二〇二二年・ライヴ

 二〇二〇年、二〇二一年、蓄えられたはずの知見がどうにも上手く使いこなせない世界は二〇二二年の初春も果てしないかに思われる戦いの中に在った。のみならず、鼻を衝く争いの臭いさえ漂いはじめた感もある。人間の世界というものは個々人がいかにまともであろうとしても、ほんの僅かな、一握りの権力者の暴走によって壊れてしまうものであったことに、誰もが絶望を催さずにはいられない、……はずなのだが、平気でそういう権力者の暴言に阿る人間の多いことよ。

 新規感染者数の激増した一月になって『緑の兎』は再び夜間の営業が出来なくなり、弁当の販売と、バーカウンターやテーブル席に中寉了が作ったオムライスやハンバーグを、蒔田皐醒と上之原承がサーブする、小さなレストランとしてランチタイムに稼ぐ店としての営業に始終しなければならなかった。華美で、猥雑で、時として下品さとも無縁ではいられなかった宿木橋界隈の夜の光景は再び懐かしいものとなってしまった。あの頃の時間が再び戻ることがあるのかどうか、……戻ってくれなければ困るのだけれど、皐醒にも誰にも判らなかった。

 そんな時期に、蒔田皐醒と中寉了は就職を決めた。

 共に、『緑の兎』の社員として正式な契約を交わしたのだ。

 このご時世、吹けば飛ぶような小さな店で社員を二人も雇うなんて、上之原承は気がふれたのかと思われても仕方ないところであったが、どのみち彼はバーテンダーしかできない。そしてもう自分が宿木橋で生きるしかないことに覚悟を決めていた。無論独断ではなく、オーナーと長いこと話し合った末に、「承の店の在り方が他の店の希望になったらいいよな」と承は背中を押された。

 この無愛想な「マスター」は相変わらず仕事として最低限のものを除けば滅多に笑顔を見せることはないが、それは俺が悪いのではないと思っている。隣に中寉が歩く世界が全面的にこの在り様を認めたなら、……自分たちだけではなく、皐醒と大月結人、そしてオーナーと彼のパートナーである蕭凱龍、のみならず、地球上に存在する全ての恋人たちを否定することを止められたなら、もう少しめでたい顔をしてやらんこともない、なんてことを思っている。何が多様性か。認められているのは差別を正当化する言説ばっかりじゃないか。

 しかし、承はこう見えて希望を捨てていない。この世界は本当はもっといいものだと思ってさえいる。だって中寉が、皐醒が、生きている。幸せになるべき人間が当たり前に幸せになれたのも、またこの世界なのだ。

「……大月くん」

 承が指差した、ノートパソコンのディスプレイに表示された数字を見て、大月結人が顔を引き攣らせた。

「……うあーマジすか……、マジか……、マジかよう……」

 頭を抱えてしゃがんだ大月結人の睾丸はあれから一度も痛まずに済んでいた。可愛い恋人に「可愛い」と言われる日々の中、インディーズシーンでいいところまで行っていた「ドアストッパーズ」は解散した。メンバーそれぞれに自分の生活を守らなければならない、でもいまだ自分の音楽の終着点に至ったとは思っていない、思いたくない男にとっては苦渋の決断であった。

 そこに、「一緒にやりませんか」と声を掛けたのが、彼の局所の痛みから救った恋人の親友であり「ショッキング・ピンク・ジン」のボーカルである中寉了だった。

 一緒にって、俺に「ピンク・ジン」に入れってこと? ボーカルは中寉くんだしギターは上之原さんがいるじゃん。

 実は「ピンク・ジン」も解散することになりましたので。マスターはお仕事が忙しくなりそうですし、ミツルさんにはご自分のバンドがあります。忍さんは旦那さんのお仕事の関係で韓国に移住することになりました。僕としては、せっかく音楽活動の楽しさがわかってきたところで、いま辞めてしまうのは勿体無いなと。

 中寉了は魅力的なボーカリストであると大月は思っていた。歌唱力の良し悪しで片付けることは出来ない。ちょっと異様な相貌の美しさもそうである、中性的な色香を惜しまず載せた声が、人の心を捉えて離さない。ボーカルとしても正直、俺より上なんじゃないかと、悔しさを感じることなく大月は認めている。

 僕と大月くんで、一緒に唄いましょう。でも、大月くんにはギターも弾いて頂きたいのです。大月くんのギターはとても格好いいと、皐醒が言っていました。

 大月は、一旦その話を持ち帰り、パートナーに相談した。皐醒が「いいじゃん。俺はゆいとの唄もギターもいっぱい聴きたいし、了と合わさったらもっといいものになると思うよ」と言ったので、結局中寉の提案を飲んだ。ギター一つとボーカル二つ、アンバランスだけれど、いい音楽になるかもしれない……、そんな曖昧な予感にだって縋りたい。

 まだ、音楽をやりたい。

 自分たちの音と大勢のオーディエンスの熱気が混じり合う日が再び来るかどうかは判らない、あるいは永遠に来ないのかもしれなくとも、ならばその日が来るまで永遠に唄い続けて生きていきたい。大月には夢を捨てることなど到底出来なかった。

「……なんすか二千ってぇ……」

 しゃがみこんで情けない声を上げた大月に、承は気の毒そうな視線を向けた。

「物好きも二千人集まれば、もう敬意を表して『普通の人々』って呼ばなきゃいけないかもしれないな」

「普通なわけがないじゃん! ……二千って、ねえ、上之原さんライブでそんな人集めること出来ると思います?」

「『ピンク・ジン』には夢のまた夢、その前にやってたバンドでも、ピークの時で百がせいぜい」

「『ドアスト』が一番良かった時だって三百っすわ。単独でハコ埋めた時!」

 承は炭酸水をちびりと飲んで、

「じゃあ、これからもっとでかくなっていくんじゃないの」

 と淡白な声で言った。

「結人くん、ミーティングをやりますよ」

 中寉の声に、「……あい」と大いに凹んだ声で大月が立ち上がった。

「あとマスターはあんまり結人くんを困らせないであげてください」

 中寉に咎められて、承は肩をすくめて振り返る。

 承の恋人は今夜も可愛かった。

 やっぱりどこか、鶴を思わせる。黒髪に白い肌、涙袋の目尻の赤み、もうすぐ二十三になるというのに、相変わらずあどけない顔、穢れを知り過ぎているがゆえにこそ、少しも曇っていないかに見える双眸。えらいものがずっと近くにいる。こんなに厄介な生き物もいないだろうと、承はいまだ、この幸せに慣れていない。

「トイレは行ったのか」

「もちろんです。でも、少しぐらいは緊張しているのですよ」

 後ろから両肩に手を置かれた。

「なので、勇気が欲しいです」

 承は応じなかった。

「無愛想な恋人の代わりに、優しい親友から貰ってもいいのですが」

 なんてことを言うのか。顔を傾けてやったら、ひんやりと嬉しそうな唇に重なった。

 一瞬、満悦の笑みを浮かべるところを承は見た。この笑顔を見て生きられるのなら、俺の人生はだいぶ恵まれたものだと承は思っている。

 もちろん、そんなことは決して口に出しはしないけれど。

「了くんミーティングすんじゃないの」

 大月に言われて、「では、マスター。あなたの恋人の晴れ舞台をどうか、とくとその冷淡なお目めに焼き付けてくださいね」とウインク付きで言い残して中寉が離れる。唇に残った余韻に左手の人差し指の背を当てながら、承はディスプレイに視線を戻した。「現在準備中です」とハートマーク付きで表示した画面の右下、視聴者数の数字は、先ほど大月が見た時よりも更に増えている。

 大月たちメンバーの待つ舞台袖に入って、彼らを見渡した中寉は、胸を押されたように漏れた自分の吐息がもう熱を帯び始めていることを自覚しないではいられなかった。

「みんな、とても可愛いです、とても綺麗です、夢のような光景です。自分の目は自分を見なくて済むように出来ているので、僕はみんなの中でいちばん得な立場にいると思っていいのでしょう」

 音楽をやろう、もっとやろう、もっともっとやろう。

 この世界をろくでもないものと思っている人たちを元気付ける力が、音楽にはあると思うのだ。音楽の力を借りたなら、無力な僕にもそれが可能なのではないかと思うのだ……。

 中寉はほとんどそう盲信していた。ちょっと冷静さを取り戻して見回せば、自分たちは確かにちょっと幸せなぐらいだけれど、世界ぜんたいで見ると不幸としか呼べない状況に変わりはない、いや寧ろ、時間が経てば経つほど「もうそろそろ何とか出来ないのですか、あなたたち高いお金貰ってるんでしょう、少しは真面目に世のため人のために働いてはいかがですか」と憤慨してしまうほど。しかし、だからこそ、僕は唄うのです。無力な僕でもでかい声で唄えば一人や二人ひょっとしたらたくさんの人のことを勇気付けることだって不可能ではないかもしれませんので。

 いや、不可能ではないどころか。

 あのプラスティックみたいに無愛想な人が好きで好きで仕方がないのだからだいぶ歪んでしまっている感も否めないのだが、目の前には本当に、この世の「可愛い」を結晶化したものが存在していると中寉は思った。先ほど「結人くん可愛いな」と大月単独でも思っていたのだが、今はもうちょっと手に負えない。

 それでも、悶絶してキャッキャするようなことを、中寉了という男はしない。

「では、一人ずつ。結人くんは、まさかとは思いますが緊張なんてしていないでしょうね?」

「……どうしてしねーと思うの」

「人前で唄うことなんて結人くんは慣れてるでしょうから」

「そりゃーね。っつーか今日は人もおらんしね。でも、このツラで唄うことにはこれっぽっちも慣れてないねぇ!」

 怒った顔も可愛いですよ、なんて余計なことを言いそうになった。もとより大月のことはそれほど心配していないのだ。どんな外見になっていようが本質が変わるわけでもない。いざライブが始まってしまえば、その声で人を魅了しないではいられないのが大月結人というボーカリストである。

 そして、心配要らないのはもう一人。

「ゆいと、大丈夫だよ、ゆいとは世界一可愛いもん、俺いますっごいドキドキしてるんだよ、画面の向こうで一体どれぐらいの人がゆいとのことオカズにするんだろうって」

「いねえよそんなものずき!」

「いたとしたらそのうち何人かはご自分を見てシコシコしていると思った方がよろしいと思いますよ、皐醒」

 蒔田皐醒は人生ではじめてのライブに参加する人間とは思えないぐらい落ち着いていた。

 彼のパートはキーボード。大月に「他にも良さそうなメンバーを見付けてしまったので、独断で誘ってしまったのですが」と前置きした上で彼自身の恋人を紹介した時の、大月の顔。それまでずうっと言いたくて言いたくてむずむずしていたという皐醒と中寉はぱちんと手のひらを叩き合わせた。皐醒はピアノが弾ける。鍵盤楽器を使いこなせる。

「皐醒は緊張していないのですね、僕は最初のライブのときは震えが止まらなかったのですが」

「んー、まあ……、してないことはないけど、独りじゃないから。ゆいとと一緒になんかするの好きだしさ」

 このドッキリというか、悪趣味な新メンバー顔合わせを行なったのは一月下旬の寒い寒い寒い朝、大月を呼び出した富緑駅前東口広場でのことだ。呼び出す時間を一人ずつずらしておいたので、中寉が待ち構えていたところにまず大月がやってきて、十分後に皐醒が着いた。

 そして遅れて来たのがもう一人。

「老師、大丈夫?」

 白い顔をほとんど青褪めさせて震えているのは、中寉は「奥さま」と呼ぶし、大月は「皐醒の友達の背の高いお姉さん」と認識していた、そして皐醒は相変わらず「老師」と呼ぶ人である。

 奥さま/お姉さん/老師は何も知らずに現れた時に、「みんな早いのだね」と美しい笑みで言ったのだ。それから中寉が承に借りたスーツケースを携えているのを見て目を丸くして、「今日は日帰りだと聞いたが」と言った。

「こちらが、僕らと音楽をやる最後のメンバーです」

 その言葉を皐醒が翻訳した時、彼は逃げ出そうとした。もっとも、そのとき既に、皐醒がしっかりと彼の腰を掴まえていたのだが。

 ボーカル二人、ギター、キーボード、そして横笛。中寉はまだ音楽に明るいとは言えなかったが、これが珍しい構成のバンドであることには自覚があった。果たしてこういうバンドが可能なのかどうかということについては、自身のパートナーに質問した。

「別に、どうでもいいんじゃないの」

 承はいつもの通り淡白であった。

「楽器の組み合わせだとか構成だとか……、そういうもんで価値が決まるもんでもないだろ」

 ならばよし。

「マスターは、そういう独特なメンバー構成のバンドの曲はお作りになれますか」

 承は頷かなかった。現状は趣味の延長線上である。どういう対応をされようがとやかく言う筋合いはない。

 前向きに動き始めた中寉、そして皐醒であって焦点は意中のメンバーである二人、大月と老師をどう捕らえるかという一点に絞られた。

 中寉には壮大なアイディアがあった。そして皐醒はそのアイディアを理想的だと評して全面的に協力してくれた。愛のあるアイディアである、と。

「奥さまは、練習の通り笛を吹いてくだされば結構です。興が乗って来たらどうぞご随意に舞を披露してくださっても結構です」

 皐醒が翻訳し、

「了の言う通りだよ。俺すごく嬉しいんだ、老師がいて了がいてゆいとがいて、みんなで一緒に、俺たちだけが幸せになるだけじゃなくて、観てる人も幸せに出来るかもしれないんだよ?」

 煌めく笑顔で自分の言葉を付け足した。

 彼はしゃがんで小さくなったまま、死にそうな顔で頷いた。

 ……富緑駅で待ち合わせた四人の男たちは電車に乗って湯汲山へ移動した。一説には野外露出プレイのメッカとなっているそうであるが、中寉と皐醒には全く別の目的があった。そこで、服を脱ぐことは脱ぐ、しかしすぐにまた着る。但し、中寉の用意した服を着るのだ。バンドの新しいメンバーとの顔合わせという言葉で呼び出された皐醒の恋人と、ハイキングに行きませんかという言葉で誘い出された「老師」は、

「では、着替えますよ」

 という中寉の声にまた揃って逃げ出そうとしたが、もちろん皐醒がしっかり捕まえておいてくれていた。

 中寉がスーツケースに入れて携行していたのは、四人で新しいバンド活動を行うにあたっての、言うなればステージ衣装である。

「君たちは本気で言っているのか。こんな、私なんて髪が長いだけでどこからどう見たって男ではないか。こんなものを私が着たら、どれほどグロテスクになることか!」

 大急ぎで翻訳した皐醒が、中寉の更なる言葉を待たずに何かを言った。老師は唖然とし、しばし黙りこくって、……やがて真っ赤になって顔を覆った。中寉には皐醒が何と言ったのかは判らない。ただ、これ以降奥さま/お姉さん/老師はすっかりおとなしくなった。皐醒に確認したが、現在に至るまでとりあえずはっきり判るレベルの文句は言っていないとのことである。とはいえ根幹には抵抗感があるのだろうし、初めてのライブであれば恐怖に慄いたって無理はない。

 なので、彼のための援軍を呼んである。

「へーえ……、なんだよつまんない、もっと笑えるもんだと思ってたのに」

 その声に、皐醒の老師が悲鳴を上げた。彼のパートナー、宿木橋の帝王であるところの金髪の青年が、ライブ会場の後方、PAブースから眺めていたのである。もちろん中寉と皐醒が招待した。承がパソコンの画面から顔を上げて振り返り、ぺこりと頭を下げる。

 承の側を通り過ぎた彼は、自身の恋人が小さくなって震えるさまをサディスティックな目で見下ろしてから、屈んで耳に、「超可愛いじゃん」と、他の三人のメンバーにもしっかり聴こえる声で言った。

「でも、お前がこの中で一番可愛いぞ、龍。……これは命令だ、今夜はその格好で部屋に」

「一番可愛いのはゆいとだよ」

 皐醒が余計な口を挟んだ。オーナーは気にした様子もなく立ち上がって笑った。

「それでもいいけどな。……お前らみんな可愛いよ、でもっていいにおいがする。全員揃って俺の相手させてもいいんだけど」

「げえ……」

 大月が思い切り顔を顰めた。

「オーナーには奥さまが一番可愛いのでしょう。僕らは引き立て役になるのは面白くありませんので、遠慮させて頂きます」

 中寉はにっこり微笑んで言った。

「そろそろ九時だ」

 承が言ってパソコンから立ち上がり、舞台を四地点から捉えるカメラを順に立ち上げる。このハコ、「ボックスボックス」のスタッフたちが、客席の照明を落とした。オーナーは正面から四人を捉えるカメラの三脚の足元に、どっかりとあぐらをかいた。





 深呼吸を一つ。

 顔を上げて、真っ直ぐに、中寉がカメラを見据えた。

「愛しい愛しい人間の皆さん、『ヴェル・デ・ラ・ビット』です、はじめまして、こんばんは、あるいはこんにちは、おはようございます。あなたの貴重なお時間を、僕たちのために割いて頂いたことに、まずは心からの感謝を。そして、あなたたちの時間を決して無駄にはしないとお約束を致します」

 中寉は静謐さそのものの表情を浮かべていた。意識的にか、それとも無意識のうちにか判らないが、胸に手を当てている。男の胸であるからぺったんこであって当然だが、どことなく幼女然として彼は居る。静かで確実な鼓動が言葉を紡いでいた。

 彼と二メートルほど隔てたところでマイクスタンドの前に立つ大月は不貞腐れたような顔でいた。皐醒はキーボードの前でニヤニヤしている。そして奥さま/お姉さん/老師であるところの「龍」は、この世の終わりを見ているみたいな死んだ目をしていた。

 しかし、四人ともとても可愛いのだ。

 揃いの制服、……ちょっと古風にも見える紺色のセーラー服に身を包んだ四人は男でも女でもそうではないものでもない。

「あー、……えー、今日は、俺たちの最初のライブのために、画面の向こうに集まってくれて、どーもありがとうございます」

 マイクに左手を当てて、斜に構えた大月は言う。

「俺たちは、……俺たちの、音楽をやります。面白くて、馬鹿みたいで、でも、あんたたちが震えるほどカッコいい音楽を、やります。どうぞ俺たちでイキ狂ってください」

「僕たちで孔だらけになってください。どうか、健やかにいられますように。それが無理なら、誰も不当な死を迎えずにいられますように」

 化粧は全員、ほぼ必要最低限のものに留めている。それでいて、四人とも滑稽さを纏うことはない。

 愛くるしいショートボブを明確な意図を持って振り乱して、バンドの産声をギターの弦に響かせる大月は、いまはもう、「ドアストッパーズの大月」ではない。全く新しいバンドのメンバーの一人としてそこに立っていた。しかして四人の中で一番真っ当に音楽活動をして来た男には落ち着きがあった。「可愛い」なんて言葉は自分には決して相応しくないと言い張りながらも、この声が届くなら何だっていいと開き直っている姿は、どんなに可愛く装っていたとしても彼が望み自覚する以上に格好いいものでしかありえない。それは皐醒が彼を見る視線からも明らかなことだ。

 皐醒は光の中にいた。四人のメンバーの中にあって、唯一自由に動くことができないのが彼である。なぜって、言うまでもなくキーボードがあるから。元より音数の少ないバンドであるから、音楽的には彼がいなくては成立しない。しかし、皐醒は間違いなく光の中にいた。

 偉大な光と一つになっていることを、心から誇らしく感じていることが、彼の相貌を眩く煌かせている。ギターを掻き鳴らし、その特徴的なハイトーン・ボイスを上げる大月が、これでいいかと彼を振り返る時、最大限の愛を湛えた顔で頷く。大月の輝きが一層強まる。練習の時には「久しぶりだからなぁどうかなぁ」と謙虚だったが、少なくとも基礎をしっかり身に付けていることは疑いのない指捌きから奏でられる音なくしては「ヴェル・デ・ラ・ビット」は成立し得ない。

 正面から見て右後方、あれだけ恥ずかしがっていたくせに、いざ演奏が始まると誰より一番激しく舞いながら透明な笛の音を響かせる中国人の「龍」は、身長が一番高い一方で、一番長い髪を有しているもので、結果として四人の中でもっとも女性的に見えていることに無自覚な様子だ。白く長い生足がちらちら閃く。時折、パンチラを披露することにもなっているのだがそれについて恥入るのは全て片付けた後でいいだろう。彼の笛の音は時に炎のようにステージを支配した。

 不健全ながら今日に関しては健康的な人間たちの音楽が響く。普遍的に存在する人間たちの音色が、日によって健康だったりそうでなかったりする者たちの元へ届く。風となって。風となって。眩い光のままに。きっと観ているはずだと承が想像していた通りに、靴和勇一郎と生江夕一郎から滴るほどの愛を塗されたハートマークが届く。画面の隅っこのそれに承は気付いた。あんたらのせいでウチのバカはブリーフ穿くようになったんだよ。今だって、あのスカートの中は白ブリだ、他の三人に女物のパンツ穿かせといて、勝手な奴。

 中寉と大月が背中合わせにシャウトを絡ませて遊んでいる。いっせーのせでジャンプして、ひらりと捲れかけたスカートを手で抑えつつ着地する。危うくブリーフがバレてしまうところであった。中寉は弾んでいるはずの鼓動が、どこかの誰かの心臓を動かす力になるのだと、無謀な夢を信じ切って笑う。内に秘めた無限大の愛嬌を惜しげもなく晒して、性的に。

 あぐらをかいて見上げていたオーナーの肩が、ビートに合わせて揺れていた。誇らしくって仕方ないだろう。あなたの街で、今夜奇跡が産まれた。

 承はいまこの瞬間も増えていくオーディエンスの数を視界の端に捉えながら、ひょっとしたらこれは何かの物語のプロローグなんじゃないのかと、密やかな興奮を催し始めていた。

 朧な月の浮かぶ夜に、曖昧な輪郭の予感を煽るために、さあ、もっと、……もっと!

 承は炭酸水を一口飲んで、気付けば笑顔になっていた。四人が世界を煽る、もっともっと、世界はいいものになる、そうでなければ嘘だろうと、淡白な男と評されることの多い承は、うっすらとした興奮を自覚する、

 だから、さあ。

 唄え、踊れ、叫べ。

 今を生きる、明日を生きる、性欲強めのウサギたちよ。

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どうしても病まなければ生きていけないのならば、生きている限りはどうかどうか、幸せに。 415.315.156 @yoiko_saiko_ichikoro

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