豊玉楼【KAC2022】-⑦

久浩香

豊玉楼

 春休みとはいえ、小生のようなしがない学生が、身の丈に合わぬ、一泊につき5円はしようかというような御立派な『豊玉楼ほうぎょくろう』という旅館に連泊させて貰っているかといえば、ここが、宇佐見うさみ六郎ろくろう君の母上の御実家で、敷地内の、旅館の建物の玄関から広大な庭園を挟んだ真向かいにある、関係者以外立ち入り禁止の柵の向こう側には、宇佐見家の邸宅や、中居さん達の寮の他に、六郎君の療養所を兼ねた別棟があったからだ。


 六郎君と小生が出会ったのは、大学予科の図書館であった。

 友人と言うのは請われてなる類のものでは無いとは思うのだが、うずくまっていた彼を抱え上げ、医務室へ運んだのを切っ掛けに、“御礼”という名目で、一度は行ってみたいと憧れていたカフェーに入り、オムレツという、なんともフワフワした卵焼きと、話には聞いた事があり、想像以上に苦い味のした珈琲を御馳走になりながら、懇願されてしまったのだ。


 周囲では、エプロンという割烹着を着た女給や、くらくらする程良い香りをさせるモガ達が、それぞれのテーブルやカウンターの向こう側から、彼に熱視線を送っており、小生にしてみれば、確かに、顔の造形として美形であるとも思うが、同じ男として憐れに思う程に華奢な彼が、女性達にしてみれば、猫のマタタビであるらしく、この申し出を断って、彼を落胆させようものなら、彼女達から袋叩きに合うような殺気さえ感じたのだ。


 此の頃の六郎君は、立花氏という御者を兼ねた従者を連れていて、彼の父上の邸宅に住んでいた。彼が、実業家の阿曇あずみ和仁なぎひさ氏の御子息だと知った頃には、小生はもう、珈琲が噴き出しそうな程に苦いだけの飲み物でなくなっていたのと同じように、六郎君という人間の持つ、多彩且つ深い知識であるとか以上の…カリスマに魅了されていた。そして、同じ一年生でありはしたものの、彼は小生より一つ年上であったのは、残念な事に、やはり某かの病に侵されていたようで、期が始まる前に退学してしまっていた。


 立花氏が、小生の下宿を訪ねて来たのは、節分が過ぎた頃、かじかむ指を火鉢で炙るように温めながら試験にむけて勉強をしている時であった。六郎君の話し相手になって欲しい、という依頼であった。小生には、平常心で彼に対峙できる自信はなかったが、あの頃の様に彼と話し合いたいという願望があったのも確かだったので、試験の結果発表を待たず、豊玉楼へ向かった。


 到着してすぐは、別棟へ案内された。挨拶したのは、六郎君の母上と、彼の一番上の異母兄だという阿曇栄太郎えいたろう氏とだった。

 そういう事だろうと思ってはいたが、案の定、六郎君の母上は、和仁なぎひさ氏の妾であった。


 五十がらみであろう栄太郎えいたろう氏は、家庭の事情を滔々と話してくれた。


 和仁氏が、傾きかけた豊玉楼への融資の担保という形で、六郎君の母上を、女学校を中退させて、この別棟に囲った事。そうして生まれた六郎君には、そういう立場だという事を盾に、寝る間も与えぬ程に勉強させ、優秀である事を強いた事。彼が病を得てからは、役立たずの烙印を押し、六郎君の母上諸共見向きもしなくなった事など、和仁氏がいかに非情であるかを語る一方、返す刀で、母子がいかに不遇であったかを言い募った。

 そして、その可哀想な母子を擁護し始めたのだと、締めながら、つまり今は、栄太郎氏が六郎君の母上と男女の仲になっている事の言い訳を、聞かされたという訳だ。


 最も、その様な事は、二人の…特に、六郎君の母上の態度から、隠しようが無かったからだろう。


 六郎君の母上は、なるほど六郎君の母上だと思う程、彼によく似ていた。しかし、醸される空気感は全く違った。彼女を例えるなら、全く腹にたまった気のしなかったオムレツであった。望まぬ身の上に堕とされた女性の、唯一の心の拠り所であったであろう息子の心配をし過ぎて、どうしようも無くなった母親の成れの果てなのかもしれないが、四十近い女性でありながら、ふわふわと柔らかな温かさだけを残し、一人では立てない少女のような繊細な不安を、栄太郎氏に甘え、縋り、癒されている幻影が見える程の態度であったのだ。


 🔳


 六郎ろくろう君の通夜は満月だった。


 深夜、小生は、豊玉楼の庭園で、栄太郎氏の奥方であった梅子うめこ夫人と逢引をしていた。

  ── 小生は、彼女が人妻である事を知らなかったのだ。


 一昨日、梅子夫人は、“海神豊玉彦わたつみとよたまひこ”にあやかって『豊玉楼』の名のついたこの場所にちなみ、浪江なみえという偽名を名乗り、散策する小生に、ハンカチを拾わせて近づき、童貞だった私を猛らせ、その漲ったものを使った、女体の悦ばせ方を、どこもかもが柔らかく、適度な脂の乗った肉体でもって、指南してくれたのだ。


「何故?」

 と、尋ねた小生に、梅子夫人は、華開く梅の木に寄りかかって、にぃと唇の端を持ち上げて微笑んだ。


「ねぇ。貴方。貴方は、どこまで御存知なのかしら?」


 くっと首を上げた彼女の視線は、辛うじてオレンヂ色の灯りが漏れる、別棟の二階の窓に向けられていた。小生が、その視線を追って、体を捻って仰ぎ見る。


「今頃、栄太郎は、狂う程、泣き喚いていたあの女を慰めるのに、抱擁しているのでしょうね」

「…」


 なんとも恨みがましい口ぶりだった。小生は女の気持ちというものには疎いが、唯の男の不倫なら兎も角、成功した実業家の後継者の本妻ともなれば、夫が妾を囲おうと、ドンと構えているものではないのか、と思っていた。


「六郎は、栄太郎の子だったの」

「!」

 小生は、我が耳を疑って、目を見開き、捻っていた体を元に戻し、真っ直ぐに二階の窓を見つめる梅子夫人に向き直った。


「ざまあみろよね。これで、栄太郎の子供は、一人もいなくなったんだもの。本当に、唯一人の子供だったのに…」


 梅子夫人は、ククッと笑いながら、小生の体にしたように、花枝を掌の腹で撫で上げては下ろしつつ、指先を添わせたり絡めたりと、愛撫するように弄ぶ。六郎君の“死”を、『ざまあみろ』などと言う事にこそ、「けしからん」と、怒るべきであっただろうが、唾液を何度呑み込んで喉が渇き、言葉に見合った声を出せそうになかった。


「唯…一人?」


「そう…唯一の子供。私の子供達は、舅との間に生まれた子ですもの」


「はっ!?」


 夫人の言うには、丁度、某かの会で、豊玉楼を使うようになってから、夫婦生活が無くなったのだそうだ。忙しいのだと心配しつつ、半年も過ぎた頃、和仁なぎひさ氏が、夫人の上に乗っていたそうだ。


「トレードだ。トレード」

そう言って、二十代の夜を、和仁なぎひさ氏に汚され続け、二人の息子を産んだのだという。


 もちろん。世間的に、夫人の子供は、栄太郎氏の子供という事になっているが、もし、六郎君が、優秀な成績で大学を卒業し、和仁なぎひさ氏が亡くなれば、栄太郎氏は、某かの難癖をつけて、夫人の子供を廃嫡し、六郎君を後継者にした事だろうと、予測していた。

 六郎君に勉強を強要していたのは、和仁なぎひさ氏ではなく、栄太郎氏であった。確かに、夫人から聞いた話こそ事実なら、和仁氏には、そんな事を義務付けるような関心が、そもそも無かった。



「あの子には、死んでくれて感謝しているのよ」


梅子夫人は、花枝から指先を離し、襟合わせからハンカチを取り出して、口元を押さえた。見えるわけはないが、ハンカチには、夫人の唇の形のままの乾いた紅で汚れているのだろう。

夫人は小生に近づいてきて、そのハンカチで、小生の首から頬を拭う。


「あの子…貴方を好きだったのでしょう?」


口の中はもうカラカラになっていて、声も出ない。顎に吹きかかる夫人の息に酩酊する。夫人は、私の手にハンカチを持たせると、再び、梅の木に寄りかかる。

後ろ手に幹を抱けば、帯の厚み分、体がしなり、空を見上げる。

目を閉じる。


「どうぞ」


夫人が許したのは、小生がそうするであろう夫人の肉体に、六郎君の魂が入る事であったのかもしれないと思い至ったのは、下宿に帰ってからであった。


梅子夫人は、積もりに積もった暗澹たる怨みの苦悶する様を、特等席で眺めながら、妖しの笑みを浮かべ嗤っているのだろう。


小生は、夫人の唇の残るハンカチを、燃した。

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