To the Spring

銀河

To the Spring

 公民館の3階に着いた。ここに来ると僕は真っ先に窓を開ける。窓のすぐ外には1本だけ植わっている桜の木がみえる。その蕾は今にも咲かんと膨らんでいた。指で弾けばもう咲いてしまいそうだ。

 僕はこの桜を心待ちにしているのだろうか。


 薄暗い空間の真ん中に、グランドピアノがぽつんと置かれている。公民館が開いている時は誰が弾いても良いことになっている。僕の大好きな場所。


 そっと鍵盤の蓋を開ける。右手の親指、中指、小指の3つを黒鍵こっけんに乗せ、優しく弾く。「あの時」と同じ美しい『Fis』の和音。ファとラとドの全てにシャープが付くこの音は、音の高さも相まって小鳥のさえずりのような響きだ。僕は椅子に腰掛けた。


 譜面台の楽譜は閉じたまま。先月あたりからもう開かなくてもよくなった。

グリーグ作曲、抒情的じょじょうてき小品集 第3集 第6曲『To the Spring』。

 日本では『春にす』などと訳されている。この曲を聴けばいつでもあの日々が鮮明に思い出される。

 僕は今日もここで、あの人が教えてくれたこの曲を弾く。

・・・次の誰かを待ちながら。



*****



 3月ももう中旬。昼間ともなると暑いほどで、楽器を背負う背中は汗ばんでいる。どこも桜が咲き始めている頃だろう。帰り道で見られるだろうか。



 僕は春が好きではない。

桜とか暖かいこととかは嫌いではない。それでも好きになれないのは、父の転勤で引っ越すことが多いからだ。今年もまた4年過ごした街を出てこの街に引っ越した。


 僕は新しい関係を作るのが得意ではない。

今日の新しいヴァイオリン教室も、退屈とまでは言わないがとても楽しいと思えるものではなかった。良くも悪くもレッスン。プロになるつもりなんて少しもない僕にとってはありがた迷惑だ。もっと楽しく弾きたい。ただただ楽しく。


 友達が出来にくい僕にとって、楽器を弾くことはどこでも変わらない唯一の楽しみだ。この街ではそれも満足に出来ないのかもしれない。

来月から編入する高校には弦楽器の部活がないから、あの教室でレッスンを受けるしかない。どちらにしろ3年生から入部する根性はないのだが。

 

 大きめの溜息をつく。

すると息に乗って目の前に白いものが舞った。


 桜だ。


 見上げると4階建ての古めの建物があり、その駐車場に1本だけ植わっている。

なかなか立派な木だ。満開には早いが、淡く色の着いた白い花弁がひとつまたひとつと僕に降ってくる。手のひらを出すと3枚乗っかった。

 

 いいものを見られた。この街にも良いところはありそうだ。今日のところは許すとしよう。


 再び歩み始めたその時、桜の方から美しい音が鳴った。思わず振り返る。

高く美しい和音の連続。鳥の鳴き声のようだ。或いは『桜の精』とすら思えた。


 これが建物の窓から聴こえるピアノの音だと気付いたのは、春らしい感じのする美しい旋律が始まってからだった。僕は建物の入口を探した。


 美しい音楽は続く。地に足の着いていない、ふわふわとした曲だ。どこか懐かしいような、暖かい音色。

入口を見つけた。ここは市立公民館のようだ。


 中は薄暗い。知らない街の初めての場所。少し不安になる。音楽は続く。

ただしその曲調は穏やかではなくなった。嵐を予感させるような重い旋律。先程より低い音が多くなっている。外の風が強くなった気がした。


 階段を見つけた。外から見た窓が何階か覚えていないが、音を頼りに駆け上がる。だんだんとピアノの音も大きくなってきた。己の鼓動から興奮を感じる。旋律も荒々しさを増す。


 再び冒頭の美しい旋律。ただし最初に聴いた和音はなく、アルペジオが彩る。3階に着いた。


 ピアノの前には若い女性が座っている。演奏は既に止まっていた。こちらを見ている。大学生くらいだろうか。彼女が柔らかく微笑みかけてくる。まるで僕が登ってくるのを待っていたかのようだ。

どんな人が弾いているのか少し覗いてみようと思っていただけなので、僕は少し慌ててしまった。


「あの、桜を見ていたら、ピアノが聴こえたので」

僕は窓の方を指した。彼女は頷く。


「君も楽器を弾くの?」

今度は向こうが僕のうしろを指す。


「はい、ヴァイオリン教室の帰りで」


「ヴァイオリンか!いいね」

先程の微笑みとは違い、目元から崩れるように笑った。なんだかとても嬉しそうだ。


「あの、さっきの曲、なんていう曲ですか?」

僕はピアノの前まで行ってたずねた。


「これね、グリーグ。グリーグの『To the Spring』って曲」

ピアノの上にあった楽譜をめくり、譜面台に乗せる。


「あ、Spring・・・。春っぽいなって思って。すごく良いなって」

思わず褒めてしまう。春自体は好きではないが口をついて出てしまった。


「ほんとう?嬉しい!」

また目元から笑う。


「この曲はね、ヴァイオリンとかチェロとかでも弾かれているよ。確か調は違うけど」


「そうなんですね、今度聴いてみます」


「弾いてみるじゃなくて?」

少し驚いたようにたずねられた。


「あ、そうですね・・・」

つい数分前までいたヴァイオリン教室が頭をぎる。


「じゃあ、ピアノで弾いてみる?ピアノは弾ける?」

彼女は椅子から立ち上がった。


「あ、僕はヴァイオリンしか・・・。多分楽譜読めないし、左手の低い方の」


「大丈夫!見て。この曲、最初の方は両手ともト音記号だから、ね!」

僕は勧められるがまま、ピアノの前に座った。きっと不格好だっただろう。ヴァイオリンを習い始めた時もまず座り方を習った。ピアノの作法はわからない。


「この曲、最初は右手が伴奏なの」

そう言って彼女は僕の後ろから鍵盤に手を伸ばした。長い黒髪が僕の肩にあたる。

 彼女は最初の和音を弾いた。桜から聴こえた音。『Fis』のようだ。何度目でも美しい音。僕の鼓動も共鳴する。


「どの音がどの鍵盤かわかる?」


「一応わかります。高さは、今のでわかりました」

先程彼女が乗せていたところに右手の三本の指を乗せる。微かに温かい…気がする。勇気を持って弾いてみる。同じ音。

強く弾きすぎたかと思ったが、存外ちょうど良く響いた。自分でも綺麗だと思える音だった。


「この和音をね、最初に10回弾くの」


 楽譜は読めるので聴き覚えのリズムで弾いてみる。

…なかなかうまくいかない。音のバランスが良くないし、毎回同じように弾けない。


「すごい!こんなにすぐ楽譜通り弾けるようになるんだね」


「難しい…ですね」


「そうだね。私はこの曲弾けるようになるまでに1年かかった」


「1年…とても難しい曲なのですね」

楽譜を見ただけではわからないが、きっと後から難しくなるのだろう。


「うーん、どうだろう。それはわからないな」

彼女は謙遜するでもなく、本当にわからないようだった。


「他の曲はもっと難しいってこと…ですか?」



「実は私ね…この曲しか弾けないの!」

彼女は楽譜を慈しむ様にみつめた後、切り出すように、そして少し誇らしげに言った。


「え!?そうなんですか…?」


「この曲がピアノで初めて弾いた曲。これ以外は弾いたことがないの」

彼女はとても楽しそうに言った。


「それに私、ここのピアノしか弾いたことないの。ここで弾き始めてこの曲だけ弾けるようになったの」


「そう…だったんですね」


これが彼女との出会いだった。




 春休みの2週間。僕は近くを通ってこの曲が聴こえる度に、ここで彼女の演奏を聴いたりピアノを教えてもらったりした。

時には僕がヴァイオリンでこの曲の旋律を弾いたりもしたが、彼女のピアノには敵わなかった。


 3月も明日で終わり。来週からはいよいよ新しい高校の3年生。そんな不安を抱えながら、今日も公民館へ来ていた。


「この間、隣の図書館でこの曲のヴァイオリンアレンジを聴いたのですが」

ピアノ椅子から立ち上がりながら僕が言った。


「やっぱりピアノが良いです。調が特に」

こんな好みの主張は、今のヴァイオリンの先生には勿論、前の先生にもしたことが無かった。新しい人付き合いが苦手な僕でも、彼女には心を開いていた。


「春っぽさが全然違います。この調じゃないと」


「そうね、春っぽさって言うとそうかも。ヴァイオリンのも綺麗だと思うけど」

彼女が言った。


「この曲って、春の暖かい感じだけじゃなくて、風が強い感じとか新しい環境への不安とかも描いていると思うんですよ。春ってやっと暖かくなった喜びの裏に、前向きになりきれない部分もあって余計に辛い季節でもあるし…。平和ボケした曲じゃないのがとても好きです」

僕は思うがまま語ってしまった。後から恥ずかしくなる。

それでも彼女は茶化さずに肯定してくれた。


「ほんとう、そうだね。感じていたことを全部言葉にしてもらえた感じ」

目元からの笑い。こちらもつられて笑顔になる。


「私の高校の頃の国語の先生がね、『高校生の青春は昔から美しく輝かしく描かれるけど、そんなの一面に過ぎなくて当人たちにとっては大部分が苦しい時期だよね』って言っていて」

僕が頷く。確かに楽しいだけではないですね、と僕。


「季節としてだけじゃなくて、心情とか人生的な意味でも春の曲って感じだよね」


「そう思います」

僕は舌の先まで『貴女は大学生なのですか、お名前伺ってもよろしいですか』と出かかったが、寸でのところで飲み込んで、心臓へと留めた。


「それにしても、君ってこんな饒舌だったんだね。驚いた」

また笑う。やっぱり少しからかわれてしまった。僕は耳まで真っ赤だったことだろう。


「私ね、」

彼女が切り出す。少し躊躇いがち。


「こういう話、前にもしたことがあるの。他の人と。1年くらい前だけどね」

少し驚きながら、そうだったんですね、と僕が返す。


「と言っても、その時は私が今の君みたいにこの曲の感想をその人に語っていたの」


「そこから1年間でこの曲を弾くようになったってことですか?」

僕は目を丸くしてたずねた。


「そう。だけど、弾けるようになったのは本当に最近のこと。窓を開けて弾いたのは君が初めて来てくれた日が最初だよ」


「窓を開けて…?」


「…ううん。何でもない」

彼女ははぐらかすように微笑んだ。


「貴女は…」

僕の内側から込み上がってくる。


「貴女は、その人にピアノを習ったのですか?」

結局僕の口はこんなことをきいていた。


「そうだよ。弾くどころか楽譜を読むのもやっとだったよ。でも君の場合は音楽にも詳しいし…」

そう言ってから彼女はまた言い淀み、黙った。

しばらくの沈黙が流れる。彼女の長い黒髪が窓からの風で揺れている。譜面台の上の楽譜が1ページめくれそうになる。彼女はホッと息をついた。


「なんか歯切れ悪くなっちゃってごめんね!私が言いたいことは1つだけなの」

彼女が続けた。


「私が大好きなこの曲を、思い出のこの曲を好きになってくれて、一緒に共有してくれて、私のピアノを聴きに来てくれて、嬉しかった。きっと私はこの日をずっと楽しみに待っていたの!本当にありがとう」

彼女は本当に嬉しそうだった。いつもの目元だ。けれど、少しだけ寂しそうでもあった。


「この楽譜ね、」

呆気にとられて何も言えないでいる僕を前に、彼女が続ける。


「最初に見たときは、この曲だけじゃなくて全部弾こうと思っていたの」

楽譜をめくりながら言った。


抒情じょじょう的小品集っていうくらいだからね、6曲あって、この曲は6曲目」

そうみたいですね、と僕。


「けど、結局これしか弾けなかったなぁ」

彼女は残念そうに笑った。


「今からでも弾けるじゃないですか」

僕にも察しはついた。懇願するように言った。


「ほら、1曲目からやってみましょうよ!僕、楽譜読むの早いですからお手伝いしますし、ヴァイオリンで伴奏とかだって…」

僕は声が詰まった。これ以上発したら、溢れる。いや、溢れて良いのではないか。そんな葛藤の中、少しの沈黙の後に、僕の口はまたいうことをきかなくなった。


「僕は…好きです」


「本当に、初めてここで聴いた時から…ずっと、いいなって」



「この曲……も」


「うん。嬉しい。何より嬉しい。君で、良かった」

彼女の目は光っていた。いつも通り目元を崩して笑いそうになるのを、彼女は我慢しているようだった。それは僕も同じだった。


彼女が楽譜を開いて言った。

「私ね、この曲の最後が一番好きなの。終わったと思わせてから、また静かに美しくアルペジオで終わるの」


「春は、こんな綺麗に終わらないのにね」

どこに行くのですか。どこへ行けば会えますか。なんで言ってくれなかったのですか。


「でも、ここのピアノで弾かれるこの曲に、終わりの春は来てほしくないな…」



 僕の春休みの音楽教室はここで終わった。その後、名前も知らない彼女の姿を見かけることはなかった。彼女が残した楽譜をここで眺める日が続いた。


*****


 この1年はあっという間だった。僕の高校3年生は受験勉強とピアノに費やされた。

 

 僕は今日もここで、この曲を弾く。窓を開けて。このピアノもあと何回弾けるだろうか。


 最初の和音の連続。右手が伴奏。やがて左手の旋律が始まる。旋律よりも高音の伴奏は、美しくもどこか地に足のつかない不安さを覚える。明るくも切ない旋律。

繰り返し。先程と同じようには弾かない。少し後ろに引っ張る。あの人の癖。


 ここからは不安が顕在化する。春の嵐を予感させる。風は強くなる。しかし和音は上昇形へ。そして…。


 天から降るようなアルペジオが旋律を包む。切なさと暖かさと、淡い春の中で一番濃い部分を映し出す。


 終わりのフレーズ。遠くで階段を駆け登る音がする。不安の雲が晴れる。少し寂しくもあるけれど、やっぱりあの桜を心待ちにしていたようだ。

 あの人の最後の言葉を思い出す。きっと、この曲の春は終わらない。来年からここでこの曲を弾くのはどんな人だろう。僕は階段の方を振り返る。あの人と同じ笑顔で。

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To the Spring 銀河 @andromeda184

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