交通事故と警察官【KAC20227・出会いと別れ】

カイ.智水

交通事故と警察官

「雨が降ってきましたので皆さん、そこの交番までついてきてください」

 俺たちは女性警察官から場所を移動するように促された。

 といっても場所は交通事故現場から目と鼻の先である。

 大学の授業開始まではあとわずかしかないが、ここで拒否すれば俺の証言が役立たない。

「わかりました」

 自動車の運転手で老齢と思われる男性と、ベビーシートを備え付けた自転車に乗っていた中年女性、そして事故を間近で見ていた俺の三名は、女性警察官に従って交番へと移動する。

 衝突した自動車と自転車はその場に残され、本署の鑑識係と思しき人がチョークで路面に文字を書いていた。

 それを脇で見ながら交番に到着したら、さっそく警察官が奥のテーブルまで案内してくれた。

 お茶のひとつでも出してくれるのかと思ったが、それはなかった。まあ考えてみれば警察の備品はすべて税金でまかなわれているのだから、交通事故の当事者と目撃者に気軽に振る舞うなんて期待できないだろう。

「それでは皆さん席に着いてください。すぐに事故の話をお聞きしますので」


 そばの棚から書類を三枚取り出し、俺たちに配る。

「そこに皆さんのお名前と住所、連絡先をお書きください。それと証明するものをお持ちでしたらご提示願います」

「なんでこんなことをしなきゃならんのだ。わしゃなんも悪いことはしとらん」

「あなたが交通事故を起こした自動車の運転手で、たしか中田さんでしたね。あ、書類にご記入のままお答えください」

「わしゃ事故など起こしとらんわ。そこの自転車が勝手にわしの車に突っ込んできおったんじゃ」

「中田さん、運転免許証をご提示願えますか?」

 不満な様子ながらも、渋々ジャケットの内ポケットから財布を抜き出して、中から運転免許証を警察官に渡した。

「中田……晃秀さん。今七十八歳ですね。あら、ゴールド免許じゃないですか」

「当たり前じゃ。わしゃ安全運転の見本じゃぞ」

「なにをおっしゃいますの! 私が横断歩道を渡っているところに突っ込んできましたでしょう!」

 女性はひじょうにカリカリしていた。

 交通事故とはいっても、中田さんと女性に怪我はなく、彼女の自転車が無残に変形して、自動車のバンパーとヘッドライトが破損してしまっただけで済んでいる。

 物損事故ということになるが、どちらに非があるのかは当事者同士では埒が明かないだろう。


「自転車の女性の方、身分証はお持ちではないですか。健康保険証でもかまいませんが」

 こちらも渋々トートバッグから財布を取り出し、健康保険証を警察官に提示する。

「宅間……頼子さんですね。この住所ってここから近いですね」

「そうですわ。今日は買い物をしようと自転車でスーパーまで行く途中でしたの」

 警察官は書類になにやら控えて、それから健康保険証を彼女に返した。


「今回は幸い物損事故で済んでいますが、状況をお話しいただけますか?」

 中田さんが恨みがましく口を開いた。

「わしが自動車で交差点に来たから、しっかり停止線に従い、皆が渡り終わるのを待ってから車を発進させた。そうしたら、そこの女がわしの車に突っ込んできたんじゃ」

「なにを言いますの! 他にも歩行者がいて私が交差点を渡っているときに車を動かして私に突っ込んできたんじゃない! あやうく怪我をして病院行きだったかもしれないのよ!」

 今にもキーという声が聞こえんばかりの剣幕だ。

「じゃから、わしは人が切れるのをちゃんと見ていたわい」

「いいえ、まだ人がいるうちに交差点に突っ込んできました!」

 互いの主張が噛み合わないから、このふたりが面と向かって聴取を受けているといつまで経っても事実関係がわからなくなるだろうな。

 すると現場から帰ってきたのか、年配の男性警察官がやってきた。

「おい、落合。こっちは俺に任せて、お前は目撃者の聴取だけしていればいい」

「あ、はい、巡査部長」

 落合と呼ばれた女性警察官は、巡査部長に今まで書いていた書類を渡した。そして棚から新しい書類を取り出すと、俺を交番の入り口まで連れ出した。


「すみません。あなたのお時間はだいじょうぶですか?」

 スマートウォッチを覗いて、頭を掻いたる。

「どうやら今日の講義は受けそびれたみたいです」

「先にあなたの話を伺えばよかったですね。申し訳ございません」

 丁寧に謝罪されると悪い気はしないな。

「えっと、目撃者であるあなたの名前は……これ学生証ですね。畑中……ゆかさんで合っていますか?」

「あ、唯に夏と書いて“ゆいか”って読みます」

「ありがとうございます」

 書類に書き込んだのち、地域の地図を広げた。

「今回の事故がこの場所ですよね。畑中さんはどこから事故を見ていたのですか?」

「えっと、この地図でいうと、事故が起きたこの横断歩道の手前で、ファミリーレストランの前あたりですね」

 なるほど、と言いながら書類にペンを走らせている。

「では、事故について詳しく教えて下さい」

 俺の見た範囲で、ゆっくり状況を思い出しながら答えていった。



「ということは、いったん交差点上の人がいなくなったときに、自転車が交差点に進入し、そこに自動車が突っ込んでいった……ということですね」

「間違いありません」

「では、自動車側の過失になりますね」

「そうとも言えないかと」

 警察官が不思議そうに続きを促している。

「間違いなく、いったん横断歩道上の人はいなかったので、その時点での自動車の判断は正しかったと思います。でも自転車が急に渡り始めたので、自動車がとっさに止まれなかったように感じます」

「自転車が急に飛び出したんですか?」

「はい。だから双方に過失があったんだと思います。どちらもぶつかってからブレーキをかけていた音が聞こえてきましたので」

「思い込み事故って多いんですよね」


 落合さんは俺の調書を奥の巡査部長に渡しに行った。

 そこで簡単に内容を説明しているようだ。返答を聞いたのちこちらに戻ってきた。

「証言ありがとうございました。もしなにか他に思い出したことがございましたら、改めてこちらへお寄りください。それでは畑中さんはお帰りいただいてけっこうです」

 奥から男女が言い争う声が聞こえてくる。

「ファミリーレストランのそばですから防犯カメラに写っているかもしれませんね。対角にコンビニエンスストアもありましたし」

「あ、確かに。巡査部長に相談して早めに押さえますね。お気遣いありがとうございます」


 これまでの対応でピンときた。

「つかぬことを伺いますが、もしかして新米さんですか?」

「あ、はい。今年配属されたばかりですが」

 なるほど。だから事情聴取の手際が悪かったのか。

「あまり慣れないほうが社会としてはいいんでしょうけど、お仕事早く慣れるといいですね。ではこのへんで失礼致します」


 警察官は否応なしに慣らされてしまう職業だ。

 でも警察官が慣れないような平和な社会を守るために日々頑張ってくれているんだよな。

 あの落合って警察官も、そのうち慣れてしまうのかな。


 できれば彼女がこのまま慣れないことを期待してしまった。



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