むしゃぶり

高黄森哉

感染性精神病

 もう深夜で、車窓から見える景色は、墨塗りしたかのように覆い隠されています。塗りつぶされた漆黒に、琥珀の輝きが、ぽつりぽつりと灯っているのです。それは社会の光。または人々の営みの灯です。


 電車はトンネルに入り、景色はそこで遮断されました。自分の顔が透明に、外の暗闇の中を並走します。二十台をもうすぐお終いにする、私のくたびれた表情です。とても病んでいる。

 

 嫌になって、捻った身体を元に戻し、席に落ち着きます。すると自ずと、ソファーのような長い椅子が長方形の車内の両側に並んでいる、つまり電車内の風景が視界に入ります。深夜にも関わらず今日はやけに混んでいます。


 線路を転がる振動はこころまで這い上がってきます。絶え間ない運動のお陰で、いつまでもこのトンネルが続いても、退屈しなそうな気配がします。しかし、それは勘違いで、やがて退屈になった私は座席に腰掛ける顔ぶれを観察してみることにしました。


 正面の中年の男性。腕を組んだまま、身じろぎもせず、深い無意識の世界に引き込まれそうになっています。夢に精神が傾くと、くらっと反応して、正位に戻ります。夢と現実の往復を繰り返し、わが身を維持をする姿は、一般的な中年の生きざまを体現しているようでした。


 その横、中年の横を見て、面くらいます。女子大生が座っているのですが、一体全体こんな時間まで何をしていたのでしょうか。まあ、それは自分の過去を振り返ると大体想像がつきます。しかし、不可解な点が一つ。その女子高生は、一心不乱に、自分の人差し指を咥え続けているのです。眉毛の微動から、その行為に対し不快感を覚えているのが、ありありと見て取れるのですが、それが癖なのか、止められずにいるようです。


 その横は?

 その横はサラリーマンです。彼は若く、縁の太い眼鏡をしています。おでこには、頭髪後退の兆しが見えます。しかし、それよりも目を引くのは、指をくわえていることです。その女子大生と同じように!


 その横は? その横は? その横もその横も、やはり指をくわえています。気が付けば、私の隣もその隣も、指をくわえているのです。―――――― これは一体どういう事でしょう!?

 私は、電車の非常停止ボタンを押したくなりました。しかし、起こっている異常は、生命の危機ではないので、押すことは心理的にできません。しかし、一刻も早くこの電車から降りてしまいたい。私は次の駅で降り、そこからは、移動手段をタクシーに切り替えることを決定しました。


 私は彼等を観察します。いえ、そんなに冷静ではありませんでした。見てしまうのです。それがまるで、癖になってしまったかのように。隣の青年と、目が合いました。彼は、すまなそうな目線を私に送ります。そして、口から指を引き出すのです。


 じゅぷじゅぷとゆっくり、指が救出されます。


 私は絶句しました。指は骨に肉がまばらについた状態になり果てていたのです。もう機能しないことが、素人目に判断できる状態で。彼は、自己の指をしゃぶりつくし、ふやけさせ、こそぎ、崩してしまったのです。

 

 甲高いレールの音が収束し、電車が停止します。私は、かなりの時間、人間観察に集中していたようで、もう駅です。扉が開く排気音を聞き、矢も楯もたまらず飛び出しました。怖くてたまらなかったのです。ただ、ひたすらに。


 何が怖いか。これから彼らがどうなってしまうかが怖かった。あのままで放っておけば、彼等は、どうなってしまうのだろう。いくとこまで、いってしまうのだろうか。でも救急車や警察は、呼びたくなかった。関わるが怖かった。きっと誰かが彼らを発見してくれる。きっと、勇敢な誰かが。そうだ、私は被害者なのだから。


 そんなことを脳みそに羅列しながら階段を駆け上り、路上で手を挙げる。すると、タクシーが止まってくれました。運転手に、震える口で、自分の住所を伝えると、車がゆるりと発信する。


 後部座席の中で、震えが止まらなかった。彼らがどうなってしまうか考えずには居られなかった。私が連絡しなかったせいで手遅れになるのではないか。その引っかかりは、唾液のように、罪悪心に絡みつく。今からでも間に合うだろうか。



 ―――――― 嫌だ、私、関わりたくない。

 ―――――― 嗚呼、私、指をくわえ見てることしか出来なかった。



 二つ苦しんだその時、いつの間にか、口に伸びていた指から、どす黒くも赤い絡まりが飛び出して、口内でさっとほどけた。

 

 


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むしゃぶり 高黄森哉 @kamikawa2001

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