【KAC20227】袖振り峠

すきま讚魚

会者定離

 来し方を愁えどはかなきかの峠

 鴉は見ずや 君が袖ふる



 時はまさしく春秋戦国の世の如く。武士ならずとも武器を取り、争い止まぬはこの時代。


 京より少し離れたこの山の頂は、民衆の中では曰くつきの峠であった。

 山を登るものは多々あれど、峠を越えて山向こうへやってくるものは約半数にも満たぬ。

 何の因果か、道中はぐれて引き返す者や、山中でそのまま自死してしまう者が後を絶たず。


 ——誰が呼んだか、その名も『袖振そでふとうげ』。


 この峠で言葉を交わしたものは。

 今生、二度と逢うことはないと云ふ。




 べべん、とひとつ琵琶の音。


 峠の向こうより現れた不思議な二人組に、少女は思わず足を止める。


 ここは袖振り峠、山を越えゆくものはあっても、峠の向こうからくるものはおらず。

 もし峠を越えてこちらへ来る者がいたとすれば……それは死者と云ふ噂も。


 目を合わせぬよう、その二人の横を通り過ぎようとした刹那。


「あっ……!」

「おやまぁ、おじょうさん、鼻緒が切れてしまったようで」


 躓く彼女が倒れぬようにと、その身体を包帯だらけの腕で支えていたのは着流し姿の長髪の男。通りの良い声で語りかけてきたのは隣に並ぶ白装束の男である。

 その手から伝わる人の体温に、死者ではなかったかと少女は内心安堵する。


 白装束の男はどうやら旅の僧のようだ。軽装だがその首から下げているのは金色こんじき掛絡から。しかし顔の半分を覆い隠すように、白い布で木乃伊ミイラの如く、その頭から鼻の上あたりまでをぐるぐると巻いており、なんとも云えぬ不思議さを醸し出していた。


 ほぅっとその不思議な様相に見入っていると、頭の上から舌打ちの音が聞こえた。


「おいガキ、この山の向こうに行ったところで、お前の望むものは何もないぞ」

「ひっ……」

「こぉら雨月うげつ、この子が怖がっておりやしょう? お嬢さん、足は痛みませぬか? それに鼻緒が切れては縁起が悪い、良ければこちらの草履に履きかえてはいかがでしょう」

「えっ、あっ、ありがとうございますお坊さま」


 見たところ足を挫いた様子もない。驚きと、確かに縁起が悪そうだなと感じた少女は、何の疑いもなく坊主が差し出した赤い鼻緒の草履へと履きかえた。草履は、まるであつらえたかのように少女の足にぴったりであった。


「お嬢さんは山向こうへと?」

「ええ、おっかさんからのおつかいで……」

「ほぉう、これはまた。えらいお嬢さんやなぁ。然し山の一人歩きは些か危険にございましょう。どれ、ワシら二人でよければ麓まで共にゆきやせんか?」

「ええ、でも……」


 少女の視線は先ほどまで身体を支えていた、睨むような目つきの男へと向く。

 先ほどは恐ろしく感じたが、その姿は野蛮な風貌の大男でもなく、どちらかといえば細身である。着流しの着物は白と黒に彩られ、そのざんばらに伸ばした黒髪はよく見ればしなやかさがあり。髪の隙間から覗く鋭い目つきと、その左眉から口元にかけて一閃した大きな傷痕さえなければ、役者の道があったようなものを……と思えるほどの美形であった。


「だいじょうぶ。彼はもとよりこのような不機嫌面でございやしてねぇ、なぁに、腕は確かだが何ひとつ乱暴なことはしやせんよゥ」

「でも、お坊さまは私と反対方向へ向かっていらっしゃるのでは?」


 いえいえ、と坊主はその表情の窺い知れぬままにこりと微笑む。


「ワシらは山を降りられれば何処へ行こうと構いやしやせんで。この山は少々気の流れに淀みもあり惑いやすい場所にございやす。袖振り合うも他生の縁、と云いやしょう。が山を降りる一番の道を知っておりやすゆえ、道案内をさせていただけぬでしょうか」

「それでしたら、ぜひ」


 少女が疑いもなく、にこりと微笑み頷く。

 着流しの男は不愉快そうに眉をひそめながらも、その腰に差した巨大な扇を開き、山の草木を薙いで進み入ったと云ふ。


「こんな道、知りませんでした。お坊さまはこのあたりにお詳しいので?」


 横を見上げれば、坊主は静かにふふふ、と嗤う。


「いんや、ワシではなく、彼が此の地の生まれでねぇ……。そうだ、お嬢さん。ひとつ、道ながら此の辺りにまつわる昔噺をいたしやしょう」






 刻はもう百年近く前のお話。天文法華てんもんほっけの乱の、すこぉし前まで遡りましょうか。

 当時、此の辺りの山々はそこを根城とした山賊一座が潜んでおり、それはそれは猛威を振るっておったとか。

 山賊のかしらは天下の大豪傑。京の大名も、比叡山の僧兵も、だぁれも手出しできなかったと云いやす。然しながら、彼には子がおらぬまま、一代にしてその権力をほしいままにしておったと。


 ある時、この山賊の頭の元へ、ひとりのおなごが逃げ延びてきたそうにございやす。

 これがまた、とても器量の良い別嬪で。

 老いた頭は言葉は交わせどそのおなごに何の興味も湧かぬ様子、そらぁ部下どもが虎視眈々と彼女を狙っておったそうな。

 然しねぇ、彼女にはひとり、幼い息子がおったんでさァ。彼女は息子を可愛がり、ひとときも傍を離れようとしなかったそうで。


 これがもう、母を凌ぐほどの美貌をもった男児で。

 頭はどうも、その男児をお気に召したそうにございやす。日に日に、男児は母と会えぬ日が増えていきやした。


 然し、みやこの暮らしから逃げ延びてきた母親には、山の暮らしが合わなかったのか。それともそれ以前の話であったか……。やがて病に伏してしまったそうにございやす。


 男児は母を恋しがり。母のそばにいたいと頼んだそうにございやす。

 それを許さなかったか、山賊の頭は母と男児を離れ離れにしようと目論みやした。

 母親は、ある時男児をその枕元に呼び寄せ、こう囁いたと云いやす。


「にくい……お前のその美しい顔が憎らしい」


 最後の力を振り絞り、まるで呪詛のように繰り返すと。彼女は隠し持っていた小刀で、真一文字にその男児の顔を斬りつけたそうな。


 恐怖と、変わり果てた母の怨念にも近いその念を受けた男児は気絶してしまい。それきり……彼が母に逢うことはなかったそうでさァ。


 傷モノになったと揶揄された男児は、母を失った絶望か、はたまた世を恨んだか。その顔に似つかわしくないほどの残虐非道を繰り返し、やがて頭を凌ぐほどの山賊となったそうにございやす。


 然し、いつしか山は焼かれ山賊達は全滅したそうで。

 その燃え盛る山の中で、最後に着物の袖を振り乱し、母譲りの舞を舞っていたのは、若頭へと昇りつめたその男児だったとか。


 それ以来、彼らの怨念漂う地として、また、いらぬものと出逢ってしまい引き込まれる地として、この袖振り峠は知られておるのでございやす。






 カサカサと草の掠れる音、坊主の語りは静かに幕を降ろす。

 少女は自分でも気づかぬうちに、その両の目からはらはらと涙をこぼしていた。


「そんな、つもりじゃ……」

「ほぉ、どうなさいやしたか?」


 なぜそう云ったのかも、涙が出たのかもわからず、少女は坊主の差し出した手ぬぐいでその涙を拭いた。


「わかりませぬ。でも何故でしょう、その母親はきっと恨まれてでも息子に生きてほしかったのだろうなぁと……そんな気がして。なんだかわたし、涙が……」

「まぁ、それは母のみぞ知る……でござんしょう。でもそうでさァ、お嬢さんがそう云ふのなら、果たしてそうだったのかもしれやせん」


 山の傾斜がいつのまにかなくなり、草を分けると陽の光が目に飛び込んでくる。

 鳥も、花も、風も、全てが自由に会話をしていて。

 然し明日は彼らと逢えるかどうかもわからず。

 風は頰を撫ぜた後には別れも告げずに去ってゆく——。


「お嬢さん、ワシらが案内できるのはここまでや。このお守りをもっておゆきなせぇ」


 その手から優しく差し出されたのは、朱の印が記された小さな香り袋。


「宇治のとある姫さんの御利益あるお守りや。中を見るのは禁忌でございやすが、それさえ守ればお嬢さんをきっと幸多き場所へと導いてくれるはず」

「お坊さま、でもこの場所は——」

「行きは良い良い帰りはこわい、どうかどうか、後ろは振り返りませぬよう」


 はっと顔を上げると、そこには誰もおらず。

 ただ、山から鴉が一声鳴いたと云ふ。


 少女は約束通り。

 振り返る事はなく。

 ただただ、一心にその袖を振り、二人に感謝の言葉を贈ったそうな。





「あの子は、わかっておったのでしょうなぁ。己が継母に売られゆく身だと云ふのを」

「知らん」

「またまたぁ、わかっててあんな道を逸れた遠い隠れ里に送り届けたのでございやしょう?」

「お前だって、縁切りの護りを渡すとは。どこまで……」


 峠の向こうを見やる、男はふたり。

 そこに響くはみっつめの声。


「ンでぇ、どうすんでぃ? 袖振り峠の噂に乗っかった人攫い、山賊の残党狩りでもおっぱじめるってぇのかい?」

「ふん。部下の末代、不始末は俺の責任だろう」


 着流しの男は、母譲りの優雅な仕草でその髪をかきあげる。

 その顔にはもう一つ。顔の中央を裂くような、真一文字の刀疵——。


「母上、今生は幸せに暮らしてゆくでしょうなァ。誰かを遺し逝く事もなければ、人に狙われぬようにと我が子を憂いてわざわざ傷つけやせんでも、ね」

「何の話だ」

「おっかさん譲りの美しさに、残す我が子が食い物にされぬようにたァ。泣かせるねぇ」

「……もう少しやりようがあっただろう」


 舌打ちの音がひとつ、風に消えゆく。


「袖振り合うも他生の縁、と云いやしょう? ここは本来、そんな場所にございやす」


 袖を振る——本来は別れを悲しみ惜しむ事を表現する言葉ではなく。

 旅の安全を祈り、古来の人々は袖を振ったと云ふ。


 

「雨月、貴方の心残りとやらは……消えやしたか?」

「……心残りだらけだ、クソ坊主」


「仕方ねぇから手伝ってやる」その言葉に坊主は薄い唇の端を上げ、ふふふと静かに嗤う。



 ここは袖振り峠、前世の縁とすれ違う場所——。


 その縁とは、合縁奇縁、因縁あり。

 ある者は残した家族に心を戻し引き返し、ある者はその恐怖と苦悩に命を絶ち。

 またある者は人知れずその行く末を変えたそうな。


 

 この峠で出逢い、言葉を交わしたものは。

 今生、二度と逢うことはないと云ふ。

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