めるだけ詰め込んで元いた隣家へ帰っていった。これでまた静かな毎日に戻る。あとはただ、死ぬ気力が出る日を待つばかりだ。


 女は次の日も訪れた。保存食を食べるでも飲むでもなく、自分の拠点へ持って帰るでもなく、ただ自分の話をしたり、こちらに意見を求めたりしてくる。無視していればそのうちいなくなるだろうと思っていたのに、結局夕暮れ時まで女はそうしていた。


 また明日も来るという女の言葉を聞きながら僕は思う。

 機嫌なんか取らなくても勝手に食べ物をもっていけばいいのに。僕はそんなことを咎めたりしないのだから。

 いつか面倒になって、思い切って僕を殺してくれればいいのに。そうしたら気力が出る日を待つ必要もなくなるのだから。


 そんな毎日がしばらく続いたある日、僕は最初に見たときより彼女の頬がこけていることに気が付いた。十分な食料を持って帰っているはずなのに一体どうしたことだろうか。

 そのことを彼女に問いただすと、僕が声を発した事に対して驚きの表情を浮かべながら、理由を説明してくれた。

 隣の家では彼女の祖母である老婆がまだ生きていて、2人で食事を分け合っていると言う。僕はなんだか腹が立ってきて、食べ物の山を指さして、彼女に持ち帰るように伝えた。

 彼女は何度も礼を言っていたが、僕は努めてその顔を見ないようにして、窓の外でしつこくドアを叩く母の姿を見下ろした。


 それからまた数日たったある日、彼女が泣きながら屋根を伝って歩いてきた。覚束ない足取りが心配で、少し身を乗り出しているとみていると、ふらついた彼女が屋根から滑り落ちそうになった。僕は慌てて手を伸ばして彼女を支える。態勢を整えておいて正解だった。

 彼女を部屋の中に入れて、僕は何があったか尋ねてみる。



 彼女の祖母が死んだらしい。

 目を離した隙に自分でドアを開けて、ゾンビに襲われたという。


 彼女は泣きじゃくりながらその話をする。目を離してしまったこと、助けが間に合わなかったこと、最後にドアを閉めて自分だけ家に戻ってしまったこと、その全てを悔いて自分のことを責めていた。


 僕は思った。彼女の責任ではない。

 こんな世界で、普通でも難しい呆けた老人の世話を続け、物がなくても人を襲わず、言葉もろくに返さないような陰気な男に毎日話しかけた。彼女は何も悪くない。

 何か気の利いたことを言ってやりたくて、口を開こうとしたのだけれど、感情が高ぶって涙が溢れ、何も言葉にならなかった。

 彼女は僕に抱き着いて泣きじゃくり、僕はその場に突っ立ったままぼろぼろと涙を流した。


 それから彼女は僕の部屋に入り浸るようになった。隣家に戻る理由もなくなったからだろう。だからと言って僕のようなむさ苦しい奴と一緒にいなくてもいいと思うのだけれど、彼女は楽しそうに僕に話しかける。

 彼女は活発で明るく、学校の人気者で、僕の知らない世界を生きてきたようだった。何も共感できない僕はただ頷くばかりだったが、それでもいいと言って、彼女は楽しそうに話を聞かせてくれる。

 僕は、今まで生きてきて、今日この瞬間が一番幸せだと思った。


 夜になるのを待って、彼女にばれないようにゆっくりと窓を開ける。

 こんな世界になったからと言って、星空は何も変わったりしていない。地球に住む生物のうちの一つが滅びようとしている、ただそれだけの話だった。

 窓の外へでて、屋根の上に立ち、大きく息を吸い込んだ。そこら中を歩き回る腐った肉たちのせいで、空気は濁って美味しくなかった。


 屋根を蹴って、地面めがけて頭から落ちていく。

 死ぬ瞬間は時間の流れがゆっくりになって走馬灯を見るというが、そんなものは僕の身体には起こらなかった。ただ彼女が笑いながら僕に話しかける姿が瞼の裏に浮かぶばかりだ。

 ぐしゃりと体の何かが壊れる音がして、激痛と共に意識が遠のく。

 僕の腹にかつて母だったものが食らいついてくるのが見えた。


 もう目は見えない。声だけが遠く、上の方から落ちてくる。

 どうして、なんで、やだ、彼女の声が聞こえる。

 これが幻聴じゃなければ嬉しい。彼女が僕の死を悼んでくれているのなら、とてもとても嬉しい。僕は幸せだった。

 勇気をくれてありがとう。

 僕は君のことが好きになっていたんだ。

 僕は君の最後だけは見たくなかったんだ。


 さよなら、さよならだ。

 僕は君のことが好きだった。


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