88鍵の思い出
宵埜白猫
君の好きな曲
「なんだか柔らかな布団で包まれてるみたいで、とってもいい曲だと思うわ!」
初めて会った時、まだ14歳だった君がそんな不思議な感想を口にしたことを、あれから74年経った今でもはっきりと覚えている。
それは君が窓から僕の家に侵入してきたからでも、君がとびきり可愛い美少女だったからでもない。……両方否定はできないが。
こんなにもはっきりと覚えているのは、君が僕の演奏を聞いた最初の人だったからだ――
西暦20XX年、僕たちが14歳だった頃の話だ。
共働きの両親は、一緒にいる時間を取れないことを心苦しく思っていたのか、僕にいろいろな物をくれた。
スマホ、ゲーム、音楽プレイヤー、そしてピアノ。
両親の職場はよほどブラックなのか、休日でも日中に顔を合わせることはほとんど無い。
だからそんな週末には、ピアノを演奏するのだ。
誰に聞かせるわけでもなく、誰に強制されるでも無く。
動画投稿サイトのレッスン動画を見ながら、少しずつ。
そうしてようやく一曲通して演奏できるようになったのは、夏の終わりごろだった。
君に出会ったのは、ちょうどその一週間後の土曜日。
いつものように午後の演奏を楽しんでいた時だった。
僕以外誰もいるはずの無い家から、ピアノ以外の音がした。
しかもその音はかなり近い。
振り返ると、換気のために開けておいた窓から、小さな女の子が顔をのぞかせていた。
「はっ!?」
「ふぇ?」
僕が驚いて声を上げると、君は不思議そうに首を傾げた。
「なんで演奏をやめるの?」
「え?」
「だから演奏よ! 素敵な音じゃない! なんだか柔らかなお布団に包まれてるみたいで、とってもいい曲だと思うわ!」
目を輝かせながら言っているが、今の君は完全に不審者だよ……。
僕が固まっていると、君は小さくため息を吐いて、窓から部屋に侵入してきた。
一応靴は脱いでくれているあたり、ただの不審者では無いようだ。
「安心していいわよ。私はただあなたの曲が聞きたいだけだもの」
君はそんなことを言いながらずかずかと近づいてきて、ついにはピアノの前に置かれた長椅子――つまりは僕の隣に腰を下ろした。
「ほら、早く」
あんまり君が急かすから、なかば早く帰ってくれと思いながら、僕は演奏を始めた。
弾く曲は今の僕が最後まで弾ける唯一の曲、「月の光」。
君がよく分からない感想を言った曲だ。
静かでスローペースな序盤は、僕も気に入っている。
曲全体を通して静かな月夜を連想させるような、そんな綺麗な曲だ。
演奏が始まると、さっきまであれほど騒がしかった君が、嘘のように静かに静かになった。
ちゃんと僕の演奏を聞いてくれていることがなんだか嬉しかったし、そもそも誰かに演奏を聞かせるのが初めてだったから興奮していたのだろう。
「またあなたの演奏を聞きに来てもいい?」
演奏が終わって楽しそうに言う君の言葉に、僕は満面の笑みを返してしまった。
それから君は、ほんとにまた僕の演奏を聞きに来た。
秋が終わって冬になって、春が来ても、飽きずに同じ曲ばかりを演奏させるから、僕は「月の光」以外の曲を弾いたことが無いまま、高校生になった。
高校生になっても窓から入ってこようとするから、僕は君に玄関を教えた。
というか2回目からは玄関から入ってきて欲しかった……。
大学生になって、2年ほど経ったある日。
君が突然来なくなった。
正直、もう7年も同じ曲を聞いていたから、飽きたんだろうと思った。
もともと一人には慣れていたし、君さえいなければ寂しさなんて感じることもなかったんだ。
そう考えた瞬間、チクリと胸が痛んだ。
でも、やっと君がいなくなったんだから、僕も他の曲を自由に弾けると思った。
ショパンもバッハもチャイコフスキーも、好きなだけ弾けるって。
けれどどんな曲を練習してみても、君が隣に居ないだけで、どうにも空虚に感じた。
そんな日々が続いた、ある土曜日のことだった。
君からの手紙が、ポストに入っていた。
初めて会った時みたいに突然で混乱したけれど、今はとにかく君からの言葉が欲しかった。
何でもいいから、君と話をしたかった。
そう思いながら封を切る。
『親愛なる、名前も知らないあなたへ』
そんな書き出しを読んで、ふと僕たちがお互いについて何も知らなかった事に気付いた。
『これまで上手く抜け出していたのですが、ついにあの人達に捕まってしまいました。なので、これからしばらくは会いに行けそうにありません。突然こんなことになってごめんなさい。』
抜け出すだとか、捕まるだとか、そんな不穏なワードよりも、君に会えないという一文の方が辛い。
『追伸 それでももし、あなたから会いに来てくれるのなら、あなたの家のすぐ隣にある病院に来てください。
これをわざわざ追伸にして書いてくるところが君らしくて笑ってしまう。
そして、僕は初めて僕の方から、君に会いに行った。
お医者さんの話では、抜け出すことなく治療を受けていたら、5年前には完治している予定だったらしい。
それが少し悪化したため、ここ最近は会えなかったようだ。
僕は病院にあるピアノを借りて、君に久しぶりの「月の光」を聞かせた。
それからちゃんと治るまでは毎週僕が君に会いに来るという条件で、君は病院を抜け出さないことを約束してくれた。
――そんな67年前の出来事も、まるで昨日の事のようだ。
「あら、そんなことあったかしら?」
君が悪戯っぽく笑っているから、きっとまだ覚えているのだろう。
「ああ。少なくとも僕は、君との思い出は全部覚えているよ」
この鍵盤の数と同じ年になった今でも、はっきりと。
「ふふ。嬉しいわね」
そんな事を言いながら、君はあの日の様に僕の隣に腰を下ろす。
もう、急かす必要なんてない。
君に、君だけに、この音を届けよう。
宵の薄闇の中で、仄かな光を放つあの白を見上げながら。
僕はまた、「月の光」を弾き始めた。
88鍵の思い出 宵埜白猫 @shironeko98
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