ゼロといちのごはん

秋野いも

ゼロといちのごはん

「まずはタマブタを見つける。話はそれからだよ」

 太郎くんが満面の笑みをこちらに向けた。手には白い網の束が握られている。

「……それは?」

 わたしは、網の束を指さして尋ねた。太郎くんは、よくぞ聞いてくれたとばかりに笑みを深くした。

「これはタマブタ捕獲用の網だよ。タマブタの尻尾の毛をこよりみたいに撚って作ってあるんだ」

 どうりでほんのちょっと、獣臭いというか珍妙な臭いがするわけだ。太郎くんに促されるままに、わたしはそのタマブタ捕獲用の網を受け取った。束になっているわりに、ふわっと軽い。

 わたしは網と太郎くんを交互に見ながら、もうひとつ気になっていたことを尋ねた。

「あの、捕獲、ということは」

 太郎くんはさらりと言った。

「あなたが捕まえるんだ。自分で食べる畜生くらい、自分で獲らなくちゃ」

 爽やかな笑顔を前に、わたしは何も返せなかった。


 少し時は遡って一ヶ月前。わたしの二十五歳の誕生日のこと。

 わたし───佐倉りさこは、父と大喧嘩した。

 喧嘩の理由は簡単だ。腰の悪い父に代わって、わたしが父の営む定食屋を継ごうというのを、断られた。

 父は腰だけじゃなく持病もある。早いことわたしに店を譲ってくれれば、色々と安心だろうと思っていたが、父の考えは違ったらしい。

 曰く、

「お前の作る飯はそんなに美味ないねん。店の味の質が下がるくらいなら、俺の腰くらい先に天国に召されてもらうわ」

 だそうだ。

 そんなに、ということは、別に不味くはないのだ。というのも、わたしは元々父の後を継ぐ体で、店の手伝いがてら料理の指導をしてもらっていた。父の許可を得て、わたしの作る料理をお客さんに出したことも幾度とある。合格点はもらっていると思っていいのではなかろうか。

 わたしは家の食卓を挟んで、父と睨み合った。

「おとう、わたしのさばの味噌煮美味いって言ってたやろ。お客さんも褒めてくれはったやんか」

「美味いことは美味いで。でもあれは……美味ないねん」

「言ってることむちゃくちゃやんか」

 口論が続くうちに、だんだんといらいらしてきたことを覚えている。ミシュラン取ったわけでもなかろうに、偉そうにこだわるなや───心の中で悪態をついた。

 そんなとき、父は件の言葉を放ったのだった。

「ほんまに美味い飯は、神々しいねん」

 急に出てきた荘厳な単語に、思わず眉を寄せた。

「……は?」

「神々しいねん」

 神々しいしい。あまりに現実離れした表現に、何と言っていいのかも分からなかった。呆然としているわたしを前に、父は何やら手元の紙切れにペンを走らせ始めた。

 紙切れをわたしに突きつけ、父は言った。

「ちっと行ってこい」

 わたしは紙切れを見た。雑な文字で、見知らぬ住所と名前が書いてあった。

「そこに書いてある住所。そこに住んでる吉井って奴の飯を食え。───ほんまに美味い飯は神々しいって分かると思うわ」

 ぶっきらぼうに言う父にうなずき、わたしはそれに従うことにした。

 吉井家に出向いたのだ。

 初夏の風が吹く日曜日、わたしは田舎町に佇む一軒家の呼び鈴を鳴らした。


 吉井家の長男太郎くんは、人懐こい笑顔が魅力的な少年だった。高校三年生だという。

「僕、教育専門の学校行きたいんだよね」

 太郎くんは、そう言って軍手を投げてよこす。軍手を受け取りながら、わたしは首をかしげた。

「教育?お家継がないの?」

 わたしの質問に、太郎くんは真似するように首をひねる。

「なんで?うち継ぐような仕事ないけど」

 驚いた。吉井家はごはん屋さんを経営しているわけではないのだ。ただ住所を頼りにやってきたわたしは、父が尊敬する吉井家のことを何も知らなかった。

「うちの父さんサラリーマンだし、母さん海外で日本語教師してるし」

「農家とか猟師とかでもないの?」

「あはは。豚も卵も米も、全部うちの趣味。───もっとも、豚は野生だけどね」

 つなぎを着て、軍手をはめた格好の太郎くんは、もはやなにかの職人のようにも見える。

「そうだ、りさこさん。タマブタ食べたことないんだよね」

 タマブタ。名前すら聞いたことがなかった。

 タマブタとは豚の一種で、吉野家の所有する森の中に野生として暮らしているらしい。吉井家が森を買ったときからいたらしい。

「タマブタは美味いよ。獲ったら僕が捌いてあげる」

 日本に野生の豚(しかもおそらく存在を知られていない種類)がいるのも驚きだが、それを獲って食らってやろうという吉井家の根性よ。なんてチャレンジャーなのだ。

「ここだよ」

 太郎くんがわたしを振り向く。

 わたしは太郎くんに連れられ、吉井家所有の森に足を踏み入れた。

 夏の爽やかな土の匂い。青い草の匂い。木の重たい匂い。その中に、今手に握っている網と同じ匂いを感じた。

 青々と葉を茂らせる木々の隙間から、明るい日差しが洩れて太郎くんの頬に落ちる。太郎くんは目を細めながらわたしに説明した。

「タマブタは臆病な生き物だけど、その網を持ってれば警戒を解いてくれる。仲間の匂いに安心してとっとこ出てくるから、そのタイミングを見て網を投げるんだ。タマブタはノロマだからすぐ捕まるはず」

「分かった」

 わたしはうなずき、網を握りしめた。

 太郎くんは行ってらっしゃいと手を振る。どうやら一人で獲ってこないといけないらしい。

 わたしは森の中を歩いた。

 そんなに広くはないんだと太郎くんは言っていた。しかし全然広い。実は今迷子なんじゃないかと不安になる。

 ふと、足元に、日の光を浴びてつやつやと輝くものを見つけた。立ち止まって拾ってみると、それはどんぐりだった。まるで真珠のように、純白で七色の艶を帯びている。目を凝らすと、森の地面のあちこちに落ちていることがわかった。

 変わったものもあるもんだ、と再び歩き出そうとしたとき、目の端で何かが動いた。どんぐりと同じ色をしていた。

 はっとしてその方向に身体ごと向けると、そこには小さな生き物がいた。

 真っ白な、それでいて七色に輝く……まるで真珠のような豚だった。

 タマブタ!

 わたしはすぐさま網を投げた。タマブタ目掛けて投げた網は、あっさり標的を飲み込んだ。駆け寄り、網の上から体を押さえる。大人の柴犬サイズの豚は、はじめのうちは短い手足をじたばた動かして抵抗していたけれど、しばらくすると観念して大人しくなった。

 わたしを見上げるタマブタと目があった。

 小さなつぶらな目だ。黒い瞳をうるませ、懇願するようにわたしを見つめている。

 ちい。ちい。

 豚らしからぬ愛らしい鳴き声が、わたしの心を撃ち抜く。網の中でぺたんと地面におすわりをして、タマブタはわたしを見ている。

 もうダメだ。こんなかわいい子食べられない。逃して、太郎くんには「見つからなかった」って言おう……。

 そう甘んじた瞬間、背後から明るい声がした。

「あっ、捕まえられたんだね。よかったねえ」

 太郎くんが、満面の笑みで立っていた。その爽やかな笑顔が、わたしには鬼の顔に見えた。

「この子殺すの?」

「殺さなきゃ食べれないでしょ。踊り食いしたい?」

 わたしは泣きべそをかきながら、かわいいタマブタに別れを告げた。


「うちの鶏は餌にどんぐりを混ぜて食わせます。うちの森の樫の木は変異種で、うまみ成分の詰まったどんぐりを落とすので、卵も濃厚で美味しいんですよ」

 吉井家次男の次郎くんは、そう言ってわたしを鶏舎に促した。

 わたしはタマブタとの別れのあと、太郎くんに言われ吉井家の鶏舎付近で待つ次郎くんのもとへ足を運んだのだった。

 次郎くんは太郎くんのひとつ下、高校二年生だという。華奢な体格だとか柔らかそうな髪だとか、今風の若者といった感じの少年だった。太郎くんはスポーツ刈りの細マッチョだった。似ていない兄弟だ。

「うちは五匹鶏を飼ってるんです。ボス鶏は人間も容赦なく蹴るので気をつけて……あれ」

 鶏舎の中から次郎くんが何か言っているが、聞こえない。わたしは鶏舎から少し離れた場所で立ち竦んでいた。

 わたしは鳥が大の苦手なのだ。他の動物なら何でも平気だが、鳥だけは無理だった。

 鶏舎の中から、ジットリと次郎くんがこちらを見ている。次郎くんの家族に対して逃げ腰で申し訳ないけれど、鶏舎に入るのは謹んで遠慮した。

「かわいいのに」

 ぶつくさと呟いて、次郎くんは鶏舎から出てきた。卵をいくつか手にしている。

「これを使いましょう」

 そう言って、次郎くんはわたしの手に卵をひとつ載せた。卵には、まだわずかにぬくもりがあった。

「ねえ、豚と卵とお米で、何作ってくれるの?」

 卵に目を落としつつ、わたしは次郎くんに尋ねた。

 訪ねて早々豚の捕獲を命じられ、忘れかけていたけれど、わたしの本来の目的は吉井家のご飯を頂くこと。神々しいほどに美味いご飯の味を知らなければならないのだ。

 呼び鈴を鳴らした際に出てきた太郎くんには、直接そのことを伝えてあった。太郎くんは、美味い飯を作れるのは父だから、帰宅するまで待ってくれと言ったのだった。

「あなたも父の作る料理を食べにいらしたんですよね。太郎から聞きました」

 次郎くんは、はにかむように目元を和らげた。

「父がお客さんに振る舞う料理は、いつも決まっているんです。あなたのように評判を聞きつけてこの田舎まで来てくださる人は多いから」

 そんなに有名な人なのか、とわたしは改めて驚いた。店を構えているわけではなく、まして料理人でもない人の作ったご飯を求め、やってくる人が他にもいる。考えてみれば不思議な話で、可笑しさすら感じた。

「ネギも採りますか」

 次郎くんはわたしを吉井家の畑に案内してくれた。様々な野菜や果物なんかが、若い葉を伸ばして育っている。畑も相当な広さだ。一体この家の敷地はどこからどこまでなのだろうか。

 丁寧に盛られた畝から、立派なネギが生え伸びていた。次郎くんはその脇にしゃがみこんだ。わたしも横に並ぶ。

「土にも森のどんぐりが混ぜ込まれてます。野菜の味には作用しませんけど、立派に育つんです」

 畑の土には、きらりと輝く小さな粒が混じっていた。それがあの真珠のようなどんぐりなのだろう。

「そういえば、タマブタはどんぐりと同じ色をしていたけど」

 わたしが呟くと、次郎くんはうなずいた。

「はい。タマブタの食べているものも、あのどんぐりです。もともとそうして生きていたんでしょうね」

 七色に輝くどんぐりを思い出していると、同時にタマブタの愛くるしい顔も思い浮かんでしまって、わたしは一人うなだれた。無神経な次郎くんが、「タマブタは脂が甘くて美味しいですよ」と言った。


「パパが帰ってくる前に、タレは仕込んどかないとね」

 吉井家台所にて、長女の花子ちゃんが快活に笑った。

 そう古くはないけれど、渋い造りの吉井家の内装。田舎の祖母の家を思い出させる。台所も例外ではなく、見事な日本式だった。金髪ギャルの花子ちゃんは、お堅い台所の中では異質だった。

 少し程度の過ぎた鼻のシェーディングなんかが、逆に彼女を幼く見せている。開放的な笑顔が可愛らしい。十七歳だというから、次郎くんとはきっと双子なのだ。

「パパがさ、いつもうちらのぶんも作ってくれるからさ。お客さん来るとうち、ラッキーって思うんだよね」

 戸棚からいくつかの瓶を取り出しつつ、花子ちゃんが言う。

「パパのご飯まじで美味いよ。神降臨って感じ」

「神々しい?」

「そうそう」

 わたしは、花子ちゃんを手伝うことにした。花子ちゃんが並べた瓶から液状のものやペースト状のものを掬い、ボウルに入れて混ぜる。花子ちゃんは混ぜて出来上がったタレをスプーンで掬って、味見させてくれた。

「どう?」

 わたしに尋ねつつ、花子ちゃんも別のスプーンを咥える。

「美味しい!」

 甘辛い、というより辛味が勝った味だった。質のいい香辛料の辛さだ。胡麻の香ばしい風味も少し感じる。

 それを伝えると、花子ちゃんはにっこり笑って、右手でオッケーサインを作った。

「タマブタの肉は甘いから、タレは少し辛めにすんの。パパ直伝の作り方だよ」

 花子ちゃんがそう言うのと重なって、玄関のほうから、ただいま、という声が聞こえた。

「あっ、パパ帰ってきた」

 花子ちゃんは弾んだ声で言った。

「パパのご飯、やっと食べれるよ!」


 吉井吾郎───太郎くんたちのお父さんは、スーツの似合うインテリ眼鏡だった。

 美味しいご飯を作るというから、なんとなく熊のような巨体を持つヒゲモジャ親父といったイメージを抱いていた。想像とのギャップに、わたしは思わず目を剝いたまま黙ってしまった。

「はじめまして。吉井吾郎です」

 吾郎さんが、きっちりとお辞儀をした。

「太郎から聞きました。佐倉りさこさんですね。ご実家を継いで料理人をやっていらっしゃる」

「あっ、はい。はじめまして」

 わたしも慌てて頭を下げた。説明が面倒だったので、すでに店を継いでいると太郎くんに言っていたことを思い出した。

「あなたのお父さんのことはよく覚えてます。帰り際に『お前は神だわ』と言ってくださって」

 吾郎さんの言葉に、わたしは恥ずかしくてたまらなくなった。おとう!!と怒鳴りたくなる。

 歯ぎしりせんばかりのわたしを脇目に、吾郎さんは花子ちゃんに話しかける。

「花子、頼んでいたタレはうまくできたか」

「完璧!てか、りさこさんも手伝ってくれたんだよ」

 軽やかな足音が聞こえ、台所に太郎くんと次郎くんもやって来た。

「父さん、豚バラ」

 太郎くんが手にしている優しい赤色の肉塊に、わたしは思わず手を合わせてしまった。白くてきれいだったタマブタちゃんが、こんな美味しそうになって……。

 大きな塊となって紙皿に載せられたタマブタを見て、吾郎さんの眼鏡の奥の目が細くなった。

「ありがとう、太郎。次郎もそれはこっちに置いといてくれるか」

 次郎くんは卵と収穫したネギを持ってきていた。

「私がいつも皆さんに食べていただくのは、タマブタのバラ肉を使った角煮丼です」

 スーツの上着を脱ぎ、腕まくりした吾郎さんは、神妙な面持ちで材料と向き合った。


 フライパンで大きな塊のまま焼かれたタマブタを、わたしはもはや食べ物としか見られなくなっていた。愛くるしい顔を思い浮かべることはなくなった。なにせ、とても美味しそうなのだ。全面に焼き目を入れられ、じわじわと音をたてているそれに、思わず唾を呑んだ。

 吾郎さんは、タマブタの肉に花子ちゃん特製のタレをかけた。じゅあ、とフライパンの中で音が弾ける。香りたつ香辛料の匂い。

 吾郎さんが中身をわずかに残したままタレのボウルを置いたので、思わず尋ねた。

「全部使わないんですか」

 すると吾郎さんは淡々と答える。

「残りはご飯にかけます」

 わたしは想像した。先ほど味見したタレは、たしかにご飯に合いそうだ。

 フライパンに蓋をした吾郎さんは、わたしに告げた。

「あと五時間焼きます」

「えっ」

 すでにお腹を鳴らしていたわたしは、絶望に打ちひしがれる。


 わたしは吉井家の食卓につき、吾郎さんの調理が終わるのをただひたすら待っていた。空腹が落ち着くことはなく、太郎くんや次郎くんと話していても、紛らわせることはできなかった。

「できたよ!」

 やがて、満面の笑みの花子ちゃんが顔を出した。手には丼の載ったトレイ。わたしは喜びのあまり口元を手でおさえた。

「はい、りさこさん。神のメガ角煮丼だよ」

 おそらく即興であろう料理名と共に、わたしの前に丼が置かれる。食欲をそそる匂いの湯気がわたしの鼻をかすめた。

「お待たせしました。どうぞ召し上がってください」

 花子ちゃんと一緒にやって来た吾郎さんが、淀みない声でそう言った。きっとご飯を食べに来た人みんなにそう言っているのだろう。ここに食べに来た人は、みんなわたしみたいに涎を溜めて、丼を見つめるのだろう。

 陶製の丼の中で、タマブタの肉は濃い蜜のような艶をたたえていた。ご飯の上に青いネギ、またその上に大きな角煮がふたつ。脂の照る肉がダイナミックに乗っかっているさまは、嘆息してしまうほどに豪勢で魅惑的だった。それに角煮と角煮の間におとされた生卵!赤に近いオレンジ色をした卵黄、こんなの美味しいに決まっている。脇に添えられているのは、何か果物の甘露煮だろうか。

「いただきます」

 わたしは手を合わせ、それから箸を手にした。

 ちょっとお行儀が悪いけれど、角煮のひとかたまりを箸でつまみ、かぶりつく。厚い肉から味の染みた肉汁が溢れた。脂は甘くて柔らかい。花子ちゃんのタレと肉のうまみが、いい具合に絡まって引き立て合っている。

 美味しい。

 その一言を伝える余裕もなく、わたしは箸を進めた。

 角煮をかじる。ご飯を頬張る。上にのったネギも一緒に。ふっくらして柔らかいお米は、タレをよく吸っている。さっぱりとしたネギがアクセントになって、味がくどくならないのが良かった。

 しばらく食べ進めてから、卵黄を割った。甘露煮にも箸をつけてみる。桃や杏のような爽やかな甘みが、肉汁やタレと妙に合った。

 わたしは箸を止めることなく食べ続けた。お腹が空いているはずなのに、なぜだか普段よりもじっくりと味わって。一口、一口、丁寧に味を確かめた。

 最後の米一粒を胃におさめるまで、わたしは一言も口をきかなかった。

 箸を置いたわたしに、吾郎さんが尋ねた。

「どうでしたか」

 わたしは口を閉ざして考える。言いたいことを、きれいなことばに変換したかった。けれど、いい表現が思いつかなくて、率直に答えた。

「神々しかったです」

 わたしの感想に、吾郎さんはしみじみと呟いた。

「親子揃って面白い方々なんですね」

 吾郎さんの言うとおりだ。わたしと父は感性が全く同じらしい。我ながら恥ずかしかった。

「いいなー、僕も腹減った」

 太郎くんが困ったように言った。花子ちゃんがすかさず声をあげる。

「台所にうちらのぶんもあるよ」

 すると太郎くんと次郎くんは、無言で台所へと駆けて言った。花子ちゃんもそのあとに続く。

 子どもたちの背中を見送ると、吾郎さんはわたしに顔を向けた。

「太郎から聞いたでしょうが、タマブタはもともとあの森に住む野生の豚なんです。あの森の、樫の木も」

 吾郎さんは、淡々と、聞き取りやすい声で続ける。

「食べてみる。美味しい。調べてみる。試してみる。美味しい。……こういう単純なことをするのが好きなんです」

 言っている意味が、よく分からなかった。何を持ってそんなことを言っているのかも分からない。

 吾郎さんはそこで相好を崩した。

「原始人みたいですよね」

 原始人。シワひとつないシャツとゆるみのないネクタイの吾郎さんに、その他単語は似合わない。ただ、そのことばで少し分かることはあった。

 原始人はあれやこれやしてゼロを一にした。吾郎さんはそのゼロから美味しいものを探すのが好きなのだ。ゼロが一になる瞬間は、確かに神々しい。

 色々と合点があった。

「お父さんに伝えておいてください。私は神ではなくて原始人です」

 笑みを含んだ声でそう言った吾郎さんに、わたしは尋ねた。

「それじゃあ神様は」

「あの森の樫の木でしょう」

 間髪入れず、吾郎さんは答える。確かにそうだ。あの角煮丼───花子ちゃんが言うには「神のメガ角煮丼」だ───の美味しさのもとは、あの真珠のようなどんぐり。そしてそのどんぐりを落とすのは、あの森の樫の木だ。

「こんなに美味しいものを食べさせてくれて、神様にはお祈りをしないといけませんね」

 わたしはもう一つ尋ねた。

「なんて祈ったらいいですか」

 吾郎さんは、今度は少し考えてから答えた。

「ご馳走さまでした、でいいんじゃないですか」


 吉井家から帰ってきたわたしは、再び父と喧嘩した。

 吾郎さんのように美味しいご飯を作れないうちは、店を任せられないと言うのだ。

「実際に食ってみて、己の未熟さが身に染みて分かったやろ」

「結局継がせる気なかったんか!」

 揉めるわたしたちを横目に、母はせんべいをかじっている。そんな母に、父が訴えた。

「おかあもなんか言ったれや、こいつ譲る気あらへんで」

 おかあ味方につけるのはずるいやろ、とわたしは唇を噛む。母は、口の中のせんべいを飲み下し、まったりとした口調で言った。

「おとうもいうほど美味い飯作れへんやろ」

 そのことばに、父は固まった。

「半人前どうし仲良うやれや。半人前と半人前でやっと一人前なんやないの」

 母はそう言い、またせんべいをかじった。

 言葉を失った父を一瞥する。

「おとう」

 父は、渋い顔でわたしを見る。

「なんやねん」

 その顔が可笑しくて、わたしは少し笑いながら言った。

「神々しいご飯は、原始人にしか作れへんのよ」

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