正答
幼少から、俺は何でも出来る子供だった。言語を早々に習得し、暇さえあれば本を読み、知識を頭の中に仕舞い込む。頭にあった知識を応用し身体を動かせば、俺の身体はそれに見合った動きをした。
そう話せば、なんて恵まれているのだろうと万人には思われるかもしれない。
けれど自分の年齢に見合った教育と、俺の脳が物事を処理をする速度は決定的に違っていて、社会から与えられる教育は拷問に近いものだった。理解していることを何度も繰り返され、人の会話は多分、常人の六倍遅く聞こえている。
苦痛しかない世界の中、惹かれたのは自分の年齢を何周も回った人間が、生涯をかけて導き出した理論や定理だった。それ以外の言葉は聞くだけでも疲労した。悲しいことに両親を相手にしても同じで、どんなに親切で優しい関わりも、俺の身体には毒にしかならなかった。
かといって、人間として生きる以上社会と関わることは必須だ。否が応でも人と関わり過ごさなければならないし、そこで目立つ行動を取ってはならない。気まぐれに感情に流され逸れてしまえば最後、自然に排除されていく。
よって小学校一年生までは、普通でいることに努めて生きてきた。しかし、自分を抑えつけた分だけ、その反動は強く、俺の精神や身体を蝕むように戻って来る。
身体は異常な反応を示すようになり、俺は眠ることが出来なくなった。夜は眠れず、二日ほど眠らないまま活動を続けると、ふとした拍子で昏倒し、丸一日眠り続ける。
死に近い生活を繰り返して、生活を共にする両親が気付かないはずがない。俺は病院で身体の隅々まで検査した結果、重度の精神的疲労により、細胞が破壊されていると医師は診断した。
そんなこと、自分でとうの昔に診立てがついていた。
医者に心当たりがないか尋ねられ、俺は答えなかった。結果、両親は「いじめ」があると判断をし、俺は転校した。
答えなかったのは、周りのレベルが自分とは違い過ぎて疲れると言えなかっただけだ。いくら自分の両親とは言え、自分の子供が異常だと知れば不和が訪れるのは明白だし、言ったところで両親は解決策を提示できない。
結果的に両親が俺から抽出した情報は、俺が小学校に入学して身体に異常が現れたことのみ。考察材料が限られる中、俺の不調の原因に学校が関わっていないと判断する方が無理な話だった。
両親の中で俺がいじめられたという絵空事は事実となり、県外に引っ越しをして、俺は芽依菜と出会った。
芽依菜を一目見た時、何故か強く、強く心惹かれた。俺にとって容姿はただの間隔や比率の組み合わせと、細胞組織でしかない。しかし彼女に対しては、愛おしさというものを感じた。
音声としか認識していない声もずっと聞きたくなって、レベルの低い会話も思考の愚かさも、全てを許容することが出来た。
だからもっと芽依菜と一緒にいたくて、好かれたくて、関係性の発展を望んだ俺は自分の能力をセーブするのを緩めた。
優れている種は好まれる。ある程度目立っても芽依菜に好かれるならいいことだろう。それから俺の身体は彼女と一緒に過ごすうち、徐々に正しく睡眠が取れるようになった。
身体も治った。もう不安材料はない。俺は普通の人間を演じて生きていける。そう思った矢先だった。
芽依菜が誘拐されたのは。
俺が少し目を離した隙に、女子生徒の一人が芽依菜へ悪口を言ったらしい。それは些細すぎる嫉妬だった。しかし、芽依菜はその言葉によって俺から距離を取り、一人で下校した。そして誘拐され、三時間犯人と空間を共にした。
俺は芽依菜がまだ下校していないと母から聞いた時、現場の状況を調べ、周囲に誘拐の可能性が高いと伝えた。後から聞けば、大体彼女が誘拐され、一時間しか経っていない時間帯だ。しかし警察も周りの大人も誰一人俺を信じてはくれなかった。
結局芽依菜はそれから二時間後、決死の覚悟で犯人の元を逃げ出し、交番へと駆け込んだ。
皆は芽依菜が戻ってきたことを喜んだ。でも俺は、手放しに喜べなかった。何故なら彼女の心は、三時間に亘り危機的状況に陥っていたことで、完全に壊れていたからだ。
事件以降、彼女は誰も寄せ付けず部屋から出ることも叶わず、男の声が聞こえれば泣き叫び、自傷を繰り返した。
俺は、芽依菜にこれ以上傷ついてほしくなかった。もうきっと、彼女が元通りになることは不可能だ。死ぬこともできず、ただ永遠に苦しみ続けることしか出来なくなってしまう。
俺は芽依菜に伝えた。優しく、舌っ足らずで、性別を感じさせない声で、誘拐されたのは俺だと。
始めこそ、芽依菜は聞く耳を持たなかった。でも俺は、扉の向こうの彼女に根気強く話しかけた。
誘拐されたのは、俺。芽依菜のせいで俺は誘拐されてしまったけど、俺は怒ってない。芽依菜を許してあげるから出てきて。芽依菜は俺を守らなくちゃいけないんだよ。償って。そう、何度も、何度も、何度も。
それから一年後。芽依菜の中で俺と誘拐についての記憶が完全に再形成されたらしい。
ずっと閉じていた扉を開いた芽依菜は、一人にしてごめんねと謝ってきた。彼女の両親には、何をしたか伝えてある。自分を傷つけ死の淵に立つ娘を見ることはやはり辛かったのだろう。俺を許した。
俺は芽依菜のトラウマを刺激しないよう、髪を伸ばし、間延びした声で話をするようになった。さらに失敗を繰り返し、庇護欲を刺激して守るべき存在であると彼女の脳に俺を刷り込んだ。
芽依菜は嘘の記憶を元に、償いとして俺の世話を焼く。俺を優先し、俺の元へ駆けつけ俺を助ける。
俺が居なくても、俺の姿を探し困っていないか考える。それはもう、完全に無意識のレベルに到達したと言っていい。
そうして、日々、丁寧に糸を編むが如く芽依菜へ重ね続けた嘘は、思わぬ副産物を生み出した。
俺の容姿は人目を惹く。周りは俺に近い芽依菜に嫉妬し、嫌がらせをしようとする。でも俺が怪我をしようとしたり、危険な目に遭いそうになると芽依菜の関心をいじめから逸らすことが出来たのだ。
だから俺は芽依菜が傷つかないよう、車道に出てみたり教室で転んだり、馬鹿な道化を毎日演じている。
かといって、芽依菜への悪意は現実だけではなく、ネットの世界で向けられることも当然ある。
俺は芽依菜を監視し、芽依菜がその悪意に気付く前に、俺が見つけて消せるシステムを構築した。
芽依菜が持っているスマートフォンのブラウザも、アプリも何もかも仮想のものに変えた。サイトで見ることの出来るネットニュースも個人に届くメッセージも、一旦俺が検閲して彼女に届くようになっている。彼女の電脳世界には、無関係の芸能人への誹謗中傷すら存在しない。完璧な優しい世界。理想郷がそこにあった。
「じゃあ……ないしょ」
間延びした返事をして、芽依菜が選んでくれたシチューの味を充分に噛み締めた後、飲み込む。ああ、美味しい。平穏で幸せだ。復讐に囚われた猟奇殺人鬼も、もう学園にはいない。芽依菜の陰口を言った文化祭委員だって、クビになった親の事情で転校した。芽依菜を傷つけるものも、傷つけそうなものも、もう学園にはいない。
――俺からめーちゃん取ったら、死ぬから。
そう伝えた言葉を、吉沢は、そしてそばで聞いていた沖田はきちんと理解していなかった。あの言葉は、俺が死ぬなんて簡単なことじゃない。それに、俺が死んだら芽依菜を完璧に守れる人間がいなくなる。そんなことあってはいけない。芽依菜は、もう傷ついてはいけない。優しく、幸せで、完璧な世界にいるべきだ。絶対に。
だから、その為なら俺は何だってする。人に馬鹿にされて蔑まれようが、嫌われようが構わない。誰だって利用するし、いくらでも傷つける。それで、復讐される前に、相手を消そう。証拠だって残さず、完璧に。大家のように失敗しない。親に尻拭いもさせない。誰にも気付かせない。芽依菜にだって。
それがたとえ、自分が一生男として見られなくてもだ。芽依菜に好意をそのまま伝えるのは、自分の想いがあまってのことではなく、芽依菜の経過を観察するためだ。男からの好意に、どれだけのストレス反応が出るのか。俺は芽依菜を愛しているし、ずっとそばにいたい。だからといって、暴力的に好意を向けて芽依菜を壊したくはないし、芽依菜には柔らかい世界で、何の不安も抱かず生きていてほしい。ただ、笑って、あんなにも忌まわしいことなんて見向きもせず、優しい世界の中で。
呪いをかけるように心の中でそう囁いた。
理想郷で恋を編む 稲井田そう @inaidasou
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