焼鳥に飲む~或る日の独酌に思う

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

豚バラ串を焼き鳥と言い張る九州人

 今回のテーマが「焼鳥」ということで、早速、コンビニでワンカップと焼鳥数本を買い込んで家に帰った。

 それにしても、カクヨムのキャラクターはトリさんでなかったかと思うが、このテーマを公表した際の自己献身というのは素晴らしい。

 ボイロキッチンを見てきたものとしては、この後の流れはトリさんが小説内で食われていくものになるだろうと思ってしまうのだが、カクヨムではそのようなことはないのだろうか。

 無ければ私が書くだけであるのだが、はてさて……。


 それにしても、某赤いコンビニで焼鳥が売られるようになったのがいつ頃であったかもう思い出せなくなってしまっている。

 登場したての頃は感動したものであるが、慣れてしまえば何かのついでに買うものとなってしまったが、このコロナ下では有難い。

 何分、私が仕事を終える頃にはまん防のために居酒屋が軒並み閉まっており、今回も資料なしで書き進めねばならなくなるところであった。

 へへっ、と一つ笑ってからワンカップを開けたが、少し零してしまう。

 呑兵衛として恥ずかしいことをしてしまったと反省しつつ、ちょいと口をつけた。


 それにしても、鳥肉を串に刺して焼くということを最初に思い付いたのは、いや、正しくは広めたのが誰なのかは気になるところだ。

 田楽や蒲焼の系譜を考えれば、炭火の遠赤外線を利用して焼いた方が炒めるよりも都合がよいことを研究か経験によって得たことになる。

 程よく脂が落ちることで旨味が凝縮され、さっぱりといただけるというのは日本酒をいただく上で悪くない。

 ただ、宮崎風の鳥の炭火焼きが串焼きでないことを考えると、よく見る串打ちされた焼き鳥はその他の地域において提供か調理に理があったということだろう。

 いずれにせよ、この晩酌の卓上というものは歴史という串に打たれたものでしかない。


 いくら格好をつけたところで、やっているのは酒を飲みながら焼き鳥を摘まむことである。

 歴史だなんだと言われたところで、その実は呑兵衛の戯言でしかない。

 しかし、それでいい、それがいい。

 男の独酌など、何の生産性もなく、何の価値があるものでもない。

 ただ、気ままに飲んで呟き、憂さを晴らすだけ。

 ならばより酒の沼に踏み込もうではないか。


 串焼きでない焼鳥といえば、そば屋の焼鳥が目に浮かぶ。

 中々当地でいただくことは叶わぬが、濃厚なかえしに裏打ちされた焼鳥は酒の伴によい。

 蕎麦味噌、焼き海苔の先に七味をぱらり。

 白磁の銚子からもたらされた米の恵みをいただけば、何も言えなくなる。


 そういえば、江戸蕎麦の知られた店で一杯手繰った際に、欧米の方が隣で蕎麦に悪戦苦闘されていた。

 汁が辛いと言っているのがなんとなく分かったために、野暮を承知で汁のつけ方などの能書きを垂れたのであるが、少しは箸が進んだようである。

 しかし、口に合う、食べ方に合うという意味では焼鳥を口にされた方がよかったのかもしれない。

 今にしてみればそう思うのであるが、流石にそれを伝えられるだけの言語力などなく、それこそ絵に描いた餅ならぬ絵に描いた鳥である。

 いずれにせよその刹那の出会いは愉しいものであった。


 酔いが良い感じで回ってきたのか、考えがまとまらなくなってきている。

 仕方がないので、少々お水をいただくことにしよう。

 ただこの水、少々甘く、仄かにいい香りがするのは気のせいだろうか。


 焼鳥といえば、飲み会ではよく下っ端が串盛りの串を外す役目を負わされる。

 よく焼いてあれば身が縮んで外しやすいのであるが、肉から旨味がほとばしるような一本であれば身離れが悪く、悪戦苦闘が避けられない。

 時に打ち上げ花火のように発射してしまい、卓上を荒らして怒られることもある。

 それが笑い話で済めばよいのだが、上役の逆鱗に触れればその後の時間は南極よりも冷たいものになるだろう。


 私がその場を仕切れる場合には、自ら串を外そうとするか好きな串を取って飲むように仕向けている。

 後輩を思っての行いと時に勘違いされるようだが、ただ私が好き勝手に飲んでいるに過ぎない。

 串から外す暇があるのであれば、先に酒をすすめたいと思うのは呑兵衛として可笑しな勘定であろうか。

 それよりも肝臓の求めに応じて、次々と胃の腑に酒を注ぐ方が余程自然ではないか。


 しかし、串を外すというしきたりの言いたいこともよく分かる。

 飲みの席で酒の肴は共有財産であり、それを串のままでは独り占めすることとなってしまう。

 狙っていた鶏皮が消え、獅子唐が消え、レバーが消えると皿の上の寂寥が骨身に染みるというものだ。

 少しでも共有しようという在り方は、より「平等」な在り方なのかもしれない。


 ただ「酒肴は出るに任せよ、酒は飲むに任せよ」が私の信条である。

 逃した酒肴との出会いもまた、二度とない瞬間なのである。

 「いつまでもあると思うな親と金」に鶏の串も加えた方がいいのかもしれない。

 そして、逃した時には「行く川の流れは絶えずして」などと高楊枝を決め込み、苦笑するぐらいが私にはちょうどいいのだろう。

 それもまた飲みの席という串のともである。


 さて、気付けば皿に並べた串も無くなっている。

 文章がこれまでに仕上げられなかった故、麻雀よろしく今日の私は「焼き鳥」となってしまった。

 いやはや、呑兵衛とは調子のよろしいもので。

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