喜寿も米寿も知らぬ顔

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

いずれ死ぬ 景色は見える

   今も尚 病魔がそこに 忍び寄る 喜寿も米寿も 知らぬ顔して


 私が今回のテーマを目にしてまず思い浮かんだのは、拙作「平和への祈り」の中で詠んだこの一首であった。

 それほどに「八十八歳」という言葉に対して思い浮かぶものは少ない。

 「齢七十、古来稀なり」などといわれる一方で、どうしてもこの辺りの年齢は中途半端な印象を受けてしまう。

 いや、平均寿命を超えての長生きなのだからそのようなことはないはずなのだが、この辺りで鬼籍に入った知り合いが少ないせいかここが何かの分水嶺のようにも思える。

 私の父は八十四で棺桶に入り、母方の祖父は確か九十三で彼岸に渡った。

 或いはここまで生きたらもう一息と気合が入るのかもしれない。


 先日、生命保険会社に転職した後輩から商品の説明を受ける機会があり、好奇心半分、ネタ半分の思いで臨んだ。

 そこで人生設計の話となったのであるが、六十歳で「死去」の二文字を書いた後輩の思いはいかばかりであったろうかと笑ってしまう。

 流石にそれは飲めなかったのか、生きたと仮定して話を進められてしまったのだが,どうやら私は更なる天邪鬼のようで生活保護をその辺りで受けようと言い出した。


 私に遊ばれた後輩の成長を願うばかりであるが、この時も年金の受け取りが八十五歳に設定されていたのは興味深い。

 単純に不利益が出ぬように設定しているのであれば、保険会社としてはその年齢を超える人間が多くはないと値踏みしているということになる。

 単純にキリがいいということだけであれば、六十五歳受け取り開始の八十歳満期でもいいはずである。

 それが七十を受け取り開始にするのは、年金受給開始年齢の引き上げを考慮したとしても、何らかの冷徹な計算の上にあるとの妄想も許されるのではなかろうか。

 少なくとも、報道人との肩書を利用して己が政治的主義主張を無理に拡散するよりは他愛もないお遊びである。


 話が逸れてしまった。

 ここで試みに、初めの短歌を詠んだ年から八十八年を遡ってみたのだが、ちょうどロシア革命が起きた年であったというのは何の悪戯であろうか。

 その国が「平和への祈り」を踏み躙り、隣国を蹂躙しようとしていることに対して私ができるのは、精々がこうして拙文で取り上げることぐらいである。

 募金などもその一つであるが、欧州らしい言い方をすれば「血の税」を納めているわけではない。

 戦争を決するのはあくまでも血と鉄の量であり、それが厳然たる事実であるからこそさる国の大統領は勝利を信じ、かの国の大統領は時に我々を糾弾するのだろう。


 それでも、私にできることは平和への思いを拙文に込めることでしかない。

 それが今年で「喜寿」を迎えるナガサキという町に生まれた、私の在り方である。

 果たしてこの町が米寿を迎えてなお、その祈りを通し続けられるのか、それを試されているような気がしてならない。


 またしても話が逸れてしまった。

 八十八歳を表す言葉として、既に繰り返し用いているが「米寿」という言葉がある。

 米という漢字を分けると八十八と書くことから付いたそうだが、いかにも我々に親しみのある米に老いて至るというのは面白い。

 加えて、漢字の都合もあるのだろうが七十七歳の喜寿に比べるといささか周りの感情的にも落ち着いてくるような印象がある。

 この後の白寿に至っては百歳から一を引いたものとはいえ、さらに周囲が落ち着いているような気がしないだろうか。

 よくよく考えてもみれば、この頃にはそれを祝う子供も喜寿を迎えていそうなものであり、お互いに祝われる存在となっている。

 昔であれば子や孫の方が先に鬼籍入りしている可能性も高く、残った方も残された方も一歩引いた目で見ていたのかもしれない。

 親子ともに高齢者という老々介護の現状と比べてどちらが良いのかという思いもあるが、それでも、まだ「祝うべきこと」としていた昔の方がいいのだろう。


 あまりに暗い話ばかりをしていては、この主題の元になった方に失礼となるため最後は希望のありそうな話でもしよう。

 個人的には喜寿という言葉も好きではあるが、米寿という言葉の方がより好きである。

 だからこそ拙作でも「古希も傘寿も」としなかったのであるが、それは個人的嗜好の表れでしかない。

 この理由は、日本人が米という漢字に持たせた自戒にある。


「米はお百姓さんが八十八もの手をかけ育てたものだから、粗末にしてはならない」


 それを長寿の祝いの名に用いるというのは、なんと豊かな在り方だろうか。

 歳を重ねれば重ねるほど、多くの人と関わり、多くの人の手を借りて生きていくこととなる。

 その先にあるものが長寿であり、現代でも平均寿命という分水嶺の先にある米寿はそれだけで尊いものとされるべきであろう。


 そして、それはまだそこに至らぬ者にも当てはまるのではないだろうか。

 捨て鉢に酒を飲み死期を早めようとしている在り方は、かけられた手への裏切りであるのかもしれない。

 今宵は少々控えるようにしようと考えながら、先日紹介された個人年金の資料を真面目に見るかと手に取るのはあまりに現金過ぎようか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喜寿も米寿も知らぬ顔 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ