おもいで食房
秋田柴子
第1話
「せっかく神戸まで来たのに、ステーキ食べずにハンバーグって。沙知も相変わらずねえ」
「んー……やっぱり変かな」
「別に変ってことはないけど。でもここ結構いいお店だし、せっかくの神戸牛ならハンバーグじゃなくてステーキにしたら?そっちの方が絶対いいと思うよ」
「――そうかな。じゃあ……」
「ヒレ?サーロイン?私は脂身少ない方がいいからヒレにするけど」
「そうだね、なら私もヒレで」
沙知がそう言うと、
正直に言えば、沙知はそこまでステーキが好きなわけではない。嫌いではないが、いかにも肉っ気のある味と食感にさほど魅力を感じないのだ。それよりはむしろ子供の頃から慣れ親しんだハンバーグの方がずっと好きだった。
お子ちゃま舌だ、という自覚はある。
実際上品な味付けの和食よりは、味のはっきりした洋食店の方がはるかに心惹かれるのは確かだ。だが倫香と出かけると大概は小洒落たフレンチかイタリアン、または落ち着いた和食の店と相場が決まっていた。しかも行く店のグレードから選ぶメニューまで、倫香のお眼鏡に適わないとやんわり“指導”が入る。倫香の「別にいいんだけど」は「そんなもの食べるの?」とほぼ同義だった。
「やっぱり神戸牛は美味しいよね。コクがあるけどしつこくないし。ねえ、だからステーキにしといて良かったでしょ?ハンバーグなんてどこでも食べられるし」
ステーキだってどこでも食べられるんだけど、という言葉を肉のかたまりと一緒に呑み込んだ沙知は、そうだねと曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
一泊二日の神戸旅行から帰ってきた沙知は、アパートの部屋に戻るなりぐったりとベッドに倒れこんだ。何だか最近倫香と出かけた後は妙に疲れてしまうのだ。決して楽しくないわけではないのだが、倫香の毅然とした自己主張を聞かされていると、だんだん自分の意見や考えに自信が持てなくなってくる。
元々倫香は会社の同期だった。
同期と言っても短大卒の沙知と四大を出た倫香では年が二つ違う。仕事ができて趣味もいい倫香は、沙知にとって半ば憧れのような存在だった。
だがどうも最近はその関係も、いささか軋みを感じるようになってきた。食事にせよ身につけるものにせよ、何かとご指導頂くのがどうにも窮屈で仕方ない。
「私がいつまでも子供っぽいからかなあ……」
旅行の後片づけもそこそこに、沙知はごろんと寝返りをうつと大きな溜息をついた。
そろそろ桜の花もほころびかけてきたある日、沙知は当てもなくぼんやりと街を歩いていた。
本来なら、今日は小さな隠れ家的レストランに行く予定だった。もちろん誘ってきたのは倫香だ。例によって彼女のおススメらしく、有機栽培の野菜を使ったヘルシー志向の洒落たカジュアルフレンチとの触れ込みだった。だがこれまで何度も似たような店に行ったものの、払う値段ほどの印象を受けたことがないというのが沙知の本音だった。
ところが待ち合わせぎりぎりになって、倫香から急用が入ったと連絡が来たのだ。ごめんね、今度埋め合わせするからという声にどことなく安堵してしまう自分を感じて、沙知はいささかもやもやとした気分だった。
既に待ち合わせ場所に来ていた沙知は、さてこれからどうしようかと考えた。
店は倫香がキャンセルしただろうから問題はないが、このまま帰るのも何だかつまらない。あまり土地勘のない場所ではあったが、暇に任せて沙知はぶらぶらと歩き始めた。確かに隠れ家と言ってもいいようなこぢんまりとした店がちょこちょこと目に入る。
そのうち沙知は、ふと一軒の店の前で足を止めた。店構えというより、その入口に置かれた看板が目に留まったのだ。
『おもいで食房 ――二十歳未満の方は入店をご遠慮下さい』
沙知は唖然として看板を見つめた。
店名もいささか風変わりだが、何よりも注意書きの方に目が吸い寄せられる。
二十歳未満は不可、つまり成人のみOKというからにはお酒が絡むのだろうか。いや今日び子供連れで夜の居酒屋に来る客も珍しくない時代、お酒を出す店だからと言って未成年不可にする必要もない。まさかすべての料理に酒が使われているわけでもあるまいに。そもそもが昼の時間にオープンしているではないか。
沙知がしげしげと看板を眺めていると、突然ドアが開いて中から一人の客が出てきた。その男性を見た途端、沙知は妙に違和感を覚えた。
何だかずいぶんと幸せそうな顔をしているのだ。
すると驚いたことに、その男性がドアを押さえて通路を空けた。沙知を店に入る客だと勘違いしたのだろう。
いえ私は、と言いかけたはずの沙知は、何故か気づいたら男性の脇をふらふらと通り過ぎて店の中に佇んでいた。がしゃんと音を立てて閉まったドアの音にびくりと飛び上がる。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?お好きなお席へどうぞ」
カウンターの奥から朗らかな声が飛んできた。この店の主人と思しき男性の弾けるような笑顔に気圧されるように、沙知はおずおずと隅のテーブルに着いた。フロア係の若い女性がすかさず水とメニューを持って来る。
「どうぞ、ゆっくり選んで下さい。決まりましたらお知らせ下さいね」
ゆっくり選ぶ?接客にしては妙な言葉だと訝りながら、薄いメニューを開いた沙知はぎょっとした。
≪あの頃のときめきをもう一度!大人のためのお子様ランチ≫
――お子様ランチ!?
そう言えば入る時に何の店か確認するのを忘れたことを、沙知は今更ながらに思い出した。店の中から溢れるように流れてきた食欲をそそる匂いと、さっきの男性客の幸せそうな顔につられて、ついふらふらと足を踏み入れてしまったのだ。
メニューを手にしたまま沙知が固まっていると、再びさっきの店員が寄ってきた。
「当店は初めてですか?じゃあご説明しますね。ここは大人の方に懐かしいお子様ランチを食べて頂くためのお店です。ただ普通のお子様ランチと違って、すべて自分で選ぶことができます」
「選ぶ?」
店員は頷いた。
「はい、お好きなものをお好きな組み合わせで、何種類でも頼んで頂けます」
よくよく見ると、ずらりと並んだメニューはすべて200円とか300円程度だ。つまり頼んだ品数に応じて、金額がスライドするということだろう。
「特に組み合わせの制限はありません。お肉ばっかりもよし、デザートを入れる入れないも自由です」
なるほど、ゆっくり選べとはこういうことか、と沙知は改めてメニューに目を走らせた。
メインにはハンバーグ・唐揚げ・エビフライなど、いかにもお子様ランチにありそうなメニューが並ぶ。ナポリタンやチキンライスは鉄板中の鉄板だ。だがそれ以外にもチャーハンや五目ごはんがあるのが面白い。サラダやおひたしなどの野菜メニューが豊富なところも、確かに大人向けと言えそうだ。だが気取った料理はひとつもなく、子供でも喜んで食べそうなものばかりだった。
まさかこんな店とは知らずに入った沙知だが、いざメニューを前にしてみるとどことなく浮き浮きした気分になってきた。好きなものをいくつでも選べるというのは、何と楽しいことだろう!
「あと、こちらが定番メニューとなっております。当店で注文された品を店長が独自に集計して6種類セレクトしたものです。言わば人気メニューのトップ6ですね」
さっきとは別のラミネートされたメニューを渡された沙知は、驚いて目を見張った。
≪当店人気№1!嬉しさ満載の究極オトナお子様ランチ≫
「チキンライス・ハンバーグ・カニクリームコロッケ・ポテトサラダ・ソーセージ・プリン……判る!確かに“the・お子様ランチ”って感じがする!」
弾んだ沙知の声に店員も笑った。
「好みは人それぞれだけど、やっぱり根強い人気を誇るものがありまして。それを集めたのがこの“究極ランチ”です。初めての方はまずここから始めてみるのも良し、これをベースにカスタムするのも良し。いかがでしょうか」
大人向けの店でも二種類のメインを揃えたコンボメニューはあるが、ここまでずらりと好物を並べられると、子供でなくとも確かにテンションは上がるだろう。
悩んだ末に、沙知はその「究極ランチ」をそのまま頼んでみることにした。さすがに過去のオーダーの統計から生まれただけあって、沙知にとっては充分過ぎるぐらい魅力のある組み合わせだった。
料理が来るのを待つ間、沙知はぐるりと店内を見渡した。それほど広い店ではない。4人がけのテーブルが全部で10席ちょっと、というぐらいだ。二十歳未満は入店不可だけあって、お子様ランチ専門の店にも拘わらず子供の姿はまったくない。いや二十歳どころか、客層はずいぶん高めだった。しかもそのほとんどが一人客だ。
「お待たせしました!『嬉しさ満載の究極オトナお子様ランチ』です」
朗らかな声に我に返った沙知は、慌てて視線を自分のテーブルに戻した。同時に驚きとも溜息ともつかない声が漏れる。
「うわあ……!」
どっしりとした濃いブルーの皿にこんもりと盛られた色鮮やかなチキンライスを目にした途端、沙知の心は瞬時に子供の頃へとリープした。
あの頃のお子様ランチと言えば、チキンライスにぷすりと突き立った国旗がまずお約束だったものだ。そのお決まりの旗こそないものの、ふわりと香るバターがライスをつやりと輝かせ、ごろごろと惜しみなく入っているチキンと共に圧倒的な存在感を放っていた。
知らぬ間に手にしていたスプーンで思わずひとくち掬い、口に運ぶ。
「んーー……!」
パサついたケチャップライスを型抜きしたものとは全く違う。子供の頃の舌の記憶を遥かに裏切るケチャップとバターが織りなす味に、沙知の幸福度は早くも臨界点に近づきつつあった。
勢いに任せてそのままかき込みそうになった沙知は、はたと気づいた。奇跡のようなチキンライスの横に、フライパンから下ろされたばかりの熱々のハンバーグがでんと構えている。大のハンバーグ好きの沙知としては、ここで手をつけないわけにはいかない。
はやる心と共に箸の先で割ったハンバーグから、ほわっと熱い湯気が上がった。これは本当の焼き立てだ。ひき肉の旨味が詰まった肉汁が、じゅわりと口の中いっぱいにあふれ出る。専門店も顔負けのレベルに、たかがお子様ランチと高を括っていた沙知は舌を巻いた。
チキンライス、ハンバーグという強烈な幸せのパンチをくらった沙知は、少し舌を落ち着かせようとポテトサラダを口に運んだ。これがまた大失敗だった。
「ポテサラ……ポテサラって……!」
後に続く言葉を呑み込んで、沙知は呆然と皿を見つめた。
しっかり水気を切った胡瓜に、粗びきの黒胡椒をまぶしてカリッと炙ったベーコン。微かに塩気のきいた玉ねぎがところどころに忍び込み、絶妙な隠し味となって舌に絡む。だがベースになるポテトが何より違う。甘いのだ。と言っても砂糖の甘さではない。じゃがいも本来のしっとりした甘さがいかんなく引き出され、ところどころに荒いポテトの粒が更に旨味に拍車をかける。ものすごく手をかけて作られていることは、沙知のような料理オンチでも充分に判った。
大人のためのお子様ランチ、というメニューの言葉が頭に浮かび上がる。
まさにそのとおりだった。お子様ランチを謳いながらも子供騙しの内容ではない。どれもそれぞれの専門店に引けを取らないぐらいのレベルだ。
「じゃあ次はクリームコロッケ、いっちゃおうかな!」
もはや気分は10歳並みのテンションだった。
こんがりとキツネ色に揚げ上がったクリームコロッケに箸を入れると、粗びきのパン粉がざくりと音を立てて割れる。ぼってりとしたホワイトソースから仄かに湯気が踊った。少し時間が経ったというのに、まだ中身は熱々のようだ。電子レンジで温めた冷凍モノでは、こうはいかない。沙知は恐る恐るコロッケを口に運んだ。
「あっつ!!」
予想して食べても舌を火傷するような熱さに、思わず口をはふはふさせる。カニの風味がふんだんに溶け込んだホワイトソースの旨味が舌を満遍なく包み込む。
“ホワイトソースじゃなくてベシャメルソースだってば”という倫香の指摘が頭に浮かんで思わず苦笑した。名前なんてどちらだっていいではないか。美味しいものは美味しいのだ。
クリームコロッケの余韻を味わいながら、沙知はぷりぷりとしたソーセージにフォークを立てた。ソーセージと言ってもお子様ランチ定番のタコさんウィンナーではなく、ドイツのビアホールで出てくるような堂々たるブルストが歯の間で小気味いい音を立てた瞬間、ぷちりと脂が飛んで思わず冷や汗をかく。いくら美味しくても服に油ジミができるのはごめんだ。
目の前の皿の中がすべて好きなものばかりというのは、こんなに幸せなものだったのかと沙知は改めて感じ入った。
倫香と行く食事に、沙知がいつも疲れを覚える理由が今更ながらよく判る。お洒落な食事が悪いわけではない。ただ自分には合っていないだけだ。絶え間なく聞かされる食材の産地に頷いたり、彼女が口を極めて絶賛する長いカタカナのソースを判ったようなふりをして同意したところで、美味しさが増すわけではないことを沙知はようやく理解した。
あっという間に幸せのメニューを食べ尽くし、デザートのプリンを名残惜し気にちびちびとすくっていると、驚いたことにシェフが沙知のテーブルにやって来た。
「本日はようこそいらっしゃいました。料理はお口に合いましたでしょうか?」
まるで高級レストランのような扱いに、沙知は目を白黒させながら慌てて口の中のプリンを飲み下した。
「あ、はい。あの初めて来たんですけど、すっごく美味しくてびっくりしました」
シェフは嬉しそうに笑みを浮かべて、残りのプリンを食べるよう身振りで沙知に促した。
「お食事中に申し訳ございません。失礼ですが厨房から拝見しておりましたら、それはもう美味しそうに召し上がって下さるものですから、つい僕も嬉しくなってしまいまして。それでご挨拶に伺った次第です」
沙知はスプーンを手にしたまま、顔を赤らめてうつむいた。厨房からも判るほど自分はがっついていたのだろうか。
「――ごちそうさまでした」
プリンの最後のひとくちを食べ終えた沙知は、スプーンを置いて手を合わせた。シェフも応えるように深々と頭を下げる。
「本当に美味しかったです。実は友達にドタキャンされて、それで偶然このお店の前を通りかかったんですけど……でもこっちの方がずっと良かった。その子と行くお店はどうも自分には合わないみたいで。何かこう肩が凝るっていうか」
シェフは判ります、というように微笑んだ。
「かと言ってファミレスは味気ない、という時もありますしね。何でもあって便利には違いないのですが」
沙知は首がもげるぐらいにぶんぶんと頷いた。
「そう!そうなんです。一人でふらっと入れて、気楽に美味しいごはんが食べられるお店って意外に少ないんです」
シェフのにこやかな笑顔につられるように、沙知は思い切って聞いてみることにした。
「でもどうしてここはお子様ランチなんですか?普通にハンバーグとかクリームコロッケの単品メニューじゃなくて」
「だってその方が楽しくありませんか?」
「楽しい?」
シェフはニヤリと笑った。
「覚えがありませんか?お気に入りの店に来たのはいいものの、たまには違うものが食べてみたいけど、さりとていつもの一品を食べないのも惜しい。メニューを見ていろいろ目移りした挙句、結局頼むのはいつも同じもの、というような」
沙知はぎくりとして首をすくめた。それはまさに沙知のお決まりパターンだったからだ。またそれ食べるの?と何度倫香に皮肉を言われたことか。
「当店のお子様ランチならそれがすべて叶います。何しろ一回で好きなものが全部食べられるんですから」
シェフの言葉に沙知は深く納得した。
ひとくちでいえばお子様ランチは“ぎっしり感”が違うのだ。
大人のコンボメニューはお得感を打ち出しつつも、お洒落なバランス感は損なわれていない。メインはメイン、付け合わせは付け合わせというような、言わば縄張りに似た線引きがはっきり成されている。
だがお子様ランチは違う。メインもライスもサラダも、デザートまでがすべて主役なのだ。そして一つのプレートにぎっしりと相乗りして、楽しげなわちゃわちゃ感を醸し出すそれこそが、お子様ランチの真骨頂なのだ。しかもそのひとつひとつを自分で好きなように選べるとしたら……。そう考えただけで心が躍るのは当然だった。
「――お子様ランチって、こんなに賑やかなものだったんですね」
そのとおりです、とシェフも頷いた。
「こう言っては何ですが、子供だけに食べさせるのはもったいない。ぜひ大人の方々にも食べて頂きたいのですよ」
「だから二十歳以上じゃないと入れないんですか?」
シェフは困ったように首を傾げた。
「いや、そういうわけではないのです。でもね、子供さんがいるとなかなか大人はこういうものを頼めないんですよ。子供が喜ぶものを大の大人が、みたいな変な鎧を纏っちゃってね。実のところ、子供にも食べさせたいという親御さんからのご要望も多いのですが、僕としてはやはりまず大人の方々に食べて頂きたいのです。こう言ってはなんですが、子供さんはどこででもお子様ランチ食べられますからね」
確かに子供が喜んで食べている隣で、大人の自分が同じものを頼むのはいささか躊躇するかもしれない。でもこの内容だったら、大人でも充分、いやそれ以上に楽しめるだろう。沙知がそう言うと、シェフは嬉しそうに頷いた。
「そうなんです。子供の頃の楽しさと大人が感じる幸福感を同時に味わえる店にしたい。それが当店のコンセプトなんです」
沙知は食べたばかりのお子様ランチをもう一度思い返した。確かに名前こそお子様ランチだが、そのひとつひとつはどれも本格的で大人の舌でも満足できるレベルだ。
「だからこそ味には妥協しません。単独でお出ししても恥ずかしくないものを惜しみなく盛り合わせる。でも肩肘張らずにリラックスして食べられて、かつどこかに懐かしさを感じられるものをお作りしたいのです。先ほどのプリンも敢えて昔風のやや固めの仕上がりにして、たっぷりのカラメルソースと一緒に味わって頂きたいのですよ」
プリンの上からとろりとこぼれた琥珀色のカラメルを思い出した沙知は、ついさっき食べたばかりだというのに思わず唾を飲み込んだ。
「――実は僕、子供の頃にお子様ランチを食べたことがないのです」
「お子様ランチを食べたことがない?」
シェフは恥ずかしそうに首をすくめた。
「僕の家は何と言いますか、結構お堅いウチでして。だからお子様ランチを食べてみたくても『こんな子供騙しのもの』と言って、一切食べさせてもらえなかったんです。『ちゃんとしたものを食べさせてあげるから』が両親の口癖でした。子供にとってはちゃんとしたものより、こっちの方が何倍も魅力的なんですけどね。だからこうして大人でもお子様ランチを食べられる店を開いたわけです。こんな素敵なものを食べないまま一生を終わるなんてもったいないですから」
沙知は言葉もなくシェフの顔を見つめた。小さな子供にとって親の言葉は絶対だ。そうなったら子供が自分の意思を突き通すことは難しいだろう。いや、それどころか……。沙知はふと我が身を振り返った。
既に一人前の大人になった自分はどうなのか。倫香の目線を憚って自分の食べたいものを主張することすらできていないではないか。
「――大人はいろいろ大変です。義務もあれば付き合いもある。でもね、たまには自分の食べたいものを心ゆくまで味わうのも大切だと思うんです。幸せに食べることは、幸せに生きることですから」
沙知の考えを見透かすように、シェフが大きく頷いて言った。
――幸せに食べる。
その言葉はまるで食後に味わう芳醇な珈琲のように、沙知の心の中にゆっくりと沁みわたっていった。
すっかり食べ終えた沙知が満足した気分でレジに向かうと、さっきの店員がひょいと箱を差し出した。
「何ですか、これ」
「サービスです。子供のお子様ランチについてくるおもちゃの代わりですね。お好きなものをどうぞ」
へえ、と沙知は箱の中を覗き込んだ。
お菓子を始めとする様々なものがバラ詰めになっている。ちょっと高級なチョコレート、人気のカフェのドリップ珈琲など、いかにも大人向けというラインナップだった。どれにしようかと迷っていると、店員が別の小さな箱を差し出した。
「気に入ったものがなければクーポン券もありますよ。どのメニューでも一品無料になります」
心の中で再訪を固く誓っている身には、確かにクーポンも魅力的ではあった。だが迷った末に沙知が手に取ったのは、小さなふりかけのパックだった。
「あ、その“オトナふりかけ”すっごく美味しいですよ!私ももらって食べたんですけど、それ以来自分で買ってますもん。ちょっとワサビ効いてますけどね。ワサビ大丈夫ですか?」
よくよく見れば、その女性の店員は沙知と同じぐらいの年頃だ。急に親近感が湧いて沙知は、うんと嬉しげに頷いた。えへへと笑い返した店員が、そっとチョコレートを一粒、沙知の手に握らせる。
「ありがとうございました!ぜひまたいらして下さいね」
明るい声に背中を押され、次来た時は何を食べようかと浮き立つ思いを巡らせながら、沙知は扉を開けて微かに甘い空気が漂う春の街並みへと戻って行った。
おもいで食房 秋田柴子 @akishibacat
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