【KAC20227】 野田家の人々:出会いと別れ

江田 吏来

第7話 出会いと別れ

 俺は朝から嫌なものを見てしまった。

 道路の真ん中で、首輪をしていない犬が横たわっている。ピクリとも動かないから、おそらく車にはねられてそのまま死んでしまったのだろう。

 誰もが犬の死体を目の当たりにして顔をしかめたり、固まったりしていたが、朝の忙しい時間帯だから足を止めることができない。気にはするけど、そのまま去っていく。


 俺だって電車を一本逃せば遅刻だ。しかし、あの犬をこのまま放置すれば、別の車がひいてしまう可能性も。

 頭をフル回転させて知恵を絞った。

 遅刻確定だから代返を頼んで、講義室には後ろからこっそり入ろう。犬は役所か保健所に連絡してみるか。そうすれば何らかの対応をしてもらえるはずだ。

 俺はスマホを取り出した。

 するとひとりの女子高校生がいきなり道路に飛び出したのだ。


 車が来ないほんのわずかな隙に走り出して、横たわる犬に近づくと、持っていたスポーツタオルで素早く包んだ。再び車が来ないか確認してから、女子高校生は犬を安全な場所へそっと運ぶ。

 あっという間の出来事だったが、心に太陽が昇るようなまぶしさを感じた。


「あ、あの」


 俺は思わず声をかけていた。

 はい? と顔をあげた女子高校生は色白で、つぶらな瞳をしている。マスクで鼻と口は見えないけど、彼女のいる場所だけが白く輝いているようだ。

 ぽかんと見とれてしまったが、すぐにハッとした。

 何か話さねば、また不審者扱いされて地域の防犯メールにさらされてしまう。


「えっと、いまから役所に連絡するけど。それ、キミの犬?」

「いえ、違います。かわいそうだったので」


 誰もが死んだ犬に哀れみをかけていたが、行動に移したのは彼女だけだった。

 妙にドキドキする胸を押さえて、名前を聞こうとしたのに彼女はぺこりと頭をさげた。


「ごめんなさい。遅刻しそうなので、あとはよろしくお願いします」

「おう、まかせとけ」


 俺だって遅刻しそうなのに、かわいい女子高校生に頼まれたら断れない。

 去っていく背中を眺めながら、これは運命の出会いだと確信した。

  

 それから毎日、俺は彼女の姿をさがした。

 雨の日も風の日も、もう一度会えると信じてさがしていたが、一向に出会えない。あきらめかけた頃、「すみません」とか細い声が耳に届いた。

 振り返ると、ずっとさがしていた彼女だった。


「キミは……」

「覚えててくれたんですか?」

「忘れるはずないって。ここで犬を」

「そうです! あのあと、どうなったのか知りたくて、お兄さんをずっとさがしていたんです」


 彼女も俺のことをさがしていた。それがあまりにも嬉しくて、ドクンと心臓が大きく跳ねあがる。

 やはりこれは運命の出会い。まずはお友だちになってから告白しよう。

 そう決めたのに、邪魔が入った。

 彼女の後ろから学生服の男が近づいて、俺たちをチラッと見て通り過ぎようとした。

 ありふれた黒髪の短髪で中肉中背。これといったかっこよさを感じない男だったが、彼女のつぶらな瞳が素早く反応したのだ。


「あ、菊池きくちくん。ほら、この人が役所に連絡してくれた、親切なお兄さん。ここでワンちゃんが横たわっていたから……、えっと、前に話したよね。覚えてるかな?」


 一生懸命、早口になって説明をしている姿は、「誤解しないで」と彼に訴えているようだった。

 男の方も興味なさそうに「へえー」と返事をしたくせに、警戒心をむき出しにして俺をジロジロ眺めてくる。

 おそらくこの二人は互いを気にしている。そこに割り込む余地は一ミリもなさそう。

 運命の出会いが突然なら、別れもまた突然……ってことだ。


「あのとき、犬を拾いあげたキミの勇気に感動したよ。それじゃ」


 泣きたい気持ちを抑えて、俺は潔く去っていく。

 おそらくもう二度と彼女には会わないだろう。

 でも、あの日に見た行動力と偉大なやさしさはきっと忘れない。

 彼女の勇気は、俺に深い感動を与えてくれた。

 もしどこかで「尊敬する人はいますか?」と聞かれたら、迷わず答えるだろう。


「名前も知らない彼女を、ひとりの人間として尊敬してます」と。


 そうだ、心から尊敬する人に出会えた。それだけでこの別れに意味がある。

 失恋なんかくそ食らえ!

 心が痛くても、俺は自分が立ち直れることを知っている。

 それでもいまだけは空を仰いで、ぼうっとにじむ雲を眺めていた。





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