理想郷で恋を編む

稲井田そう

出題

 幼稚園が一緒の子たちは、みんな弟や妹がいる中、私は一人っ子だった。


 だからずっと妹か弟がほしかったのに、おままごとをする時も与えられるのは、妹役や弟役ばかり。お姉ちゃんの役はさせてもらえなかった。もっと言えばお父さんがアレルギーだから、ペットを飼うのも駄目だった。


 今思えば、当時の私はなにか守ってあげたり、お世話してあげる存在が欲しかったのかもしれない。友達が「妹いらなーい」「弟いらなーい」「芽依菜ちゃんにあげるよー」と言う度に、羨ましい気持ちを抱いていた。


 だからずっと空き家だった隣の家に、自分と同い年の子が引っ越してくると聞いた時、すごく嬉しかった。


 お母さんはすごく頭のいい子だと言って、お父さんはその子と仲良くしてねと笑っていた。


 そうして、桜が満開な春の日曜日。チャイムが鳴って、一目散に扉を開いた私の前に現れたのは、夢みたいに美人なおばさんと、少しだけ厳しそうで冷たそうなおじさん、その二人の後ろに隠れるように立っていた男の子だった。


 耳の下あたりの長さの黒髪はさらさらで、幼いながらになんだか大人びていた。今まで見た誰よりも特別に見えるその子に、私はひと目で恋に落ちた。


「こんにちは!」


 緊張しながら挨拶をすると、後ろからぱたぱたとお父さんが駆けてきて、「はじめまして」と挨拶を続ける。玄関の前に立つ二人は、「隣に越してきた真木です」と、やや強張った顔つきで頭を下げていた。


 その姿が何だか申し訳無さそうで、不思議に思ったことをよく覚えている。確かお父さんが一言二言話をしていて、子供ながらに、何となく大人同士で話がしたそうだなと、私は男の子をお庭で遊ぼうと誘った。


「毎年、紫陽花を育てているから見に来ていいよ」


「夏には神社の近くで縁日をやるんだよ」


「家に望遠鏡があるから、冬に一緒に星を見ようよ」


 この子に、いっぱいこの町のことを教えてあげよう。この子と、いっぱい話がしたい。私はかなりはりきった。少し押せ押せみたいな状態だったけれど、彼は引くこと無く話を聞いてくれた。幼稚園が春休みに入っていたこともあり、休みの間は一緒に過ごした。そうして私たちは春休みが終わって、一緒に小学校に通う頃には「真木くん」「めーちゃん」と呼び合う仲になっていた。彼には朔人くんというかっこいい名前があったけど、名前で呼ぶことは無性に恥ずかしかったのだ。


 それから、私たちはいつも一緒だった。真木くんはサッカーもバスケットボールも上手で、頭も良かった。


 テストはいつも百点満点で、先生の問題のミスもすぐに見抜いてしまう。クラスの子たちが喧嘩をすると、さっと間に入って解決するような、優しい皆のヒーローだった。クラスの女の子たちは皆真木くんのことが好きで、皆彼を遊びに誘ったり、給食のあげパンをあげようとしていた。


 でも真木くんは、いつだって私と遊んでくれていた。彼が遊びに誘われ、断るときは必ず優しい言い方をするから、私ばかり真木くんと遊んで不公平だと言われたことは、あまりなかったように思う。


 そんな完璧だった真木くんは、今、命がけで高校に通学している。


「真木くん、そっち車道だから、ガンガン車通ってるから!」


 もう十月に入ったというのに残暑が残る通学路、バスを待ちながら幼馴染である真木くんの紫パーカーの袖を引っ張る。


 周りで私たちと同じようにバスに並ぶ会社員や学生は、いつもどおりの光景にやや呆れ顔だ。一方、ふらふらして車道に出かけていた真木くんは「あぁ」とのんびりした声を出すだけ。長い黒髪からのぞく彼の気怠げな瞳はどこか胡乱で、ぼーっと視線は落ちている。姿勢も悪く、かつてヒーローのように堂々と、ピンと伸びていた背筋はどこにもない。


「え……、あー、そうだ、ねー……。だる……ねむ……おやす……、おっと」


 真木くんは歩道側に下がろうとして、歩いていた工事の人とぶつかってしまった。作業着を来てヘルメットを腰に下げた金髪の男の人は、「いってえな」と呟く。


「す、すみません!」


 私が慌てて謝ると、工事の人は舌打ちをして去っていく。真木くんも「ごめんなさい……」と続くけれど、もう工事の人の姿は見えない。


「あ、真木くん、体操着落ちちゃってるよ!」


 気がつけば、真木くんが持っていた袋が落ち、体操着とジャージが地面に飛び出していた。一方、信号を待つ白いワゴン車の後ろから頭を出すようにバスが見えていて、私は慌てて体操着とジャージを拾い、袋に詰める。


「ありがとう……めーちゃん……。地面にお洋服が落ちたから、今日体育出なくていーい?」

「出なきゃ駄目だよ! 出席点ちゃんと貰っておかないと、真木くん進級できなくなっちゃうよ」

「えぇ……めんどい……」


 彼のぼんやりとした欠伸を眺めている間に、停留所にバスが滑り込んでくる。私たちは一緒にバスへ乗り込み、奥の窓際の席に座った。閉所が苦手な彼のため、私は座席に座って早々に窓を開く。閉じられ籠っていた空気がふわっと抜け、十月の涼しい風が入ってきて、呼吸がすっと楽になった。


 私はいつも、すぐ窓が開けるよう、そして真木くんが窓から落ちたりしないよう窓際に座っている。ついでに言えばバスに乗って揺れても大丈夫なよう、彼の鞄の持ち手も握ったままだ。


 同い年、しかも高校生同士なのに世話を焼きすぎ、と言われてしまうかもしれないけど、本当に真木くんは生きるのに不器用だから、私が気を付けないと彼は死んでしまう。


 歩けば転び、転ばなければ彼のゆったりとした足取りは、自然と車や自転車に向かう。階段なんて何度も落ちかける。靴紐は秒で解けるし傘の差し方も下手で、気付けば両肩がびちゃびちゃになる。昨日の雨でも凄まじく濡れていた。なにか物を落とすのも日常茶飯事だ。


 基本飲み物は零しお菓子の袋は破裂させる。とにかく何でもかんでもひっくり返すし、料理も裁縫も芸術も何もかも壊滅的で、特に料理は指じゃなくて手首を切り落としかけるくらいだ。裁縫も酷い時は服にいくつも針が刺さっている。


 この間の科学の実験だって、危うく教室を爆破しかけたのだ。


 その脱力癖、面倒くさがり、不器用さは年々加速していくばかりで、目が離せない。


「もうすぐ、文化祭だねぇ」


 ふわぁと欠伸をしながら、真木くんが車窓に目を向けた。真っ赤に染まった紅葉や鮮やかな黄色のイチョウも、徐々に端から枯れて冬の訪れを報せている。


 来月頭に開かれる文化祭には、枯葉が結構落ちているかも知れない。真木くんがよく葉っぱで足を滑らせるから、この時期はそわそわして好きじゃない。


「おだんご食べたい、あと、親子丼も、ソーダも飲みたいなぁ……めーちゃんはなに食べたい?」

「なんだろう、たこ焼きとかかな?」


 でも、たこ焼きは真木くんが口の中をやけどするから、やっぱりアイスとかがいいかもしれない。あんまり熱くなくて、程よくぬるい食べ物だ。つまらせる心配のない。そして真木くんは、たまにポテトチップスでも口の中をズタズタにしてしまうから、そういう食べ物が一番いい。


 答えを変えようとすると、真木くんはすやすやと眠っていた。ぎゅっと私の手をにぎる手は子供みたいで、長いまつげの寝顔は女の子みたいだ。私はせめて真木くんが今ぐっすりと眠り、授業中はちゃんと授業を受けてくれるといいな……と願ったのだった。


「はあだるい……動きたくない、土の中にかえりたい……」


 学校に辿り着き、校門をくぐると真木くんは大きく欠伸をした。彼は目をこすりながら、そのままゆっくり瞼を閉じていく。足取りも重く、黒いスニーカーもずりずりと引きずってしまっている。


「真木くん、寝るなら教室まで我慢しないと。それに洋服も汚れちゃうし、ここまで来たんだから授業受けよう?」


「えぇ……疲れたよ……もう動きたくない」


 真木くんは下駄箱まであと少し、というところでしゃがみ込んでしまった。 スニーカーが黒いからという理由で買った彼の背負ったリュックも、肩紐を最大限まで下げて背負っているので、地面とくっつきそうになっていた。その後姿は、小学生がアリを見つけてしゃがみこんだようだけど、私も彼も高校一年生なわけで、かなり目立つ。


 昇降口へ目を向けると、生徒たちはさっさと靴を履き替え、朝練と皆が教室へ急ぐ中、ただ一人蹲る真木くんの様子は皆の視線を集めるには十分だ。体格のいいラグビー部や、サッカー部の男子たちが首を傾げながら校舎の中へと入っていっている。私はなんとか登校させようと、真木くんのの手を引っ張った。


「ね、下駄箱まで手繋いでてあげるから。行けそう?」


「……ありがと、よろしく……おやすみ……」


「真木くん駄目だよ! ここは寝たら駄目なところ!」


 私に引っ張られた真木くんはこれ幸いと眠ろうとするから、慌てて肩を揺すり、引っ張っていく。遅刻とまでは行かないけれど遅めの時間ではあるから、廊下は朝練終わりの生徒や、遅刻を免れた生徒たちで慌ただしい。でも、皆揃えるように同じ話題を口にしていた。


「またうちの近く、テレビ映ってたんだけど。そのうち私刺されるかも」


「ニュースマジ同じことしかしないよね。でもあの人、今度ドラマ出る人がキャスターしててさ、コメントしてたよ。怖いねって」


「本当に!? えー見ればよかった」


 スマホを片手に、きゃっきゃと盛り上がっている話題は、今流行りのお菓子とか、お笑い芸人とか、そういう明るいものではない。


 ―― 晩餐川連続猟奇殺人事件、についてだ。連日テレビを騒がせているらしいその事件は、先生たちが登下校のときは気をつけるよう注意するくらい、今の私たちにとって身近な事件となっている。


 最初に事件が起きたのは、夏だ。バラバラにした生ゴミとバラバラの遺体を詰めたものが、隣町の公園で捨てられていたらしい。当初は遺体の損壊が激しすぎて、マナーのなっていないゴミと間違われ捨てられかけたところ、ゴミ収集の作業員さんが不審だと通報、遺体発見という流れになったようだった。遺体は百一歳のおじいさんで、百寿のお祝いの写真がニュースに出ていた。


 次に事件が起きたのはそれからまだ半月も経っていない頃。裏道で身体に虫を詰められた八十歳男性の遺体が発見された。駆けつけた救急隊が瞳孔を確認しようとしたところ、虫を発見したらしい。そして、そこからやや離れた住宅街で、今度はジュースまみれの車道に、顔を突っ伏して死んだ五十歳男性の遺体が見つかった。舌をわざわざ動かした形跡があるとテレビでやっていて、かなり不気味だ。


 現場は公園、裏道、住宅街と多岐にわたり、今なお犯人は見つかっていないという。被害者がみんな男性で、その年齢がどんどん下がっていくことから、浦島太郎の逆をいっているなんて、逆浦島殺人、乙姫の呪い殺人なんて名前をつけられ揶揄され、不謹慎だと炎上するニュースが起きるなど、ここ最近の話題はずっとそれだ。


 そんな事情からも、校内では来月の頭に開かれる文化祭と話題を二分している。


「怖いねぇめーちゃん。めーちゃん気をつけてね? 暗い暗いへ行っちゃったらやだよ……?」


 寝ぼけ眼の真木くんが、じっと私を見つめた。もちろん襲われたらとか、犯人と会ってしまったらどうしようという恐怖はあるけど、それより怖いのは真木くんが襲われることだ。


 その髪は肩にぎりぎりかかるほどの長さで、ただでさえぶかぶかなパーカーにより華奢な体型が強調され、背後からなら女の子にしか見えない。


 ターゲットがみんな男の人だから、女の子に見られて狙われないといい……。念の為防犯ブザーも持ってもらっているけれど、会わないのが一番だ。私は祈る気持ちで真木くんと一緒に教室へ入っていく。教室はもうすでにほとんどの生徒が登校してきていて、各々友達と雑談していた。真ん中では、男子の中心人物になっている沖田くんが、「やべーマジで文化祭どうしよ!」と焦り顔で頭を抱えていた。


 私のクラスは、活発な生徒が少ないクラスだ。隣のクラスは運動部の中でもかなり騒がしい人たちが集まっていて、授業中に笑い声や先生に怒られている声が聞こえてくるほど。


 学年は八クラスあるけれど、八組にうるさい人達を集めすぎたことで、この七組は静かになってしまったなんて先生が言うくらいだ。でも、静かめと言われる私のクラスでも比較的声の大きいと言うか、盛り上げ役の男子はいて、それが沖田くんだ。


「なぁ、溝谷お前俺と文化祭委員やってくれよ」


「俺、軽音部でバンドするから全然委員会出れねえけどいいの?」


「じゃあ駄目だ。めっちゃ仕事あるから」


「吉池はどう――ああ、生徒会だっけ」


「本当にごめん、むしろボランティア募集してるくらいだから」


 沖田くんは帰宅部だけど、スポーツ万能でクラスの人から一目置かれている。爽やかな短髪で、男子には「頼りになる奴」女子には「面白い」と人気者だ。古文を担当しているおじいちゃん先生は、「ガキ大将」と彼を呼んでいる。


 そんな沖田くんは文化祭委員を任されているけれど、彼と一緒に任されていた文化祭委員の戸塚さんは、親が転勤になったとかで、ちょうど先月転校してしまったのだ。


 沖田くんと文化祭委員をしたい女子生徒も、いるにはいるのだろうけど、雰囲気的にお断りの空気が出てしまっているのは、やっぱり文化祭委員の仕事が多いからだと思う。


 うちのクラスの出し物は、童話喫茶という絵本の世界をイメージした喫茶店をするとコンセプトが決まっているけど、委員はクラスをまとめて、喫茶店の準備を主導しなければならないのだ。自主性を重んじたいとかで、文化祭絡みのホームルームは先生は立っているだけ、というのが決まりになっているし、やりがいもありそうだけど大変だ。去年、隣のクラスでは簡単な展示に決まったのに、皆がまとまらず喧嘩をしたり、泣いてしまった子が出たらしいし。


 それでも文化祭で童話喫茶といかにも大変そうなモチーフが飛び出したのは、クラスの人気者である沖田くんが文化祭委員を担っていた、というのが大きいと思う。みんな、彼ならきっと文化祭を成功に導いてくれるはずだと、期待をしたのだ。


 私は、喫茶店という火を使う出し物で、真木くんが火災を起こさないかひやひやしていたし、今もしているけれど……。


 私は沖田くんが文化祭委員の相手を探すのを横目に、真木くんを自分の席に座らせ、自分も席についた。


 真木くんは窓際の席で、私は彼の隣の席だ。今まで同じクラスになることはあれど、座席ががっつり隣になるのは小学生以来で、最近は懐かしい気持ちで授業を受けている。


 二ヶ月おきにしている席替えは先週だから、しばらくは真木くんの隣の席だ。そしてもう一方の私の隣は、空席だ。どうやら転校した戸塚さんの席はこのまま教室に置いておくらしい。


 彼女と関わったことは無かったけれど、真面目でしっかり者で、真木くんをよく気にしていた印象だ。弟がいるからと、真木くんが何か零すと拭くのを手伝ってくれた。


 それにしても小学校の頃は、転校した人の座席は空き教室に置いていた。そして椅子とか机が異常にガタガタしていたり不具合があると、そこにある机や椅子と交換するように言われていたから、無人の座席がずっと教室にあるのは、なんだか見慣れない。



 この間までクラスメイトの使っていた椅子は、昼休み、他のクラスの子を呼んでお昼を食べる子たちが使っていて、わりと争奪戦のようになっている。なんだか空いてしまった文化祭委員の座席とは対象的だ。


 真木くんが机から転がり落ちないよう位置を調整していると、ドン、と私の机に何かがぶつかった。振り返ると同じクラスの和田さんが、黒髪ストレートの髪をいじりながらこちらを見下ろしていた。


「ごめん、ぶつかった」


「いえ、こちらこそごめん……」


 和田さんとは、あまり話をしたことがない。校則違反のスカートの短さに、少し目元が冷たい印象を受ける美人な面立ちの彼女は、クラスではいわゆるギャルのグループのリーダーをしている。


 グループ外の子とはあまり話さないけど、ズバズバ言う性格で、男子の言葉を「つまんな」とバッサリ切り捨てたり、少し広がって歩いていた吹奏楽部の女子たちに「邪魔」と言ったり、言動がやや手厳しい。避けているわけではないけれど、私は彼女と話をしたことが一度もない。


「いっつも真木の世話してんね、めんどくさくない?」


 そっけなく、吐き捨てるような言葉に萎縮する。なんて返そうか悩んでいる間に、彼女はぱっと吉沢さんの元へ行ってしまった。和田さんは、同じクラスで廊下側の席にいる吉沢さんと仲がいい。黒髪ストレート、ロングヘア、ネイビーカラーのセーターを愛用している和田さんに対して、吉沢さんはショートカットでふわふわしている茶髪の女の子だ。いつもピンク色の柔らかそうなベストを着ている。対象的な二人は、女王様と姫と呼ばれている。


 それにしても、私は和田さんに何か、不愉快なことをしてしまったのだろうか……。思い返してみても、話をしたことがないし、席替えで近くになったことも、グループを作る授業で一緒になったこともない。


 悪いことをしてしまったのか……と悩んでいると、沖田くんが頭を抱え「ああぁ」とうめいた。


「まじ文化祭委員いねえと文化祭出来ねえし……どうしよ」


「くじで決めればいいだろ? 誰かがやらなきゃ進まないんだから」


 困った沖田くんに、ガラッと教室の戸を開けながら答えたのは、担任のだいちゃん先生だ。先生はスポーツ刈りで身長も高く、声も大きくてぱっと見は体育の先生みたいだけど、美術を担当している。モナリザが絵画で一番好きだと言って、大体週に一度の頻度でモナリザのTシャツを着てくるけれど、今日がその日らしい。


 ホームルームで話が脱線した時とか、軽い雑談をする時はトレーニングとか筋肉の話ばかりで、画家をしているお姉さんの話をたまにするくらいだから、実際話をしてみても美術の先生には見えない。厳しいところはあるけど、いつもホームルームより5分早く来て前の席の子と雑談したり、冗談も通じる、「あたり」とされている先生だ。


「えー! くじ引きー?」


「私、塾があるんですけど……」


 だいちゃん先生のくじ引きという言葉に、皆嫌そうな顔をした。けれど先生は、「全員の事情なんて聞いてたら決まらないだろ」と一刀両断する。


「それに、大変な委員をみんなで支えるのがクラスだろ。塾があるやつが委員になったら、そいつが塾ある日は誰かが代わりにやるのが協力するってことだ。その為にまず代表の名前決めだ。自分が委員じゃなかったからって、何もしなくていいってことじゃないからな」


 だいちゃん先生はみんなを念押しするように見て、「くじで決めるぞ」と、後ろのロッカーの上に置いてあるくじ引きの箱を取り出した。それは先週の席替えでも使ったくじ引き箱で、出席番号の入った紙が入っている。ダンボールを張り合わせ、真っ赤なテープでぐるぐる巻きにした先生手製のものだ。


「じゃあ、一人決めればいいだけだから先生が引くぞ」


 そう言って、先生はぽんとくじ引きを引き抜いてしまう。もし真木くんが委員になってしまったらどうしようと、肝が冷える。委員会までは一緒にいれないし……。だんだん血の気が引いていくと、先生は「九番、園村」と、私に顔を向けた。


「え……」


 私が文化祭員……?


 このクラスは元々四十人クラス、戸塚さんが転校し、現在三十九人。まさか三十九分の一の確率を自分が引いてしまったことに驚いていると、隣の真木くんがつんつん私の肘をつついた。


「だいじょぶ。俺が手伝ってあげるから……」


「え、あ、ありがと……」


「園村かー! よろしくな!」


 真木くんにお礼を言っていると、沖田くんが歯を見せて笑った。朝のホームルーム開始を報せる鐘が成り、クラスのみんなは自分ではなかったことにほっとした様子で自分の席についていく。


「園村、明日の朝さ、何の絵本で喫茶店するかの候補案出しの話しような!」


 沖田くんは、私にそう言って教室の先頭、ど真ん中の席に座った。


 文化祭委員……委員会で真木くんのそばを離れなきゃいけないことも出てきてしまうのだろうか……。


 私はどことなく胸騒ぎを覚えながら、朝のホームルームが開始されていくのを眺めたのだった。


 結局、その日は文化祭のことが不安で、授業もお昼休みも放課後すら上の空だった。それは家に帰ってきても同じで、夕食が終わっても席を立つこと無くダイニングでぼーっとしていると、お母さんが私の隣に座りながら、不安げな顔で声をかけてきた。


「どうしたの芽依菜。何かあったの?」


「実は、文化祭委員になっちゃって……」


「え……? それは真木くんと?」


「ううん。沖田くんって人と……先月転校していった子がいたって言ったでしょ? その子が文化祭委員だったんだよね」


「戸塚さんだっけ」


 台所で洗い物をしていたお父さんが、「紅茶でも飲む?」と、紅茶缶を開けた。私もお母さんも飲みたいと返事をして、お父さんは紅茶を淹れ始める。


「童話喫茶をするんだけど、委員会で真木くんと一緒に帰れなくなったらとか考えると、不安で……」


「それは大丈夫じゃないかしら? 真木くんだってきっと待っててくれるわよ。それに、今なにかと怖いでしょう? 連続殺人の犯人も、まだ捕まえることが出来ていないし……」


 お母さんは悔しげに手のひらを握りしめた。私のお母さんは、警察官だ。捜査第一課という場所で、強盗や殺人事件――晩餐川連続猟奇殺人事件の捜査もしている。事件が解決するとお母さんはどことなく雰囲気が柔らかくなるし、逆に捜査が難航していると、お母さんは暗い顔をしている。最近は考え込む様子が多いから、きっとまだ犯人が確定していないのだろう。


 小さい頃は警察官のお母さんかっこいい! なんて無邪気に思っていたけれど、連続殺人のニュースを見たり、不定期にしか家に帰ってこられないお母さんを見ていると、大変な仕事なんだと感じる。それに、殺人鬼を逮捕するわけで、危険と隣り合わせの仕事だ。


「それに、文化祭ももしかしたら中止になるかもしれないしね……」


「え……?」


「ここだけの話、まだ犯人の目星すらついてないの。でも、犯行の頻度は短くなってるから、もし高校の目の前とか、三軒先とかで起きるなんてことになったら、中止になることもあると思うわ。まだ学校は、そんなこといっさい視野に入れてない状況だと思うけど……」


 お母さんは、はぁ、と溜息を吐いた。やがてお父さんが紅茶を持ってきて、カップを私とお母さんの前に置く。琥珀色の波紋に湯気が立っていて、息を吹きかけ冷ましてから一口飲む。やがてお父さんがじっとりと重い空気を変えるように、「童話喫茶って」と私に顔を向けた。


「そういえば、なにをするんだ? 読み聞かせか?」


「ううん。絵本イメージの内装に、絵本に出てくる登場人物の格好でお茶とかお菓子を提供する……って感じかな」


「はぁ……大変だなぁ。父さんが高校の時はクラス予算が全然降りなくて適当な展示になっていたけど、今はそんなことも出来るんだなぁ。楽しみだ。母さんは行けそう?」


「一応非番だから、きっと行けると思う。入学式も行けなかったし……」


 お母さんは初め、私の高校の入学式に休みを入れていた。でも、そのとき関わっていた捜査に急展開があったとかで急遽出勤することになり、入学式を欠席した。実はそれは初めてのことじゃなくて、お母さんは私の学校行事という学校行事に来たことがない。行きたくない……ではなくむしろその逆だ。運動会も、授業参観も卒業式も、休みを入れて――駄目だった。


 私はお母さんがお仕事を頑張っているのをよく分かっているし、学校行事に来ることが出来ないのは、仕方のないことだと理解している。


 でも、そのことをお母さんは酷く心残りにしていた。


「被害者のためにも、芽依菜のためにも、お母さん頑張って犯人捕まえて、絶対文化祭行くからね!」


「うん!」


 お母さんはガッツポーズをした。でも、その瞳の下には、うっすらと隈が見える。私はそのまま家族で紅茶を飲んで、お風呂が沸くまでダイニングで過ごしていたのだった。


◆◆◆


「どうわ……カフェ、っと」


 私はお風呂上がり、ベッドに寝転がってスマホでカフェや文化祭の出し物について調べていた。


 どうやら、コンセプトカフェという何かひとつのテーマに沿ったカフェのジャンルがあるらしく、童話カフェはそれに該当するのかもしれない。アニメやゲームとコラボしたカフェもあって、キャラクターに寄せた飲み物を提供するみたいだ。


 童話カフェとなると……どうなるんだろう。不思議の国のアリスの紅茶とか……? 明日はどの童話をカフェのモチーフにするか絞っていかなきゃいけない。食べ物に関連する童話をリストアップしたほうがいいのかもしれない。


「めーちゃん」


 スマホにメモをしていると、部屋のカーテンの奥から真木くんの声が聞こえてきた。薄いサーモンピンクのカーテンを開くと、後ろに髪をまとめた真木くんがベランダに出て手を振っていた。着物を着るときのまとめ髪みたいにして、パーカーも肘あたりで着ている彼は、学校で見る時とまた雰囲気が違って見える。


 あっちもお風呂上がりらしく、シャンプーの臭いがした。


「ねー……そっちいってもいい? 今めーちゃんひま?」


「うん。大丈夫だけど……」


 真木くんは、「おっけい」なんてゆるい返事をすると、ベランダの手すりによじ登り、こちらにさっと渡ってきた。ベランダのサンダルを履いているから滑らないかひやひやするけど、お互いのベランダの距離は近く、小学生でも簡単に行き来できる近さだ。


 真木くんが越してくる前、家が建って誰が越してくるんだろうとわくわくしていたけど、しばらく空き家だったのはこれが原因だったのかな……と、なんとなく思う。


「よっと」


 真木くんは私の部屋のベランダでサンダルを脱いで、「お邪魔します……」と部屋に入ってくる。こちらのカーテンを閉めるとき、真木くんの部屋から、本棚が見えた。そこには数学や物理学の参考書が並んでいて、そのどれもが高校生ではなく、大学生以上、研究者を対象にした難しい本だ。


 真木くんが脱力し、面倒くさがりに変貌していくにつれ、彼は数学への関心を爆発的に持つようになった。難しい証明をしたり、難しい数式の本を読んだり。彼の部屋にある本について、私はまったく理解できないし、彼が本当に理解しているのかも、よく分からない。


 数学の試験は、毎回彼はケアレスミスを連発し、数学の成績は平均よりちょっと下に落ち着いている。他の主要教科は、基本赤点ぎりぎりだ。


 どうして、こんなにも二面性のある状態に真木くんが陥ってしまったのかと言えば、彼が幼少期、ある事件に巻き込まれたことに起因している。彼は犯罪事件――誘拐事件に巻き込まれたことが原因で、心を壊し、人が変わってしまったのだ。事件以降、彼は極度の面倒くさがりに変わり、言動も幼く注意力も散漫になり、ぼんやりした真木くんに変わってしまったのだ。


 そして、それはすべて私のせいだ。


「真木くん、今日はどうし……」


「さむさむだから一緒に寝てほしい……さむ……」


 真木くんは「さむ」「さむだから」と繰り返して、私のベッドに潜り込むと丸まり、まるで芋虫のように顔だけ布団から覗かせた。


「真木くん……もう私たち高校生なんだから、別々で寝ないと……」


「でも、さむだもん……」


 私は一向に布団にくるまる真木くんを見て、しばらく考え込んだあと、本棚からアルバムを取り出した。


「ほら、真木くん、小さい頃の写真見る? この間掃除してたら出てきたんだよ」


「見る……」


 彼がぬっと布団から這い出てきて、アルバムに近付いていく。私は彼がベッドから離れていくよう少しずつ後退し、部屋の真ん中にあるミニテーブルにアルバムを置いた。


 アルバムは、彼が我が家の隣へ引っ越してきた時から、だいたい小学校一年生くらい頃までの写真で構成されている。全て私と真木くんのツーショットだ。


「んー懐かしいねえ、いつ頃だろ、昨日くらい?」


「昨日じゃないよ、真木くんも私も小さいでしょ?」


「ほんとだ! めーちゃん小さい、かわいー」


 もそもそと真木くんはアルバムを手に取ると、まるで宝物を見つけたように両手で掲げる。そのページには運動会で一位を取った真木くんと、隣に立つ私がいた。二人とも元気に笑っていて、ピースをしている。彼の髪は短めで、腕まくりをし、背筋もピンと伸びていた。ピースサインも力強く、なんだかこの写真の彼のほうが、男の子という感じがする。


「ちまちましためーちゃん食べたら美味しそう。ケーキの上にのってるやつみたい」


「いや、私は普通にまずいよ? 人間だからね」


「そうかなあ……? じゃあ今日は、このアルバムを枕元に置いて、めーちゃん抱っこして寝よ……」


 真木くんは、常夜灯を残して電気を消し、私の手を掴んでそのままべッドに入ってしまう。注意をしようと起き上がろうとしても、「ねむです」とぎゅっと抱きつかれて動けない。


「真木くん……」


「ねむです。めーちゃん明日から文化祭頑張るだから……じゅーでんするの……」


 そのまま彼は、子供みたいに抱きついてきた。常夜灯に照らされた顔は、彼のあどけなさをより強調している気がする。胸の中に白雪姫が眠っているみたいで、起こすことに躊躇いさえ覚えた。


「おやすみ、真木くん」


「うん。おやすみ」


 なんとなく、ぽん、と真木くんの背中をあやすみたいになぞる。なんだか私も瞼が酷く重くなってきて、そのまま目を閉じたのだった。


◆◆◆


 沖田くんが昨日言った、「明日の朝、話しような!」というのは、登校してきてホームルームが始まるまで話をするのではなく、いつもの通学よりはやく学校に来て話をしようというものだ。真木くんがついて行くと言ったから、心強さを感じると同時に、「朝、真木くん起きられるかな……」と不安も抱いたけど、真木くんはむしろ私を起こしてくれて、特に問題なく学校に来ることが出来た。


 廊下の壁には、すでに文化祭で行われるミスコンや、バンド、告白大会などの参加者を募集する張り紙や、美術部の展示のポスターが貼られていて、ところどころ集めたダンボールも置かれている。お化け屋敷を出し物に選んだクラスかもしれない。去年、隣のクラスが大型のお化け屋敷をするからと、たこ焼きをやるうちのクラスにまでダンボールを回収に来ていたこともあったし、早めに集めているのだろう。


「真木くん、童話喫茶でやりたいモチーフってある?」


「うーん……なんだろう。美味しいのがいい……」


 真木くんは大きな欠伸をしながら、ふらふらした足取りで歩いていく。もう少しで教室に着きそうというところで、何か物々しい声が聞こえ、私と彼は足を止めた。なんだか怒鳴るような声に様子を窺うと、教室の前で、沖田くんが誰かと電話をしているようだった。沖田くんは怒っているらしい。険しい顔付きで語気を荒げている。


「だから……いつになったら帰ってくる気だよ!」


 沖田くんはいつもクラスのムードメーカーで、イライラしている男子がいたら率先して話しかけるような、そんな生徒だ。今まで大声で笑ったり男女問わずふざけたことを言って、先生に怒られている姿は見たことがあるけれど、怒っている姿は見たことがない。びっくりして真木くんの腕を掴む。


「最近、ずっと朝帰りしてるよな。隠してるみたいだけど、全部分かってんだよ」


 沖田くんは悔しそうに「お前、そのうち刺殺されても知らねえから。つうか、お前が犯人なんじゃねえの?」と、吐き捨てるように言って電話を切る。あまりに荒々しい態度で驚いていると、彼はこちらに振り向いた。


「あ、えっと園村と――真木、おはよ」


「おはよう沖田くん」


「おは……」


 沖田くんはばつが悪そうにしながらも、手を上げてこちらに近付いてきた。「早いな」なんて言いながら、頭をかいている。言葉を選んでいると、後ろから「早いなーお前ら!」と、とても大きな声が響いた。


「お? 驚かせたか!? 悪い悪い。なんだ? 文化祭で何か決めるのか?」


「えっと、童話喫茶でどんな絵本をモチーフにするか決めようという話になって――……」


「そーかそーか! ならこんな廊下突っ立ってないで座って話しろよ。教室開いてただろ?」


 だいちゃん先生は不思議そうにしながら、布をかけた薄い箱のようなもの――パネルか何かを抱え、大股で歩いてくる。「先生は……?」と沖田くんが尋ねると、先生は「俺は朝の教室で絵を描くのが好きなんだ!」と、右手で持っていた筆と水入れを揺らした。水入れの中には絵の具もいれているらしく、一つこぼれ落ちた。


 色の名前も書いてない絵の具を、真木くんはさっと拾って先生に渡す。


「せんせ、どうぞ……」


「悪いな真木! ありがとう!」


 だいちゃん先生が教卓にバンッと絵の具や水入れ、筆を置いて、ガタガタと音を立てながら絵を描く準備を始めていく。色とりどりの絵の具たちは、私たちが美術の授業で配られた十二色よりずっと多くて、鮮やかに見える。けれど先生はそれらをパレットに出すこと無く、「で、どうするんだ? 童話喫茶」と、私たちに振り向いた。



「え……」


「生徒が文化祭で案出し合ってんのに、担任の俺がのこのこ絵描いてちゃ駄目だろ。ほら、先生が黒板に書いてってやっから」


 先生は黒板にチョークを立てた。私は慌てて昨日調べていたページと、メモ帳のアプリを開く。昨日は途中で寝てしまっていて、どこまで書いたか記憶がない。おそるおそる確認すると、想像よりずっと案出しが終わっていた。


「赤ずきんで、ぶどうジュースとか、桃太郎できびだんご……ヘンゼルとグレーテルで、パンとか、アリスだとティーパーティーのメニューがあると思って、食べ物の出る童話を選んでいったらいいと思うんですけど……」


「たしかに! 一寸法師やかぐや姫は皆が思いつくこれってもの、無いもんな。俺も不思議のアリス良いと思う。女子好きだし。それにほら、昨日見つけてきたんだけど……」


 沖田くんがポケットからスマホを取り出して、何やら打ち込み始めた。そうして差し出されたスマホの画面には、アリスをモチーフにしたゲームのコラボカフェの内装が映っている。


「やっぱり、色んな童話とかにするより、そろえたほうが良いのかなー……」


「世界観はまとめたほうがいいかもしれないな」


 だいちゃん先生もスマホを覗き込んで考え込む。真木くんも「うぅ〜ん」と考え込んだ様子だ。沖田くんはスマホを操作しながら、他の画像もスライドしていく。


「皆童話カフェって決まった時、結構適当な感じだったし、結構多数決なくノリだったじゃん? だから、ガツン! って結構具体的なテーマにしたほうが良いと思うんだよな」


「そうだね、内装の費用とかもあるし、去年劇だったけど、衣装にお金かかるモチーフだと、喫茶店の食べ物代までお金回らなくなっちゃうし……」


 確かに、去年劇をした時、文化祭委員の子が衣装代までお金が回らない! と困っていた記憶がある。劇で使っていただろう大道具や小道具、背景の予算が内装費にあたるとして、切り詰めていかないといけない。いっそモチーフを一つにしてしまえば、内装の布とかと衣装の布を共用に出来たりするだろう。


「じゃあ、皆には、童話喫茶のメインテーマとして不思議の国のアリスカフェを提案するとして、決めなきゃいけないのは調理と、売り子と、内装、衣装係だよね」


「でも、調達は会計担当の委員の役割だから、買い出しは俺らで、皆には作成を中心にやってもらったほうがいいかも。去年買い出ししたきり帰ってこない奴ら出なかった?」


「あー……」


 去年、私のクラスではサッカー部の男子がペンキを買いに行って、そのまま帰ってこず作業が中断……なんてことになった。結局男子たちは「次の日持っていけばいいと思って」と言って、サッカー部の男子とクラスの女子が少しギスギスした記憶がある。「こっちで買ったほうがいいね」と返して、ふと隣にいた真木くんが、だいちゃん先生の絵をじっと眺めていることに気づいた。


 先生も、自分の横からひょっこり顔を出している真木くんに気づいたらしく、「なんだぁ真木ぃ〜絵に興味があるのか?」と、やや照れくさそうに笑った。


「先生の絵、初めて見る……」


「そうかぁ? 俺結構お前らに見せてると思うんだけどなぁ。まぁ、真木は授業中寝てることも多いからな。ははは! どうだ、キラキラして見えるだろう? 絵が上手いとなぁ、こうして絵がキラキラするんだ」


 パネルにはすごく細密な鉛筆画が描かれていた。題材は、現代版モナリザ……だろうか? 50センチほどの正方形のパネルの中央には、清楚な雰囲気の女性が描かれている。


 やや長めの黒髪で、鉛筆で描いているはずなのに実物を見ているように艶めいて、瞳も、まるで生きているみたいだ。もう十分これで完成に思えるけど、背景の部分はうっすらと色が塗っている。そこには綺麗な花々や、楽しそうな人々が描かれていて、楽しそうで明るい、パステルカラーのアクリル画だ。


 でも、朝日を受けて絵自体が輝いている。どうやって描いたのか不思議だ。


「上手い人の絵は、輝きも描けるんですね……」


 私の言葉に、だいちゃん先生が「あっははは!」と吹き出した。戸惑えば「いや、いくら絵が上手くても物理的にキラキラさせて見せるなんて無理だからな。いやぁ、園村は純粋だなぁ」と目に涙すら浮かべる。やがて先生は咳払いをして、パネルのキラキラ部分を指差した。


「メディウムっていう、絵の具の発色を良くしたり、艶を出したりする液があるんだ。それをノリ代わりにして、水晶末ってやつをふりかけたんだ」


「水晶末?」


「鉱石砕いて、粉末にしたやつっていうのが一番わかり易い例えになるのかなぁ? 日本画の画材なんだよ。お前ら修学旅行とか、旅番組の旅館とかで、屏風とか掛け軸に絵が描いてあったりしただろ。ああいう絵だ」


 思えば小学生の頃、旅館に泊まった時、掛け軸を見た覚えがある。それも先生の絵みたいにキラキラ光っていたような……。でも、もう何年も前のことだから記憶も曖昧だ。正直、小学校の頃どこへ行ったのかも、今ぱっと出てこない。


「まぁ、日本画に興味ある高校生は珍しいし、知らなくて当然だ。俺も高校のときは絵なんて描かなかったからな」


「え、そうなんすか? てっきり小さい頃からだとばっかり……」


 沖田くんが意外そうに目を丸くした。私も、先生が高校生の時に絵を描かなかったことに、びっくりした。今まで会った絵の上手い子は、みんな小さい頃から絵が好きで……とか、幼稚園から描いていたという子ばっかりだった。


 たった一人の例外は、真木くん。


 彼は引っ越してすぐの頃、一緒に絵を描いたりしていて、「大人に頼まれる以外で絵を描くのは初めて」と言いながらも、ものすごく細密な紫陽花を描いていた。そして、絵が好きなのか問いかければ「わからない」なんて言ったりした。他にも絵のうまい子達はいたけど、皆、小さい頃から練習してきたと言っていた。



「俺、昔びっくりするくらいヤンキーでさ、あー……今もしかしてヤンキーって死語か? 不良でさ。そんな時に姉貴がバイクとかで暴れるくらいなら、絵でも描いてろって俺のこと更正させてくれて。姉貴のことかっけえなぁって教師になったんだよ。姉貴、委員長の標本みたいなタイプでさぁ。ま、今は俺の方が絵上手いけどな」


 わはは! とだいちゃん先生は豪快に笑った。かと思いきや、「そういやお前兄弟いたなぁ……あれ、いなかったか?」と沖田くんの肩を叩いた。


「弟たちが……」


「どうだ? 元気か?」


「まぁ……そこそこですかね……」


「そーかそーか。兄弟大事にしなきゃ駄目だぞ? ちゃんと、お兄さんのことも」


 だいちゃん先生が付け足すと、沖田くんが「はい……」と複雑そうに返事をした。先生はそのまま、「水汲んでくるわ!」と教室を後にする。なんとなく、さっきの電話を聞いたこともあって、沖田くんとは気まずい。


 かといって真木くんだけに話しかけるのも仲間外れみたいだ。それに、真木くんは先生の絵をじっと見ていて、邪魔をするのも申し訳ない。私は結局、無難な話題を沖田くんに持ちかけた。


「ぶ、文化祭……楽しみだね」


「おう。俺、一番文化祭好きだわ」


 どうやら、大丈夫な話題だったらしい。沖田くんは表情を和らげた。


「つうか、この高校入ったのも、文化祭見ていいなって思ってたからでさ。三回くらい来たことあって、お化け屋敷とか、遊園地とかの本格的なやつより、文化祭の手作り感があるほうが好きで」


 お化け屋敷は、真木くんが嫌うから行ったことがない。真木くんは暗闇が苦手で、特に閉所と暗闇の組み合わせは最悪だ。お化け屋敷は、前を通るだけでも身体を強ばらせているくらいだった。だから中学のころも、高校の時も、お化け屋敷をしているクラスの前は通らないようにしていた。


 でも、行ったことはないまでも、なんとなく遊園地と高校の文化祭のお化け屋敷が違うことも分かる。


「あと……あれ、文化祭終わるとさ、最後に風船飛ばすじゃん。ぶわって。それが好きでさ」


 沖田くんの言う通り、高校の文化祭では最後にみんなで風船を飛ばす、バルーンリリースのイベントがある。生徒会主催で、文化祭の終わりを示すとともに、それまで準備をしていた生徒たちへのねぎらいの意味もあるらしい。沖田くんは目を輝かせながら、青空の広がる窓へと目を向けた。


「もし、文化祭を開く側で、この景色見れたらどう思うんだろう……って思ってて、去年も文化祭委員やってすげぇ良くてさ、だから今年も文化祭委員に立候補してさ」


「そうだったんだ……」


 文化祭は、楽しい行事だと思う。中学校の頃、色々行事があったけど、思い出すのは文化祭だ。でも、ここまで文化祭に思い入れを持つ人がいるなんて考えもしなかった。成功させたいな……と思う。なんだか、文化祭委員になってしまって嫌だなぁと感じたのが、申し訳ないくらいだ。


「私、頑張るね」


「おう、がんばろうぜ園村」


 沖田くんがガッツポーズをしながら笑った。すると、それまでじっとだいちゃん先生の絵を見ていた真木くんが沖田くんに顔を向ける。


「沖田……」


「ん? 真木どうした?」


「俺も頑張る……だから、俺からあんまめーちゃん取んないで……」


 ぎゅう、と真木くんが私の裾を握りしめた。沖田くんは「なんか、真木って園村の弟みたいだよな」と笑っているけれど、どことなく真木くんの様子に違和感を覚える。


「文化祭の話……して……」


「はは! 乗り気だな真木! じゃあ、俺らの出し物について考えますかぁ!」


「ん」


 真木くんは先生の絵から離れて、私と沖田くんのそばに立つ。長い前髪をたらしているからその表情は見えないけれど、これまでの経験上、どうにも真木くんが文化祭に乗り気なようには思えなかった。


◆◆◆


「あー終わった……。めーちゃんお疲れ様」


「うん、お疲れさま、真木くん」


 放課後の公園で、二人並んでベンチに座る。真木くんが地面に向かって伸びをしながら、ふぅ、と一息ついた。俯く真木くんは肩にかかる髪の長さも相まって、女の子に見える時もある。彼は髪の長さにこだわりがあるようで、もうかれこれ五、六年はこの髪型だ。


 私は真木くんのふわふわした猫っ毛に触れながら、赤くなっていく夕焼けを眺める。


 朝にした文化祭の打ち合わせの結果、明日の朝、内装係や衣装作成のリーダー決めをすることになった。今朝でも良かったけれど、人身事故があったことであまり人が集まらず、放課後もすぐに委員会があって出来なかった。


 そうして文化祭委員会も終え、私たちは公園で休憩している。


 バスの乗り換えの中継地点であるこの公園は、私と真木くんの家から学校までの中間地点でもある。そして天気のいい日の帰り道はここのベンチに座り、適当な話をしてから帰るのが習慣だ。


 大抵第一声は、お疲れさま。さっきまで一緒に歩いていたけれど、なんとなく染み着いた癖のようなもので真木くんもつい言ってしまうし、私もつい言ってしまう。


「今日も一日だるかった……」


「あ、真木くん。委員会も一緒に来てくれてありがとうね」


「んーん。気にしないで……」


 はじめ、真木くんを文化祭委員会に連れて行っていいのかな……? と不安に思っていたけれど、委員会にはボランティアスタッフという枠があるらしく、彼の存在は受け入れられていた。文化祭委員の友達を手伝いに行く、なんてことも多いみたいだったし、本当に良かった。ただ、失敗をしないか警戒はされていたけど……。


 それにしても、今日は大変だったなぁと伸びをしていると、真木くんがぼそりと「沖田」とつぶやく。


「ん? 沖田くんがどうかしたの?」


「あんま、近く行かないで……めーちゃん朝、近かったよ、沖田と」


 じっとりと、拗ねた目で真木くんは私を見た。「分かった」と頷くと、「分かってない」と唇を尖らせる。


「分かってないよ……なんにも。めーちゃん、次沖田と近い近いしたら、俺、怒っちゃう……」


「えぇ、で、でも、文化祭委員で一緒に仕事するんだよ? それに、言うほど近いかな……」


 思い返してみても、隣の席になった程度にしか沖田くんとは近付いていない。しかし真木くんは「むー」と、抗議するように私の袖を握りしめる。


「もう、おうち帰る。めーちゃん分かってくんない……」


「えっちょっと真木くん!」


 真木くんは立ち上がると、私の手を取りどんどん歩きだした。なんだろう。今日の彼は機嫌が悪いように思う。朝も様子が変だったし……。あやすように「真木くん、ちょっと話しよう? 止まって、ね?」と声をかけていると、「やあだ」と間延びした返事がかえってきた。


「真木くん、なんか沖田くんに対してだけ、ちょっと変だよ」


「変じゃないよ……」


「だって、今までそんなこと一度も言ってこなかったし……」


「沖田が変だからだよ……」


「沖田くんになにかされたの?」


「されてない。めーちゃんに意地悪されてる……いじめられてる……うぅ」


 そう言って、彼は立ち止まる。気づけば公園を出ていて、辺りを見渡すと住宅街が広がっていた。この場所は来たことがない。公園からはそう遠くないはずだけど、石造りの塀や、トタン屋根のアパートのどれもに見覚えがなくて、漠然とした不安を抱いた。


「真木くん、おうち帰ろう?」


「ここ泊まる」


「真木くん……」


「泊まるの……」


「とにかく一度公園に戻ろう?」


 彼の手をしっかり握り、踵を返そうとすると、ふいに握っていた手が引っ張られた。


「芽依菜」


 ぼそっと、いつもより低い真木くんの声が耳をかすめる。それと同時に私たちの後ろからパーカーを着た男の人が通り過ぎて、すぐに「待て!」と、こちらに向かって警察官の人が駆けてきた。状況も把握できぬまま、邪魔にならぬよう立ち止まっていると、警察官は、あろうことか真木くんの腕を掴んで取り押さえてしまった。

「公務執行妨害で現行犯逮捕! ったく、手間かけさせやがって」


 警察官の手によって、真木くんの腕にがちゃりと手錠がかけられる。私は一気に血の気が引いた。


「え? ま、待ってください、なにかの間違いです! 真木くんが一体なにを?」


「は? あれ、人質……?」


 警察官の人が、眉間にシワを寄せた。なんで真木くんが逮捕なんて……? どこかに突っ込んで器物破損とか、線路の中に間違って入っちゃったとか、逮捕されるとしてもそういうことのはずだ。公務執行妨害なんて絶対しない。絶対に誤解している。


「君、こいつとどういう関係?」


「お、幼馴染です。高校が一緒で……それで、あの、真木くん、真木くん何もしてないはずです。絶対、誤解で――」


 なんとか真木くんを離してもらう為、説得を試みようとすると、警察官の人は「ひとまず君も事情を聞くから」と、全く取り合ってくれないまま、私たちは警察署へ連れられてしまったのだった。


◇◇◇


「犯人逃しただけじゃなく見間違えて市民に手錠までかけた挙げ句、警察署に連行するなんて何やってんだお前は!」


 そう言って、私の前に座るスーツの女の人が机を叩き、物々しい音が応接室に響く。女の刑事さんの隣には、先程真木くんを捕まえた警察官の人が立っていて、じっと頭を下げていた。


「本当に、申し訳ございませんでした。迷惑をかけてしまって……」


 あれから私と真木くんは警察官によって警察署に連れてこられた。けれど到着して早々に、今目の前で申し訳なさそうにする女の人の手によって、真木くんの手錠は外され、私たちは応接室に通された。状況から察するに、真木くんの逮捕は間違いらしい。彼は自分の腕をじっと見つめ、手錠をかけられていたところをさすっている。


「東条も謝りなさい」


「ご、ごめんな、きみたち」


「馬鹿じゃないの? 貴方それ、自分より年上の相手を間違えて取り押さえて! 手錠をかけて警察署に無理やり引っ張り込んだ時も同じように謝るの?」


「それは……」


 さっき真木くんを捕まえた警察官は、東条さんというらしい。東条さんはばつが悪そうに「この度は、申し訳ございませんでした」と頭を下げる。


「気にしなくて、いーです。痛かったけど……」


 真木くんは私の袖をきゅっと握りしめた。そして窺うように東条さんを見ている。一方、東条さんの上司らしい女の人は、「もし、学校で今日のことが他のお友達に見られて困ったことがあったら、すぐ言ってね。ここに連絡先が書いてあるから」と、名刺を差し出してきた。


 女の人は、乃木さんというらしい。真木くんは乃木さんの名刺を受け取ると、「失くしちゃうからめーちゃん持ってて」と渡してきた。そのやり取りに、目の前の二人は怪訝な顔をする。私は慌てて、「失くし物が多くて、他意はないんです」と付け足した。


「そうなの……? でも彼、高校生よね……?」


「はい。真木くんはあんまりそういこと、得意ではなくて」


 乃木さんは「なるほどね……」と、それ以上追求することなく口を閉じた。改めて応接室のまわりを見渡し、もう帰っていいか切り出そうか悩んでいると、何人かの足音がこちらに向かってくる音がして、バンッと扉が開かれた。


「大変です! 東条が逃した沖田、捕まりました!」


「今行きます!」


 東条さんは、音を立てて椅子から立ち上がると、足早に部屋を後にしようとする。しかしすぐに乃木さんに、「貴方はその子達を見送って」と命じ、部屋を出ていった。さっき、外にいる刑事さんは「沖田」と言った……?


「じゃあ、署の出口まで送って――送りますので、こちらどうぞ」


 東条さんが嫌そうに私たちを廊下へ出るよう促した。真木くんは今日情緒が安定しないし、早めに帰ろうと彼を気遣いながら廊下に出た。すると、「暴れるな!」「押さえろ!」と、騒動が起きたような声とともに、ばたばたと人が駆けてきた。


 こちらに走ってくるのは、どこか見覚えのある男の人だった。もしかして昨日真木くんとぶつかって、舌打ちをした人かもしれない。今日は昨日と違う作業着姿で、背中に工場かなにかの名前が書かれている。男の人は逃げようとして、一直線にこちらに走ってきて――すぐに警察官の人たちに取り押さえられてしまった。


「離せっ、俺はなにもしてねえって言ってんだろ!」


「じゃあ何でお前三回も逃げてるんだよ。職務質問で逃げるってことはなんかやってるよなぁ? 何もしてないやつはなぁ、警官突き飛ばして逃げたりしねえんだよ!」


 そう言って押さえつける警察官に、男の人は「どけよ!」と怒鳴り、反抗している。抵抗する男の人の作業着の下には、今日真木くんが着ていたのと同じような、真っ黒いパーカーが見えた。もしかして、真木くんはこの人と間違えられて逮捕されたのでは……?


「兄貴!?」


 観察するのもつかの間、私は警察署の出入り口に立つ人影に唖然とした。そこには、制服姿で顔面蒼白にした沖田くんがいたのだ。彼が「何してるんだよ」と怒鳴ると、男の人は先程まで抵抗していた力を緩めたように見えた。すると警察官の人たちは男の人を取り押さえてしまった。そのまま彼が連行される一方で、沖田くんは目を見開き、私もどうしていいか分からず動きを止める。真木くんは、ぼーっと床を見ていたかと思えば、「めーちゃんのおかあさん、こんにちは」と、場違いなほどのんびりした声で手を上げた。


「芽依菜、真木くん……え、いったいどうしたの?」


「園村警部?」


 お母さんが廊下の先からやってきて、東条さんが私とお母さんを見比べる。「母です」と私は伝えた後、お母さんに近寄った。


「実は、真木くんが間違えて逮捕されちゃって……」


「真木くんが?」


 お母さんは怪訝な顔で真木くんを見た後、東条さんに「何があったの?」と問いかける。東条さんが「自分が、間違えて署に連行してしまい……申し訳ございません」と頭を下げた。


「事情は後から聞くけど……、えっと、あの子は芽依菜の知り合い?」


「沖田くん、同じクラスの……文化祭委員一緒にするって言ってた……」


「ああ、容疑者の弟が……」


 私が沖田くんについて説明すると、お母さんはそう呟いて、彼へと近付いていく。


「ごめんなさい。お兄さんには今捜査中の事件の話が聞きたくて、しばらく署にいてもらうことになると思う。お兄さん以外の大人のひとの連絡先は分かる?」


「じいちゃんと、ばぁちゃん……でも、新幹線で来なきゃいけないから、迎えには……」


「分かった。とりあえず、君の帰宅には責任をもつから、こっちに来てもらってもいい?」


「はい……」


 沖田くんはがっくりと肩を落としながら、お母さんについていく。お母さんは東条さんに、「二人を家まで送り届けてもらえる?」とお願いして、沖田くんを伴い署の奥へと歩いていった。


「では、パトカーで家まで送るので……」


 東条さんが、バツが悪そうにこちらへ振り返る。そうして私たちは、警察署から家へと帰ることになったのだった。


◆◆◆


「今日は大変だったね真木くん……」


 あれから、私たちは家の前まで送ってもらって、いつもより三時間ほど遅れて帰ってきた。いつもは暗闇が嫌いな真木くんの為、暗くなる前に帰るようにしているけれど、もう空はすっかり群青色に染まっている。頼りなさげな外灯と、ぽつりぽつり点いている住宅街の光だけが、物の輪郭をはっきりさせていた。


「うん。手錠やられたとこ、いたい……」


 真木くんはさっきからずっと腕をさすっている。後で保冷剤とかで冷やして、クリームも塗っておかないと。あと、治った後は掻いたりしないよう、包帯を巻いたほうが……。あれこれ真木くんの手当てに就いて考えていると、彼は「めーちゃん」と、甘えるみたいに名前を呼んできた。


「沖田の、お兄ちゃん、人殺しなの?」


「え……?」


「だって、めーちゃんのお母さんって、人を殺したり、襲ったりする人を捕まえる人、なんでしょ?」


 確かに、私のお母さんは捜査一課の刑事で、殺人や強盗の捜査をしている。窃盗や万引、不法侵入とかは、別の部署だ。喧嘩とかも別になるから、お母さんが沖田くんを連れて行ったということは、彼のお兄さんがそういった事件を起こしたということだ。


「殺人鬼は、みんなとさよならするんだよね……? 沖田もさよならする?」


「分かんないけど……でも、お母さんがきっと犯人捕まえてくれるよ」


 安心させるために、真木くんの背中を撫でる。けれど彼は「捕まえられないよ、悪いやつなんて」と、そっけなく呟いた。


「めーちゃん」


「なあに?」


「めーちゃん」


「めーちゃんは殺されたりしないで、ずぅっと俺の隣で、笑っててね」


 そう言って、真木くんが私の二つ結びの髪を撫でる。その目はどこか暗闇にも似ていて、なにを想ってのことなのか、いまいちわからない。


「真木くん?」


「なんでもなーい」


 彼は「入って入って」と私を、私の家の玄関の前へ押していく。恐る恐る鍵で扉を開くと、「またね」と、真木くんは玄関の門から動かない。私が家に入るのを、待ってくれているのだろう。手を振ってから慌てて家に帰ると、ちょうどお父さんがぱたぱたと駆けてきた。


「おかえり芽依菜、真木くん、誤認逮捕されたんだって?」


「ただいまお父さん」


 どうやら、夕食の準備の最中らしい。そこはかとなく、ごま油や炒めた野菜のいい匂いがする。「なにかの犯人と間違えられたみたいで」と話を続けながらスリッパに履き替え手を洗っていると、お父さんが「たぶん、これだろう」とスマホを見せてきた。

「この間から続いていた連続猟奇殺人があっただろう。あれの容疑者が捕まったらしい」


「え……」


「事情聴取をしようとして、逃げて、公務執行妨害での逮捕らしいが――二十そこらの若者みたいだ」


 お父さんの見せてくるサイトには、道路で取り押さえられる容疑者の写真があった。そこにはさっき見た男の人――沖田くんのお兄さんらしき人と同じ服装をした男の人が、沢山の警察官に取り押さえられるところが、スマホの写真におさめられていた。


「ひとまず、これで事件が収まったのはいいけれど、悲しいなぁ」


 そう、お父さんが悲しげにスマホの電源を落として、「じゃあ夕食、あと温めるだけだから」と、洗面台を後にする。でも、その後をすぐ追う気分にもなれず、立ち止まる。


 沖田くんのお兄さんが、人殺し――? 


 テレビでは、その猟奇性を散々指摘されていた。あまりに残酷なその遺体への振る舞いから、ずっと、自分たちの世界から遠い、身近じゃない、そんな人だと思っていた。


 でも、恐ろしいと思った事件の犯人が、クラスメイトの兄弟かもしれない。どこか画面越しで他人事だったそれが、ひたりと真後ろに突きつけられたようで、私はしばらくその場を動くことが出来なかった。


◆◆◆◆


 真木朔人は、隣人であり幼馴染でもある園村芽依菜が自宅へと帰っていくのを見送ると、その姿が消えるのを待って自宅へと帰っていった。その足取りは酷く軽く、虚ろだった視線にも意思がやどり、気怠げだったリュックの背負い方すら変わっている。


 彼の両親が購入した5LDKの玄関に繋がる廊下は、明かりが灯されていないことで、闇へと続くように伸びているにも関わらず、そんな暗所を転ぶこともなく、昼間とは打って変わってすいすいと真木は歩いた。


 朝に体操着を落とした手つきとは打って変わって、平然と手洗いを済ませると自分の部屋へと続く階段を登る。ポケットからリングにいくつもの鍵がつけられているキーケースを重怠そうに取り出して、特に迷うこともなく鍵を選び、部屋を開けた彼は、デスクに座ってパソコンを起動させた。


 パスワードを打ち込み、網膜認証を経てようやくログイン可能となったそれで、いくつかのアプリを開いた後、写真フォルダを開く。


 パソコンに表示された画面には、見るも無残な姿の男性や、血なまぐさい殺人現場の画像が並ぶ。およそ人だったものが、朝に出されるゴミのように詰められたもの、目玉に損壊が見られる八十代の男性、そして、オレンジジュースが散乱した車道に、懺悔させるように伏せた男の姿。


 それは、紛れもなく巷で話題になっている猟奇殺人事件の死体の画像だった。やがて彼は溜息を吐いて、家の玄関や、壁、庭先の映った画面を開いた。そこは紛れもなく、彼の隣に住まう園村家の玄関先や庭を写した映像で、夜間、泥棒でもいなければ通ることもない場所を映し出している。


 その後、彼はまた別のシステムを起動させ、園村芽依菜のトークグループのアカウントを、淡々とした眼差しで眺めた。そこには、先日沖田が芽依菜に対して送ったトークの形跡が表示されている。


 真木は頬杖をついて、じっくりとトーク履歴を眺めた後、窓際のカーテンを見つめた。ぴったりと閉じられた布と硝子の向こうは、園村芽依菜の部屋のベランダがある。


 彼の両親がここに引っ越してくる時、「隣人の部屋の距離の近さ」について、不動産屋は何度も確認した。それは真木家がこの家に目星を付ける前、資料だけで契約手前までいった夫婦が隣人との距離の近さに気づき、不動産を詐欺師だと罵り、揉めたからだ。


 こんな距離が近いなんて聞いていない、隣人がおかしい人間だったらどうするんだ。騒音だって問題があるだろう。夫婦の言い分は妥当と判断され、契約はすぐに取り消された。


 以降、真木たちがこの家に越してくるまでの間、部屋と部屋の距離の近さによって、ずっとこの家は家主を失っている状態であった。そんな、いわく付き扱いをされている窓とその先を見つめ、真木は「めーちゃん」と、聞こえるはずもない幼馴染へ声をかける。


「ずっと、俺が見てるよ。だから、安心してね」


 そう呟く言葉通り、真木のパソコンのホーム画面は、彼の隣人である園村芽依菜の写真で埋め尽くされていた。



 沖田くんの兄が逮捕された翌日。彼は取り乱す様子もなく、学校に来た。クラスでは彼のお兄さんが捕まった話題なんて誰もせず、そもそも知られていないらしい。朝教室に入ると、彼は相変わらずクラスの中心で、男子たちと盛り上がっていた。多分、クラスの雰囲気を見るに、私と真木くんしか知らないのだろう。


 一旦席について、真木くんが怪我すること無く着席したのを確認した私は、沖田くんのもとへと向かった。


「沖田くん」


「あぁ、園村……どうした?」


 声をかけると、彼は目に見えて戸惑った顔をした。その為か、彼の周りにいた男子たちも首を傾げた。「文化祭委員だったっけ」なんて言いながら、向いてくる視線は居心地が悪くて、きゅっとスカートの袖を握りしめる。


「文化祭のことで、皆にアリスのこと発表したりした方がいいかなって……今日、電車の遅延も部活動も無い日だし」


 今日は業者が校庭に入るようで、朝の部活動は取りやめになっている。教室を見ても大体の人が揃っていて、ざっと見る分にまだ登校してきてない人はいないし、ちょうどいいだろう。沖田くんは「あ、わりい完全に忘れてた」と、慌てて教卓へ歩いていく。


 彼は黒板の前に立つと、「ちょっといいかー」と、大きな声を響かせた。今度は教室の視線がこちらに集中する。私は「文化祭委員からのお知らせで、提案があって」と付け足した。


「童話喫茶って最初はざっくり決めたけど、出来れば内装で使う布? とかどうせなら衣装と共用で使いたくて、それでカフェって言ったら紅茶とかケーキだからさ、不思議の国のアリスで統一したいんだけど、みんないい?」


 沖田くんの言葉に、教室の皆がざわついた。いい反応なのか、悪い反応なのか判断がつかず、沖田くんに「多数決取ったほうが良いかな」と問いかけると、彼は「大丈夫だろ」と平然としていた。


「よさげ? いいならそれでやっちゃいたいんだけど」


「おっけー!」


「アリスかわいいからいーよ!」


 クラスの中でも、目立つ吉沢さんが返事をした。するとそれが合図みたいに皆口々に同意していく。目に見えて反対する人はいない。ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、「あのさー」と和田さんが手を上げた。


「衣装ってどうすんの? 持ち寄り? それとも予算で作るの?」


「着たいものがある人は持ち寄りで、ない人は予算で作れればって思ってる。ただ予算には限りがあるから……」


「飲食の材料費とかもあるよね、だいたい一人あたりいくらくらい衣装の予算ふれそうか考えてる?」


 その質問に、どきりとした。そこまでは考えてない。私は必死に頭を働かせるけれど、出た言葉は「ごめんなさい、け、計算します」だった。消去法から行くんだったら、カフェという以上食べ物から確保していかなきゃいけない。


 後の予算もあるから、今すぐに出せない。クラスメイトたちは一気に不安な顔をして、私は申し訳無さでいっぱいになった。


「あ、メニューとか、全然そっちで決めていいから」


 沖田くんと仲のいい男子がばっと手を上げて、空気を変えるように笑った。


「そーそー、去年うちのクラス皆の意見聞いて変なのになっちゃったしね」


 そう言って頷くクラスの子の瞳には明らかな落胆が混じっている。沖田くんが気まずそうに、「えーっと、とりあえず今日はアリスでいいかってだけだから、また予算について今日みたいに話するな」と、締めくくると、やがてクラスはいつもの雑談へ戻っていった。


「ごめん、沖田くん」


「いや、俺も文化祭委員だし。つうか園村なんか後から入ったわけだし、謝んないで」


「でも、沖田くんは忙しいはずで――」


 言いかけて、私は口を閉じた。教室では、絶対触れられたくなかった話題のはずだ。気まずさに視線を落とすと、「ちょっといい?」と沖田くんに廊下へと促される。一度真木くんの方を見ると彼は寝ていて、机に吸い寄せられるように伏せていた。目を離しても、怪我をすることはないはずだ。少し安心してから、沖田くんと共に廊下へ出る。


「えっと、園村の親って、刑事――なんだよな?」


 教室から出て、少し歩いたところの階段の踊り場で、沖田くんは周囲を確認しながら尋ねてきた。頷くと、「そっか」と言ったきり、何か言ってくる気配はない。クラスの人たちにバラされることを心配されているのだろうか。


「クラスの人に言ったりしないよ。捜査のあれこれは言っちゃいけないって、決まってるし」


「それは助かるんだけど……あの、兄貴のこと、気にしなくていいから」


 まるで予期していなかった言葉に、私はあからさまに戸惑ってしまった。お兄さんと怒鳴り合うみたいな電話をしていたし、気にしなくていいというのもあながち強がっているようには見えない。


 これではまるでお兄さんに対して嫌悪を抱いているみたいだ。そういえば昨日、両親とは連絡が出来ないということを言っていた気がする。沖田くんには、なにか、複雑な事情があるのだ。


「……わ、私は、その、誰かの家庭環境に首を突っ込んだりとか、そういう気はないから安心してほしいというか……」


「違う、そういう意味じゃなくて。俺のこと心配しなくてもいいってこと」


「え?」


「なんか今日、心配もろに出してる顔で見られたから。そんなんじゃクラスの奴ら誤解するだろうし、真木も気にするだろ」


「あ、ああ。ごめんね。確かに私が沖田くんのこと見てたら、沖田くんになにかあるって思われるよね、ごめん……」


「それも違う。園村が俺のこと好きとか、俺が園村のこと好きとか、そっち系」


 そこまで言われて、ようやく意味を理解した。先週、クラスの子が特定の男子にしか物を貸さないとかで、なんだか色々噂されていた。そんなこともあるわけだから、変な動きをされていたら誤解されるだろう。


「園村、いっつも真木見てるからさ、俺なんか見てたら余計目立つし」


「ごめん……そこまで考えてなかった」


「マジ園村謝りすぎ。今日のことだって全然謝んなくていいことだし……つうかどうする? クラス予算とメニュー。色々投げっぱにされたけど」


 沖田くんが、ちらりと後ろの教室に視線を向けた。今までの文化祭を思い出すと、だいたいドリンクメニューは五種類、それにケーキやクッキー、パンケーキだった。お客さんの入りは去年の文化祭の名簿を借りるとしても、メニューは工夫して安くしないと……。


「最初にメニューだけ決めたほうが良いと思うんだよね。なるべく安く済むようなもので……それでなんだけど、必須の物と買い出しの店のリストアップと、想定できる予算組み、私がやっておくよ」


 今日、私は全然お仕事しきれなかったし、気にするなと言われてもやっぱり沖田くんのお兄さんは今、大変な状況なわけで、仕事の分担は真っ二つにすれば出来てしまうけど、今の状況の沖田くんにはそれすら大変な状態だと思う。


「それじゃあ全然俺の仕事ないし、園村への負担がでかいじゃん」


「チェックとかは一緒にやってもらうし、その、黒板の前に立って話をするのとか、私上手く出来てなかったし……」


「でも……じゃあ学校でやる時、教えて。そのときになったら、マジ手伝うから――」


 沖田くんの話の途中で、鐘が鳴ってしまった。彼は「教室戻るか」と、廊下を進み始める。私も遅れないよう後を追い、教室へと戻ったのだった。


◆◆◆


 去年カフェをやったクラスや、劇をやったクラスの予算を見て、衣装や内装、飲食代の予算を割り出すことは、比較的簡単に出来た。ただ、どこのクラスも赤字にならないよう、きちんと利益が出るようぎりぎりの予算を組んでいた。


 中には知り合いの喫茶店から賞味期限の近いケーキを貰ったから仕入れは0円とか、その日限り、その場限りの費用もあって一応予算は組めたものの、相当切り詰めないと厳しい。


 流石にアリスカフェで制服での接客というのは世界観を壊してしまうし、食べ物が一種類の喫茶店もよくないから削るとしたら内装費だけど、そこもそこで削ってしまえば世界観に響くし……。


 なんて、問題はまだまだ山積みだけれど、新たな問題が出てきてしまった。


「沖田くん、今日も休み……?」


 朝、いつもどおり登校してくると、沖田くんの姿が無かった。不思議の国のアリスモチーフの喫茶店にしようと決めてからというもの、沖田くんは休み続けている。クラスの男子が連絡しているらしいけれど、メッセージに既読がつかないらしい。電話にも出ないけれど、一応学校には連絡しているらしく、先生たちは沖田くんの欠席について知っているようだった。


 となると、欠席理由はお兄さん、ということになる。だいたい逮捕されてから一週間くらいだけど、沖田くんも捜査に協力したりしているのだろうか……。


「ほら、真木くん学校着いたよ。椅子に座ったら寝ていいから。ね?」


「ねむ。ねむむ」


 一度沖田くんについて、先生に聞いたほうが良いだろう。私は真木くんを椅子に座らせつつ、教室を後にする。だいちゃん先生は、美術室か、美術準備室……もしくは職員室にいるだろう。教室から一番近いのは職員室だ。


「失礼します……二年七組の園村です」


 早速職員室に向かって名前を名乗り、だいちゃん先生がいないか尋ねると、非常勤の先生が呼びに行ってくれた。職員室は教室三個分くらいの大きさだけど、出入り口は一つしか無く、生徒は中まで勝手に入っちゃいけない決まりだから、出入り口近くの先生に呼びに行ってもらうことが多い。職員室内では所々ミーティングや打ち合わせが行われていて、「猟奇殺人について、生徒の放課後の寄り道について注意するように」と、不審者情報などのプリントが貼られたホワイトボードが置かれている。


やがて非常勤の先生が戻ってきて「今席を外してるみたいだ。多分美術室か美術準備室にいるんじゃないかな」


「ありがとうございました。失礼致します」


 私は職員室を出て、そのまま廊下を歩き、美術室のある西側へと向かっていくと、ぽんと肩を掴まれる。


「きゃっ」


 私はあまりに驚き、悲鳴を上げてのけぞってしまった。心臓がばくばくしながら振り返ると、だいちゃん先生が驚いた様子で立っていた。


「わりい、驚かせるつもりはなかったんだが」


「あ、こちらこそごめんなさい……大きい声出しちゃって……」


「それよりどうした? こんなところで。この先は美術室以外無いぞ?」


「えっと、沖田くんについて聞きたいことがあって……」


 さっき、驚きすぎたせいか気持ちが悪い。俯きがちに答えると、先生は時計を確認して美術室を指差した。


「授業の準備しながらでいいか?」


「はいっ大丈夫です」


 美術室に入ると、だいちゃん先生は黒板の横にある扉を開け中に入ってしまった。美術室と美術準備室はつながっており、先生だけが行き来していいという決まりは、美術の授業の一番最初のオリエンテーションで聞いた。美術準備室の中は教材はもちろんのこと、先生がテストの問題用紙を作ったり、テストの採点をするのにも使っているらしい。私は少し扉から離れて立ち、美術室の中を見渡した。


 中は教室を半分に分けるように、大きな長机が二つ置かれている。壁には賞を取った生徒の絵がかかっていて、教室の後ろの方には作品を乾燥させる棚や、美術部の人が描いて置きっぱなしになっているらしいイーゼルが立てかけられていた。


 まるで教室後方を守るように並ぶ絵を眺めていると、その中に先生の描いていたらしい絵がある。この間はB5くらいの、数学や生物のノートと同じサイズだったけれど、今回のは人ひとりが横になったくらいの長さがある長方形のパネルに、アクリル絵の具で描かれていた。


「あ、それか? この間のは試し描きで、それが本描きなんだ。でかい絵描く前は、小せえのにラフ描いて色とか試しで見るんだよ」


 先生が隣に立った。真っ黒な……それでいて青っぽい背景には、うっすらと金地の蜘蛛が描かれ、中央には天へと手を伸ばす着物姿の女の人がいる。着物は赤地で極彩色の花々が咲き乱れていて、それも目を惹くけれど、一番目立つと思ったのは女の人の肌だった。


「すごいですね、生きてるみたい……」


「今度のコンクールに出すんだよ。ちょうど文化祭の次の日が締め切りなんだ」


 何度も何度も執拗に細密に塗られた肌は、まるで本物みたいに見えてしまう。女の人の瞳は閉じられているけれど、今にも目を見開いて、こちらに迫ってきそうな気がした。


「で、沖田のことなんだが……園村お前、家は空木町の方で使ってる上り線だよな? 帰りに、ちょっとあいつの家まで様子を見に行ってもらいたいんだが……」


「え……」


「あいつ、休むようになった日の前日にしばらく休むって連絡来たんだけどさ、今日金曜日だろ? 電話しても出ないから先生が行きたいんだけど、会議あってなぁ。園村、悪いんだけど家にいるかだけでもちょっと見てきてくれないか?」


 先生はすごく困った様子だ。私も文化祭のことで話もある。それに、やっぱりお兄さんのことを知っている以上心配だ。他の誰かが行くより私が行った方がいいかもしれない。あんまり人に知られたくないだろうし……。


「分かりました。早速今日の放課後、様子を見てこようと思います」


「ほんとか! じゃあこれ、住所のメモ渡しておくな! 夜道気をつけろよ? 」


 だいちゃん先生は私にメモを渡すと、笑みを浮かべた。メモには私の家と結構近い住所が書かれている。休み始める前日に連絡が来たということは、文化祭委員についての話をした日から連絡が取れていないということだ。いったいどうしているんだろう……。不安に思いながら美術室を後にすると、扉から出たすぐのところで真木くんがしゃがみこんでいた。


「ま、真木くん!?」


「ああ、めーちゃん。おはよ……」


 真木くんがゆったりとした動作で立ち上がり、大きな欠伸をする。「迎えに来てくれたの?」と問いかけると、彼は頷いた。


「沖田いなくなったと思ったら、今度はだいちゃんせんせーのところ行っちゃったから、寂しくなってついてきちゃった……」


「来るまで転んだりしてない……? スマホとお財布ちゃんと持ってる?」


 真木くんと教室に向かって歩きながら、私は床や辺りを確認する。彼はよくものを落とすから、財布やスマホを落としてないか不安だ。


 特に真木くんは、スマホをよく落とす。面倒臭がってSNSの類をやらず、電話のみに使っているためか、彼はスマホを「どうでもいいもの」「ポケットに入れていたら重い」と捉えているらしい。ぽんとそこらへんに置いてしまうし、私の部屋に置き去りになっていたことも一度や二度じゃない。さらに、私が言うまで持っていないことに気付かないから、必ず学校に行くときと帰るときにはお財布とスマホはちゃんと持っているかチェックしていた。


「うん。スマホもお財布もポケットにあるよ。それより何でめーちゃんだいちゃん先生のところになんて行っていたの?」


「沖田くん、ずっと休んでるでしょ? だから文化祭について聞きたかったのと、心配だから。あっ、あとそれと、今日帰り道沖田くんのおうちに寄ってもいいかな?」


「どうして?」


「沖田くん、あんまり連絡つかないんだって。それでだいちゃん先生に頼まれたんだ」


「えぇ……殺人鬼がうろうろしてるから、寄り道駄目って先生達皆言ってるのに?」


「うん。先生どうしても行けないらしくてさ」


 正直、沖田くんのお兄さんが犯人とは、思いたくない。でもそれらしき人が逮捕されていて、暗くならないうちに帰ってこれれば大丈夫……という、安心感もあるのが複雑だ。


「駄目、かな?」


「俺もついていっていいならいーよ……一人で行くのはやだ。ただでさえ沖田のとこだし……」


 じっとりと、不服そうな目で真木くんは見つめてきた。「俺のこと置いてったらやだよ」と、袖を握った。


「めーちゃんのせいで、俺は連れて行かれちゃったんだからね……めーちゃんが置いていったから……」


 真木くんの声は震えている。それでいてどこか縋るような声に、胸の奥がきゅっと詰まった。「置いていかないよ」と手を繋ぐと「置いていったもん」と私を見る。


「もう、置いていかないよ」


「嘘つかないでね」


「大丈夫」


 真木くんの手をひいて、私は教室へと向かっていく。心なしか彼は、私に身を預けるようにして歩いていた。


◆◆◆


 真木くんが誘拐された日、私は一人で学校から帰っていた。小学校二年生の、赤いもみじが少しずつ木から離れていくような、そんな何気ない秋の日だった。授業は、一時間目が算数で、二時間目が国語。三時間目が家庭科、四時間目は体育で、男女別れて着替えをしているときに、クラスメイトの女の子に言われたのだ。


「真木くんって芽依菜ちゃんのことばーっかり優先するけど、ただ家が隣なだけだよね? ずるいよ」


 その子は、クラスでも目立つ子だった。ピンクの髪留めをしていて、服装だっていつもオシャレだった。一年生の頃、雪の日はその子だけが大人が履くみたいなかっこいいブーツを履いて登校していて、クラスの女の子達の憧れだった。


 ただでさえ、どう返していいか分からない言葉が、周りからの非難の目も感じてしまい、もっと口から出なくなった。でも、きっと真木くんのことが大好きだったその子にとって、ただ家が隣なだけで理由なく隣に立っている私は、悪でしか無かったのだ。


「ずるだよ芽依菜ちゃん! 真木くん独り占めして! 私も真木くんと帰りたいから、今日は芽依菜ちゃん一人で帰って!」


 私は彼女から発せられた言葉に、頷くことしか出来なかった。それから給食で何を食べて、五時間目の授業をどんな風に受けたのか分からない。


 放課後真木くんに「先に帰るね!」とだけ伝えて別れて、私は今までずっと二人で帰っていた道のりを、一人で帰った。家で、私は真木くんのこと、明日からも一人で帰ったほうがいいだろうと漠然と考えていたその時、真木くんは、誘拐された。


 警察の人の話によれば、放課後一人で歩いていたところ、車で攫われ三時間ほど連れ回されたらしい。


 その間に何をされたかは分からないけど、信号が赤になった時、咄嗟に車から逃げ出した彼は、近くの交番に駆け込んだそうだ。


 事件の詳細を私は未だに知らない。ただ保護された直後の彼に会いに行った時、彼はがたがた震え人と話せる状態じゃなかった。物音一つにも怯えてずっと俯き、人の気配を感じれば吐いてしまう真木くんは、当然学校に行くことなんて出来ず、家から出れずにいた。


 私は何度も真木くんの両親に謝って、彼に会いに行った。日が経つにつれ何かに怯えたり、吐いたり、泣き出すことはなくなっていったものの、徐々に物事に対する気力を失い、ぼんやりし始めた。年を重ねるに連れ幼さが目立ち、言動も行動もあどけないまま止まっている。それは全部、私があの時、彼から目を離したからだ。


 眠りすぎるのも心配になるけれど、誘拐されたときの真木くんは全く眠れていない様子だった。泣いて叫ぶ時間のほうが圧倒的に多かったから、眠れているのなら……と、、彼が寝ているたびに安心しているのも事実だった。


 遊びに行くわけじゃないのに、沖田くんの家に、何か迷惑をかけてしまう可能性のある真木くんを連れて行くのはよくないと思う。けれど、真木くんを置いてどこかへ行くという選択肢は私にはない。


 そう思って私は真木くんと一緒に、放課後沖田くんの家に向かったけれど……。


「ここからどうすればいいんだろう……」


 辺りには、貰ったメモにあった町名が記された電柱が並んでいるけれど――真木くんが住所の書かれたメモを見たいと言うから見せた結果、風に吹き飛ばされてしまい、ここから先の番地がわからず途方に暮れている。


 だいちゃん先生から受け取ったとき、メモを見たものの、暗記したわけでもないからこのまま一軒一軒探していくのはなかなか厳しい。早く帰らないと、暗くなってしまうし……。


「真木くん、沖田くんの家のメモにあったアパートの名前とか覚えてない?」


「わかんない……ごめん……」


 彼はしょんぼりした様子でがっくり肩を落とした。このままだと暗くなってしまう……ひとまず目についた青薬荘というアパートのポストから名前を確認しようとすると、真木くんは私のもとを離れ、ゴミ捨てをしているお婆さんに声をかけた。


「すみません……あの、沖田って高校生のいるおうち、知りませんか……?」


「ええ、沖田……?」


 お婆さんは新聞で包んだ『危険・刃物』と書かれたゴミを持っている。包丁を捨てるところだったのだろう。他にも電球や乾電池など、名前を書いた袋や、オレンジと紫の歯ブラシをいくつも捨ててから、「あぁ、あの兄弟のいる家か」と、思い出したように呟いた。


「そこの奥のなしづかって書いてあるアパートに住んでるよ。……町内会で少し話題になったから……うん。沖田って兄弟だ」


 お婆さんは「あんたらあそこんちの同窓生かい?」と尋ねてくる。


「はい。同じクラスで」


「大変だねぇ、文化祭も近いのに。その制服、天津ヶ丘だろう?」


「はい……」


「何やってんだ! 婆さん! あんたまた勝手な時間にゴミ出して!」


 頷こうとすると、横から怒鳴り声が響いた。アパートの向かいの一軒家から、おじさんが飛び出してくる。おじさんはものすごい剣幕でお婆さんに近づいていった。


「婆さんだめだって言っただろう、夜にゴミ出すのは!」


「なんだよ。これはアパートのゴミ箱だよ。そっちとは関係ないだろう」


「関係ないわけないだろう! 決まりも守れんで、お前さん子供出てったら孤独死だぞ! 俺はこの町内の会長でもあるんだからな」


「うるさいねぇ」


 おじいさんとお婆さんは口論を始めてしまった。どうしようか考えていると、お婆さんは私に振り返り、「じゃあ、気をつけるんだよ。この辺りひったくり多いから」と、アパート一階、「大家」と書かれた表札の家へと帰っていった。おじいさんは「カメラでも買わなきゃ駄目だな」と、神経質そうな溜息を吐いて、自分の家へ戻っていく。


 今度はなしづかアパートを目指して歩いていくと、さっきの青薬荘からちょうど20メートルほど歩いたところに、「なしづか」とかわいいポップ体で書かれた表札のあるアパートを見つけた。ポストを確認すると、「沖田」と名前の書かれた部屋を見つけた。202号室だ。階段を登っていくと、バン! と音を立ててちょうど202号室が開いた。


「お兄ちゃん! どうしよう! ご飯全部焦げちゃったよー! あれ? お兄ちゃんじゃない……?」


 沖田くんが住んでいるらしい――部屋から出てきたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。魚や動物のTシャツに半ズボン姿の彼は、私たちを見て驚いた顔をしている。


「えっと……沖田くん……私たち、沖田優希くんのクラスメイトなんだけど、お兄ちゃんまだ帰ってきてないかな……」


「お、お兄ちゃんコンビニ行ってて……」


「お買い物?」


「ううん。お仕事……えっと、えっと……」


 男の子はもじもじして俯いてしまった。それと同時に部屋の中から焦げくさい臭いと、「おなか空いたよー! ごはんまだー!!」と、小さい子の泣き声が聞こえた。男の子は困った顔で目に涙を浮かべている。


「お、お姉ちゃんたち、お家の中に入ってもいいかな?」


「う、うん……」


 私は足早に、「沖田」と表札がかけられている部屋へと入った。中は少し白く煙っていて、煙が濃くなっているほうへ進むと、煙を上げた炊飯器と、そのそばで「おなかすいたー!」と泣いている女の子を見つけた。私はすぐに煙を上げている炊飯器を流し台に置いて、窓を開いてから女の子に声をかける。

「この炊飯器、触った? 痛いところない?」


「う、うん……あれ、お姉ちゃんだれ……?」


「優希お兄ちゃんのお友達だよ。同じ学校に通っているの。ねぇ、あなたのお名前は?」


「ののか……」


「ののかちゃんかぁ! もう大丈夫だから安心して? 大丈夫だから」


 頭を撫でると、ののかちゃんは泣き止んでいく。振り返ると、先程飛び出してきた男の子が、不安げな表情で真木くんの隣に立っていた。


「君の名前は?」


「興大……」


「興大くんか、お兄ちゃんお出かけしてる間、よく頑張ったね」


 今日来て良かったか。炊飯器はすごい熱を持っていたし、二人は怪我をするところだった。人の家に、勝手に上がり込んでしまった形だけど……。流しに目を向けると、ご飯はまっ黒焦げになっていて、食べられそうもない。


 真木くんとここで待ってもらって、コンビニで食べ物を買ってこようかと思うものの、ここに来るまでの間に見つけたお店は、駅に併設されている売店だけだった。


「お腹すいた……」


 人のおうちで勝手に料理するのも良くないけれど、ののかちゃんも興大くんも明らかにお腹をすかせ、お腹をさすっていたり、視線がぎこちない。「何を作ろうとしてたの?」と問いかけると「カレー」と短く答えた。


「そのカレーさ、お姉ちゃん手伝っちゃ駄目かな?」


「え……? い、いいの?」


「もちろんだよ。一緒につくろう! すぐ出来るからね!」


 安心してもらえるように言うと、彼らはやったあ! と顔を綻ばせた。


「真木くん、お願いがあるんだけど、ののかちゃんのこと見ててもらっていい?」


「いいよ……」


 真木くんは、のんびりした様子でののかちゃんの前にしゃがんだ。「よろしく……」とぼんやりした様子で声をかけている。ひとまず、ご飯はもうだめだから、二人分のカレーリゾットを作ろう。バイトをして学校に来ていないみたいだから、今日沖田くんに会えなかったらそれを報告しよう。


 私は腕まくりをしながら、興大くんと一緒に台所へ向かったのだった。


◆◆◆


「ののかちゃん。出来たよ……え?」


 電子レンジで玉ねぎや人参、じゃがいもを加熱して、大慌てで作ったカレーリゾットを盛り付け振り返ると、視界に入ったのはうつ伏せになって呻く真木くんと、「えいえい!」と楽しそうに彼に乗るののかちゃんの姿があった。


 バイクごっこをしているみたいだけど、年齢差があるはずなのに真木くんがいじめられているように見えてしまう。


「わーい! カレーだ! カレー!」


 ののかちゃんはカレーを見た瞬間嬉しそうに真木くんから飛び降りた。「ぐえ」とカエルが潰れたみたな声で真木くんが呻く。


「真木くん、大丈夫……?」


「いじめられた……子供怖い……」


「えぇ……」


 とりあえず、部屋の真ん中にあるテーブルに、ののかちゃんと興大くん、二人の為に作ったカレーリゾットを並べた。「どうぞ」と促すと、二人は「いただきます!」と声を揃えて食べ始める。


 入ったときは、白い煙に包まれてよく分からなかったけど、部屋は二部屋、幼稚園の制服や作業着、そして沖田くんのものらしい制服がかかっているけれど、大人の服は全く見られない。壁には小さい子が描いた絵が飾られているけれど、そこに描かれているのは四人だけだ。多分、兄弟たちを描いているのだろう。


 親御さんは、亡くなっている? でも、仏壇もそれらしい写真もない。どことなく目の前の家族に違和感を抱いていると、部屋の鍵が開く音がした。すぐにどたどたとけたたましい足音が近づいてくる。


「わりい、残業入っちゃって、ごめんな! 今夕食作るから――って、園村? 真木? 何でここに……」


「だいちゃん先生にお願いされて……、それで、その、炊飯器が黒焦げになってお腹すいたってののかちゃんが泣いてて、夕ご飯……勝手に作っちゃったんだ。ごめん……」


 沖田くんはちらりと台所をのぞいて、いまだ洗っても焦げの取れない釜を見る。すると興大くんが「ごめんなさい。ご飯、焦げちゃって……」と俯いた。


「兄ちゃんこそごめんな。帰るの遅くなって……幼稚園午前で終わって、昼もパンだけだったもんな。園村も真木もありがとう」


「ううん。元気そうで良かった」


 沖田くんは荷物を下ろし、洗濯かごに制服を入れ、さらに溜まっているらしい洗濯物も洗濯機に入れ始めた。冷蔵庫には手提げバッグを作る締切みたいなものも書かれていて、彼の生活が切羽詰まったものであることが分かる。


 沖田くんが、私のお母さんが警察関係者で、沖田くんのお兄さんを捕まえた側の人ではあるし、彼にとっては敵かも知れないけど、この部屋を見ているとあまりに大変そうで、私は彼のお兄さんについて切り出した。


「沖田くん、絶対今、大丈夫な状態じゃないよね……? お兄さ……」


「その話するなら、ベランダでいい? 弟たちには、まだ話ししてないんだ。仕事で忙しくなって、泊まりって言ってるから……」


 苦々しい声で制止され、私は慌てて口を噤んだ。私は真木くんに二人を見てもらうようお願いして、沖田くんとベランダに出た。


◇◇◇


「実はさ、俺らの両親もうずっと前に死んでるんだよね」


 ベランダに出て、沖田くんは外側から窓を閉めた。完全に日が暮れて冷えた寒空に喉が詰まる。震える手を隠しながら、私は彼に顔を向けた。


「え……じゃあ、もうずっとここでお兄さんとかと暮らしてたの……?」


「うん。親戚とかさ、じいちゃんばあちゃんとかも、頼れる感じじゃなくて」


 頼れる感じじゃない。それは、もしかして虐待とか、そういうのでは……。不安げな顔をした私を見て、なにを考えたのか分かったらしい沖田くんは、「あっちは俺らのこと、育てる気まんまんだよ」と、首を横に振った。


「ただ、なんつうか……、俺らはあっちで生活するの、きついんだ。園村……刑事さんたちと親しかったよな? だからもう知ってるんだろうけど、宗教で、うち」


 お母さんから、そんな話は聞いてない。それにお母さんが知っていても、絶対に言わないだろう。でも、きっと話し辛かったことだろうと、私は彼の言葉を否定できなかった。彼はそのまま、相槌を必要とせず話を続ける。


「あっちは、家は兄貴に継がせたい感じだった。でもあいつ、高校卒業したら姿眩まして……そのまま二年くらいいなくて。去年突然戻ってきたんだ。それで、家に何言ったか分かんないけど、勝手に俺らを引っ越しさせて……」


「それは、沖田くんたちを守るために?」


「分かんねえ。あいつ、何も言わない。全然家にいないし、金だけ渡してきて、かと思えばまた家出てってしてて……前と全然目つき違うし……」


 沖田くんを取り巻く環境は、およそ一人で受け止めるべき状況ではない。絶対に、大人が必要だ。でも、彼に一番近い大人は今、逮捕されている。そして他に頼れそうな大人の選択肢が彼にはない。


 過酷すぎる状況に、私は何も言えなくなった。彼を大変だと思う。でも、その痛みを代わってあげることは出来ないし、ヒーローみたいに劇的に助けられるわけでもないのに、安易な言葉を紡ぐのは無責任だ。ただ自分が心配したという証拠が欲しいだけな気がして、何も言えない。



「俺、何なんだよあいつって、すげえイライラしてた。俺が食わせてやってるみたいな顔しやがってって。俺が高校出たら見返してやるって……でも、あいつが仕事して、俺が家事とかしてて、あいつすげえ色々してくれてたんだなと思って……」


 沖田くんは、しゃがみこんでしまう。すると、カラカラ……と窓が静かに開かれる音がした。目を向ければ、興大くんやののかちゃんが不安気に沖田くんを見ている。


「にいちゃ、どうしたの?」


「どっか痛い……?」


 たたたっと二人は沖田くんに駆け寄ると、抱きついた。沖田くんは「大丈夫だよ」と安心させるように二人を抱きしめ返している。どうやら、食事は終わったらしく、おぼつかない手で真木くんが片付けをしていた。私はそっとその場を後にして、真木くんの手伝いを始める。


「ありがと真木くん。見ててくれて」


「別に……それよりお腹すいたから、早くおうち帰りたい……。通り魔いて危ないし……」


「そうだね……」


 沖田くんの話を聞くに、どうもお兄さんは犯人じゃないような気がしてならない。沖田くんのお兄さんが十八歳で姿をくらまして、沖田くんが高校生になった時に戻ってきたというのは、この家を借りるためだったんだろう。


 普通、弟たちがどうでも良かったら、戻ってこなかったはずだ。この家は、弟たちが大切で、頼りに出来ない大人たちから守りたかった証拠だ。


 だから犯人は、別にいる。


「大丈夫だよ」


 真木くんはお皿を洗いながら、抑揚のない声を発する。


「俺……昨日テレビで見たよ。沖田のおにーさん、公務執行妨害で逮捕で、とーりまでは捕まってないって。だからその間に犯人がなんかすれば、沖田のおにーさん、出てくる」


「犯人はもしかしたら、沖田くんのお兄さんに罪をなすりつけようとするかもよ」


 今、警察も世間も犯人が捕まったと安心している。だから今行動してしまえば、沖田くんのお兄さんの無実を証明する形になってしまうのだ。逆になにもしなければ、沖田くんのお兄さんのせいにできる。当然犯人は捕まりたくないわけだから、今はなにもしないだろう。


「きっとだいじょーぶだよ、沖田たちは、悪い子じゃないから」


「え……?」


「ん。それより文化祭、いいの? 沖田に話しないで」


「ちょっと、私一人で頑張ってみようと思うんだ。沖田くん、今大変だし」


「じゃあ、俺お手伝いする。めーちゃんお助け委員する」


 真木くんは、そう言いながらも半分瞼が閉じ始めている。私は慌てて洗い物を終えると、沖田くんの家を後にしたのだった。


◆◆◆


 沖田くんの家については、お母さんにメールをして、翌日に学校でだいちゃん先生に伝えた。高校生の私では、出来ることなんて限られている。それに、お金のことが関わっているだろうし、すぐに大人の人に伝えたほうが良いと思ったからだ。


 そしてだいちゃん先生はすぐに沖田くんの家の大家さんに連絡してくれたらしく、沖田くんのいない時は、興大くんとののかちゃんは大家さんに見てもらうことになった。そしてお母さんも、地域の子供について管轄しているところに連絡してくれた。ただ沖田くんが色々警察署で説明もしなきゃいけないらしく、彼は今度は仕事ではなく手続きや相談などで休んでいる。


 そうして沖田くんの家に行ってから一週間が過ぎ、私はといえば、文化祭の予算に頭を悩ませていた。


「内装に一番予算割けないのに、一番予算かかりそうになってる……」


 昼休み中の図書室で、私はスマホと予算とにらめっこをする。というのも、私はクラスで絵がうまい子たちに、内装や衣装についてどんなデザインがいいか案を考えて欲しいとお願いをしたからだ。


 そうして上がったデザインは、不思議の国のアリスに出てくるハートの女王の城や、トランプ兵などを等身大のパネルにして飾ったり、テーブルに薔薇を置き、椅子もいつも皆の使っている椅子の背もたれにカバーをかけ、クッションを貼り付けソファにするなどとても素敵なものだったけれど、明らかに内装の予算が足りなくなるデザインだった。


 でも、お願いした以上、「やっぱり全部直して」は申し訳なくて、なんとか出された案を実現できないか悩んでいる。


 隣には真木くんもいて、おぼつかない手つきでインテリア雑誌を読み、一緒に考えてくれていた。沖田くんには文化祭のことは任せてと言ってしまったし、何とかしなきゃいけないけれど妙案が浮かばない。私は文化祭のいろいろをメモしているルーズリーフを取り出した。


「ねぇ真木くん、不思議の国のアリスなら、やっぱりケーキ必要だよね」


「ん」


「削ったら駄目だよね……」


 喫茶店のメニュー候補は、チョコレートのトランプクッキーに、苺のケーキだ。ただ生の苺は高いから、いちごジャムで、ハートの女王がモチーフの赤いケーキにする予定だ。そして飲み物だけど、珈琲に紅茶、その二つが飲めない人向けにオレンジジュース、その他炭酸となると、結構大きな出費になってしまう。でもクッキーもケーキも、「出したい!」という声は多くて、出来れば叶えたいと昨夜はコストカットに取り組んでいたけど、まだまだ切り詰める必要がある。


 クッキーを既製品のものにしてチョコペンでデコレーションするか、それともケーキにどこか改善点がないか、もういっそ飲み物全てを牛乳に揃えて、味付きの粉をかけるようにしてしまうか……なんて考えていると、真木くんが私の頬をつまんだ。柔らかい触り方だから特に痛みはないけれど、何がしたいのかがいまいち分からなくて、私は目を瞬いた。


「真木くんどうしたの?」


「めーちゃんお疲れだから、りらっくすたいむ……」


「リラックスタイム……?」


「そう。あとね、明日一緒にお出かけしたい。文化祭の食べ物メニュー探ししたい」


 真木くんの持っていた雑誌は、インテリア雑誌からいつの間にかデート雑誌に変わっていた。彼はその雑誌をこちらに差し出しながら「遊びたい……」と、カフェのページを指で示す。


「じゃないと俺、秋眠するかもしんない……最近すごいねむぅだから、身体動かそうかなって……」


 あんまり動きたがらない、自分の部屋で過ごすときは絶対ベッドにしかいない真木くんが、自ら身体を動かそうとするなんて一大事だ。「どこかぶつけた?」「痛い所あるの?」と尋ねながら真木くんのだぶだぶの裾をめくったりズボンをまくったりしていると、「うー」と呻かれてしまう。


「俺がめーちゃんのこと……でえと誘うの……そんなにへん……?」


「いや、でも、真木くん動くの嫌いだよね……?」


「めーちゃんと動くのは好きだよ……歩いたり……お散歩したり……」


「同じ意味だよ……」


 真木くんは「そうかなぁ?」と欠伸しながら返事をして、目をとろんとさせ始めた。だめだ。お昼ごはんを食べて図書室に連れてきてしまったから、彼は活動の限界を迎えてしまっている。私が慌てて教室に戻る支度を始めると、彼が私の手を握った。


「こーして、お手々繋いで歩く……のが、一番幸せだもんね。ねぇ、めーちゃんは俺と歩くの……好きでいてくれる?」


「もちろんだよ」


「ほんとに……? よかかってくるの……面倒くさいなぁとか思わない……」


「思わないよ」


「なら、良いや……おやすみなさい……」


 真木くんはそう言って、目を閉じてしまった。私は慌てて肩を叩くけれど、彼は頭を伏せて「ねむです」としか答えない。


「起きて真木くん。あと十分で授業始まるよ」


「俺……机だから……真木くんじゃないでーす……」


「真木くんだよ。ほら」


「図書室では、お静かにだよ? めーちゃん」


 真木くんは「しぃー」と自分の口の前で人差し指をたててから、また眠りにつく。私はなんとか彼を揺すり起こし図書室を後にしたのだった。



 真木くんは、脱力し、やる気を失ってはいるけれど、たまに頑固なところがある。たまたま見つけたクレーンゲームのぬいぐるみを気にして、その場から動かずじっと見つめたり、公園の砂場を延々と木の枝で掘ったりして、止めてもやめなかったり。


 まれに見せるその行動力が、彼にとってどんな意味があるのかわからないものの、大切なことなんだろうと、授業と危険に関わらない時以外は見守ることにしていた。でも――、


 深夜に目がさめて、お腹の上になにかあると思っていたら、真木くんが寝ていた。


 私はひとまず彼をなんとか引っ張りベッドに寝かせると、幼稚園の頃していたみたいに一緒のふとんをかけた。おそらく寒くなって入ってきたか、明日寝坊しないよう予め私の部屋で寝ようとして力尽きたかのどちらかだろう。


 なんだか異常に喉が乾いている気がして、私はサイドテーブルに置いていたコップの水をひとくち飲んだ。私は真木くんのお腹をぽんぽんしながら、彼のふとんをかけなおす。


 真木くんが誘拐から開放されてすぐの頃、悪夢を見たり、心がどうにもならなくなったりして、彼はよく夜中泣き叫んでいた。そしてそれから一年から二年くらいの間は、大体四日に一度のペースで夜驚症が出ていた。ただただ泣いていることもあれば、叫びだしてしまったり。そして彼の両親が彼の部屋に行くより、私がベランダを伝った方が早く駆けつけられるからと、彼が泣いている時はよくベランダを伝っていた。


 でも、大きくなっていくにつれて真木くんは自分から私の部屋に来るようになった気がする。ふと夜中に目が覚めると、私の部屋で一緒に寝ていることが増えてきた。自分で症状をコントロール出来ているのかな、と思う反面、夜中にベランダを伝う真木くんを思うと、落ちてしまわないかと不安を覚える。真木くんが二階から落っこちてしまうくらいなら最初から一緒に寝よう……とも思うけど、流石にもう高校生同士だし、それはどうかな……と、悩ましい。


 私は、このまま一生真木くんと一緒でいいけれど、彼はどうか分からない。私が幼馴染で、それで彼がたまたま私のことを信頼に値すると思っただけだし、私が一緒にいることで彼の人生の阻害になってるんじゃないかなと感じる時がある。真木くんの理解者が出来る機会を、私があれこれ傍にいて親しくすることで、奪っているんじゃないかと。


 文化祭だって、お化け屋敷をもっとちゃんとした友達と楽しめていたかも知れないし、普段、映画館に行くことだってしていたかもしれない。小学校の頃の真木くんの様子から考えると、あの事件さえなければ沖田くんのように、クラスの中心で活躍していただろう。文化祭や体育祭だって、きっと真木くんが中心になってクラスがまとまっていたはずだ。


「真木くん……こわいの、とんでけ……」


 起こさないよう、そっと彼の背中をさする。真木くんを誘拐した犯人は、十九歳の大学生。まだ未成年だった。もともと小さい子供に興味があって、魔が差したというのが犯人の言い分だった。そのわりにレンタカーで用もないのに小学校の周りを彷徨いたり、子供に声をかけたりしていたらしいのに少年法で守られていて、警察に逮捕されたものの処罰は普通の誘拐事件よりずっと軽く、刑務所ではなく更生施設に送られていた。


 今、彼がどうやって暮らしているか分からない。どんな顔かは覚えているから、見つけたら分かるけど、今どこで暮らしているかは全く分からなかった。それは襲われた被害者である真木くんも同じだ。どうやら犯人に対しても人権があって、被害者と言えどむやみに居場所を教える事はできないらしい。警察官の人に何度教えてくださいとお願いしても、断られていた。


 もう二度と、怖い目にあいたくない。本当は犯人の顔なんて見たくない。でも、犯人の居場所は教えてもらえないから、もし不意に同じ電車に乗ってても気づくことが出来ない。


 だから、私が真木くんを守らなきゃ。


◇◇◇


 起きた時に真木くんが傍にいたこともあって、一緒に朝ごはんを食べて家を出た私たちは、学校から三駅ほど離れた歓楽街に来ていた。幸い天気は晴れで、真木くんの怖がる暗がりもない、お出かけ日和だ。


「おーでかけ……おーでかけ……」


 真木くんは私の手を握りながら、ぼんやりとした足取りで休日に賑わう町並みを歩いている。今日の彼はパーカーにチェスターコートを羽織っていて、これでもかとマフラーをぐるぐる巻きにしていた。室内に入ったらマフラーをほどいてあげないと、きっと今度は体温調節ができなくなって風邪をひいてしまうだろう。


「そうだ、とりあえず確定で必要な小物の類は買っておこうか。ここ確か百円ショップあったよね」


「ん。この先だよ……」


 真木くんが指差した方を見ると、たしかに百円ショップが並んでいた。その店は日用品や消耗品のオシャレで可愛いものを百円で! と比較的若年層を意識した品揃えで、クラスでリメイクとか雑貨好きな子がよく通っていると教えてもらったそこは、たしかにいつも行っている百円ショップよりも落ち着いた雰囲気で、色味も原色よりパステルカラーやダークカラーが多く感じる。


 お店に入るとすぐハロウィンコーナーがあって、コウモリやかぼちゃ、魔女がデザインされている紙カップや、窓に貼るタイルシールなどが並んでいた。


「そっか、ハロウィンか……」


「おれの、誕生日もある……」


「それは来月ね? 真木くん11月が誕生日なんだよ?」


「そうだっけ……?」


 真木くんはハロウィン仕様のスノードームを手に取りながら首をかしげる。彼と硝子の相性はあんまりよくないからひやひやする。私は絶対必要、と星のマークを書いたリストを確認して、フォークやスプーン、紙ナプキンやストロー、紙皿をかごにいれようとすると、かごがくいっと引っ張られた。


「俺、持ってあげる」


「いいの?」


「いいよ。むきむきだから……」


 そう言って、彼が代わりにかごを持ってくれた。でも、真木くんはとても華奢で、肌もすべすべで白いから、むきむきというイメージはない。いつも寝癖があることさえ除けば、お姫様だ。思えば去年の文化祭で劇をやった時、彼を眠り姫にしようなんて男子が悪ふざけをする流れがあった。真木くんは暗いところが苦手だから彼を眠り姫にするのはやめてほしいとお願いして、事なきを得た。


「めーちゃん、あっちに蓋つきカップもあるよ」


「メニューがあんまり増やせないぶん、安いようならテイクアウト販売もありかな……」


「氷買わなきゃいけなくなっちゃう」


「氷かぁ……」


 氷について調べてみたけど、単体ならまだしもドリンク用の小ぶりなやつは結構値がはっていた。だから冷蔵庫かクーラーボックスを野球部の男子たちから借りて、それで飲み物をあらかじめ冷やした状態で出す予定だ。


 ひとまずリストにある雑貨類を購入して、私たちはお店を後にする。買い物に集中していたから一瞬に感じたけれど、お店を出る頃にはもうお昼だった。


「真木くん、お昼にしようか。何か食べたい?」


「うーん。カレー……」


「じゃあ、とりあえずこの先のファミレスに行ってみようか!」


 百円ショップで買い物を終えると、私たちはファミレスに行くことにした。お昼時だけど店内は空いていて、個室っぽく区切られている四人がけの席に案内された私たちは、真木くんがカレーを、私はオムライスを注文して料理を待っている。真木くんは注文し終えたあと、子供用のメニュー表の裏にあるまちがい探しで遊んでいて、指をさしながら間違いを探している。私はスマホを取り出して、ニュースサイトを開いた。


 連続殺人事件のニュースをタップして、画面をスクロールしていくと、警察が公務執行妨害で捕まえた暫定容疑者が犯行の否認を続けていることや、確固たる証拠が出ないことがのっていて、「犯人違うんじゃ……」と、真犯人の可能性を示唆するコメントが書き込まれていた。


「お待たせいたしました。カレーライスのセットと、オムライスのセットになります」


 事件のニュースを読んでいると、店員さんがやってきて私は慌ててスマホをしまった。真木くんもおぼつかない手つきでメニューをしまっている。私の頼んだオムライスセットは、サラダとミネストローネがついていて、真木くんのカレーセットは、共通のサラダのほかに、ナゲットがついているものだ。


「めーちゃん、カレーひとくちあげるね……」


 真木くんはスプーンを手に取ると、ゆったりとした動作で掬ったかと思えばそれをこちらに向けてきた。大丈夫だよと言う前にそれはもう唇に触れるくらいの距離にあって、私はすぐ口を開けた。


「めーちゃん、あーん」


 ゆっくりと口の中にスプーンを差し込まれ、一口カレーを食べる。持ってきて時間も経っていないから、熱々だ。


「めーちゃんあちち? お水飲む?」


「大丈夫……! 美味しいよ!」


「じゃあ今度は、ふーふーしてあげる……」


 真木くんがカレーとご飯を器用に掬って、ふぅ、ふぅーと、冷ましていく。そして彼はまた、「あーん」とスプーンを差し出してきた。私はまた一口食べて、自分ばかり食べていては申し訳ないとオムライスを一口スプーンで掬った。


「真木くん、はい」


「あー……」


 真木くんはオムライスではなく何故か私を見ている。指が震えないように気をつけながら彼にオムライスを食べさせた。美味しいと顔を綻ばせる彼を見て、「もっとどうぞ」と私は真木くんにまたオムライスを一口差し出した。真木くんが零したら拭けるように、私たちはいつも横並びで座るようにしているけど、お互いの食べ物を食べさせたり、というのはあまりしてこなかった。そう考えると、なんだかこれは恋人同士みたいな……。


「どうしたのめーちゃん、顔赤いよ? おねつ?」


 真木くんは、ぺたりと私の首に手をあてた。「血管がんばってるねぇ……」と触れてくる手は冷たくて、ひんやりしている。やがて彼は「ふらふらしたら教えてね……」と、カレーを食べ始めた。


「う、うん……!」


 なんだか、さっきは酷く真木くんを意識してしまった。私はどんどん早くなる心臓の鼓動を誤魔化すみたいに、オムライスを食べたのだった。


◆◆◆


 雑貨も買ったしオムライスも食べたけれど、まだまだ文化祭の問題は山積みだ。気を引き締めて今度は衣装や内装用品を見に行こうとファミレスを出ると、「あれー? 園村ちゃん?」と、後ろから声がかかった。


「あれ……吉沢さんと和田さん……?」


 振り返ると、同じクラスの吉沢さんと和田さんが立っていた。吉沢さんは黒髪ストレート、和田さんはふわふわの髪をゆるく巻いた、いわゆるギャルっぽいグループに所属している二人組だ。私は二人とは出席番号が離れていて、移動教室や班別行動も全て違う。話をしたのは文化祭で提案した時、「アリスかわいー!」と賛成してもらったことくらいだ。それすら、話をしたとカウントしても良いのか微妙なところだけど……。


「何してんの? デート?」


 そう言って和田さんは顔を覗き込んでくる。緊張で視線を落とすと彼女の服装が視界に入った。ふわふわのニットワンピースを着て、吉沢さんはライダースジャケットを羽織って帽子をかぶり、とてもおしゃれな格好をしていた。なんだか自分が酷く子供っぽい格好をしているように感じてとても気まずい。


「えっと……」


「文化祭じゃん? 委員やってたよね? 園村さん」


 吉沢さんは教室では物事をズバズバ言うタイプだ。でも問いかけは優しい気がする。「ぶ、文化祭……」としどろもどろに答えても、彼女は気にすること無く、「へー、すごい大変じゃん」と、カップの飲み物片手に辺りを見渡した。


「でも何で二人? 他に誰かいないの? ドタキャン?」


「なんていうか……予算組みがあんまり上手く行って無くて、どうにか安くすませられないかなって、ヒント探しかな……」


「えぇ、大変じゃない?」


 今度は和田さんが首を傾けた。とても親身になってくれている気がする。今まで一度も話をしたことがなかったのに。でも、面白がられているというわけでもない。吉沢さんの視線は、教室で話をしているのを見ていた時よりずっと気さくな印象だ。


「そういえば園村さん、デザイン出来たって言ってなかったっけ? なんか削れたりできないの?」


「うちのママ、デザインの仕事してるけどめっちゃ削られてるよ。日常茶飯事。電話でさ、承知しました〜とか言ってんのにめちゃくちゃ愚痴ってくるもん」


「あ……そっか。勝手に削ってキレられんのやだよね。あっちもせっかく作ったデザインなのにってキレるだろうしさ」


 怒られる……、デザインを頼んだ子たちは、あんまり気性が激しい感じはしない。


 でも、せっかくのデザインを削られたら嫌な気持ちもするだろうし、せっかくデザインしてもらったのだから、出来れば活かしたい。


 ただ今日いい案が思い浮かばなかったら、「どうしても……」とどこか削ることになってしまうかもしれないけれど、目に見えて「ここはいらない!」なんて決められるような部分はどこにもなくて、厳しい……。


「そういえば、吉沢さんや和田さんはお買い物?」


「うん。映画見に行くのと……、あと去年コンセントがイカれて服燃えたからコートとか全然無くて、古着買いに着たんだよね」


「火事……古着……?」


「え、園村さん知らないの? 昔の海外とかの服、ここの通りでめっちゃ売ってるよ」


 あそこ! と指さされたそこは、距離的に薄ぼんやりとしか見えないけれど、淡い色味の服が屋外で売られている。「文化祭でリメイクできそうな服あるかな……」と呟くと、「それは無理でしょ」と、吉沢さんにバッサリ否定されてしまった。



「普通の服より高いから、リメイク目的なら多分違うとこのが安いよ。あの、まだ電球ソーダとか売ってるとこの裏とかの」


「電球ソーダ……?」


「ええ!? 前にめちゃくちゃ流行ったじゃん! 電球型の入れ物にさ、苺とかブルーハワイとかメロンとかのかき氷のシロップをソーダで割ったやつだよ! そ、園村さん知らないの……? もしかしてその間、何か悲しいことあって家にずっといた感じ……?」


 和田さんが私を見て愕然とした顔になった。「記憶喪失じゃない? 知らないわけないよ!」と、何故か肩を叩いて思い出させようとしてくる。私の肩を叩く彼女の瞳は真剣で、話をしたことがほとんどないなんて忘れてしまいそうだ。でも、そろそろ文化祭の買い出しを再開しないとなぁ……なんて考えて、はっとした。


 飲み物、オレンジジュースとか買わないで、シロップのほうが安いのでは……?


 喫茶店で出す飲み物は、珈琲、カフェオレ、紅茶、ミルクティー、ジュースを想定しているけれど、ジュースをソーダに変えて、味付けはシロップにしたほうが原価が押さえられるかもしれない。シロップはそんなに使わないし、炭酸水はジュースより安かった。珈琲や紅茶、ジュースの原液をソーダで割れば……。


「シロップをさ、ソーダで薄めれば……ジュース買うより安いかな……?」


「あー、それ何か料理の動画で見たかも。カラフルなゼリー作るやつ。ゼリーとジュースなんてあんま味変わんないしいけるんじゃない? うちら去年かき氷の屋台したから、シロップ安い店知ってるよ? っていうか、去年文化祭夏だったけど、今の時期ならもっと安いみたいなこと言ってたかも」


 吉沢さんが「送るわ」とスマホを取り出した。ぼーっとしていると「え、それも知らない?」と驚き、はっとして私はスマホを取り出す。


「あ、私も交換してー!」


 和田さんがぼん、とスマホを出してきて、スマホを揺する。すぐに吉沢さんと和田さんの連絡先が追加され、お店のホームページが送られてきた。


「沖田休みがちだしさ、文化祭ヤバくない? って話してたんだよね。ちょうど良かった」


「あ、ありがとう……!」


「全然、つうか文化祭ってクラスでやるもんじゃん? っていっても、うちらこれから映画だけど……」


 そう言って、二人はスマホの時間を確認している。私は慌てて、「真木くんと一緒だから大丈夫だよ!」と首を横に振った。二人が映画へと向かっていくのを見送って、私は真木くんに向き直る。彼はうとうとしながら自分のスマホを見ていて、こちらに顔を向けた。彼の傍には男子大学生の集団がいて、まるでそこの一員みたいになりながら立っている。

「俺のこと……完全に忘れてたでしょ……めーちゃんに置き去りにされた……」


 じぃ……と目を細められ、私は「そんなことないよ! スマホ見てるなんて珍しいね、何見てたの?」と誤魔化す。


「真っ黒の画面……点けようとしたけど充電なかったから……」


「ご、ごめん真木くん……、え、えっと、とりあえず見に行こう? いろいろ……。あとほら、帰りもプリン買ってあげるから、そんな顔しないで」


「プリン嫌い……」


「えぇ、真木くんプリン好きだよね?」


 今日はお母さんが帰ってくる日だから、お茶菓子にクッキーを買って帰る予定だ。放置してしまったお詫びに同じ店のプリンを真木くんに買おうと思っていたけれど彼は首を横に振る。


「今日は嫌い……甘い匂い嫌い……甘いの嫌だ……通り魔もいるしまっすぐ帰る……お母さんへのお菓子なら、あっちの和菓子にして……」


 真木くんは、ぐぐぐ、と力強く遠くの和菓子屋さんを指し示す。「お店調べてくれてた?」と問いかけると、「ずっと待ってたから……周り見てたの……」と、上目遣いで見つめてくる。突き刺さる非難の目が痛い……私は真木くんの視線にぐさぐさ刺されながら、その場を後にしたのだった。


◆◆◆


「んー! 今日はいっぱい買い物したねぇ真木くん」


「うん」


 真木くんと一緒に、夕焼けの道を歩いていく。あれから和田さんに教えてもらった問屋さんに行ったり、ひとまず内装で絶対に必要なクロスを買っていたりしていたら、もう日が暮れてしまっていた。


 真木くんの言う通り和菓子屋さんで買い物を済ませていてよかったかも知れない。お菓子屋さんに寄っていたら、きっとすっかり暗くなってしまっていただろうし……。真木くんのほうへ振り返ると、彼は両手にビニール袋を下げながら、またもや頭をふらふらさせて歩いていた。彼は「お荷物持つ係するね……」と、今日一日買ったものを持ってくれている。でも全部任せるのは流石に申し訳ないと半分こを申し出たけど、「お荷物持ち係もさせない……忘れられる……ひどい……」と言われてしまったため、お願いした。


「沖田くんに買ったもの報告しておこ……」


 私は沖田くん宛にメッセージを打っていく。この間全く連絡がつかなかったことがあって、彼のアドレスを聞いておいた。二年生になるまで、私のスマホには私の家族の他には真木くん、真木くんの両親、そして一年生の頃は同じクラスで、今年はクラスが離れてしまった瑞香ちゃんの連絡先が入っていたけど、今月に入って沖田くんに吉沢さん、和田さんとIDがどんどん増えていくなと思う。


「からすだ」


 真木くんがぼんやり空を見上げた。空には烏が夕日に向かって飛んでいっている。雲ひとつ無く、真っ赤な夕焼け空だ。確か前に、小学校の頃の理科の授業で「マジックアワー」というのを習った気がする。どんな空がマジックアワーと言われるんだっけ……。たしか、日没前後の空のことを言っていたから、青空ではないと思うけれど……。


 でも、もっと思い出そうとしても、頭がぼんやりしてきて霞がかっていくだけだ。やがて、けたたましいサイレンの音が遠くから響いて、はっとする。視線を向けると、夕焼けよりも赤いランプを点灯させたパトカーが、すごいスピードで何台も通り過ぎていった。赤信号中の横断ということで、無線機で他の車に停車するよう指示しながら、パトカーは走り去って行く。


「何かあったのかな……」


「危ないよ。おうちもうすぐだし、帰ろ……眠いし、疲れた……」


「大丈夫? 荷物持とうか?」


「ううん。荷物は持ってる。ほら、さむだから帰ろ。道路凍ってひっくりかえっちゃう」


「まだ雪は降ってないから凍らないよ」


「凍るよ。皆凍っちゃう。極寒だから……」


 どうやら真木くんは、朝に見た天気予報で「来月は近年まれに見る寒さ」というのを誤解してしまっているらしい。私は「寒いのは来月だよ」と伝えながら家へと急いだのだった。




「ただいまー」


 家に戻る頃には、日暮れとなってしまっていた。荷物は真木くんが持っていてくれるらしく、彼に預けた私は和菓子の紙袋を持って家に入る。リビングからばたばたと動く足音が聞こえてきて、エプロンの上から少し出かけるときに着るジャケットを着たお父さんが駆けてきた。どうやら今日の夕食はカレーらしい。


「芽依菜!? 大丈夫だったか!?」


「どうしたのお父さん、そんなに慌てて。あ、何か買い忘れ? だったら私が行くよ?」


 本当に切羽詰まった様子だ。こんなお父さん、以前カレーは出来たけど炊飯器が空だった時くらいにしか見たこと無い。夕飯関連で何かあったのか問いかけると、「違う」と即座に否定され、お父さんがすぐ玄関扉の鍵を閉めた。


「駅前の洋菓子屋さんあるだろう? あの裏に神社あるの知ってるよな?」


「うん。あの子供が遊ぶの禁止になったところでしょ? うるさいって怒られて……」


「そこで死体が見つかったんだ。猟奇殺人の」


「え……」


 猟奇殺人――?


「母さんそれで、犯人違ってたって休み返上になって出ていったんだけど、芽依菜母さんが休んだ時、クッキー買ってきてくれるだろ? だから万が一のことがあったらってメールも電話もしたんだが、芽依菜と連絡つかなくて……」


「ごめん、充電切れてて……」


「とにかく無事で良かった。とりあえず家の中入りなさい。今日ずっと真木くんと一緒で、一緒に帰ってきたんだよな?」


「うん。ちゃんと真木くん家に入っていったよ」


「そうか……ああ、夕飯できてるぞ」


 お父さんがぱたぱたとスリッパの音をさせながら台所へ戻っていく。私はどこか雑然とした気持ちで、お父さんの後を追ったのだった。


◆◆◆◆◆◆


 人々が終止符を打っていた連続殺人事件の被害者が新たに出たことで、ネットやテレビで恐怖が帰ってきたその日。


 真木朔人はスマートフォンも持つこと無く、深夜、ふらりと一人で自宅を後にした。秋もその姿を潜ませつつある寒さは、肌を刺すような痛みを伴うものだが、真木は気に留めることもない。足取りは気怠さを纏うこと無く規則的で、機械的だ。


 月も無く光を全て飲み込んだ夜空から抗うようにそびえ立つ街灯をいくつも通り過ぎた真木は、やがて、少し前までは夕焼けに照らされ、身体に呪詛を纏った死体が横たわっていた石畳から、ほんの僅かに離れた場所に立つ。


 数メートル先には警察がかけた立入禁止のテープと、その奥にはブルーシートが並んでいる。テープは暴力的なほどけばけばしい黄色で、ブルーシートも外部を遮断するため、隙の無い青色だったが、月明かりでその彩度は曖昧だ。


 真木はブルーシートの隙間から、東条や園村芽依菜の母親が捜査にあたっているのを観察し、ただ眺めている。その目つきは獲物を狙う鷹そのもので、鋭く、瞳には確かに怨嗟がこもっていた。


「そろそろ復讐も終わりかな」 


 真木はぼそりと呟いて、その場を後にする。行きと帰り、まったく変わらぬ歩幅と速度で帰ってきた彼は、部屋に戻るとデスクライトのみをつけ、引き出しからジップ付きのビニール袋を取り出した。そこには少し湾曲した毛髪が三本ほど入っており、じっと眺めた後カーテンを閉めきった部屋の向こう、園村芽依菜の部屋の窓の方角へ顔を向ける。


「芽依菜、文化祭ちゃんと出来るといいね」


 返事が帰ってくることなどありえないと理解した上で、真木は芽依菜に声をかける。そして、持っていた袋をまた引き出しに戻したのだった。


◇◇◇


 お菓子屋さんの裏の神社で発見された死体は、今までの連続殺人とは全く異なる姿だったらしい。外傷はなく、全身に「バカ」「死ね」などの落書きがされ、いくつも「根性焼き」と呼ばれるやけどの痕があったらしい。


 まだ若い男子大学生が被害者で、今までの被害者からかなり年代が飛んだことから、模倣犯ではないかというのが翌日のニュースのタレントさんたちや、ネットの見解だった。そうして、朝は暗いニュースで持ちきりだったけれど、文化祭は待ってくれない。ドリンクメニューの問題は解決したけれど、内装と洋服のコストをどう下げるかなど、まだまだ文化祭に向けてなんとかしなきゃいけないことでいっぱいだ。


 だから私は先生が来る前のホームルームで、早速ドリンクメニューについてや、服集めについて募集をすることにした。というのも昨日、吉沢さんや和田さんから中古の服を買うということを聞いた私は、クラスでいらない服を集めて、それを布にすることを思いついたのだ。


 欲しい服は、赤や黒、白や水色など不思議の国のアリスにある色で、それを服の一部にしたりする算段だ。作成もあるから、出来ることなら早く声掛けをしたほうがいいと、まだ服の完全な予算は決まってないものの、募集はもう今からする。


「あの、文化祭委員から連絡です。カフェのドリンクメニューについてですが、ジュースは全てシロップを炭酸水で割ったもの……メロンソーダ、いちごソーダ、グレープソーダ、レモンソーダ、ブルーハワイのソーダなどでいきたいと思っています。そして珈琲はなしで、紅茶は無糖のものだけ……にしようと思います。えっと……大丈夫でしょうか……?」


 恐る恐る黒板の前に立って、皆に尋ねると、クラスの反応はいいのか悪いのかよく分からない。やがて、男子の一人が「シロップなら、混ぜてもいいの?」と呟く。


「ま、混ぜるのは別に問題ないです……二つ買えば……」


「いや違うし! シロップで買うなら、シロップ同士混ぜて新しい味作れるから、それだけメニュー増やせるんじゃね?」


「あ、確かに……」


 男子は「俺ソーダ二杯買わされるとこだったんだけど!」とおどけ始める。「お前の説明が足りなすぎるだけだろ」と突っ込まれ、教室でどっと笑いが起きた。これは、シロップソーダはオッケーということだろうか? 一応、「大丈夫っぽい……ですか?」ともう一度問いかけると、「賛成」と和田さんや吉沢さんが手を挙げる。女の子たちは皆慌てて手を上げ始めた。


「予算をなるべく抑えたいので、クラスの皆のいらない服を集めて、衣装や内装に使う布として利用したいです。ロッカーの後ろにダンボールを置いておくので、赤と黒、水色と白のいらない服を入れてもらえると助かります……!」


 頭を下げて、私は自分の席へと戻った。ふと真木くんの姿がないことに気づいて、どこかで倒れているのかとどきりとすると、彼は後ろでダンボールに何かを書いていた。


「真木くん、どうしたの?」


「忘れちゃうから……お絵かき……」


 真木くんは油性ペンでダンボールに「みずいろ」「あか」「くろ」「しろ」と書いてくれていた。お礼を言うと、欠伸をしながら首を上下に動かし、自分の席について眠り始める。今日は一時間目も二時間目も体育じゃないから、着替える為に起こさなくて大丈夫な日だ。クラスの前で発言することも終わったし、ほっと一息ついていると、同じクラスの田淵さんが「園村さん」と声をかけてきた。


「文化祭で使う布って、大きさとか指定ない?」


「うん! いらない布だったら何でも大丈夫だよ! ただ、ギラギラしたスパンコールとか、羽毛とかちょっと特殊なのは上手く使いこなせないかもしれないけど……」


「そんな感じじゃないよ! 実はね、うちの近く、カーテンとかクッションとか作ってる工場が近くにあってさ、切った布、ごみ処理トラックで出してるっぽいから問い合わせたら貰えるんじゃないかなーって」


「教えてくれてありがとう……! その工場の名前聞いても良い?」


「うん。なしづか縫製工場ってところ……確か沖田くんの家の方向だったと思うんだけど……」


 彼女は頬を赤らめ、不自然に俯いた。思えば沖田くんの住んでいるところは「なしづかアパート」だ。もしかしたら同じ地区にあるのかもしれない。私はメモをしながら田淵さんにまた視線を合わせると、彼女は縋るように私に一歩近づいた。


「沖田くんって、彼女いるか知ってる?」


「え?」


「いそうとか、いなそうでも大丈夫なんだけど……」


 必死な声色や落ち着かない視線に、さっきまで瞬間的に覚えていた疑念がふわりと溶けていった。きっと彼女は、沖田くんのことが好きなのだろう。私は「彼女の話は聞いたことないよ」と答えた。


「ほんとに!?」


「うん。沖田くんとは文化祭委員の話をするだけだけど、そこで彼女が〜とか、一言も聞いたこと無いよ。一回朝に真木くんと私と沖田くんで学校集まった時あったけど、一人で来てたよ」


「そっか! そうなんだぁ……!」


 彼女は花を咲かせるみたいに顔を綻ばせた。その笑みは恋する乙女の標本を切り取ったかのようで、淡い恋心がありありと伝わってくる。


「おはよー久しぶり」


 少しだけ騒がしい教室に、太陽を思わせる溌溂とした声が通った。田淵さんはばっと勢いよく教室の扉に顔を向ける。そこにいたのは沖田くんだ。彼はやや寝不足気味らしく、大きく開いた瞳とは対象的に、その薄い瞼の下には色を落とした隈があった。


「園村、文化祭のこと出来なくてマジでごめん……」


 クラスでは、沖田くんの欠席は風邪として処理されていた。殺人事件については、沖田くんのお兄さんが公務執行妨害で逮捕されながらも確固たる証拠がないことで、名前も非公開だった。そのことについて知っているのは、クラスメイトの中では私と真木くんのみ。


 よって何も知らないクラスメイトからすれば、彼の欠席は厄介でしぶとい風邪に罹患したものでしか無く、当然出迎えも暖かくほのぼのとしている。沖田くんは男子達に背中をばしばし叩かれ、他の女子生徒から欠席中のノートを写したルーズリーフを受け取りつつ、こちらへと真っ直ぐ向かってくる。

「え、ウソ、こっちきたっ」


 ぴゅっと音でもたちそうなくらい素早く田淵さんが退散してしまう。残された私は、まず「おはよう、大丈夫だよ」とだけ言葉を返した。


「昨日のメッセ見た。買い物ありがとな。それであとは内装と衣装か……」


「あ、衣装は田淵さんがいい工場教えてくれたの。ね、田淵さん」


 ささっと離れ、ロッカーで荷物の出し入れ――をするふりをしていた彼女に声をかける。工場についてまだわからないことはあるものの、情報を教えてくれたのはありがたいし、少しは田淵さんの恋心に報いたい。


「ありがとな田淵!」


「別に……あ、あとそれと、確定とかじゃないから、電話して聞かなきゃわかんないし」


 田淵さんは、顔を赤くしながら教室を出ていっってしまった。不思議そうに眉を動かした沖田くんは、今度は真木くんに視線を移しながら、私の前の席に座った。


「また真木寝てんのか……ってか本当にさんきゅな。文化祭のこと任せっきりで……今日からはとりあえず普通に学校来れるから、文化祭も園村が頑張ってくれた倍働くわ」


 学校に、平常通り戻れる。それは沖田くんの生活が変わったことを示しているはずだ。私の様子を窺う視線に何かを悟った彼は、声を潜めて呟く。


「兄貴、今週中に戻ってくるかもって」


「ほんとう?」


「ああ。完全な証拠出なかったのもあるけど、新しく起きたろ、事件。それで犯人違うんじゃないかってなったらしくて」


 新しい事件が起きたことで、沖田くんのお兄さんは救われたことになるのか。でも、元々犯人が事件なんて起こさなければ、沖田くんのお兄さんが捕まることがなかったし、人だって死んでいなかった。そう考えると、複雑な気持ちになる。


「正直、最低だとは思うけど新しい事件が起きてほっとした。弟や妹にも、ずっと嘘ついてるわけにもいかないし……」


 家族に、大切にしているもう一人の家族が殺人事件を起こしたなんて、とても言えない。それに二人とも、幼かった。炊飯器の中のご飯を焦がして泣いてしまうくらいには。そんな二人に、「お兄ちゃんは人を殺したから捕まったの」なんて、言えるわけがない。その気持はすごくよく分かる。もし私が彼の立場であったなら、躊躇っていただろうし、もし真木くんが捕まったままだったらと考えると、新しい事件を心の底から悲しめるか聞かれたら、無理だ。


「でも、沖田くんの立場だったら誰だって悩むよ。私も真木くんがあのまま捕まったままだったら、ほっとしない証明なんて出来ないから」


「ん……。あ、そういえば工場、布貰えるとしたら、多分取りに行く感じだよな」


「うん。なしづか縫製工場だって」


「そこ兄貴の職場だわ。今、休んでるけど」


「お兄さんが……?」


 尋ねると、「多分、車出してもらえるかも。つうか出させるわ。俺が言っても多分シカトされるだろうけど、自分の可愛い弟と妹が炊飯器で燃えかけた時助けてくれた恩人って言えば、絶対手伝うだろうし」と、スマホをタップする。やがて「やっぱ兄貴の働いてるところであってる」と、頷いた。


 車を出してもらえるなら、こんなにありがたいことはない。でも、沖田くんのお兄さんにとって私の存在は、気不味いものではないだろうか。だって、自分を捕まえたカテゴリに属する人間でもあるわけだし、そう思う一方でお母さんは疑うのが仕事だと庇う気持ちもある。彼の様子を窺うと、私の躊躇いが伝わったのか「大丈夫」と短い答えが帰ってきた。


「園村の家、たしかに警察だけどさ、兄貴も朝出入りしたり不審な行動とってたわけだし」


「そういえば……お兄さんの不審な行動って、結局なんだったの?」


「縫製工場の正社員の他に、道路の夜間工事のバイトもしてたらしい、警察の人が教えてくれた。兄貴、俺がバイトするって言うと必ずやめろって止めてきて、バイトするくらいなら実家戻れなんて言われてさ。兄貴のバイトの話聞いてすごいびっくりした」


「バイト……」


「実家戻れとか、戻りたいわけないだろと思ってイライラしてたけど、今思えば俺に勉強とか学校とか、そういうの考えてほしかったのかなって、なんとなく気づいたんだ。だから文化祭終わったら、やっぱりバイトしようと思う。兄貴、俺ら食わせるためにすげぇ根詰めてるし、今ならお前が馬鹿やった分金足り無いって言えるし」


 苦笑する沖田くんの笑顔は、過ぎた夏空を彷彿とさせる。完全に吹っ切れたような、括られていた糸が断ち切られ軽快に動き出したような、まるで別人の印象を受ける。廊下で怒鳴っていた彼は、消失してしまったみたいだ。


「ひとまず……兄貴の会社にいらない布わけて貰えるか聞いてみるよ。で、布貰えるようなら回収は週末でいいか? その頃だったら、兄貴も家帰ってきてるだろうし」


「うん。あ、そういえばそろそろ当日の当番も決めておきたくて。午前と午後に分けるほかに、委員会とか部活でそっちに行く子もいるから……」


 私は、スマホをタップしてスケジュール帳を開く。新着ニュースの欄には、「新たなる猟奇殺人!」と、テロップが流れている。今日もずっとこの話題でもちきりだろう。私は早く犯人が捕まればいいと祈りながら、沖田くんと文化祭の相談をしたのだった。


 沖田くんが久しぶりに登校してから、とうとう週も終わり金曜日。幸い工場は釈放されたお兄さん経由で許可をもらい、明日の休日は布をもらいに行く日になった。その間も明日は飲食、衣装と、大体の予算も固まってきて、必須用品の費用も固まりちょこちょこ買い出しも始まったことで、徐々に生徒会から受け取った予算は減り始めている。


 不思議の国のアリスモチーフの喫茶店と、タイトルだけだと夢のようではあるものの、調理の為のゴムやビニールの手袋、ラップ、ゴミ袋、テーブルクロスが引っかかって誰かが転ばないよう、止めておくガムテープなど、それ単体では童話の世界観を損なうようなものだって買わなければならない。


 きれいなものを作るためには、当然そうではないものだって必要になるし、世界観を損なわない為に、それを隠さなきゃいけないのだ。例えば、遊園地のくまの着ぐるみの、背中のチャックのように。


「真木くん、文化祭の日ウエイターするの……?」


「しないよ。ただチェシャ猫はロッカーの上で寝てるだけでいいみたいだから、それしようかなって。だから、もふの着ぐるみでぽかぽか〜ってしたくて……」


 真木くんは気怠げに欠伸をして、目をしょぼしょぼさせながら歩いている。お昼ご飯を食べ終えた私達は、食堂を出て教室へと戻っていた。彼が何かを能動的にしたがることは、今まであまりない行動だった。トイレに行くことすら面倒くさがり、動けないとしゃがみこむことだってあるのだ。


 この間お出かけした時といい、彼はここ最近とてもよく動いている。文化祭の効果なのか、それかトラウマを克服していっているのかもしれない。


 いつか真木くんだって一人で生きていける日が来るのだ。


 最近の真木くんは一人で出来ることが増えてきた。中学の時は校舎の中を一人で歩くことなんて出来なかったし、着替えだって空き教室で一緒にしていたくらいだ。物音にもびくびく震えていて、夜じゃなくても突然泣き出すこともあった。少し窓を閉じられただけで、石を投げてしまったことだって、一度や二度じゃなかった。彼が苦しむたび、彼を置いていってしまったことを私は後悔した。あの時、私が真木くんと一緒に帰っていたら、一緒に帰っていなかったとしても、せめて彼と話をして、少しでも彼の帰宅時間をずらしていたら。そう考えない日は、一日もない。


 一日もないけれど、二十四回ある時計の巡りの中で、確かに自分の犯したことを忘れてしまう瞬間があるのだ。真木くんが楽しそうにしていたり、一緒に御飯を食べたりーーまるで誘拐事件なんて無かったかのように、そこだけをトリミングして、繋ぎ合わせて消してしまうみたいに、頭の中から記憶が抜ける時がある。


 そして、その恐ろしい現象は、真木くんと私が男子更衣室と女子更衣室に分かれて着替えたり、飲み物を一人で買いに行くなど、一歩一歩真木くんが自分を取り戻していくことと比例して、増えてきてしまっているのだ。


 私は、真木くんが元気に笑ってくれていたら良いと思う。でもこれから先、真木くんが前の、傷つけられる前の彼に戻った時、私は自分の犯した過ちを忘れてしまいそうで、酷く怖くなるのだ。真木くんが自分を取り戻すことはいいことのはずなのに、それによって私は彼を置き去りにして、当たり前みたいに彼の隣で笑うことが怖い。許されたつもりになんて、なりたくない。


「めーちゃんはさぁ」


 ぎゅっと自分の手のひらを握りしめ、手のひらに爪を食い込ませていると、真木くんがもたれかかってきた。びっくりして受け止めれば、彼は「ちゅうがくのやつら、呼ぶの?」と首をかしげる。


「呼ばないかな、そんなに仲いい人もいないし」


 高校に入って、私は瑞香ちゃんという友達が出来たけど、それ以前は全く友達が出来ていなかった。元々、私は真木くんにつきっきりで、ずっとそれでも良いと思っていたし友達を作る気すらなかったのだ。真木くんが大怪我をすることなく、平穏無事に今年を終えればそれだけで良かったから、中学校と小学校でのクラスメイトの名前すら半分も言えない、というのが真木くんだけじゃなく、私にもあった。


 顔と名前を一致させることが出来ず、呼びかけるときは名前じゃなくて、「あの」という二文字のみ。授業は男女別で分かれることが多かったから、女子の名前は分かるけど、男子に関しては中学三年間、誰と同じクラスでどんな人がいて、何て名前だったか、まったくもって記憶がないのだ。


 そうして真木くんをお世話し続けてきたわけだけど、今はなるべくクラスメイトの顔と名前を覚えようとはしていた。


 この高校には、同じ中学の人も同じ小学校の人もいない。だから少し安心感、というのもある。今まで真木くんは少しでも事件を連想しそうになるたびに、泣いてしまったり、戻してしまっていた。クラスメイトの顔を見て事件のことを思い出してしまうことだってもちろんある。でも、今この高校で事件について思い出す要因となるのは私だけだ。


「めーちゃん?」


 つん、と頬を突かれハッとした。振り向くと真木くんは「また俺のこと忘れてたでしょ……」とジト目で見てくる。


「真木くんのことを考えてたんだよ」


「ほんとにぃ? でもめーちゃん、ずぅっと床見てたよ。さっきまで俺と何話ししてたか、ぜったい覚えてないでしょ……」


「覚えてるよ」


「じゃあ言って……」


「えっと、チェシャ猫のコスプレの話だよね」


「ぶー」


 真木くんは、「大不正解だぁ……と、私にぶつかってきた。かと思えば、「めーちゃん、俺の話なんてどうでもいいんだ……」と、俯いてしまう。


「文化祭、やになってきちゃったな……」


「真木くん!? ごめんね? えっと、どんな話してたんだっけ……」


「それはね……」


 真木くんが何か言葉を紡いでいる間に、重たい荷物を運ぶ台車のガラガラガラ! と力の籠った音が響いた。音のする方へ吸い寄せられるように注目すれば、だいちゃん先生が美術のデッサンモチーフを荷台に積んで台車を押しているようで、お酒の瓶や、バケツ、ティーセット、硝子の板、縄やぬいぐるみなども積まれている。


「先生……?」


「おー! 園村に真木! お前らいっつも一緒だなぁ! ははは!」


 先生は笑いながら台車を押しているけれど、どう見ても笑える状況じゃなかった。積荷は沢山の雑貨が積まれていることでバランスが悪く、荷台から瓶やぬいぐるみが零れ落ちそうになっている。


「先生! 私も運びますよ!」


 私が落ちそうになっている瓶や鍵盤ハーモニカの管を手に取ろうとすると、目の前をすっと真木くんが横切った。彼は「俺もお手伝いします……」と、瓶や縄、バケツに……持たなくても良さそうなビニール袋まで手にしている。


「助かる! でも、真木が瓶持ってると不安になるな……」


 いつも元気なだいちゃん先生が顔をひきつらせている。私も不安だ。先生が運んでいるものを、きっと彼は割ってしまう。ひやひやしながら「持とうか?」と問いかけると、「や」と短く拒否されてしまった。私はひとまず運ぶのに邪魔になっていそうな折りたたみ椅子を手に取る。


「先生、これ、一体何に使うんですか?」


「デッサンの授業のモチーフに使うんだよ」


「ビニール袋もですか?」


「ああ。こういうのは周りの光を反射したり色を受けたりするだろ。透明なものだから、描きごたえのあるモチーフだし……」


 美術室に向かって、私は真木くんと先生と歩いていく。真木くんは瓶をぎゅっと握っていて、滑り落とす心配はなさそう……にも思えるけど、机とか床とかに置き終わるまで油断はできない。でもじっと見て彼を緊張させたり、注意を逸らしてしまってもよくないと、私は窓に視線を移した。


 いつの間にか、真っ赤に染まった紅葉たちは、その縁を陽で焦がして丸めている。校庭には文化祭で使う用具が出され始めていて、雨が降っても大丈夫なよう、テントもいくつか出されていた。次の授業、体育を受けるらしいジャージ姿の生徒たちは、サッカーボールで遊んでいる。風のようにグランドを切って走っている姿は、真木くんが誘拐されていなかったら今頃あんな風にーーのもしかしての可能性を見ているみたいで、目が眩みそうになった。


「ふー、こんなもんかぁ。ありがとな! 園村! 真木!」


 美術室に入って、先生が荷物をどさりと机に置きながら振り返った。昼間の柔らかな日差しの差し込む美術室は、独特の臭いもあって異世界を訪れたように感じる。真木くんは「どーぞ」と先生に瓶や縄を手渡すと、大きく伸びをした。ぼき、ばき、ぐき……と明らかに身体から出ちゃいけない音が響いて、不安になる。



------------------------- 第23部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

唯一無二


【本文】

「そういえばお前ら、文化祭はどうなってる? 沖田結構休んでただろ! 先生、忙しくてなぁ……全然手伝ってやれなかったけど……」


「えっと、今はドリンクメニューが確定して、注文も終わって……衣装の材料を明日取りに行くことになっているんです」


「お! すごい進んでるじゃないか! 隣のクラス、まだ何もやってないって聞いたぞ。そりゃ安泰だな!」


「でも……実はまだ内装が上手く行かなくて……あの、美術で使ってるモチーフって、お借りしたら駄目ですか……?」


 不思議の国のアリスでは、庭園でお茶会が開かれていた。もし雨が降ってしまったら……という問題があるけれど、いっそ外を会場にしたほうが雰囲気が出て備品が少なく済む……と思ってデザインをしてくれた子たちに相談して、文化祭の実行委員会と学校に外でやる使用許可を貰った。華道部から、文化祭の展示用に切ってしまったり、そもそも運搬の途中で散ってしまった花びらを貰う約束もした。園芸部にも、鉢植えを置かせてもらうお願いを了承してもらっているから、花園ティーパーティーみたいになる予定だ。


 でも、もう少し予算を切り詰めないと赤字になって、クラスの子達に足りないお金を出してもらう……ということになってしまうのだ。なるべくギリギリにはしたくない。


「あー全然いいぞ? むしろ使ってくれ、ちょうど新しいのに交換するところだったから、古いもので良ければ……。あ、モチーフの他にも余った備品も使ってくれ」


 先生は真っ赤な縄や、粘土、木の板など、先程台車で運んでいたものよりずっと多いものを、美術準備室から出してきた。


「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」


「あ、もうそれ処分予定だから、壊しても大丈夫だからな。使い終わったら代わりに捨てておいてくれ」


 少し開かれた扉には、絵画の作品や画集が置かれた棚とは不釣り合いな、火気厳禁のガスボンベが見える。


「先生……それは?」


「ああ、バルーンリリースの備品なんだが、火気厳禁だからって美術準備室、物置にされてるんだよ。そんな危ないもの、科学準備室にでも置いとくかしてくれって言ったら、バーナーがどうとか訳わかんねえ御託並べられてさぁ」


 先生はうんざりした様子で扉を閉めた。確かに、科学準備室は鍵が二重になっているくらい厳重にされていて、備品が一つなくなるとかなり大きな騒ぎになる。この間、割った覚えのある生徒はきちんと名乗り出てほしい、とビーカーが一つ足りないと全校集会で生徒指導の先生が話すくらい、あらゆるものに関する管理がとても厳しい。


 一年生の頃、真木くんがボヤ騒ぎを起こしたことでお掃除をしたことがあるけど、先生は必ず二回備品の確認をしているみたいだった。個数もリスト化されて、毎日つけているみたいだったし、もしかしたら火気厳禁ではない備品でも取り扱わなかったかもしれない。


「まぁ、バルーンリリースって、文化祭の名物なんだろ? 生徒が喜ぶなら、先生は直射日光で加熱されたガスボンベで焼かれても、文句言えないからな」


 ははは! と先生は高らかに笑うけれど、笑い事じゃない。確か文化祭委員で聞いたけど、あのガスボンベは特殊なやつだ。確かバルーンリリースには細かな規定があって、風船は自然に還る素材に、中に詰める空気も環境に優しい無害で純度の高いガスにしなければならないらしい。


 だからその分、引火したら大変なことになってしまうし、下手したら学校が大破してしまう。


「わ、笑えないですよ先生……」


「そうか? すまん。先生文化祭だから浮かれてるのかもしれないな!」


「先生も、文化祭楽しみですか……?」


「当然だろ! 教え子の晴れ舞台だぞ? それにお前ら、なんだかんだで文化祭が一番やる気出すし」


 確かに、体育祭とかは、あんまり好きじゃない。運動部の子たちも、体育祭より文化祭のほうが心なしかいきいきしていた気がする。


 私は体育祭は真木くんが転がって大怪我しないか不安だったし、実際今年の体育祭、真木くんは高さ五センチの平均台から落下して、腕を打撲した。骨に異常は無かったけど、動かすと痛むらしく、彼は一か月くらいずっと包帯が手放せない状態だった。


「先生の学生時代って、文化祭どんな感じだったんですか……?」


「俺か? 俺……合唱コンクールで、ふざけて皆の笑い取ろうとしてたら女子泣かしたからな、話しづらいんだが……」


 その言葉を聞いて、「ああ……」という気持ちになった。なんだか、先生は確かに明るくて溌溂としているけど、そんな感じの雰囲気が確かにある。


「やめろ、引くな園村! っていうか真木、お前寝てないか?」


 真木くんに視線を向けると、彼は瞳を開いているもののうつらうつらしていた。お昼を食べ終わっているから、眠たいのだろう。五時間目は歴史の授業だし、眠ってしまうかもしれない。ノート、取っておいてあげないと……。


「ご、ごめんなさい先生、備品ありがとうございます! あ、あとで取りに戻ります!」


「おー、五時間目始まるまでの間、寝かせてやってくれ。鐘が鳴ったら起こすんだぞ?」


「はいっ! 失礼します!」


 私は慌てて真木くんを引っ張り、美術室を後にする。彼は目をとろんとさせていて手のひらもじわじわ暖かくなってしまっていた。


「真木くん、大丈夫? 階段登れそう?」


「転がるほうがはやそう……」


「駄目だよ! 教室はこの上の上だよ!」


 慌てて真木くんを引っ張って、教室へ急ぐ。彼は「うぅ〜」と、あからさまに寝かせてほしさを出しながら、私に腕を引かれている。


「そういえば真木くん、文化祭、行きたいところ決めた?」


「めーちゃんの好きなとこなら、なんでもいーよ」


「えぇ……もしかして真木くん、文化祭の出し物プリント、失くしちゃったの……?」


 昨日、文化祭の出し物のパンフレットが配られた。ただ各クラスの出し物がリスト化された簡単なもので、色々宣伝が書いたりイラストが描かれたりするのは、だいたい文化祭2週間前に配られるから、もう少し先だ。昨日、たしかに真木くんはそのプリントを見ていた気がするけど……思えば、そのまま机に入れていたような気もする。


「ねぇ真木くん……」


 ぱっと振り返った瞬間、ガシャン! と硝子が砕ける音がした。驚いて視線を戻すと、ちょうど私達が歩く眼の前に、サッカーボールが転がっている。たぶん、さっき校庭でサッカーをしている生徒達がいたから、その人達のボールだろう。原因も、わかっている。それに私達の前と言っても、すぐ前じゃなくて五メートルほど先だ。なのに心臓がばくばくしてきて、気持ちが悪くなってくる。


「あ……」


「めーちゃん、お腹痛い……お腹痛い、痛い、痛いぃ……」


 真木くんは、お腹を押さえ、蹲り始めた。私は慌てて彼の背中をさする。


「お腹痛い、トイレいきたい。漏れちゃう」


「わ、分かった」


 顔色が悪くなった真木くんを支える。近くにトイレはない。引き返して、階段を上がらなければ。なのに彼は私をぐいっと引っ張り、自分の顔を私の胸に押しつけた。


「真木くん?」


「お腹痛いよ……めーちゃんたすけて……」


「い、今から病院に……きゅ、救急車呼ぶ?」


「ううう、痛い。ちぎれちゃう。痛い……」


 ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、真木くんの心臓の音が聴こえる。規則正しく、だけど少し速い彼の鼓動に不安と違和感を覚えていると、彼は私から身体を離した。


「痛いの治った……でも帰りたい、漏れちゃう。トイレ行きたい……」


 お腹を押さえて真木くんは俯く。硝子の破片も気になるけれど、今は彼が優先だ。私は彼を支え直すと、トイレに急いだのだった。



 真木くんの体調不良は、一時的なものだった。保健室に行くことを進めたけれど、トイレに行って体調不良が解消されたのかすっきりした顔をしていて、次の日になっても腹痛がぶり返すことはなかった。


 よって、「お腹痛くなったらすぐに教えてね」と伝えつつ、私と真木くん、そして沖田くんの三人で、なしづか縫製工場に文化祭で使う布をもらいに行くことになったのだ。普段の寝坊癖にくわえ、体調にも不安があったけど、真木くんはダッフルコートにまたマフラーをぐるぐる巻きの状態にして、少しもふもふしながら私の隣を歩いている。


「えっと……お兄さんって、工場でもう仕事再開した……んだよね?」


「一昨日から、死ぬほど働かされてる」


 そう言って、沖田くんはコーチジャケットの袖で鼻をこする。「仕方ねえよ。不審者っぽいのがいけないんだから」と続けた。


「不審者っぽい……?」


 思い返しても、沖田くんのお兄さんは不審者っぽい容姿には見えない。短めの金髪で、土木作業員の出で立ちだったから、言ってしまえば町中でよく見る人だった。公園に立っていたとしても浮くことはないし、町中のドッキリで町中の人に擬態したカメラマンのうち一人は、必ずその姿になるような見た目をしていた。


「あの……さ、沖田くんのお兄さんって、結局どうして逮捕されたの……? 公務執行妨害って聞いたけど……猟奇殺人の犯人に疑われてたんだよね……?」


「……実は、三人目の殺人が起きた時……兄貴、その被害者の財布、触ってたらしい」


「え……?」


「指紋、ついてたらしいんだ。三人目の被害者が殺された当日、兄貴、その人と会ってたらしい。っていっても、落とし物して拾った時についてたらしいけど……」


「そうなんだ」


「指紋、だいたいいつ頃ついたかとか、すごい分かるらしくて、殺された当日財布触ってたの兄貴だけでさ、中の金もなかったらしくてほかに証拠はなかったけど、とりあえず新しい被害者見つけようって話になったらしい。最新の技術でまだ実験段階だったけど、犯行クソすぎるのに犯人捕まんないから、市民を守るために無理やり――らしい。行き過ぎてたって警察の奴ら謝りに来たよ」


「……そっか」


「でも、ほかにも状況証拠が揃ってたらしい。兄貴の髪の毛とか、食べ物のゴミ? とかが現場の近くにあって、飯食いながら見てたとか疑われてたみたいだった。俺の兄貴、ゴミとかまじで死ぬほどだらしないし、工事現場で適当にゴミ拾われたとか、そういうのもあると思う。そもそも三人目の被害者と通勤経路、一時期同じみたいだったらしいから」


 被害者と、通勤経路が同じ……? そこまで来ると、何故釈放されたのか疑念を抱いた。「お兄さん、新しい事件が起きたから釈放って流れ?」と問えば、彼は「それと」と話を続けた。


「コンビニの監視カメラに映ってたんだよ。っていっても、コンビニの前の自販機の監視カメラだけど」


「監視カメラ?」


「ん。自販機荒らしってあるだろ? あれの防止用に四方八方自販機つけてるところがあってさ、そこに兄貴が写り込んでたっぽい。東条と乃木って刑事さんが見つけてくれてさ、本当に感謝しか無いわ」


 東条さんは、もしかしたら真木くんを捕まえたあの東条さんかもしれない。あの時の二人も、殺人事件を追っていたし……。


「あ、そろそろなしづか縫製工場に着きそうだな」


 沖田くんが指を赤い屋根に向かって指を指した。木々や住宅街が点在する中、トタンの壁をどっしりと構えるその工場は、想像より大きく人もいる。沖田くんがスマホを取り出し電話をかけると、すぐに工場の玄関に彼のお兄さんが現れた。お兄さんは私を見て、「園村……さん?」と、ややぶっきらぼうに声をかけてきた。


「はい。園村芽依菜と申します。えっと、彼は真木朔人といいます。えっと、私も彼も沖田くんのクラスメイトで――」


「知ってる。妹と――弟、世話になった。ありがとな」


 沖田くんのお兄さんはくるりと振り返り、「じゃあこれ」と大きなダンボール3つを私たちの前に置いた。しかし、じっと私を見て、一つの箱を少しだけ取り除いて、他ひとつのダンボールに置くと私に渡してきた。


「じゃあ、俺はこれで――」


「沖田! お前高校生たちも敷地内入れろって言っただろ! 車の出入りあるからって、轢かれたらどうするんだ!」


「社長……」


 大きな声に沖田くんのお兄さんが目に見えてうろたえた。社長と呼ばれた人はずし、ずし、と足音を響かせながらこちらへと歩いてくる。あれ、この人前にどこかで――?


 思い出そうとしているうちに、社長さんは私の前に立った。


「社長の梨塚です。この町の自治会長と、あと、そこのアパートの大家をやってる」


「はじめまして、園村芽依菜と申します。こ、この度はありがとうございます……!」


「いいや、礼を言いたいのはこっちだよ。布のこともそうだけど、この馬鹿、社員だって言うのに家のことなんにも知らせないで、大丈夫です大丈夫ですって、小さい妹も弟もいるってのに、大人に頼らないで何考えてんだか」


 そう言って、梨塚さんは沖田くんのお兄さんを睨む。「うす」という返事に、「弟妹炊飯器で焼き殺しても、高校生入り口に待たせて轢いても遅いんだからな、いいかお前は……」と、怒り始めた。しかしすぐに私たちを見てハッとして、「ああ、悪い。歳のせいか、細かいことが気になっちまってなぁ……」と、頭をかいている。


「俺も四つ切の生徒だったし、天津ヶ丘高校の文化祭は、成功してもらいたいからなぁ」


 四つ切の生徒――? 昔の言葉かなにかだろうか。気になっていると、沖田くんが「四つ切?」と首を傾げた。


「? 四つ切が名前変えて改修したのが天津ヶ丘だろ? 知らないのか?」


 梨塚さんの言葉に、私たちは顔を見合わせた。改築したことは知っていたけど、名前まで変えたことは知らなかった。そんな私たちの反応を見て、梨塚さんは「昔は結構荒れてたんだよ。今は見るかげもないけどなぁ」と笑う。


 昔は、結構荒れていたなんて知らなかった。梨塚さんはだいたい六十代くらいに見えるから、梨塚さんが学生時代の話なのかも知れない。となると、今から五十年くらい前だろうか。天津ヶ丘高校は、偏差値は普通より少し上だったと思う。真木くんが一年生の頃、オール赤点を取ったとき、騒然としたくらいだ。先生たちは「退学だ!」と怒るというより、なぜ彼が入学してきたのか驚いていた。


「でも、すごい綺麗な校舎になって偏差値も今じゃ天と地の差って聞くからな……ああ、悪い。文化祭で大変だったんだよな。これ、余った布だ。ぎりぎり売りもんにできそうなのも特別に入れておいた。使ってくれ」


「はい! ありがとうございます!」


 お礼を言って、私は箱を受け取ろうとする。けれどさっと沖田くんのお兄さんが箱をとった。


「一時間だけ、抜けさせて貰ったから……車で学校まで運ぶ」


 そう言って、気まずそうに視線をそらされた。沖田くんに振り返ると、「わりい、ああ見えてめちゃくちゃ人見知りだから」と、手を合わせる。お兄さんは「ころすぞ」と弟を睨み、社長さんに「家族に殺すなんて言うんじゃない!」と、頭を叩かれていた。


「え」


 真木くんに視線を向けると、彼は食い入るように逆方向――全く関係ない工場沿いの通りに視線を向けている。でも、まるでその瞳に強い意志があるような気がして、私は胸騒ぎを覚えながら工場を後にしたのだった。




 あれから、車で学校に向かった私たちは、教室に布を運んで、沖田くんのお兄さんにお礼を言って解散になった。でも、貰った布にどんな色があって、その色はどれくらいの量があるのか今日のうちに調べておいたほうがいいと思った私は、真木くんと学校に残ることになった。


「水色は、三十枚。ツギハギになるかもだけど、衣装、クラスの半分はぎり賄えそう」


 私は教室で、広げた布の枚数を数えながら、枚数を記録している真木くんに声をかける。すると、前で黄色い布をぺらぺらとめくっていた沖田くんが顔を上げた。


「クラスの半分アリスにすんの?」


「希望によるけど、内装にも使うって考えるとその半分かもしれない」


 沖田くんも、布の確認のために残ってくれることになった。ののかちゃんたちは地域のワークショップに参加しているらしい。


「そういえばお前ら、やっぱ文化祭も二人でまわんの?」


「うん」


 私は箱からダンボールを取り出して、今度は黒い布の枚数を数えていく。でも、変な沈黙が流れた気がして、私は顔を上げた。


 沖田くんはやや元気がなく、ぼーっとしながら布を見つめている。


「どうしたの?」


「あ、いや……園村と真木って、いっつも一緒だなと思って、えっと、幼馴染なんだっけ」


「うん。幼稚園から一緒」


 幼稚園の頃から、ずっと一緒だ。真木くんとは。


 始めこそ私はいつもみたいに真木くんを引っ張っていた。「あそこへ一緒に行ってほしい」「一緒に見たい」なんて。でもだんだん、彼がまだ皆が習っていない算数のこととか、理科のことを私に教えてくれて、博物館とか、図書館とか、彼のほうが私をどこかへ連れて行ってくれることも増えた。


 夏休みの宿題は一緒の自由研究をしたし、冬休みはクリスマスプレゼントの交換、春にはお花見だってした。でも、彼が誘拐されて一年間、真木くんはずっと自分の部屋にいた。声をかけても返事が無いことのほうがずっと多くて、すすり泣く声や吐いてしまう声でその場にいることを知るような日々が続いていたのだ。


 それまでは、真木くんは皆のヒーローだった。でも彼が誘拐されてから部屋に閉じこもり、そして部屋を出て学校に行くようになり、変わってしまった真木くんを見て皆驚いた。


 真木くんを助けたい、支えたいという子が多かったけど、彼が何度も転んだり、授業で失敗したりするにつれ、皆彼から離れてしまった。女子は、どことなく気不味そうに。男子は彼を見ないふりをする。


 だから、私はきちんと真木くんが自分を取り戻すまでそばにいて支えたい。今の真木くんのままだとしたら、危険すぎるし、離れていくことはしない。でも自分を取り戻した彼ならば、きっと人気者になっているはずだ。


「すげーな。そっから園村、真木のこと助けてやってんだな。もう姉ちゃんみたいじゃん」


「そんなことないよ」


 沖田くんが誰かいないか探して、くじ引きでようやく決まった文化祭委員。前の真木くんだったら、きっと自分から立候補していただろう。私が委員なんかをする前に挙手をして、皆の意見をまとめ上げて、予算もぴったりで。時間に追われること無く瞬く間に準備していたはずだ。そして、「すごいね真木くん」と私が驚くと、「そんなことないよ」と、柔らかく笑う。


 きっと女子たちみんな、真木くんを好きだと思う。長い髪に隠れがちだけど、その面立ちは人形みたいに綺麗だ。本当は、私が隣にいていい理由なんて「幼馴染だから」以外にない。でもそう思ってしまった隙に、真木くんは誘拐された。


「えーじゃあ付き合うとかはねえの?」


 沖田くんの問いかけに、心臓がどきりとした。ときめきとは程遠い感触で、噓を突きつけられたような、息苦しさも帯びた痛みだ。


 真木くんを壊してしまった私に、彼を好きだと言う資格なんてない。そして真木くんは私にべったりだけど、それは私が彼を拒絶しないからだ。失敗する真木くんを見て、皆離れてしまって、人間不信に近い状態なのだろう。そして離れなかった私が例外になったのだ。


 私が真木くんを好きだと言ったら、きっと彼はもっと依存を強くしてしまう。それはきっと彼の自立を、より妨げてしまうことになるだろう。


 だから、付き合うなんてない。あっちゃいけない。


 私は曖昧に笑って、真っ黒な布を数えなおしたのだった。



◇◇◇◇


 最終的に、水色の布と白い布でアリスの衣装がだいたい15人分と、テーブルクロスが8枚分、黒い布が約5メートルほど、他にもレースやつるつるしたレザー素材の布があって、衣装問題の予算は解決しそうだった。


 あとは早速縫製に移るわけだけど、クラスの衣装係のほかに、演劇部と交渉して、縫った衣装をそのまま譲渡という条件で、衣装を縫ってもらうことになっている。


 だから、これからははみんなで内装を作っていったり、当日の料理工程の説明メモを作ったり、学校でする作業が増えていくだろう。委員会の裏方の仕事もまだ残っているけど、自分が動かなきゃみんなの作業が一切できない! という状況を抜けたことで、まだ完成もしてないのに気が抜けてしまった。


 だから少し気が抜けた気持ちで家に帰り、夕食を食べてお風呂に入って、さて寝るかと部屋に戻ったとき、私のベッドで真木くんが体育座りをしているのを見たときは、素直に驚いた。


「真木くん……一緒に寝るのは、怖い夢見た時ならいいけど、最初からは駄目だよ……」


「今日見る……」


「まだ見てないよ。それに、怖い夢見るって最初から決めるのよくないよ? ほら、ベッド下りよ、ここで寝ちゃっても、お部屋運べないから……ね?」


 彼はむすっとした顔で、「むー……」と非難の眼差しを向けてきた。


「どうしたの?」


「おれ、めーちゃんに嫌われてるのかなって」


「嫌われてる? そんなことないよ? どうしてそう思うの?」


「だって……沖田が付き合うとかはないって言ってたとき、めーちゃん返事しなかった。俺、嫌われてる……めーちゃんに捨てられちゃうの……」


「ち、違うよ?」


「何が違うの……」


 拗ねた瞳の上目遣いは、どこか昏い。ダウナーな声色には、やや棘が混ざっているように感じた。


「だ、だってほら、私が付き合うー! じゃあ付き合おー! って話でもないからさ、付き合うって」


「なにそれ。めーちゃんが付き合うって言ったら、俺も付き合おってなるのに……」


「えっと、えっと……だってほら、真木くんが色々得意になったら、みんなも真木くんのこと好きになるかもしれないし、それに今の真木くんを好きだ! 仲良くなりたいって子も、いっぱいいるよ」


 真木くんは数学の試験なら、上位の成績をとる実力は確実にある。もしかしたら、学年トップを取れるかもしれない。けれど毎回彼はケアレスミスを連発し、数学の成績は平均よりちょっと下に落ち着いている。他の主要教科は、基本赤点ぎりぎりだ。でも、もともと頭はいい。きっとどこかで才能が開花して、瞬く間にみんなのヒーローに戻っていったっておかしくはない。


「ねぇ、真木くん。数学さ、もう少しミスをなくせば、もっといい大学とか目指せるんじゃないかな……」


「やだよ。頑張ったら、連れてかれちゃうから……」


「真木くん……」


「頑張ったら、嫌な目に遭う。めーちゃんにほっとかれて、俺は」


 真木くんが俯いて、がたがた震え始めた。頭を押さえ、怯え始める。私は慌てて彼を抱きしめ、落ち着けるように背中をさすった。


「うう、ううううう」


「ごめん。ごめんね真木くん」


「……やだ。許せない。めーちゃんのせいだもん……」


「ごめん真木くん、もう言わない、もう言わないよ」


「めーちゃんのせいだ。俺が連れてかれたのめーちゃんのせい、めーちゃんのせいなんだから。めーちゃん約束してくれたのに。俺のそばから離れないって。なのにめーちゃんは俺と一緒にいてくれなきゃだめなのに、何でそういうこと言うの……俺のこと、面倒くさくなっちゃったんでしょう……」


「守る。守るよ」


 根気強く背中をさすると、落ち着いてきた真木くんは私の肩にぐりぐり頭を押し付ける。そして、「じゃあ、償ってよ」と、呟いた。


「な、なに真木くん。私はどうすればいい?」


「首、ぎゅってやって、絞めるみたいに」


「は……?」


 絞めるみたいにって……もっと抱きしめてほしい……とか? 冬場の真木くんは寒いと私のポケットに手を突っ込んだり、脇に手を差し込んだりする。私はおそるおそる、抱きしめる力を強くした。


「もっと強くして」


「こう?」


「もっと」


「こんな感じ?」


「もっとがいい、もっとぎゅってして、殺す気でして、首を絞めるんだよ。そんな力じゃ、人なんか殺せないよ……」


「でも……」


「償ってよ。早く」


 真木くんは冷たい声色で、判決を言い渡すみたいに耳元でその言葉を口にした。私は震える手で彼の首へと手を回す。


「めーちゃんがちゃんとぎゅってしてくれるまで終わらないよー……」


 私は意を決して、彼が苦しくないよう力を込めた。


「うん。めーちゃんはずっと、俺と一緒にいればいいの……」


 彼は満足気に笑って、私を見て、目を閉じた。


「そーそー、じょーず……、おやすみ」


「駄目だって真木くん、起きて!」


 ぐん、と体重がかかってきて、私は真木くんの首から慌てて手を離し、抱き留めた。彼はそのまま私の膝に縋りつき、ぐっすりと眠ってしまった。


◇◇◇


 真木くんの、様子がおかしい。変なところを睨んでいたり、首を絞めろと言ってきたり。夜に泣き叫んだり、吐いてしまったりする様子は見えないものの、どこか症状が新しく変化していたり、事件のトラウマが悪化してなのか分からない。


 それとなく真木くんのお母さんやお父さんに連絡してみたけど、二人も原因がわからないようだった。このままだと、何か決定的に真木くんが違うところへ行ってしまうような。状況はわからないのに胸騒ぎだけはやけに鮮明だった。


 だから久しぶりに文化祭委員の活動もなく、明日の小テストに向けて勉強できると真木くんの部屋で勉強会をすることにして、彼の部屋の様子を観察しようとしたものの、目に見えた変化はない。


「ふーむ」


 真木くんは私の部屋で歴史の教科書を興味無さげに眺めては、溜息を吐き肘を掻いた。


 彼は数学以外は基本ぐっすりと眠っている。歩いてても眠り始める。この間の体育の帰りだって、自販機で飲み物を買おうとしたら彼が眠り始め、慌てて更衣室に運び、日野くんに引き渡したくらいだ。数学以外のことに興味はないけれど、今日はなんだかとても注意力が散漫に見える。私はやっぱり彼に何かあったのかと部屋を見渡すと、つん、と肘をつつかれた。


「めーちゃん」


「ん?」


「めーちゃんはさ、沖田、すき? 付き合いたい?」


 真木くんはシャーペンを人差し指でぐりぐり回しながら、視線だけこちらを向ける。また、付き合うの話が出てしまった。私は話がこじれないよう、「違うよ」と即座に否定した。


「私は、付き合いたいとか、男の子にそんなに興味ないよ」


 昨晩、少し真木くんへの答え方について考えた。用意していた答えを返すけれど、正直な気持ちでもある。男子が怖いとかではないけれど、あまり好きではない。


「俺も……男だけど……?」


「それは分かってるよ。真木くんは男の子だよね」


「なら、俺は特別なの?」


「うん。幼馴染だし」


「ふふふ……」


 真木くんは何だか嬉しそうに頬を染め始め、くすくす笑う。だぶだぶの袖から指先だけ出して、頬にあてていた。


「めーちゃんに、告白、されちゃった……」


「えっ」


 私が驚くと真木くんは笑顔から一変、とたんに顔色を悪くした。


「違うの……?」


「え、真木くん? 全然分かんないんだけど」


「分からなくないよ、めーちゃんは俺以外の男子に興味ないんでしょ……?」


「うん」


「それって、めーちゃんは俺のこと……好きだってことだよ?」


 ふふふ、と袖を口に当てながら笑う真木くん。どう反応していいか分からず止まっていると、彼は目を潤ませ始めた。


「やっぱり、めーちゃん俺のこと、死んじゃえって思ってるんだね……」


「は、話が唐突すぎるよ!」


 さっきから、話を振られているとは思うけれど、答えを受け取られていないような変な感じがする。


「むーぅ。何でめーちゃん、俺のこと大好きじゃないんだろ……。なんでも上手くできたら、好きになってくれるの? だらだらは嫌い……?」


 ぎゅ、と真木くんが私の手を握った。彼の手はとても冷たくて驚いてると、彼はぐいっと引っ張ってくる。


「めーちゃん。最近めーちゃん変だよ。ぼーっとしてたり、悩んだり。何考えてるの……? 殺人事件のこと?」


 視界いっぱいに真木くんの顔が、長いまつげが映り込む。真っ黒な瞳に吸い込まれそうになっていると、ふに、と頬を引っ張られた。


「まひふん」


「ふふ。めーちゃん噛んじゃってるよ? かわいいねぇ」


 真木くんはのんびりした調子でくすくす笑っている。そうだ、殺人事件、一体どうなっているんだろう。文化祭のことですっかりニュースを見なくなってしまっていた。


 もう、あと二週間で文化祭だし、早く解決するといいけど……。四人目の殺人が起きてから一週間と少しが経っているけれど、犯人が捕まったりした話は聞かないし、お母さんだってまだ帰ってこない。捜査本部がまた大きくなり、警察署からまた場所を移して泊まり込んでいるらしいみたいだけど……。


「めーちゃんまた考えごとだぁ」


 真木くんは私の頬から指を離したかと思えば、つついてきた。私は彼の手をとめながら返事をする。


「うん。沖田くんのお兄さん捕まった、殺人事件あったでしょう? あれ、捕まらないかなって」


「捕まるんじゃない……?」


 やけに軽い調子で、真木くんが笑う。そして頸を傾けた。


「悪いことしたら、捕まっちゃうんだよ? ……捕まらないひともいるけどね……」


 捕まらない人もいる。真木くんを誘拐した犯人のことを言ってるのかも知れない。


「真木く……あ」


 ポケットに入れていたスマホが振動を始め、画面を確認すると、知らない番号からショートメールを受信していた。私の携帯の電話番号を知っているのは、お母さんとお父さん、そして真木くんだけだ。不思議に思いながら開くと、そこには乃木さんと名乗る人からのメールで明日のお昼に話ができないかというものだった。



 文化祭の準備は、刻々と進んでいる。その為かお昼休みに呼び出されることも増えてきて、お弁当を中断して真木くんと一緒に沖田くんを呼びに行ってから委員会室へ向かったり、朝のホームルームで、だいちゃん先生から委員会で呼ばれていると声をかけられることが増えてきた。


 でも、私や沖田くんがいないと文化祭の準備が進められない……という段階は過ぎていて、むしろ文化祭が近づくにつれて不思議と「私だけの仕事」「沖田くんだけの仕事」というのは減っていった。


 だから乃木さんに呼び出されて、文化祭に何か影響がある……との心配は無かったけれど、警察の人に呼び出しを受けるというのはやっぱり緊張するので、私はその日、早めに待ち合わせ場所の喫茶店へと向かった。


 でも、待ち合わせ二十分前の段階でお店にはすでに乃木さんも、そして東条さんも到着していて、窓際の席で珈琲を飲んでいるところだった。


「すみません、おまたせして……」


「ううん。こちらこそ休日に呼び出してごめんなさい」


 乃木さんと東条さんとテーブルを挟んで向かい側の席につくと、目の下に隈を作った二人は私に向かって会釈をした。席は窓際の一番奥のファミリー席で、窓際の席はみんなプラスチックの壁で区切られている。私達の他には、会社員の人同士が仕事の話をしながら珈琲を飲んでいたり、サンドイッチを食べたりしていた。話し声は店内に流れている曲でぼやけていて、内容までは分からない。


「今日は……少しお話を聞かせてほしいことがあって……」


 今日の乃木さんはブラウンの髪をひとつに縛り上げ、鞄には何かのプリントが束になってファイリングされていた。東条さんは、心なしか痩せて見える。


「それって、もしかして沖田くんのお兄さんのことですか?」


 沖田くんのお兄さんは釈放されたけど、まだ疑われているのかもしれない。根拠はないけれど、刑事さんがこうしてわざわざ話を聞きにきたーーこのことが、私にそう思わせている。


 しかし、刑事さんはお互いの顔を見合わせた後、首を横に振った。


「違うの。今日はその……貴女の幼馴染の真木朔人についてお話を聞けたらと思って……」


「真木くん? どうしてですか?」


 真木くんが、疑われている? 何故? 頭の中が疑問で埋め尽くされる。すぐ答えを聞きたいと矢継ぎ早に質問を投げかけそうになるのを止めるみたいに、店員さんが「メニューはこちらになります」と私の元へやってきた。


 乃木さんも東条さんも珈琲を飲んでいる。私は、店員さんが去っていくのを待ってから二人に向き直った。


「あの、どうして真木くんについて知りたいんですか……?」


「実は、彼が幼少期、とても高いIQが記録されていたことを耳にしたの。だから、彼について知りたいと思って……」


 確かに真木くんは小さい頃、頭が良かった。今も難しい数学の参考書を読んだりしている。ただ、理解しているかは分からないけれど……。私が「たとえば……?」と聞き返すと、「ここ半年の行動とか」と切り替えされた。


「ここ半年の、行動……?」


「ええ、何か変わったことが無かったかとか、新しく出会った人と、やり取りをしていないか……とか」


「真木くんを、疑っているんですか?」


「そういう訳ではないんです。でも、この事件は不可解な点が多くて……事件の見直しをしていたら、最初の事件が起きてすぐに真木朔人が三番目の被害者の娘に接触していたことが分かって、我々が誤認逮捕した沖田の弟の同級生でもあることから、どうしても一度……調べる必要が出てきて」


 真木くんが、三人目の被害者の娘さんに……? でも、彼は一人で出かけられないはずだ。最初の事件が起きたのは、大体夏頃。その頃に、外に出かけようと誘われた覚えはない。


「真木くんが家族と出かけて、たまたま……とかじゃなくてですか?」


「いいえ。わざわざ真木朔人は、三人目の被害者の、娘の出身校を調べた形跡があるの。わざわざ、旧天津ヶ丘高校――いえ、四つ切高校出身か確かめてから……だから……たまたま会ったのではなく、事前準備をしていたみたい」


「そんな……」


「でも、今までの四人の事件が発生した時、真木朔人が犯行現場に向かった形跡は見られない。でも、その形跡が少しでも出たら、真木朔人がこの事件に何らかの形で関わっている可能性は、高い」


「そ、それって沖田くんのお兄さんと同じで、間違いなんじゃないんですか? 沖田くんのお兄さん、財布触ったって、そういうのと、同じで……」


 真木くんは、絶対人殺しなんてしない。転んだり、ぶつかったり、道を迷ってしまったり、そういうのの延長で、きっと彼は誤解されたんだ。絶対そのはずなのに、乃木さんは首を横に振った。


「ええ。沖田元樹については、彼が被害者の財布を拾ったことがきっかけだった。でも、彼の任意同行に至った理由はそれだけじゃないの」


「え……?」


 乃木さんは「一人目、そして二人目の事件に使われた血のついた包丁が、沖田の捨てたゴミから見つかっていたの。でも、後から作為的に入れられた可能性がとても高いことが後の調べでわかって……」と、視線を落とした。


「それを、真木くんがしたかもしれない、と……」


「分からないんです。この事件は、分からないことが多すぎて……、三人目の殺人も、わざわざジュースの入ったバケツに頭を浸させていたり……肺にジュースは入って無くて……当然バケツで溺れるなんてことはありえない、死因も確かに溺死ではない窒息死だったの。犯人は、何を考えているのかまったく分からない。だから真木朔人が、犯人だという可能性も、ないわけじゃないのよ。園村さん」


「もう、はっきり言いましょうよ乃木さん。俺たちは、真木を犯人だと思ってるって」


 東条さんが、はっきりと私を見た。その瞳は真剣そのもので、噓をついている気がしない。だからこそ、私の心臓はどくどくと鼓動を激しくして、息が詰まった。


「証拠だって、ただ、偶然三人目の被害者に、会っただけで――」


「でも、彼は高い知能指数を持ってることに違いはないの。辛い経験を経てソシオパスになることだってあるわ。今は彼はぼーっとして、人の手を借りて生活しているように見えるけれど、この街に越してくる前、高い知能指数を持っていた記録が出てるのよ。幼稚園に入るまでに、すでに大学卒業程度の知能指数を持っていたの。そんな彼の周りで、五つの事件が起きてる。それは貴方が一番よく分かっているはずでしょう?」


 乃木さんは興奮した様子で私の手を掴んだ。思わず振り払いそうになったけれど、びくともしない。


「誘拐事件の時、彼は一度警察に通報しているのよ。一番最初に。ねぇ、お願い園村さん。一度、彼から離れたほうが――」


 乃木さんがそう言いかけた瞬間、ゴン、と鈍い音が窓から響いた。視線を向けるとそこには真木くんがいて、彼は頭をぶつけたらしくすぐにしゃがみこんだ。


「真木くん!?」


 私はすぐに立ち上がりお店を出て、真木くんの元へと向かった。彼は頭を押さえながら、「なんでめーちゃん一人でお出かけしてんの……」と、ぶつけた箇所をこすっている。


「刑事さんに呼ばれて……だ、大丈夫?」


「めーちゃんお店にかばん忘れてる……」


 真木くんが指差す方向には、確かに椅子に置き去りにされた私の鞄があった。私は急いでお店に戻り、鞄を手に取ると刑事さんに「ごめんなさい」と謝って店を出た。


 真木くんは、硝子窓に体当たりしてしまうくらい、ぼーっとしているのだ。赤信号だって分からず渡ってしまうし、暗いところは怖くて歩けない。それなのに、人なんて殺せるはずがないのだ。誘拐事件だって、関係ない。真木くんは傷ついているんだから。


 警察は、真木くんを助けてくれなかった。確かに保護して犯人は捕まえてくれたけど、真木くんの一度目の通報を、「確認する」とだけ答えて、放置してしまったのだ。結果的に、真木くんは二度目の通報――彼が警察に駆け込んだことでやっと保護された。警察が一度目で捕まえられていたら、真木くんはすぐ保護されていた。


 でも、いくら辛い経験をしたからって、真木くんは人殺しなんてしない。ありえない。


 ずんずんと力を込めて足早にその場から離れていく。今日指定された待ち合わせ場所は沖田くんの家の最寄駅と同じだ。学校の傍だし、定期券で来ていたからすぐに帰れる。とにかく早く電車に乗ろうと駅へ向かおうとすると、「沖田の家教えてくれたお婆さんだ……」と、真木くんがゆっくりと遠くを指差した。


「え?」


「沖田の家教えてくれた、お婆さん……ゴミ捨て、怒られてた……」


 目を凝らしてよく見ると、人が行き交う駅前の自転車置き場の傍に、お婆さんの姿があった。大きい荷物を抱えながらこちらに向かって歩いてくる。真木くんはトコトコ歩いていって、お婆さんの前に立った。


「お婆さんこんにちは……お手伝い……します」


「ん……あんたたち、天津ヶ丘高校の……」


 目を細めるお婆さんの手には、コンビニのお弁当が二つ入った手提げの他に、たくさんの林檎が入った袋、他にも百円ショップの袋や和菓子屋さんの紙袋、仏花の花束など、とうてい一人では抱えきれない量の荷物がある。中には地面に擦ってしまっている荷物もあって、私も真木くんも慌てて支えた。


「悪いねぇ。年取るとだんだん自分がどれくらい持てるのかも、分かんなくなってしまって」


「おうちまで……持っていきますよ……」


「いいのかい、悪いねぇ」


 お婆さんから荷物を受け取って、私はアパートへと歩いていく。お婆さんは今日もお線香の香りを纏っていて、その香りに混ざって何か独特な臭いがした。どこかで嗅いだ覚えがある気がして、どこで嗅いだものなのか思い返していると、真木くんがお婆さんに話しかけた。


「お婆さんは……一人暮らし?」


「そうだよ。皆死んじまった。旦那がろくでもないと思ってたら、娘も息子もろくでもない死に方してね。本当に、とんでもない人生だよ。これからずっと一人さ」


「へぇー……」


 真木くんが間延びした調子で返事をする。お婆さんはお線香の香りがして、仏花を持っている。家族に供える為だろう。迂闊に踏み込めることではないし、黙っているとおばあさんは「あんたたち」と続けた。


「天津ヶ丘は新しく変わったんだから、その名前に恥じないようにちゃんとしなさいよ。もう昔みたいになるんじゃないよ」


「あの、昔の天津ヶ丘高校って、どういう状態だったんですか?」


「あんたたち何も知らないのかい」


 私の質問に、お婆さんは目を丸くした。声も大きかったことで、辺りを歩いていた親子連れや、自転車に乗って走っている大学生くらいの女の人がこちらを振り返る。おばあさんは気に留める素振りもなく、私たちをみやった。


「いいかい、天津ヶ丘はねぇ、昔はとんでもなく荒れてたんだよ。ここらに住んでる連中みんな通ってたけどねえ、気性が荒くないのは別の高校受験しろって言ってねぇ。まぁ、私の娘も息子も結局受験落ちて天津ヶ丘に行くことになったが……本当にとんでもないところだったんだよ。窓が割れるのもしょっちゅうで、なにか悪いことが起きればみんな天津ヶ丘のせいになってねぇ……」


 もしかして、テレビやドラマで言う、不良高校……みたいな感じだったのだろうか。窓が割れるなんて相当なことだと思うし、今では想像がつかない。天津ヶ丘高校は県内で二番目の偏差値で、試験の難易度は一部大学レベルのものも出てきたり、面接のみの試験だったら内申点がすべて五じゃなきゃ入れない。赤点を取ると怒られるのではなく、精神的に重篤な何かが起きたのかと面談するくらいだ。実際真木くんは面談のあと、スクールカウンセラーの人との一対一でのカウンセリングを受けたし、その後真木くんのお母さんと担任の先生とで三者面談を行った。以降も真木くんが赤点ギリギリを取ることで、もう話し合いは設けられていないみたいだけど……。


「あんたたちが、未来の天津ヶ丘が立て直されてきたってことの証明なんだから、ちゃんとやるんだよ。勉強も」


「はい」


 お婆さんは、「良い返事だね」と頷く。梨塚さんが言っていた天津ヶ丘の過去についても、きっとこのことなのだろう。しばらく一緒に歩いていると、やがてお婆さんのアパートに到着した。


「悪かったね、ここでいいよ」


「でも……」


「もうじき、暗くなるだろう? この時間は泥棒が彷徨くんだよ。だからさっさと帰りな」


 お婆さんが「何かあってからじゃ遅いからね」と、私と真木くんから袋を奪い取る。そうして、お婆さんは「今日はありがとうね」とそっけない調子でまたこちらに視線を戻した。


「いえ、こちらこそ沖田くんのおうち、見つかってよかったです。ありがとうございました」


「や、気にしないでいいよ。もともと、町内会で話題になってたんだし」


 お婆さんはばつが悪そうだ。「じゃあね」と、視線を逸らし、私達から荷物を受け取ると、スッと部屋へと入っていった。けれど扉の隙間から一瞬だけ見えた部屋にあった遺影を見て、私は大きく目を見開く。やがて扉はぱたりと閉じられた。


「かえろ、めーちゃん……俺もお腹すいた……」


 ふぁ、と真木くんは大きな欠伸をして、今度は私の手を引いて歩いていく。あの遺影には、確かに見覚えがある。私は振り返ってお婆さんの家を見た。そこには『大家』と木でできた表札がかけられている。


「帰るよめーちゃん。ほら、いいこだから」


 表札から視線を外すことが出来ない私を、真木くんはぐいぐい引っ張った。そうだ、彼が警察に疑われていることを、伝えなきゃ。黙っているべきことでもないと思うし、このままだと沖田くんのお兄さんみたいに真木くんが警察に捕まってしまう。沖田くんのお兄さんはずっと否認し続けていたらしいけど、真木くんは面倒臭がって「うーん」みたいな返事をしてしまう可能性が高い。


「ねぇ真木くん。警察の人、真木くんを疑っているみたいだったよ」


「へー」


「へーじゃないよ! 犯人ですかって聞かれたら、ちゃんと違いますって答えなきゃ駄目だよ? 面倒くさくても、うんって言っちゃ絶対駄目だからね」


「むう……警察に捕まるの、やだなぁ……」


「あっちも多分、こじつけみたいなのもあるだろうし……全然分かんないって言ってたから、たぶん大丈夫だろうけど……でも、ちゃんと沖田くんのお兄さんみたいに、ずっと違いますって言い続けないと――」


 ハッとした。刑事さん達は沖田くんのお兄さんのゴミ袋から、凶器の包丁が見つかったと言っていた。偶然かもしれないけど、あのお婆さんも、ゴミを捨てていた。あのお婆さんの娘さんも息子さんも、四つ切高校の出身だ。


 そして多分、あのお婆さんと関わりがあるのは――。


「真木くん、大丈夫だよ」


 私は真木くんの手をしっかりと握り返す。不安な気持ちはかき消えていて、彼を守らなければという強い意志が、心の隙間に満たされていく。


「真木くんは、私が守ってあげるから」


「危ないよ」


 そう言って、一歩踏み出そうとすると、真木くんにぐいっと後ろへ引っ張られた。振り返ると目の前には遮断器があって、カンカンと甲高い音で電車が近づいてくる警告をしている。


「めーちゃんぼーっとしすぎ。轢かれて潰されちゃうよ」


「ご、ごめん真木くん、ありがとう」


「いーえ」


 真木くんは疲れたのか、私の肩に額をのせた。子供みたいに暖かくて、彼の猫っ毛はふわふわしているのに、気がつけば掴まれている腕は少しだけがっしりとしてきた気がする。背も、高校一年生の頃は真木くんのほうが気持ち高いかな……? くらいだったのに、今は五センチくらいの差があるような。


 どうして今まで、気づかなかったんだろう。こんなに一緒にいるのに。


 私はどこか不思議な気持ちで、夕焼け空の下、遮断器が上がるのを待っていたのだった。



 童話喫茶――もとい不思議の国のアリス喫茶は、雨天だと厳しい。天気予報を見る度に晴れることを祈っていたけれど、天津ヶ丘高校の文化祭前日、明日の降水確率は0%、そして今日も見事な晴天に恵まれた。


「机と椅子はこの図の通り設置して! あ、あとカウンターの設置は――!」


 私は中庭で、指示表を手に中庭の中央を指差した。文化祭前日である今日は、授業は無く、一時間目から六時間目まで、ホームルーム扱い。文化祭の準備に充てられている。


 だいちゃん先生も大工仕事を手伝ってくれて、中庭から見える校舎や校庭では、ダンボールやペンキ、看板や金槌などを持った生徒が慌ただしく駆けていた。外にはいくつもテントが設置されているし、壁には部活動や同好会のポスター、ほかには隣のクラスがやる劇の宣伝ポスターが貼られていて、いつも通っている学校のはずなのに、なんだかいつもとは違う場所に来た気持ちになる。


 けれど、文化祭が始まるなぁなんて呑気に思うことは出来ない。椅子や机の設置が終わったら飾り付けだし、ドリンクの在庫を確認もあるし、やることは尽きない。


「園村さん、次何やればいい?」


「演劇部から届いた衣装の確認してもらっても良い?」


 金槌を持って腕まくりをした和田さんと吉沢さんに尋ねられ、私は机に置いていたダンボールを指した。一昨日、演劇部の人たちに縫ってもらった衣装が無事届いた。一応さっと確認したら、まるでお店とか、本物の舞台で役者さんが着るような衣装が出来上がっていて、その時周りにいたクラスメイト達も感動していた。文化祭が終わったら改めてお礼を言わなきゃ……と思っている間にも、沖田くんが「園村ー!」と、声を上げた。


「なにー?」


「カウンターの机って5つだっけ?」


「6つだよ、あ、私取りに行くから、指示お願いしていい? 私ちょっと校舎で確認しなきゃいけないことがあるから!」


「ありがと、悪い!」


 指示表を受け取った沖田くんは、「行くぞー!」と男子を引き連れながら駆けていき、私は逆走するみたいに校舎へ向かった。調理の最終確認をする為エプロン姿だったり、演劇の衣装を着ているらしい生徒とすれ違いながら廊下を抜けて辿り着いたのは、図書室だ。


 図書室の机と椅子は、自由に借りられることになっている。でも、他のクラスが粗方借りてしまっていて、まるで空洞みたいになっていた。本棚だけが無造作に並んでいる書庫をいくつも通り過ぎて、私は卒業生のアルバムが並ぶ本棚の前に立つ。視線の隅に映るカーテンは、太陽光から本を守りながら、風を受けて靡いていた。


「えっと……私たちの代が63期だから……」


 私は目的の卒業アルバムを探して、引き抜いた。大判サイズのそれを手にとった瞬間、ぶわりと埃が舞う。少し咳き込んで顔を上げると、引き抜いた本の隙間、棚の向こうに真木くんの姿があった。


「真木くん?」


「うあ……おさぼりばれちゃった……」


 真木くんは目を丸くして、目に見えて「しまった!」という顔をした。アルバムを片手に彼の元へ向かえば、彼は「怒らないで……」と上目使いで見てくる。


「いつからここにいたの? 文化祭準備さぼっちゃ駄目だよ、それに真木くんこの間もふらふらしてロッカー閉じ込められちゃったりしてたんだから、休憩はいいけどちゃんと人の目につく場所にいて?」


「はあい……でも、めーちゃんはなんで図書室にきたの? それ、アルバムだよねぇ? めーちゃんもおさぼり?」


「おさぼりじゃないよ」


 ただ……文化祭に関係は無いけど……。真木くんは首を傾げながら、私からアルバムを取った。「昔のだぁ……」と机に乗せて、ぺらぺらめくっている。


「めーちゃんさぁ……」


「うん?」


「文化祭、たのしみ?」


「うん。楽しみだよ。ほっとしたってのが大きいかもしれないけど……色々予算とか、あわあわすることも多かったし」


「ふぅん」


 彼は唇を尖らせ、気怠そうにアルバムを眺めている。ぷくっと膨らんだ頬をつつくと、「破裂しちゃう」と物騒なツッコミが返ってきた。


「破裂しちゃうの?」


「うん。俺のめーちゃん大好きって気持ちも、そのうち破裂しちゃうから……受け止めてほしい……」


「私も真木くんのこと好きだよ」


「そーいうんじゃないのにぃ……」


 非難混じりの声に、私は曖昧に笑って誤魔化す。私は、きちんと真木くんを守りたい。彼が自立するまで、昔のトラウマが癒えるまで。もう二度と危険な目に遭わせたくない。だから、確かめなくちゃいけない。


 私はふわふわの猫っ毛がはねる頭を撫でながら、開かれたアルバムのあるページを見つめていた。


◇◇◇


 文化祭の内装の準備は、最終下校時刻の一時間前――六時丁度に終わった。とはいえ、校舎にはまだまだ大勢の生徒がいて、下校時刻のタイムリミットに焦りながらも作業を進めている。もう外はだいぶ暗いけれど、廊下の照明は煌々としていて、壁もカラフルに装飾されているから、夜という感じがしない。動き回って汗をかいているからか、窓から吹き抜ける冷風が涼しくて心地いいくらいだ。


「えっと、当日の動きも大丈夫だし……当番は……」


 机も椅子も無くなって、がらんどうになった教室のなかで、私はトイレに向かった真木くんを待っていた。ついでに明日の確認をしつつ、教室の戸締まりをしようとすると、カタン、と扉に何かがぶつかった音がした。振り返れば沖田くんがいて、「おう」と気不味そうに会釈をされた。


「電気ついてたから、誰かいるかと思ってたんだけど……園村がいたんだな」


「うん。真木くんがお手洗いに行きたいって言ってたから、待ってて……」


「そっか」


 沖田くんは、暗い顔をしながら教室の真ん中まで歩いてきた。どこか表情も固いし、雰囲気もいつもと異なって見える。トラブルでもあったのか問いかけようとする前に、彼は口を開いた。


「園村は……文化祭委員、やりたくなかったかもしんないけど……俺、園村と文化祭委員やれて良かった。楽しかった」


「あ……えっと、こちらこそ……私も、文化祭委員、やれてよかったよ。和田さんとか、吉沢さんとか話したことない人とも、話できたし……」


 なんとなく、気不味い。私は真木くんのリュックをとって、教室を後にしようと、一歩踏み出す。「さよなら」と扉に手をかけた――その時だった。


「俺、園村が好きだ」


 聞こえてきた言葉が信じられなくて、振り返る。予想よりずっと近くに沖田くんがいて、心臓の動きがぎゅっと激しくなり、急速に体温が下がった。身体から温度という温度がすべて抜け落ちて、足先から冷えていく。


「……え?」


「園村は、真木しか見えてないことは分かってる。でも、俺、園村の優しいところとか、頑張り屋なところとか――すごいいいなって思ってて……俺のこと、見てほしい」


 一歩、一歩と踏みしめるように、沖田くんが近づいてくる。彼は、クラスメイトだ。怖い人じゃない。それなのに、今この瞬間は別人の……怪物のように見えた。上履きが床を擦る音も、低い声も、引き締まった腕も、何もかもが怖い。


 でも、彼は沖田くんだ。怖い人じゃない。ちゃんと返事をしなきゃ。逃げたら、駄目だ。


「ご、ごめん……わ、私は、だ、誰かと付き合うとか、考えてないから」


 震える声を振り絞ると、沖田くんは泣きそうに顔を歪めた。彼は何も悪いことなんてしていないはずなのに、「悪い」と謝る。


「えっと、けじめつけたかったって言うか……困らせるつもりじゃなかったんだ。好きだって伝えなきゃ、後悔するかなって……こんなの、言い訳か」


「こちらこそ……本当に……ごめん」


「いや……」


 沖田くんは、そのまま黙ってしまった。このまま沖田くんを教室に置き去りにしてしまっていいのだろうか。でも、私は沖田くんの気持ちに応えることはできない。


 そして今、気持ちを受け取らないと伝えた側だ。かける言葉がない。その場から動くことも出来ず、手をかけた扉からも手を離せないでいると、彼は「真木のこと」と、重々しく口を開いた。


「好き……なんだよな。園村は」


「……」


「諦めたいから、教えてほしい。好きだよな、園村……真木のこと」


「好きだよ」


 私は、真木くんのことが好きだ。でも、私は彼と釣り合わない。今の彼は生きることに不器用すぎて、奇跡的に彼と釣り合うべき女の子が、彼の周りにいないだけだ。そして、このまま彼が不器用なままであれば、ずっと一緒にいられるんじゃないかと思う瞬間が確かにある。


「告白しねえの? 真木、絶対オッケーするだろ」


「私が真木くんと付き合うのは、心の隙に付け入るようなものなんだよ。それに、私、汚いから」


 汚い人間で、それを真木くんに知られたくない。付き合ったら最後、私はもしかしたら彼が不器用なままであることを望んで、そうするように仕向けてしまうかもしれない。


 真木くんが誘拐されたのは、私があの日、彼を置き去りにして帰ってしまったからなのに。


「真木くんね、本当はハキハキ喋れるし、頭もすごくいいんだよ。でも、私が彼に酷いことして、真木くんは、今みたいに、失敗したり、すぐ寝るようになったんだ。だから、真木くんと付き合うのは、絶対私以外じゃないと」


「それって、おかしくね?」


 沖田くんが、躊躇いがちに首を傾げた。「なんで?」と即座に問いかけると、「だって、選ぶのは真木じゃん」と、すぐに言葉を返された。


「お前らの昔のこと、俺よく分かんないけどさ、園村に酷いことされて、それでも一緒にいるって決めてるの真木だろ?」


「でも、それは真木くんのお世話をするのは、私しかいないから……」


「そうか? でも文化祭で、植木鉢貸してくれたりとか、衣装縫ってくれたりとか、結構面倒見いいやつ多くねえ? 俺もそうだし……和田とか吉沢とか、他の奴等も真木困ってたら全然手伝うし、でも真木って園村のとこ行くじゃん。真木は、自分で選んで園村のとこ行ってるんじゃねえの?」


「でも、それは……ずっと小さい頃から一緒だったから……」


「いくら小さい頃から一緒でも、嫌な奴とは一緒にいれないだろ。俺も小中とか一緒で、一切話さない奴とか普通にいるし」


 沖田くんは、「だから」と、あやすみたいな声色で目を合わせてきた。


「園村が、なんか告白しづらいの、勇気でないとか、そういうのならいいんだけどさ、自分のこと汚いとか思ってるんだったら、告白していいと思う。つうか、自分が誰といて幸せか選ぶの真木だし、園村が勝手に真木の幸せ決めつけるのは良くないんじゃね」


「私が、真木くんの幸せを決めつける……?」


「おー。だってさ、園村と一緒にいて幸せかって決めるのは、真木なわけだろ? 真木は園村の所有物でも、園村自身でもないわけじゃん」


 私が、真木くんの幸せを決めつけていたのだろうか。だって、今告白したら、私は真木くんをまるで洗脳しているみたいで――でも、そうだ。私はいつから、真木くんに告白したら絶対受け入れてもらえると思っていたのだろう。真木くんに好きだと言われてから? いや、その前にだって、私は真木くんと一緒にいられないと思っていた。


 真木くんの気持ちを、勝手に決めつけていた。


「つうか、吉沢とか真木に突っ込んでたしな、夏前」


 吉沢さんが、夏前に真木くんに? 私は思わず「いつ?」と聞き返した。


「園村がトイレ行ってる時。園村、すげえ真木の世話すんじゃん。で、吉沢が真木に言ったんだよ。赤ちゃんじゃないんだから自分の世話は自分でしろって、園村が可哀想だからって。そうしたら――」


「そうしたら?」


「めーちゃん……トイレ、終わったよ……」


 真木くんが、手についた水滴をぶんぶん振り払いながらやってきた。私は慌ててハンカチを取り出して、彼の手を拭く。「廊下水浸しになっちゃうよ!」と怒れば、彼は「ごめんなさい……」としょんぼりした。


「ってことだから、園村が良ければ、ちゃんと気持ち伝えて欲しい。絶対、ハッピーエンドだと思うから。勿体ないし――俺も、吹っ切れるから、助かる」


 そうして沖田くんは、「じゃあな!」と、風のように教室を出て、駆けていった。遠くの方で沖田くんを呼ぶ声と、彼の笑い声が聞こえてくる。反響するその音が遠ざかっていくのを見届けてから、私は真木くんに向き直った。




「どしたの……めーちゃん、すっきりした顔してる……めーちゃんもおトイレ行った?」


「ううん、ただ……、沖田くんに、色々気づかせてもらったっていうか……」


「むぅ……嫉妬の意……」


 真木くんは緩やかな動作でリュックを背負い直した。ずるずると肩紐のベルトを緩めて、調整している。私は意を決して、彼の手を取った。


「真木くん」


「なあに」


「……明日の文化祭、お話したいことがあるんだ。聞いてもらってもいい?」


 話をするのは、明日だ。やらなきゃいけないことがあるから。それを終わらせて、私は真木くんと話がしたい。彼の返答を、まるで判決を待つような気持ちで待っていると、「いーよー……」と、彼は肩の力を抜いて歩き出した。


「ありがとう、真木くん」


「どういたしましまし……」


「もう、変なふうに言葉覚えちゃ駄目だよ」


「ひゅーん」


「真木くん!」


 私は、真木くんと一緒に教室の電気を消して、歩き出す。廊下はまだまだ賑わっていて、明日の文化祭に向け、皆楽しそうにしていた。


◇◇◇


 文化祭当日、雨が降ったらどうしよう。そう思う私の心配はよそに、天気は今までにない快晴、そして10月の下旬とは思えないほど温暖な気温に恵まれた。そのためか、お客さんはひっきりなしにやってきて、アリスだけではなくチェシャ猫、ハンプティダンプティにハートの女王、帽子屋の衣装に身を包んだ生徒たちが、ドリンクを作ったり接客に追われていた。


 かくいう私も、アリスの衣装を着てドリンク作りをしている。真木くんはチェシャ猫の衣装を着て、「五番テーブルメロンソーダとケーキ……」と、注文を読み上げてくれている。


 あれだけ予算削らなきゃ……と困っていた内装は、椅子にカバーをかけたソファ型となっていて、お店を囲うようにトランプ兵の木製スタンドが並んでいる。園芸部に借りた植木鉢や花のポットも可愛い雰囲気を作っていて、このままの調子でいけば売上に問題はない。


 本当に、出来上がって良かった。一時はどうなることかと思ったけれど、お客さんも並んでくれて、アリス喫茶は盛況だ。並んでいるお客さんたちも、劇の合間に来ているのか衣装を着た生徒も見られるし、中にはおばけ姿の生徒もいる。安心して周囲を見渡していると、肩を叩かれた。視線を向ければ和田さんと吉沢さんで、和田さんはハンプティダンプティの格好を、吉沢さんは帽子屋の衣装を着て立っていた。


「園村さん、ずっといない? いつ休んだ?」


「え? えっと……トイレには行ってるよ」


「駄目じゃん! ご飯食べてきなよ! 店のもの食べるわけいかないしさ、なんか当番のたびにいるなって思ってたんだけど」


 吉沢さんの問いかけに答えると、和田さんが絶句した。そしてものすごい勢いでぶんぶん首を横に振っている。「でも忙しいし……」と、周りを見ると、吉沢さんが「園村さんが食べてないってことはさ、真木も食べてないってことなんじゃないの?」と、彼を見た。


 あ、そういえば。確かに一度休憩時間になったとき、真木くんに「御飯食べない?」と聞かれて、「待ってて!」と答えそのままにしてしまった気がする。慌てて真木くんをよく見ると「餓死する……」と恨めしげな目を向けられた。


「ほら、うちら交代するからご飯食べてきな!」


「でも」


「店で倒れられるほうが邪魔だって、ほら、どいたどいた」


 和田さんに続いて、吉沢さんが私からマドラーを取ってしまった。そのまま押し出されるようにして、私は二人にお礼を行ってお店を後にする。まず、お昼を取らないと……。たしか文化祭では、フランクフルトにクレープ、焼きそばにたこ焼き、お好み焼きと、比較的手軽に食べられるものが売られていたはずだ。確かサッカー部がおにぎりを出してる、なんて聞いたこともある。


「真木くん、何食べたい?」


「食べられたら何でもいい……でも、混んでてごわごわしてるし、めーちゃん疲れてるから、俺買ってくる……」


「え……だ、大丈夫?」


「うん。一人で出来る……たこ焼き買ってくるね……めーちゃんは……そうだ、美術室で、展示でも見てて……」


 真木くんは、校舎を指差した。たしか美術室は、だいちゃん先生の展示がある。


「皆ごはんたべてて……展示物とかお化け屋敷……今の時間……いないだろうし……。いってくる……」


 ふらふらと、真木くんは人混みに紛れて行ってしまった。不安に思うけれど、学校の敷地内から出なければ大丈夫……と思いたい。それに、今から追いかけても追いつける気がしないほどの人混みだ。それに、私はだいちゃん先生と話したいこともある。私は真木くんの無事をやや祈る気持ちで、美術室へと向かったのだった。




 天津ヶ丘高校の美術部員は、毎年人数が少ないらしい。今年も部員数は一年生と二年生、三年生がそれぞれ一人ずつの計三人しかいない。だから四月のうちから絵を描き溜めて、文化祭が盛り上がるようにするそうだ。だから美術室は人こそいないものの、たくさんの絵が美術室の壁一面に展示されていた。大きなクジラや、果物の絵。幻想的な風景画から、肖像画。油や水彩、アクリル絵の具と色んな画材を使って、額縁も立体的なものからシンプルなアルミフレームが並ぶ中、やっぱり一番目立っていたのは、だいちゃん先生の絵だった。


 パネルに描かれた先生のお姉さんは、絵の中で優しく微笑んでいる。柔らかな極彩色の花畑の中で、光を燦々と受けながら、こちらに向かって微笑んでいた。


「お、園村、見に来てくれたのか。よく描けてるだろう?」


 ガチャリ、とドアノブの音がしたかと思えば、先生が美術準備室から出てきた。その笑顔は学校でよく見る溌溂として、太陽みたいな笑顔だけど、どこかうら寂しい。


「先生……」


「今日の明け方まで描いてたんだよ。コンクールは四日後だけど、どうしても文化祭に出してやりたくてな」


 ははは! と笑いを交えて先生は私の隣に並んだ。優しい声が、今朝、確信してしまった結論と剥離して、きゅっと胸が締め付けられた。でも、私はここできちんと先生に問いかけなければいけない。真実を、知ってしまった以上は。


「だいちゃん先生のお姉さんって……もしかして、四つ切高校出身だったり……しますか?」


 問いかけると、先生は隠す素振りもなく「そうだぞ」と肯定した。「俺がOBで、姉貴がOGになるな」と、教卓に立ち、黒板消しで黒板を綺麗にしていく。白っぽくなっていた緑面は、先生が拭く度にきれいになっていった。


「俺のいた頃すげえ荒れてたけど、こんな綺麗になるなんてなぁ……びっくりするわ。バルーンリリースなんて小洒落た行事も無かったし、文化祭もクソだったしな。ちょうど沖田の兄ちゃんの代だったか、始まったの」


「沖田くんの、お兄さんの代……?」


「ああ。始めは文化祭始まる前にやってたんだよ。色々偏差値あげて整わせても、やっぱり近所からの印象は少し悪くてな、だから、カラフルな風船がいっぱい飛んでる学園祭にしたい――って、文化祭委員が企画したらしい。ただ、最初は批判も多かったけどな、危ないって」


 バルーンリリースには、純度の高いガスを使わなきゃいけない。それは火がつきやすくて、爆発しやすい。それもあるけれど、ガスを誤って吸ってしまうと呼吸困難に陥るらしい。昨日の夜、調べて分かった。ガスは無臭で、漏れていても気づきにくいそうだ。味も色もなく、吸っていても気づかない。眠るように意識を失い――死に至る。


 バルーンリリースには風船がたくさん必要だし、膨らましている間に事故が起きない保証はない。それに、純度の高いガスであればあるほど、手に入れることは難しい。簡単に手に入れるなんて出来ないのだ。


「でも、生徒の力ってすごいよな。批判されたイベントが、今は文化祭の目玉だ。バルーンリリースを一緒に見た二人は結ばれるなんてジンクスまであるんだろ? すごいよなぁ」


 先生は、窓の外へ視線を移す。その笑顔は優しい先生そのもので、とても四人の人たちを殺した殺人鬼には見えなかった。


「どうして――先生は、人を殺したんですか? 大家たいか先生」


 今まで、こんな質問を人にしたことはない。多分、今日が最初で、最後だろう。昨日まで生徒が授業を受ける為にその役割を担っていた机と椅子は、今は文化祭で皆を愉しませる為に置かれている。だから、私たちを取り囲む机と椅子はところどころ欠落があって、より一層異質な空気を醸し出していた。


「なんだ、突然。面白いことを言うな園村。今流行りのTPRPGってやつか?」


「……青薬荘ってアパートに住んでいる、大家さんってお婆さん、先生のお母さんですよね? 私、見たんです。先生の描いている絵と全く同じ人の遺影が、お婆さんの部屋にありました」


 今朝、私は先生の描いていたパネルを確認した。そして、あの緻密に描かれていた絵の女の人は、やっぱりお婆さんの部屋で一瞬だけ見えた遺影と同じ顔だった。それから、図書室にあった歴代の卒業生が載っているアルバムを見たけれど、そこには連続殺人事件の被害者の人たちと名字が同じ生徒たちの他に――先生の、お姉さんらしき人が写っていた。


「そのお婆さんと俺が親子だからって、何の関係がある?」


 告解をまるで求めていない静かな瞳で、大家先生は首を傾げた。たいかという読みなのに、ダイヤと読んだ生徒がいたことから、先生はだいちゃんと呼ばれることとなった。流石にだいちゃんと呼ぶのが気まずい生徒はだいちゃん先生と呼ぶようになったけれど、ニックネームの元になった宝石と同じくらい、眩しさと強さを持った先生は、もうどこにもいない。


「お婆さんの家の前――青薬荘に向けて、町内会長の梨塚さんが防犯カメラを設置していたんです。お婆さんが、ゴミを捨てる決まりを守らないからと。今朝、その映像をお願いして見せてもらいました。そうしたら、沖田くんのお兄さんが捕まる前、なしづかアパートに向かって歩いていく先生の姿が見えました。沖田くんのお兄さんが捕まったきっかけとなった証拠が入っていたゴミ袋と、監視カメラを照らし合わせれば、先生がそれを捨てたと分かるはずです」


「違法な手段で手に入れられた証拠は、証拠扱いにならないんだぞ?」


「だから、私は自首してほしいとお願いをしに来ました。先生は、ずっとお姉さんの復讐をされていたんですよね……?」


 梨塚さんに、防犯カメラの映像を借りたいとお願いした時、私はそこで、天津ヶ丘高校――昔の四つ切高校が荒れ果てていた時代に起きた事件について聞いたのだ。それは、女子高生がいじめに耐えかね、自殺したというもの。真面目で優しい生徒は、荒れたクラスメイトをまとめようとした。文化祭をきっかけになんとかクラスをいい方向へ持っていこうとした結果――いじめられ、最終的に校内で自殺をした。


 バルーンリリースは、はじめそんな彼女を追悼する目的で行われたらしい。しかしその意図は次第に風化し、今ではただの文化祭のイベントのひとつとなり、さらに学校名や校舎も変わり、学校から彼女の死の痕跡は、跡形もなく消えた。


 そしてその彼女の弟が、大家先生だったのだ。


「大家先生のお母さんは、多分、先生が何をしているか、全て分かっています。ただ、貴方の行動を真っ向から止めることは出来なくて、生徒の家族を犯人に仕立て上げることも嫌で……刃物を捨てたり、自分が目立つ行動を取ろうとしていたんだと思います」


「……生徒の家族じゃねえよ。沖田は、姉さんを殺した馬鹿な奴らの血を引いてる。それも、主犯のな」


 先生が、血を吐くように私を睨んだ。けれど、すぐに悲しげな顔で、視線を落とした。


「もっと、沖田が馬鹿みてえに、呑気に暮らしてたら、復讐し甲斐もあったんだがな……」


「先生……」


「上の兄は、なんとか家出ようと必死に働いて、工場と解体業者かけもちで、財布落とした男見て、盗むか盗まないか悩むくらい追い詰められて、高校生と幼稚園の兄弟養おうと必死でさぁ。クソみたいに苦しんで……」


 先生は、「本当、馬鹿みてえだな」と、黒板消しを手から離した。すぐにサッシに着地したそれは、僅かな粉を舞わせている。


「美術の教師になりたいって夢は、ずっと姉さんの夢だったんだ」


「お姉さんの……?」


「ああ、優しくて、真面目で、絵描くの、すげえ好きでさ。俺が描いてっていったもの、何でも描ける人だった。小さい頃は画用紙に好きな漫画とか、アニメとかのキャラ描いてもらって、幼稚園とか小学校で、皆に自慢してた。でも、俺中学受験失敗してさ、親に、ボロカスに言われて……ガキみたいにグレて、遊び歩いてたりしてたんだよ」


 大家先生が、教卓を降りた。先生はゆっくりとこちらに近づいたかと思えば、飾られたお姉さんの絵の前に立った。


「俺は荒れて学校なんて行ってなかったけど、姉さんはいじめられて――死んだ。美術部で絵を描いてたはずなのに、一枚も返ってこない。燃やされてたんだろうな。それで学校が名前変わったって聞いて、姉さんのこと消そうとしてんのかなって。校舎も変わってさ、姉さんが死んだことすら、皆に忘れられていく。許せなかった。でも、死ぬなんて簡単だろ。姉さんにとって死ぬことは救いだった。俺にとっては地獄だったけどな。だから。だから、姉さんをいじめてた奴らの――家族を殺したんだ」


 その言葉に、最後の疑問が溶けていくようだった。先生のお姉さんの代と、今までの被害者とは致命的に年代が合わない。きっとお姉さんのクラスメイトを殺していたのなら、警察の人だってすぐに犯人に辿り着き、捕まえていただろう。


「裸にされんのも、虫も、バケツも、落書きされんのも、全部姉さんがされてたことだった。だからその手順で曾祖父、祖父、父親、それで弟って順番に殺していって、そうしたら若返り殺人なんてバカっぽい名前つけられてさ、どう考えてもいじめられた人間の状態なはずなのに。誰も、姉貴について口にしない。同級生なら、なんとなく分かるはずなのに、結局見て見ぬ振りだった。だから――今もこうして、俺はお前の前にいるんだろうな」


 先生は、悲しげに笑った。今まで見てきた誰よりも、穏やかな声色をしながら。


「ずっと、このままでいいのかって思ってたんだ」


「え……?」


「全部終わらせるまで、捕まるわけにはいかないと思ってた。でもいざ、警察が俺を疑わないと思うと、姉貴がいないのに、俺はこの先も捕まらずに生きてくのかと思ったんだ」


「まさか、死のうとして……」


「教え子の前で自殺なんてしねえって。トラウマになるだろ。まぁ、担任教師が連続殺人犯っていうのも、十分トラウマになるだろうけどな」


 大家先生はおどけてみせるけれど、まるで昨日とは別人に見えた。そして、ずっとテレビで恐れていた殺人鬼だということも、今まさに先生が認めているというのに、信じられない。


「姉さん、文化祭……絵飾りたいって楽しみにしてたんだ。その絵、隠されたか捨てられたらしくて、どこ探しても無くてさ。さすがに遺影は置けないから――ここに、置いてやりたくてな。気休めかもしれないけど……」


「先生……」


「自首、するよ。生徒であるお前に見つけられたってのも、もしかしたら姉さんがそうさせたのかもしれないし。今日お前の親来てるんだろ? 文化祭終わったら……自首する。それでもいいか?」


「はい……」


「悪いな、園村。こんな先生で。お前は過去に囚われないで、ちゃんと前見て生きろよ。自分のこと慕ってくれるやつ、見て見ぬ振りなんかせずに」


 大家先生が、絵から目を離して、ようやく私を見た。きっと、先生は逃げることはしない。お姉さんへの裏切りになってしまうから。そしてもう、二度と先生とこうして会うことはないだろう。言葉を交わすのも、これで最後になる。私は、「今までありがとうございました」と頭を下げて、夕焼けに染まる美術室を後にしたのだった。


◇◇◇


 天津丘高校の美術室で、生徒に自分の犯行を暴かれた大家はひとり、姉の絵を見つめていた。水彩紙が痛むギリギリまで色水を吸わせ、天然水晶の粉末を混ぜたアクリルが重ねられたパネルは、夕日を受けて輝いている。今際の別れをするようにパネルへ手を伸ばすと同時に、美術室の扉ががらりと開かれた。


「大家輝、連続晩餐川猟奇殺人事件の件で、同行願えますか」


 そう言って美術室に現れたのは、園村芽依菜の母親である園村夏菜子と、部下である乃木、東条であった。その後ろには大家の教え子である真木が立ち、じっと大家を見つめている。


「自首……するつもりだったのですが」


「はい。我々も、あまりセンセーショナルに報道され、生徒たちに影響を及ぼすことは避けたいと思っておりますので」


「そうですか……」


 大家は抵抗する素振りを見せない。東条と乃木はそんな大家を挟んで立ち、万が一がないよう見えない位置で腕を押さえた。大家は美術室にある姉の絵に目を向けてから、一歩踏み出す。夏菜子は落ち着いた雰囲気


「大家せんせい。これ、どうぞ」


 それまでじっと大家を見つめていた真木が、傍らに持っていたパネルを差し出した。そこには幼い大家の姿が、今美術室で飾られていたものと同じ技法で描かれ、同じように夕日を受けて輝いていた。目を見開き、絵に心も視界も奪われた大家に、真木は淡々と、それでいて早口で告げる。


「天津ヶ丘高校が取り壊される際、見つかったそうです。工事の作業員がせっかくよく描けているのに勿体ないからと持ち帰ったそうで……借りてきました。裏に、題名もあります」


 そうして、真木がひっくり返したパネルには、『一年四組 大家みずき 私の大好きな弟』と、所属、氏名、そしてタイトルが記されていた。その文字列すべてを読み取った瞬間、大家は大粒の涙を流しながら膝を崩し、乃木と東条を振り払って絵を抱きしめた。


「姉貴……姉貴……!」

 求める声色は幼子のようで、東条と乃木はあっけにとられた。夏菜子は職業柄、娘の学校行事に参加したことはなく大家とは初対面だった。しかし、人となりは断片的ではあれど、娘から聞いている。おおらかで、熱血な所もある、良くも悪くも教師らしい男。そして捜査上、プロファイリングで編み出された犯人像は、自らの犯行を世間に見せつけたいが、自分自身を見せつけたいわけではない。革命や妄執にとらわれているわけでもなく、殺人を自分の仕事として淡々と、冷静に果たしているとされていた。


 そして、今現実で前にしている大家は何度も鼻をすすりながら、絵を抱きしめている。その姿は母を求める幼子すら彷彿とさせ、その場にいた誰もが彼を急かすでもなく、押し黙った。


「ごめんな……気づいてやれなくて……! ごめん……! ごめんな姉貴……姉貴……! ごめんな……一人にして……ごめん……ごめん……! ここに、ここにいたんだな」


 大家は、絵を抱きしめながら美術室で泣き、今は亡き姉を想う。その涙は、彼が姉を亡くしてから一度も流したことのないものであった。以降、彼はずっと復讐することだけを考え、緻密に計画を練り生きていた。そして、姉の十周忌の日、自分が姉の夢であった教職の夢を叶えた今年、復讐を開始したのだ。


 それまで彼は心の底から笑うこともなく、悲しむこともなかった。あるのは怒りと、人を騙す狡猾な精神、暴走する復讐心に身を任せた、殺人鬼の魂のみ。


 しかしこの瞬間、大家はようやく、大家みずきの愚かな弟に立ち戻ることが出来たのだった。


 そして刑事として、日々一般市民を守る正義感を持ち、悪を許さぬ精神を持って働いている園村、乃木、東条すら呆然と見つめるだけだった大家の慟哭を、真木ただ一人が無感動な瞳で眺めていた。そこには、自分の師が殺人鬼だった驚きも、悲しみも、目の前の男を憐れむ同情も、何一つ無い。純粋な無だ。やがて東条と乃木が静かに大家を連行していくのを見届けてもなお、真木の瞳は虚ろで、目の前の出来事に関心がないことが如実に現れている瞳をしていた。


 そんな真木を前に、彼を自分の娘の幼馴染としてよく知る園村が、声をかけた。


「もしかしてだけれど……貴方は、芽依菜にこの事件を解決させようとしていたの?」


「どうしてですか?」


「刑事の勘」


 園村の根拠のない発言を、真木は馬鹿にする素振りもなく一瞥した。その背筋はピンとしていて、普段彼が学校で見せる猫背とはかけ離れている。面立ちも気怠さは見えず、機械的な瞳だ。


 大家みずきが描いたパネルを持つ手つきも、きちんと重心を捕らえた持ち方で、気怠さも頼りなさも、微塵も感じさせない。


 普段の真木を見ている人間であったなら、萎縮してしまいそうなその佇まいに屈すること無く、園村は真木を見据えた。


「芽依菜が、事件に遭って様子がおかしくなった時から、精神的な治療法についてずっと調べているの。その中に、類似事件や類似した状況を前にして、自ら解決して乗り越えるというものがあったわ」


 園村の娘、芽依菜が小学校二年生に上がって間もない頃、芽依菜は小児性愛者である大学生にワゴン車で誘拐された。約三時間連れ回された芽依菜は信号待ちの途中、命からがら車から抜け出し、近くの交番に駆け込み保護された。


 精密検査の末に、芽依菜から男に暴行された形跡は見られなかったが、三時間に及ぶ自分の命、尊厳を狂った男に脅かされながら監禁される状況は十歳にも満たない少女の精神を焼き尽くすには充分で、幼い芽依菜の心は完全に破壊されてしまった。


 目に見えるすべての人間が、誘拐犯に見え、怯えて泣き叫び、自分自身へ攻撃する。頭痛が止まないと自分の頭を自分で叩きつける。鏡が見られない。車の音がするだけで、吐いてしまう。閉所にいられず、どんなに寒い日であろうと扉が閉じた環境にはいられない。人の声、気配がするだけで、暴れて、叫んで、泣いて、自らの命を絶とうとする。部屋から出ることも出来ず、食事すら満足に取れない。母親である夏菜子のことすら、犯人の仲間なのではと疑い、拒絶するほどだった。特に男である芽依菜の父親──夏菜子の夫に対してはひどい有様で、食事の為のフォークで刺そうとしたこともあった。


 そんな芽依菜に対して、母親である夏菜子はなんとか手を尽くそうとした。しかし、捜査一課の刑事である以上、自分の娘の為だけに身を粉にすることは許されない。夫も献身的に手を尽くしていたがそれでもなお、自分の産んだ娘が苦しんでいる時に、市民を守らなければいけないことに、どこへ向けていいか分からぬ憎悪すら抱いていた。


 そして、誘拐が起きた日に芽依菜はクラスの友人から、真木とずっと一緒にいることを指摘され先に帰ってしまったこと、そしてクラスの友人が、自分が嫌がる真木を引き留め続けたせいだと、泣きながら自分の家に電話をしてきた時、夏菜子の世界への憎悪や後悔はより強固なものとなった。


 芽依菜を攫ったあんな男さえ、いなければ。


 警察という市民を守る仕事をして、私は娘すら守れなかった。


 自分も周囲も、全員責めた。憎んだ。


 その反面、夏菜子は真木だけを責めることは出来なかったのだ。真木の知能指数──IQの高さについて、その両親から聞いていた夏菜子は、そんなものはまやかしの数値だと半信半疑だった。だから芽依菜が誘拐された時、すぐに現場を調べワゴン車の足取りを推察した真木の意見を却下し、虱潰しに捜索をするよう命じたのだ。誘拐の捜査は初動が肝心で、真木は幼い子供。捜査の邪魔をするなと苛立ちすら覚えていた。


 しかし、芽依菜が自らの手で脱出したその場所は、真木が推察し夏菜子に伝えてきたルートだった。あの時真木が芽依菜に追いついていれば誘拐事件が起きなかったのと同じように、自分が真木の意見に耳を傾けていれば、芽依菜の負った傷がもっと浅いものであったかもしれない。答えのない正解を探しながら夏菜子が仕事に打ち込んでいると、奇跡が起きたのだ。


 それまで閉じこもっていた芽依菜が、まるで事件が無かったかのように穏やかになり、閉じこもっていた芽依菜が、部屋から出るようになったのだ。それはあまりに劇的で、お伽噺のような変化だった。ハッピーエンドを迎え、幕が下りていく感動のワンシーンとしか、表現できない変化だった。


 しかし、園村が娘である芽依菜の本当の変化に気づくことに、そう時間はかからなかった。


「あ、今日真木くんが遊びに来る日だ! 大変! 窓を少し開けておかなくちゃ」


 そう言って、窓を僅かに開ける娘を見て、「どうして?」と、その日たまたま非番で家にいた夏菜子は問いかけた。すると、芽依菜は当然のようにこう返したのだ。


「真木くん、この間誘拐されたでしょう? だから、車で連れ去られてる時のこと、思い出さないようにって。真木くん、泣いちゃうから」


 その言葉で、十分、それ以上に理解した。自分の娘が、終幕すら迎えていないことに。芽依菜は真木が誘拐されたと思いこむことで、今までの日常を取り戻していたのだ。そうして園村家へと訪れた真木は、髪を肩にかかるくらいまで伸ばし、気怠げでありながらどこか怯えた顔で、芽依菜の手を掴んでいた。自分が誘拐され、外に出ることを恐れながらも、芽依菜に守ってもらうことを望む真木朔人を完璧なまでに演じきっていた。


 IQが高く、才能に恵まれただけの人間が、人に洗脳紛いのことなんて出来るはずがない。そう思う園村の前で行われた芽依菜と真木のやり取りは、夏菜子の考え方を否定し、上から押さえつけるように納得させるものだった。


 芽依菜は、誘拐されたことで日常生活すら困難になってしまった真木を守ることで、社会生活を得ている。万物において失敗し、自分の身を危険に晒す真木を見ながら、自分は守られなかった側の人間ではなく、守る側の人間だと、真木によって教えこまれていく。一度、夏菜子はそれを止めたことがあった。娘が可愛いとはいえ、人間一人の犠牲を甘んじることは正しくない。間違っていることだ。だから、身を切る思いで、真木は誘拐されてないと伝えた。


 しかしその瞬間、芽依菜は狂ったように叫びだし、事件の再演をされているかのように部屋を飛び出し、そのままベランダから飛び降りたのだ。そんな芽依菜を救ったのも、また真木であった。彼はすぐさま芽依菜を抱きかかえて飛び降り、自分をクッションにして彼女を守った。自分の腕を折りながら。そして、気を失った芽依菜を抱きながら、芽依菜の母親である夏菜子に、無情に宣告したのだ。


 ーー今はその時ではありません。邪魔しないでください。娘さんを、殺したくなければ。


 真木にそう告げられて以降、夏菜子は芽依菜の思い込みを否定することも、しようと思うことも無くなった。


 さらに学校側にも誘拐の件は触れないでほしいと口止めをしている。あまりに特殊な状況から、病院に本人を伴い通うことも出来ず、真木の物忘れを良くするためにカウンセリングの同行をしている体で、芽依菜は精神科に通っている。医者もカウンセラーも、誘拐事件について触れることは一切ない。


 そして今日、匿名の通報が入り、夏菜子は乃木と東条とともに天津ヶ丘高校へ訪れると、職員玄関に現れたのは教職員ではなく、真木だった。真木は訝しむ乃木と東条の言葉を全て無視して、「黙っていてください」とだけ伝えて、美術室の隣、美術準備室へと入り、声を潜めて美術室の中を窺うよう指示したのだ。


 反抗しようとする乃木と東条を宥めながら、そっと美術室を覗いた園村が目にしたのは、芽依菜が大家と対峙し、連続猟奇犯人犯として看破しているまさにその瞬間だった。


 だからこそ、芽依菜の精神を暴力的に安定させた真木が、芽依菜をみすみす殺人鬼の前に立たせることが、夏菜子には信じられなかった。真木が学校で、芽依菜の手洗い、着替え以外絶対離れないようにしていることは、芽依菜の雑談からも痛いほどに知っている。警察が手を焼き、捜査本部を何度も拡大させてもなお捕まえることが出来ず、あまつさえ誤認逮捕すらしかけた犯人を芽依菜がたまたま見つけ、そして対峙したことが、偶然だとは全く思えなかったのだ。


「真木くん、あなたもしかして、大家先生が人を殺していたこと、最初から知っていたんじゃないの」


 夕焼けで染まる美術室で、園村は娘の幼馴染に問いかける。仮にも大人を相手にしているのに、真木は視線一つ動かさない。


「どうして」


 まるで、お前にかける言葉はそれくらいだと言わんばかりの、淡々とした声だった。


「事件について知って、それを推理した貴方は、芽依菜に事件を解決させようとした。大家が復讐をしている間に芽依菜に推理させたら、大家に邪魔だと思われ消されてしまう。だから大家の復讐が終わるのを待ってから、芽依菜が事件を積極的に調べるよう仕向けて、推理のヒントを与え続けた。違う?」


 確信めいた言葉にも、真木は表情一つ変えない。それどころかいつも間延びした彼の口調とは到底思えない速度で、淡々と切り替えした。


「推理のヒントを与えても、芽依菜が推理するとは限りません。ただでさえ、芽依菜は意欲的に動くことができなくなっている。ヒントを与えたところで、気づかない、無視する可能性もある中で犯人と接触させ引き合わせることは、危険ではありませんか」


「文化祭委員をさせて、友達を増やして、ストレス耐性を少しずつ与えて課題をクリアさせて、芽依菜の精神的成長を加減しながら促した、というのはどう?」


「芽依菜が文化祭委員に選ばれたのは、くじ引きですよ」


「でも、貴方にはそれが出来るはずだわ」


 夏菜子は、自分の勘に自信があった。絶対に証拠が出ないことも分かっており、更にはそれを真木が予測済みということも分かっての発言だった。真木は変わらず淡々とした口調だが、夏菜子に視線を合わせた。


「俺は、芽依菜にはもう絶対に危険な目に遭ってほしくないんですよ」


「でも、大家の姉は暴行グループに拉致されていた。担任教師なら、芽依菜が誘拐に遭ったことを知っている。姉が受けた仕打ちを実際に受けた芽依菜に対しては、特に配慮をして接する。それこそ――自分の復讐を邪魔しない限り。いえ、もしかしたら復讐よりも、教師であることを優先する」


「大家先生が、教師であろうとする証拠は」


「クラスメイトの子に、ヤングケアラーの子がいたそうね。そしてその子を、大家先生は助けたのでしょう」


 真木は押し黙る。しかし、少しだけ口を開いた。


「俺はあの日、芽依菜の手を掴めなかった。警察は、芽依菜を救ってくれなかった。それは一生変わりません」


 淡々とした視線が、唯一ぶれた瞬間だった。夏菜子は問いかける。


「このまま、貴方は一生を償いによって失い続けても、いいの?」


「償いじゃありません。俺は、芽依菜のことが好きなので。芽依菜が笑ってくれたら、それでいいんです」


「そうしたら貴方は永遠に」


 本当の意味で、芽依菜の隣に立てる日は来ない。夏菜子がそう続ける前に、真木は口を開いた。


「その為なら、俺は一生芽依菜に男として見られなくても、面倒くさがりでぼーっとしてて、頼りがいなんて無い欠点だらけの真木朔人でいいです。完璧な真木朔人も、結局芽依菜を守れなかった時点で完璧ではないので」


「でも」


「それでは、失礼いたします。それと、先日乃木と東条という警察官が、芽依菜を呼び出しました。必要があったので会わせましたが、誘拐の件について触れてきた以上、今後は一切逢わせる気はないのでよろしくお願い申し上げます」


 真木は、興味なさげに持っていたパネルを園村に差し出し、廊下を後にする。夏菜子は真木が持ってきた大家みずきのパネルを眺め、しばし立ち尽くしていた。



◆◆◆


 美術室を後にした私は、特に行く当てもなくオレンジ色に染め上げられていく廊下を歩いていた。大家先生は一人になりたいかと思って美術室を出てしまい、さらに階段までは一本道だからと歩いてきてしまったけれど、この後、正直どうしていいか分からない。


 ここで、誰かが美術室の展示を見に行くことを止めたほうがいいのだろうか。というか、やっぱり警察に通報すべきでは……悶々と悩みながら歩いていると、ふと校庭に真木くんらしきパーカーを着た生徒を見つけた。


 私は慌てて駆け出して、上履きから靴へと履き替え、校庭の中央、真木くんがいた辺りへと急いだ。けれど、看板を持っていたりする呼び込みの生徒や、食べ歩きをする人も多くて中々たどり着けない。やがて、この人だ! と思う背中を叩こうとすると、その背中に書いてある文字をみて絶句した。


「く、クラスパーカー」


 私が真木くんだと思ったその人は、クラスパーカーを着た他のクラスの生徒だった。四組、たしかに紫のクラスパーカーを買ったと言っていた気がする。私のクラスも作るか話になったものの、売上が赤字になったらクラスの子達から代金を徴収しなきゃいけなくなるし、そもそも衣装を着るからとナシになっていた。


 となると、真木くんと入れ違いに……? 一応たこ焼き屋さんをしているクラスのブースを覗いても、真木くんの姿は見えない。戻らなきゃ、と思って踵を返そうとすると、後ろから腕を掴まれた。


「めーちゃん、待って」


「ま、真木くん!」


 真木くんが、少し汗をかきながら私の腕を掴んでいた。「つかれた……なんで動くの……」と不満げな顔で、「ごめん」と謝る。でも、流石にどうして動いてたか、何をやっていたかは伝えられなくて口籠ると、「ああ、俺もごめんしなきゃ」と真木くんは頭を下げてきた。


「たこやき、買い方分かんなくてめーちゃん探してたんだ……だからまだないの。ごめん……」


 真木くんは自分の手を開いて、「なんもないの」と呟く。


「大丈夫だよ、これから買いに行こう? まだどこのお店も売ってるよ」


 そう言って、私は真木くんの腕を引いた。その瞬間、わっと声が上がる。


「風船だ! 綺麗!」


「バルーンリリースって今だっけ?」


「スマホ出さなきゃ、写真! 写真!」


 それまで、各々違う方向を見ていた人たちが、一斉に空を見上げた。空にはふわりと流れていくいくつものバルーンが浮かんでいて、風を受けて広がっていく。


「あれ、真木くん風船飛んでるね……」


「俺が飛ばした……」


「えっ」


「うそです……」


「真木くん駄目だよ! 疑われちゃうからそういうこと言ったら!」


「むぅ……」


 真木くんは、唇を尖らせた。そして手遊びをするように、私の手を握る。


「そう言えば、俺に言いたいことってなに?」


「え」


「昨日、明日言いたいことあるって言ったじゃん。もう今日になったよ。なに……」


「それは……ちょっと……」


 流石に、さっきの今だし、ここは人通りも多いし、言いづらい。私が口籠ると、真木くんは「いたずら、ですか……へぇ」と今までにない口調で責めてきた。


「違う、いたずらじゃなくて……」


「じゃあなに。新手の、詐欺?」


 真木くんは、拗ねるように私を見た。「後で――」と誤魔化そうとしていると、不意のバルーンリリースに目を奪われている人混みの中、空に釘付けになっている大家先生を見た。先生の周りには、東条さんや乃木さんがいる。やがて先生は、自分を見ている私に気づいた。先生は最後に優しい笑みを浮かべて、私やバルーン、文化祭を楽しんでいる皆に背を向けて去っていく。


「あの人、死刑になるんでしょ」


 ぼそり、と隣にいた真木くんが呟いた。


「え?」


「あの人なんでしょ、犯人。乃木さんとか、東条さん、いるし」


 真木くんはどうやら、乃木さんと東条さんが猟奇殺人専門の刑事さんと勘違いをしているらしい。どう答えようか迷っている間に、「もう、大人だしね」と続ける。


「お腹すいた。めーちゃんとバルーンのやつ見れたし、もうたこやき食べておうち帰る」


「だ、駄目だよ真木くん! ちゃんとお昼食べて、喫茶店戻らないと」


「えぇ……めんどう……」


 真木くんがふわぁと大きな欠伸をした。私は慌てて「起きて」と、真木くんの肩を叩く。やがてバルーンは粗方飛んでいってしまったのか、生徒たちは視線を下ろし、各々文化祭を楽しみ始めた。もう見向きもされなくなってしまった空を、私はもう一度見つめる。


 大家先生は、決して許されないことをした。四人も人を殺したのだ。許されて良いはずがないし、一生償っても、償いきれないことだ。死刑になって、当然だと思う。もし、真木くんが殺されていたらと思うだけで、怖くて仕方なくなる。


 でも、それでももっと、いじめが起きていなかったら、ふつうに先生は皆に慕われるいい先生だったんじゃないかと、そんな風に思ってしまう。そして、もし自分が大切な人を殺されてしまったら、絶対復讐しないなんて、言い切れない。でも、復讐によって真木くんが殺されるかもしれない。だから、簡単に否定出来なくて、悪であるはずの殺人を真っ向から否定できないことに、やるせなさを覚える。


 私は先生のお姉さんを想いながら、真木くんと文化祭を歩いていったのだった。


◇◇◇


 文化祭が成功し家に帰ると、晩餐川連続猟奇殺人事件の犯人が正式に捕まったことで、ニュースは持ちきりだった。沖田くんのお兄さんが捕まったときは、確定的な証拠が出なかったけれど、犯人の自白があるからと先生の名前は出されていて、クラスのトークグループでは大家先生が捕まったことで、これからどうなってしまうのかと混乱が起きていた。


 でも、他ならぬ沖田くんの、『今は憶測で何か言う時じゃないだろ。変にマスコミみたいに騒ぎ立てんのやめようぜ』という言葉により、落ち着きを取り戻している。


 私は、ふとスマホから視線を離し、窓へと近づいた。カーテンを開き、窓を開けて、そっと真木くんの部屋に声をかける。


「真木くん、もう、寝た?」


 近所に迷惑になるからそっと声を潜ませるけれど、真木くんの部屋の窓はいつも開いているから聞こえているはずだ。やがて彼の部屋のカーテンがシャッと音を立てて開かれ、窓も開かれる。


「起きてる……おめめばちばち……」


 真木くんは両手で目をかっと開いた。その姿がなんだか子供の悪戯みたいで、自然と笑みが溢れる。彼は満足げに笑った後、「なあに」と笑った。


「突然、だけどね、真木くん」


「うん」


「なんか、大家先生が捕まったりして、こんな時に言う話じゃないと思うんだけど……」


「うん」


「私、真木くんのこと、好きだよ」


 今日、初めて理解したんだと思う。身近で、いつも当たり前にいるはずだった存在が消えることが、本当にあるということを。私は真木くんが、彼が自分から離れていく以外であったなら、そばにいて当たり前の存在だと思っていたのだ。そんなことは、ありえないことなのに。真木くんが明日、突然病気で死んでしまうかもしれない。突然、殺されてしまうかもしれない。私が死んでしまうかもしれない。二人とも、いなくなることだってある。


 それなのに、私はただ真木くんが自分から離れていくことだけを考えていた。そんなことありえないのに。過去も未来も大切だけど、今だって、同じように大切にしなきゃいけないのに。


「私、真木くんと一緒にいたい。ずっと、ずっと」


「いいの? 芽依菜は、それで」


「いいよ。もう何でもいい。私じゃ真木くんを幸せにしてあげられないとか、真木くんを置いていった私なんかが、とか、そういうの考えるのはやめる。ちゃんと私が真木くんを幸せに出来るように頑張るから、どうやったら私が真木くんを幸せに出来るか考えるようにして、そういうので悩むようにする」


 試すような真木くんの言葉に深く頷く。私じゃ真木くんが幸せになれないじゃない。私が真木くんを幸せにする。考えるのはそれだけでいい。悩んで自己嫌悪して、傷付かないように真木くんの言葉を信じないのはもうやめだ。傷付いてもいい。閉じた世界でも、私は二人で幸せになりたい。


 もう一度、私は真木くんに気持ちを伝えようと、顔を上げた。けれどそれより速く真木くんはベランダを飛び越えてきて、私の隣に立った。


「俺は、芽依菜の隣が一番幸せだから。芽依菜が笑ってくれたら、なんにもいらない。俺も、好き」


 ぎゅっと、抱きしめられる。その体温も抱きしめ方も、子供の時のそれとはまったくかけ離れていて、真木くんはいつの間にか、どんどん成長していたんだと実感した。がっしりした手つきも、抱きしめる強い力にも全部安心して、私はぶかぶかのパーカーが弛む背中に腕を回したのだった。



 大家先生が逮捕され、文化祭が終わってから一ヶ月が経過した。初めの三日間こそ、学校にマスコミが殺到して大変なことになっていたけれど、次第にマスコミの人たちは新しく起きた爆破事件に関心が向き始め、この間までの喧騒が幻だったかのように、学校に平和が訪れている。


 生徒たちも、始めこそ緊迫した空気が漂っていたけど、文化祭の片付けが済んでいくのと同じくして代理の担任の先生が立てられ、事件について話をする人は減っていった。


「はーあ、ごはんごはん……」


 食堂の座席につくと、真木くんはシチューの置かれたトレーを置いてぐったりと突っ伏した。私は彼の隣に煮魚定食を置いて席につくと、手を合わせる。


「いただきます」


「いただーき、ます……」


 真木くんもおぼつかない手つきで手を合わせてから、シチューを食べはじめた。学食の奥、一際人だかりがある方向には、沖田くんがバスケ部の面々を引き連れながら、楽しそうに食事をしている。その黄色とも白とも言えない、ミルクティーカラーの金髪は光を受けキラキラ輝き、人目を惹いていた。


 沖田くんは、文化祭明け、髪の毛を金髪に染めてきた。本人曰く、元々やってみたかったらしい。お兄さんを見て、いいなと思っていたとも言っていた。幸い校則に染髪の規定はなく、違反していないけれど、どちらかといえばダークカラーの髪色が多い天津ヶ丘生の中では、金髪はよく目立った。しばらくの間はわざわざ見に来たりする生徒もいたけど、今はだいぶ落ち着いている。そして、金髪の沖田くんは女子生徒の人気がドッと出たようだ。ファンクラブも出来て、バスケ部は入部希望のマネージャーが殺到しているらしい。


 そして沖田くんの反対方向では、吉沢さんと和田さんが一緒にラーメンを食べていた。吉沢さんはネギを和田さんの丼にせっせと移し、和田さんは刻み海苔を吉沢さんの丼に移しているように見える。ちょこちょこ雑談を交えながらお互いのラーメンを自分好みに変えていく二人とは、文化祭が終わっても話をするようになった。てっきり文化祭が終わったら話せなくなってしまうのかと、おそるおそる声をかけたら、体育の着替えを一緒に行ったり、授業の合間に話をしたり、交流が増えた。


 始めこそ、くじ引きで外れてしまった……と思った文化祭だけれど、文化祭をきっかけに話をしたことのない子と話せるようになったし、友達も出来た。


「あ、そういえば真木くん」


「なあに」


「夏に、真木くん吉沢さんになんて言ったの? 何か、私のことで質問されたって聞いたけど……」


 沖田くんの様子だと、たぶん真木くんは何かとんでもないことを言ったような気がしてならない。少し時間は過ぎてしまったけれど、あまりにもとんでもないのなら、謝っておいたほうが良いだろう。しかし真木くんは「あー……」と空を仰いで、首をこてんと傾げた。


「覚えてないや……」


「ええ、真木くん変なこと言ってないよね?」


「わかんない……」


「わかんないって駄目だよ!」


「じゃあ……ないしょ」


 真木くんは、うっそりと笑う。その様子がなんだかいつも子供っぽい彼らしくなくて、でもやっぱり彼らしいと感じて、私は脱力したのだった。


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