「Me too」 ☆KAC20227☆

彩霞

「Me too」

 里穂は仕事が休みの日に、一人で近所の喫茶店に入った。昼時に近いということもあって、ほとんどの席が埋まっている。空いている場所を探していると、丁度窓側の席が空いたので、彼女は前の客と入れ替わるように席に着いた。この席は、外の通行人の様子を見ることができるので、一人でいても案外楽しい。

 だが、今日は外の様子よりも気になることがあった。

 里穂よりも先に喫茶店に入っていた、外国人たちだ。中国人や韓国人は同じアジア系だから分かりにくいが、欧米出身の人は顔立ちが違うので、すぐに外国人だと分かる。

 数年前まで、この辺りのショッピングセンターのアナウンスは日本語のみだったのに、最近では英語、中国語で訳されることは当たり前だ。日常の変化を感じると、いかに海を渡って日本という国に来ている人たちが多いのか、ということを実感する。

 里穂は頬杖を付き、窓の外に意識を向けているように装いながらも、耳は店の中を向いていた。聞こえて来るのは、少し離れたところの6人掛けの席に座っている、外国人グループの話声。聞いていると、どうやら英語ではなさそうだ。

(ドイツ語かな……?)

 そう思っていると、急に笑い声が聞こえて来た。何やら楽しそうな話をしているようである。

(楽しそうだなぁ……)

 里穂は思わず、外を見ながらくすっと笑った。

(いいなぁ。自分もその楽しそうな話を聞くことが出来たらいいのに)

 そう思うが、同時にあることを思い出す。

 大学生の頃に出会った、オーストリアの少女のことを――。


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 里穂が塾で講師の補助としてアルバイトをしていたときのことである。講師の雪のところへ一週間ホームステイをしに、オーストリアから学生がくることを知った。

「え? オーストリアからホームステイしに来るんですか?」

「そう。16歳だから里穂と年齢が近いじゃない? 折角だからどこかに連れて行ってあげてよ」

「え⁉ で、出来ますかね? 私、英語話せませんよ?」

 不安そうに聞くと、雪は明るい声で励ました。

「大丈夫、大丈夫! ジェスチャーでも案外何とかなるって。何でもチャレンジ!」

「チャレンジ……。じゃあ、やってみます」

 英語に自信があったわけではない。しかし、先生である雪が「大丈夫」だというので、里穂のたどたどしい英語でもなんとかなるのだろうと思った。また海を越えた先の世界へ憧れがあった彼女にとって、海外の人と触れ合えることは一つのチャンスなのであった。


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「お待たせしました」

 店員が里穂にアイスティを持って来てくれた。

「お好みでミルクと砂糖をどうぞ」

「ありがとう」

 彼女は容器に入ったミルクを手に取り、背の高いコップに入れ、くるくると付いて来たストローでかき混ぜた。

(でも、私は……何も分からなかったのよね……)


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 ショッピングをする約束をしたその日、里穂はホームステイ先の雪の家へ迎えに行った。雪に呼ばれて玄関先に出て来た少女は、プラチナブロンドの髪をしていて、よく見ると灰色に青い色が散りばめられたような瞳をしていた。

(外国人だ……)

 率直な感想だった。

 まるで物語のなかから飛び出してきたような少女が目の前にいる。それだけで里穂にとってワクワクする一つの要素となった。

「ナイス・チュー・ミー・チュー」

 雪を介してお互いが軽い挨拶をしたあと、里穂は手を差し出してみた。

「Nice to meet you too」

 すると少女は緊張した面持ちでありながらも、ちょっと笑顔を見せながら握手をしてくれたのである。

 手のひらにはびりびりと痺れるような感覚が走った。

 少女が海を渡って来た人、というだけで里穂にとってはとても特別なような気がして仕方がなかったのである。

 そのあと、雪と少しだけ話したあと、里穂は少女を連れてショッピングモールに向かった。ここを選んだのは、雪から少女が朝食に食べるための「パンケーキのもと」を買ってきて欲しいと言われたのと、ここだったら何か面白いものが見つかるのではないかと思ったからである。

 しかし、それは里穂に英語で話せる能力があった場合の話であって、彼女には英語で会話ができる能力がまるでなかった。そのため、ジェスチャーでなんとか面白さが伝えられたプリクラとかき氷には興味を持ってもらえたが、それ以外のところは全て素通りしてしまったのである。

 化粧品のコーナーだって、きっと上手く話すことができたら少女の気を引くことが出来たかもしれないし、たい焼き屋もたこ焼き屋も、ラーメン屋も日本の文化の一つなので、説明することができたら楽しかったはずである。

 しかし里穂は日本文化のことをよく知らなかった上に、ちっとも英語で説明することができなかったせいで、あまり楽しませることが出来なかったのだった。

 里穂は少女と二人でかき氷を食べているとき、たどたどしい英語で謝った。

「ソーリー……。アイ・スピーク・イングリッシュ・ア・リトル……」

(もう少し、英語が出来ていたならば、この子にこんな迷惑をかけなくて済んだのに……)

 里穂がそう思って落ち込んでいると、少女が「Me too」と言った。

「え、どういうこと……?」

 不思議そうな顔をしていた里穂に対し、少女は、

「I study English now but English difficult for me」

 と言った。だが、彼女はこれすらも聞き取れなくて、紙に書いてもらう。それでようやく意味がわかったのだった。


 ――私も英語を勉強していますが、難しいです。


 そして少女は、一言付け足した。


 ――オーストリアの公用語は、ドイツ語です。

 

 その瞬間、里穂は自分が持っていた偏見に気が付いた。

 欧米の人たちは全員、子どものときから英語を学んでいるのだとばかり思っていたが、そうではなかったのである。この少女も自分と同じで母国語を持ち、それとは別に英語を習っているのだと……。

 少女はじっと里穂を見た。灰色に青みがかった瞳は、優しくほほえんでいた。


 ――英語は私も分からないので、大丈夫です。


 まるでそう言っているような気がした。


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(英語は話せない、日本の文化も知らない。おまけにオーストリアのこともさっぱり知らなくて、あまり会話を楽しむことはできなかったな……)

 少女とは大して話をすることができずにさよならをしてしまった。

 また、今でもこのときのことは鮮明に覚えているのに、同じ時を過ごした少女の名前がさっぱり思い出せない。それくらいコミュニケーションを取るのに必死だったのかもしれないが、なんとも情けない話である。

 里穂はアイスティをストローで吸った。ミルクを入れたはずなのに、苦みを強く感じる。


 ――Me too.


 ――私も分からないので、勉強しています。


 少女の言葉を思い出す。

 あのときは、自分の情けなさを突き付けられたような気がしたが、今日はそんな感覚はなかった。あるのは、もう一度向き合ってみよう、という挑戦の気持ち。

(英語……がんばって勉強し直そうかな……)

 今、里穂は地域の情報誌を作成する仕事に就いている。それはこのときの経験が彼女を突き動かしていた。もしこの地域のことを知らな人が来たときに、何が魅力なのかを話すことが出来るようにするために。

 しかし、外国人の移住者が増えている今、英語も勉強してみたいと思った。本当はその言語だけでは不足だろうが、まずは一つ。英語を日常会話が出来るくらいまでやれるようになってみたいと、ふと思ったのである。

 あのときは出来なかったことだけれど、今度はできるかもしれない――。

 そう思った。

 里穂はアイスティを飲み干すと、軽快な足取りで店を出た。

 まずは本屋に行ってみよう。学生以来だが、英語のテキストを買って勉強しようと思ったのである。

 どこまでやれるかは分からない。

 だが、やってみなければそれも分からない。

 どうせ学生のころに一度挫折しているのだ。再びできなかったって、大した傷ではない。

 オーストリアの少女と出会った記憶は、蘇るたびに里穂を成長させていく。


 ――Me too.


 ――私も頑張っています。


 そんなメッセージが今日も里穂を励ますことだろう。


(完)

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