八十八歳看板ホスト、推して参る

鱗青

八十八歳看板ホスト、推して参る

 新宿、歌舞伎町。女の面子メンツと男の欲望、そこにロマンスをひと欠片かけら。今宵も街全体が狂熱の魔法をかけられたその片隅で、私は入口エントランス横にずらり並んだホスト達の化粧も整形もバッチリの宣材写真を一瞥いちべつすらせず、そのホストクラブに入った。

「フーちゃん!どしたの?いきなりウチに来るなんて」

 この黒服はたまに私のキャバクラに来る顔馴染み。河岸を変えたのヨ…と、私はファー付きのコートを放り投げる。

「そういや昨日、虎嶋とらじまの兄貴からLINE来たよ。なんかフーちゃんを探してるみたいだったけど」

 この辺りで幅をきかせる半グレの元彼の話など聞きたくもない。というか、イヤな事を忘れさせてくれる、ホストクラブってそういう場所でしょ?こういう勘働きが弱いから、アンタいつまでも下っ端なのよ。

「最近スッゲぇ新人が入ったんだよ。初来店だから特別にテーブル付けたげる!ツイてるよフーちゃん♬」

 期待などせず、座り心地の良いソファに足を組んだ。ここを選んだのは気紛れ。男にサーヴィスする仕事としつこい元彼から逃げる毎日の疲れを解消するには、逆に男からチヤホヤされるのが一番かもと考えたから。

「ご指名ありがとう。当店No. 1、帆流はんる静山セイザンです。気軽に静山と呼んで下され」

 私の唇から煙草ジャルムが零れ落ちる。

 和装に兵児帯を締めた歓喜天ガネーシャが、頬っぺたも落ちんばかりの福々しい笑顔で立っていたから。

 よく見たら人間か。ツルンとした禿頭とくとう、眠たげなまなじり、下膨れの顔に肥えた身体。半人半獣のインドの神様が人間に擬態したようなじい様は、ニコニコと私の隣に腰掛けた。

「早速じゃが一杯よろしいか?」

 図々しい!──けど、ま、仕方ない。私が頷くと、爺様は黒服になにやら指示をして湯気の立つ陶器のマグを持って来させた。

 なんだろう。濁った柘榴石ガーネット色の飲み物で、お酒というには不思議な香気を漂わせている。

ホットワイングリューワインわしおごりですじゃ、呑みなさい」

 言われるがままにうつわに唇を当てた。

 美味しい!

「良かった。娘さんの舌に合うかヒヤヒヤしたわい…洋行留学したみぎりに習うた現地の味に、儂なりの漢方レシピを加えた自家版オリィジナルでの」

 赤ワインと果物、それにスパイスが重厚に組み合わさるねっとりとまろやかな甘味が舌に広がる。アルコールとしてもしっかりしていながら、喉越しがしつこくない。

 私が感想を漏らすと爺様は心底ホッとした笑顔になった。明け透けで、笑うと目が細くなる大きな子供のような表情に、私の心は一瞬でほだされる。

「ストレス、不眠。それに冷え性に悩んでおろう?これを呑めば暫くは改善される。そういう調合にしておいたぞい」

 なんで解るの?と尋ねると、亀の甲より何とやらじゃと誤魔化された。うぬぬ、底が知れない。

 今年米寿を迎えたらしい。…という事は八十八歳!それにしても枯れた雰囲気を全くさせていない。背伸びせず、豊かな知識と剽軽な話術で程よくかき混ぜる会話。

 老いているけど、。不思議。生命力に溢れた古樹、という印象が強い。

「趣味?俳句を詠む事ぐらいかのう」

 これはピッタリ。

「ここで働くキッカケは碁会の女友達での、誕生日に贈り物がしたくての。年金はほら、国から支給された小遣いみたいなもんじゃろ?矢張り男は己で稼がんといかんと思うてな」

 そういう場所は爺婆が集まる仲良しクラブ、人間版枯山水だと思ってた。なんか可愛いな。

 途中、近いテーブルで外国人観光客と思しき女の子二人組が何やら興奮して騒ぎ出した。ちょいと失敬、と爺様は席を立つと黒服の間を割って二人と話し込む。片方が仏語フレンチを話しているのはなんとなく判った。一応、大学では仏文専攻だったし。

 戻ってきた爺様は帯に挟んでいた金属の扇子を取り出してハタハタと顔を冷ました。

「やぁ、瑞西スイッツランド白耳義ベルギィの学生さんじゃった。片方がアレルギィでツマミに卵成分の無い物を希望された。指示をしといたから大丈夫じゃろ。落ち着けば片言英語も出来るらしいしの」

 そこまで流暢に話せた事にも驚いたが、年齢的にアレルギーまで考慮できる事にも驚いた。

「これでも元空軍特攻隊、学鷲の出じゃ。英語も仏語も獨語も不自由はせんよ」

 頼もしく笑い飛ばす爺様の右の人差し指の内側に変なができている。いや、よく観察すると右手全体に結構な火傷の痕がある。

 なんで?左手とか全然綺麗なのに?

「儂は短気な癖に装填も下手くそでのぉ。そのツケじゃわいな」

 恥ずかしそうに禿頭を掻く。意味は分からなかった。気が付いたら私は最近のあれこれを打ち明けていた。危ない元彼にストーキングされている事も、その為に店で働いた後には友達の家やホテルを転々としていた事まで。

「大変だったの…どれ」

 帯に差していた扇子を広げて、何やらコースターを切る爺様。見当もつかず「?」な顔をしている私に…

「よっと!どうかな?」

 紙で切り抜かれた蝶を扇子で下から飛ばす。そしてそのまま空中にヒラヒラと遊ばせた。思わず拍手!

「うん。やはり綺麗な娘さんには笑顔が似合うの。可愛いらしいですぞ」

 私はすぐにトイレに立った。自分でもおかしいけれど、顔が真っ赤になってしまったから。

 勢いよく冷水で顔をすすぐ。心よ静まれ。あれは嘘だ。綺麗だとか可愛いなんてお為ごかし。八十八年も生きてこられたら、口から出任せも歯の浮くような世辞も自由自在に決まってる…

 ぱりっ、と背中に細い鞭を打たれたような感覚があった。

 世界が暗くなった。


 瞼が重い。体が動かない。呼吸が苦しい。

「フー、お早う」

 スタンガン。それに薬も使われたのか…宿酔ふつかよいみたいな頭痛と吐き気。猿轡をかまされて転がる私の目の前で壊れたベンチに腰掛けているのは…虎嶋。元彼だ。トレードマークのひしゃげた金属バットを刀のようにベルトに差している。

 ここは廃墟の中らしい。

 最悪…

「酷いよ。俺をてようとするなんて。これ以上逃げるなら、手足切るしかないかなぁ」

 そういうとこだよ!

 おまけに周りには手下が何人もいる。あそこから一瞬で気絶した私を拉致してきた柄の悪い男達が、ニヤニヤしながら見下ろしている。

ココロ入れ替えられそう?これからは素直になりますって俺に誓える?」

 手下が私の猿轡を外した瞬間、虎嶋に向けて唾を吐いてやった。

 平手ビンタが飛んできた。目がチカチカした。

 女に暴力。子供っぽい理屈。それがこの男の本性。それを見抜けなかった私にも落ち度があるとしても、黙って受け入れるいわれはない。

 お前のものになる?死んだってごめんよ!

「よう言った!」

 外の街灯だけが差し込んでいる暗がりの向こう、部屋の入口に太い影。

 爺様が、居た。

「あンだこの爺は。うぜぇな」

 虎嶋が面倒臭そうに顎をしゃくった。リーダーの号令に従い、手下達が襲い掛かる。メリケンサックを嵌めたいくつもの拳、骨を折らんとする蹴りの大安売りバーゲンセール

惚士道ホストとは──死ぬる覚悟で持て成すものなり!」

 推して参る‼︎

 凛とした張りのある腹声が響いた。爺様の肥満体が左右に揺れる。和装に草履のすり足で大人数の間を縫いながら、日本舞踊をするように流れる所作。

 それに触れるや男達は投げ飛ばされる。薙ぎ倒される。すっ転がされる。…多分、柔道ではなく合気道みたいな武術だろう。まるで檻から放たれた荒ぶるゴリラの群れを相手に優雅に舞っているようだ。

 叩きのめされ呻きを上げる彼等を背後に、最短距離で爺様は私の元へ到達した。じんわりとも汗をかかず呼吸も乱さず。そして、私への微笑みも絶やさずに。

 虎嶋が奇声を上げてバットを横様に振り抜いた。爺様の懐から抜かれた扇がそれを迎え撃つ。きぃん、と奥歯に響く音。

「みっともない。男を下げるだけじゃぞ」

「テメェみてえな爺に何が解んだよ‼︎俺は、マジにフーの事を──」

「敗れた恋の数だけ男は磨かれる。執着に飲まれ敗者に堕するは愚の骨頂…!」

 爺様が半身を捻り、腰の回転を合わせた力でバットを弾き飛ばした。私の元彼は、うぁぁ、と信じられないものを見た様子で痺れて震える両手と爺様を交互に眺めてから、やおら懐に手を突っ込んだ。

「くたばれ爺ッ」

 両手の指に握られていたのは拳銃。リボルバーなんかじゃない、海外の警察が使うような自動拳銃オートマチック

 しかし爺様の方が一瞬だけ早かった。虎嶋から赤ん坊の哺乳瓶を取り上げるように自然に力まず銃を奪う。

「悪い子にはお仕置きが必要じゃ」

 構え方が明らかに違う。顔付きも、福神のそれから冷徹な男──おとこの凄味ある表情に変わっている。

 爆竹が連続して爆ぜるような細かな連射音が廃墟に鳴り響いた。

「さ、娘さん。もう自由じゃぞ。肩を貸してあげるから家まで送ろう」

 爺様のホンワカする声と力強い腕を感じて立ち上がりつつ、恐る恐る目を開けた。口からダラリと舌を出し、白目を剥いた虎嶋の死体が大の字で床に…

 …あれ?生きてる?

 虎嶋の体の線ギリギリに沿うように、弾痕がぐるりと囲っている。…なんて射撃の腕…!

「戦争じゃないからの、これで勘弁してやるわい。二度とおかしな気は起こさんじゃろて」

 っちっち、と銃身を摘んで苦笑する爺様…静山に手を引かれ、表に出る。タクシーを捕まえる前に違法な武器は水の流れる側溝に捨てる如才の無さに、もう私は…

「さて娘さん。住居すまいは何区かの?」

 ──不二子、です。私は本名を告げた。

「ほ。良き名前じゃの。では不二子ちゃん。今晩の事は悪い夢と思って忘れなさい。良い子は帰って寝る時間…」

 私はかぶりを振る。

 静山の手を握った。熱くて、脈打っている…いや、それは私の方か。まさかこんなふうに緊張するなんて。

 私、悪い子だから。お仕置き…必要でしょ?

 ふむ、と静山は肉の余った顎をひねくり。

「儂も久々に血がたぎった。今晩は不二子ちゃんに鎮めてもらうとしようかの?」

 私は頷く。静山は目を細める。私の指に自分の皺の寄った指を絡め、静山は迷いなく行き先をホテルへと変更した。


 

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