隣に住んでた人が水槽に頭突っ込んで死んでた。
かさごさか
最近、隣の部屋が生臭い。
おそらく、それは一番古い記憶。小さな水族館の大きな水槽の中を自由自在に泳ぐ魚を見た。
まだ、恋も知らない子どもはその魚に釘付けであった。
たった一匹。
群れず、媚びず、踊るように水の中をゆらゆらり。
それのなんと美しいことか。
子どもは水槽の前に立ち尽くしていた。目を奪われた魚を見失わないように、目を見開き吸い寄せられるように歩を進めると冷たく透明な壁に鼻をぶつけてしまった。痛む鼻を手で覆いながら子どもは後ろに下がる。すると、掴むはずだった手はそこになく、子どもはそこで初めて両親とはぐれてしまったことに気づいた。振り返って辺りを見回す。恋人と、親子で、友達と、クラスごとに。様々なヒトの群れがぶつかり合っているものの両親の姿は見つからなかった。
何を思ったのか子どもはもう一度、水槽に目を戻した。やはり、あの魚が泳ぐ姿は美しい。
その後、暫くしてから両親が駆け寄って来て怒られた。大きな水槽の前から子どもは動いていないのに、どうやら両親の中で「迷子」となっていたようだ。
今でも覚えている。怒っていた両親の顔は忘れてしまったが、水槽の中の美しさはいつまでも残っている。
人は魚になれないのだと知った日はどんなに泣いたことか。
子どもはやがて大人になり、一人暮らしを始めた部屋で熱帯魚を数匹買い始めた。エンゼルフィッシュ、カージナルテトラにグッピーと色とりどりに水槽が鮮やかに染まった。その中で一番に気に入っていたのがメスのアルタムエンゼルフィッシュだ。縦に黒い線が並んでいたのが一際目を引いた。昔、水族館で目を奪われたあの魚に泳ぎが似ていたのだ。グッピーの群れに怯むことなく、勝手気ままに方向を変えて泳ぐエンゼルフィッシュを彼女と呼び、一日中眺めて過ごした日もあった。
そんな日々がいつまでも続けばいいと思った。
しかし、生きているからには終わりは必ず来るものである。
ある日、彼女は動かなくなっていた。見つけたときは寝ているのかと考えていた。そして、そのまま家を出た。帰ってきても彼女は動いていなかった。
生まれて初めて、血が逆流する感覚を味わった。
そっと網を沈ませ、彼女を掬い上げる。優雅に泳ぎ逃げることもなくあっさりと網に包まれた彼女はどこまでも気高い眼差しで水槽を後にした。
彼女の死がきっかけかは定かではないがその後、立て続けに水槽から魚が減っていった。新しい魚を追加する気になれず、とうとう水槽の中は空になった。それでも水は常に入っている。本当に空にしてしまったら彼女との思い出が消えてしまいそうで。水族館での記憶も失ってしまいそうになるのが怖かった。
無人となった水槽からモーターの音が響く。彼女はもう泳いでいない。この部屋にも誰もいない。時々、思い出したように水面が微かに揺れた。
人は魚にはなれない。
魚は人にはなれない。
彼女が居ない日々は光の届かない深海に等しい。引き上げてくれる者はいない。引き上げて欲しいとも思わない。
ただ、深く。
沈んでいく。
隣に住んでた人が水槽に頭突っ込んで死んでた。 かさごさか @kasago210
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