フォトン・ど・人生論

ソンナノ宇宙

第1話 老子、孔子もいいけど、量子もね

 光は「粒であり波である」とは聞いていた。

 しかし、それは集まれば波のようになる、という意味だと思ってた。


 間違いだった。それなら水と同じで、多くの科学者が悩むことではなかった。


 光の粒子(フォトン)は、たった一個でも粒であり波なのだ。


 はぁ?


 一個の粒がアメーバーのようにウネウネする?


 違う!


 二重スリット実験で検索すれば山ほど出てくるので、詳しくはそちらを参照していただくとして、

 簡単に言えば、二つのスリットがある壁に向けて、一粒の光を発射すると、なんと同時に二つの穴を通過するのだ!


 科学者も最初は信じなかった。結果を見せられても心が納得しなかった。その瞬間を見せろ、ということになった。

 つまり、壁のスリットの前で一粒の光が分かれる瞬間を観察させろ、ということだ。


 観察すると、一粒の光は一粒のまま片方の穴を通過した。常識の通りであった。

 観察した科学者たちは、「そらみたことか」という下品なことはいわなかったが、胸をなで下ろした。


 ところが、どこにでも、粘着質の者はいて、観察者のいない状況で、もう一度、光を一粒発射した。

 すると、また一粒の光が同時に二つの穴を通過したのである。これが手品なら、ブーイングが出そうだが、科学者はその事実を受け入れた。


 光というものは、観察するとふるまいが変わる、ということを認めたのだ。


 これだけなら、光の粒子は、ケッタイなやっちゃ、という結論になるが、ヘンタイの科学者が、実験方法を変えた。

 光の粒が壁のスリットを通過する前のポイントでヨコから観察するのではなく、スリットのある壁の向こう側から観察したのである。なんでそんなことを試したのか?


 光の粒が壁を通過する前に観察すると、光は見られていることを察知して、分身の術をやらなくなるのではないか? という仮説を確かめたのだ。

 壁の向こう側から観察してやれば、光は観察されているとは気づかずに壁を通過するはずだ。気づかなければ、分身の術を使うはずだ……。


 結果は、ヨコから観察した時と同じことになった。

 やはり、観察すると、光の粒は二つにならなかったのだ。


 この実験は、しかし、単なるダメ押し実験ではなかった。ヘンタイがノーマルなことを考えるはずがない。


 どういうことか? 箇条書きする。


 1、壁に向けて光を一粒発射

 2、一粒の光が壁の二つのスリットに、同時に通過(分身の術)

 3、壁の向こう側で、観察する

 4、一粒の光は一つのまま一つの穴だけを通過する


 スリットのある壁が二枚あるわけではない。2、と4、は同じ壁であり、同じ時間の出来事だ。時系列で云うと3、が一番、後の出来事である。つまり、3、が、2、を4、に書き換えた。過去が書き換えられたのである。

 キツネにつままれたような話だが、それが科学者の出した結論だ。

 極小の世界では、過去は書き換え可能。どういう時に、書き換えルことが出来るかというと、観察した時だ。

 観察されていなかった過去は、いくつも存在する。壁に十のスリットがあれば、同じ瞬間に一粒の光が十になってスリットを通過する。しかし、観察すると、一粒の光は一粒のまま一つのスリットだけを通過する。それが極小世界の現実。


 当たり前だが、極小世界ではない我々の見えてる世界では、そのようなことは起こらない、とされている。くじ引きのくじの文言が、くじを引くまで白紙だということはない。

 したがって、量子力学の知見は、人間の過去に当てはまらない。人間の過去ほ変えることは不可能だとされる。


 しかし、ヘンタイになって考えれば、肉体と意識は別物だ。肉体が量子力学ではなく古典力学に支配されていようとも、意識はそうではない。重力が変化しても意識は変わらない。宇宙飛行士が無重力空間で変わってしまうことはない。

 しかし、誰にも思い当たることがあるはずだが、視線を感じると、意識は影響を受ける。意識は観察されると結構、変わる。


 ちなみに、これまで述べてきた実験での「観察」は厳密に言うと「認識」である。カメラをセルフタイマーにして撮影しても、光のふるまいは変わらない。ネコに観察させてもやはり変わらない。人間の認識だけが、光のふるまいを変える。


 さて、過去を変えることは可能か? という話だが、オレは、出来るのではないかと思う。ポイントは、忘れる、ということだ。

 覚えていることは、すでに自分の意識によって観察されていることなので、覚えている限り変わらない。しかし、一度、忘れてしまって、その後、思い出すのなら、忘れている間に過去が流動的になっている可能性がある。<ダルマさんが、こーろんだ!>というやつだ。忘れている間に、過去が動いていもおかしくはない。


 大失恋をした人なら、思い当たることがあると思う。思い出が、歳月とともに、あるいは、思い出すときの気分次第で、ずいぶんとニュアンスが変わってくる。普通は、解釈が変わると思っているが、事実経過も変わっている可能性がある。

 ただし、ノートに正確に記録しようと思わない方がいい。そんなことをすれば、たぶんつまらないカタチで固定化される。思い出すたびに、物語があらたに紡がれるということが起こらなくなる。


 この問題については、量子力学とは別に、意識が現実に影響を与えるということがすでに証明されている。乱数発生の調査だ。

 乱数というのは、サイコロをふるように無作為に数字を発生させることだが、たくさん繰り返せば、どの数字も同じ確率で出てくる。

 ところがである。大事件が起こると、少しの間、出てくる数字が偏るということがわかっているのだ。乱数を発生させるものは機械であり、誰かがサイコロを振るわけではない。したがって、人の意識が誰かの意識に影響したのではなく、人の意識が機械に作用したとしか考えられない。これが一台の機械ならともかく、世界で同時に起こるのだ。人の意識は、現実に影響を及ぼしている。


 なぜ、この話をはさんだかというと、その実験で示されたことはもう一つあって、それは大勢の人間が一つのことを考えた場合に、現実が変わるということだ。誰か一人が強く念じても世界は微動だにしない。個人の妄想では、今の現実も過去の歴史も変わることがないとされる。

 しかし、大勢の人が関わっていることならともかく、自分しか知らない過去のことであればどうか? おそらく自分一人の力で書き換わる可能性がある。

 恋愛であれば、二人の意識が一つになれば、破局したことも、破局していなかったことに変わりうる。たまたま別行動をしていたが、気持ちは一つだった、みたいなことが起こりえる。


 いかがだろう?


 そんなの普通の話じゃん。別にリョウシリキガクとかランスウとか持ち出さなくてねいいんじゃないの?


 そう突っ込みたくなった人もいるかもしれないので、最後に、それは違うという説明をしておく。

 量子力学のことを語ったのは、観察すると振る舞いが変わる、ということを云いたかったからである。しかも、変わるだけでなく、常識的なふるまいに変わる。それまで無限の可能性を秘めていたのに、一つのことしか出来なくなる。研究者はそれを「観察すると、収縮する」と表現する。要するに、観察されることに気づけば萎縮しやすいというわけだ。

 この話についてもそれが云えると思う。ありふれた話にしか聞こえないのは、冷ややかに観察しているからだ。相手がつまらないとか、世界がつまらないのではなく、観察するからつまらなくなるのだ。


 <人の振り見て我が振り直せ>ということわざがあるが、それは無難な人生を送るための極意だと思うが、そんなふうに生きれば、いちばん常識的な人生を送ることになる。


 おもしろい人生を生きたければ、

 <人の振りなんか見るな、人の目を気にするな!>がいいと思う。光の粒になって突き進もう! 




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フォトン・ど・人生論 ソンナノ宇宙 @ohana_see

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