失望の米を飲む
かさごさか
何も期待しないというのは案外難しい。
「中島さん、女の子なんだからもう少し愛想良くしたら?」
「すみません。以後、気をつけます」
そんなやり取りの側を通り過ぎて使われていない会議室へと身を滑り込ませる。すごいな。今時は同性同士でもあんなことを言われてしまうのか。いやはや、すごいな。
扉が閉まる音を背中で聞き、窓際に近づいたところで日差しが眩しくて数歩下がる。ポケットから取り出したスマホには不在着信の通知が一件、表示されていた。
二コール目で電話に出た相手は母であった。
「さっきの電話、どうしたの?」
『アンタお父さんの誕生日どうすんの。今年で米寿よぉ。帰ってくんの?』
「いや、忙しいから今年も帰れないかな」
『そう。大変なのねぇ。お父さんにもそう言っておくね』
そう言って母はすぐに通話を切った。聞きたいことの答えを得られたのでもう用はない、とばかりに一方的に通話を閉じるのは母の癖であった。
忙しいとは言っても実家には帰ろうと思えば帰れる。ただ、中間管理職という自分の立場が現住地から離れようとする足を重くしているだけで帰ろうと思えば帰れるのだ。
誰に向けてでもない言い訳を胸中でつらつらと述べながら会議室を出る。帰ろうと思えば、とは言いつつ実家に帰らなくなって今年で五年目であった。
両親は年の差婚だったようで、記憶の中で父はいつも周囲から「おじいさんですか?」と間違えられていた。自分は父が少し苦手であった。礼儀作法に厳しく、問題解決に他者の力を借りることを良しとしない。給食をおかわりした、と報告した日には説教されたのは未だに腑に落ちないままであった。
兎にも角にも、自己中心的であるにも関わらず母には好かれ、近所の人から頼りにされていた父が少し苦手であった。それでも母が悲しむので自分も父に懐いているフリをしていた。
その後、自分が学生だった頃に定年退職した父も今年で八八歳となる。自分が結婚してからも実家には定期的に帰っていた。それこそ両親の誕生日には息子達も連れ帰って盛大に祝っていたが、帰る度に父の言動の粗が目に付くようになってしまった。
昔、あんなにもご飯を残すなと言っていたのに今じゃ米粒をいくつも付けたまま茶碗を流しに持って行く。漢字の読み方ひとつ聞くだけで辞書を投げつけられたのに、孫には聞かれてもいないことを進んで教えに行っている。退職してから暇なのか、日に日にだらしなくなっているとも母が言っていた。
そんな父の姿を見る度に怒られないように従順になっていた過去の自分が馬鹿みたいで惨めのようで、・・・否定されたようで。
ある年、長男の高校受験を言い訳に帰るのをやめた。それから帰れないと返答し続けている。
今思えば、あれは失望だったのだろう。
席に戻り、弁当を開く。息子達に合わせた中身は揚げ物が多く、見るだけで胃もたれを起こしそうだった。冷えた白米を口に運びながらスマホで検索画面を開いた。
八八歳。米寿。どうせだし良い米でも送ろうか。いやそれは母が喜ぶだけだ。出てきた検索結果を軽くスクロールして画面を閉じた。
八八歳。そこまで自分は長生きをするつもりはないが、息子達も自分と同じように米寿祝いに来ることはないのだろうか。いやそれは期待するから、不安になるのだ。はじめから何も求めなければ平穏に過ごせることを自分は父から学んだだろう。
口内でかみ砕かれた米を茶で流す。健康志向の苦めの茶は失望を自覚した腹底によく染みた。
失望の米を飲む かさごさか @kasago210
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