第三章 糸繰り ①

 しよぱなからごたごた続きだった新婚生活の三日目の朝も、また大騒動だった。

「茨斗ぉぉ!」

 例によって紘夜が大声で呼ばわりながら、使用人用の食堂に駆け込んでくる。

 新聞を読みながら優雅に茶など飲んでいた茨斗は、ぱちくりと目をしばたたかせた。

「どうしたんですか紘夜さん。今日も仕事がみっちり詰まってるのに朝っぱらから俺の悪戯が判明したみたいな顔して」

「まったくその通りのことが起きてるから怒ってるんだ馬鹿者!」

 使用人の中で一番いい大学を出ているから、という理由で、書面での渉外から無駄遣いの後始末まで玄永家の煩雑な事務仕事を任されている紘夜は、気の毒なことに毎日毎夜部屋にこもって机に向かっている。とはいえ本人もそういった仕事を最も得意としており、仕事自体は苦ではないらしいが。

 茨斗はぱちぱちと数回まばたきをした。

「何があったか知りませんけど、俺じゃないですよ」

「信じられるか! 宵江様が朝からあんなに不機嫌な理由なんてお前しかおらんだろうが!」

「えー、ひどいなぁ。完全にぎぬだと思うんですけど」

 もしかしてあれがバレたかな、いやあっちか? とぶつぶつ思案している茨斗に、通りかかった流里が言う。

「智世さんが昨夜ゆうべ年下の男に寝かしつけられて、今朝は別の年下の男とどうきんしていたらしいですよ」

「……。ああびっくりした十咬と綱丸か! お前のその手には乗らんぞ流里!」

 紘夜がみつくと、はいはい、と流里はうるさそうにした。

「冗談に乗ってくれない男は嫌いです」

「綱丸はともかく十咬が智世さんの寝かしつけ? なんでまた」

 茨斗が首を傾げる。すると流里が薄笑いを浮かべる。

「昨夜は智世さんの気晴らしに付き合って遅くまで本を読んでいて、先に寝入ってしまった智世さんの世話をあれやこれや焼いたんですってよ」

「意味深な言い方をするな! 静かに布団を掛けて差し上げてあかりを消したとかそういうことだろうがどうせ! まったくお前という奴は──」

「おや、僕の言葉を意味深だと思う紘夜のほうがどうかと思いますけどね」

 不毛な言い合いをする二人に、茨斗はさらに疑問符を浮かべる。

「そんで起こしに行った綱丸を智世さんが抱っこして二度寝、ってとこまでは理解できたんですけど、それでなんで宵江さんが不機嫌なんですか?」

「簡単ですよ」

 流里はどこ吹く風だ。

「大方、智世さんの寝かしつけは自分がやりたかったとか、そんなところでしょうよ」

「……だいぶ重症ですねー」

 茨斗は乾いた笑いを浮かべる。紘夜はくしゃりと髪を搔きむしった。

「まったく困ったものだ。宵江様は本日から任務に復帰されるというのに、あんなに殺気をき散らしては屯所にいる部下たちが縮み上がってしまうぞ」

「あはは、まぁ大丈夫でしょ。智世さんが宵江さんのほっぺに行ってらっしゃいのせつぷんのひとつもしてくれれば機嫌なんてすぐ」

「茨斗!!」


 実際、接吻とまではいかないが、智世はめいっぱいの笑顔で宵江を送り出した。

 夜遅くまで十咬が傍にいて話し相手になってくれたお陰もあって、気持ちを切り替えられたということもある。

 少し心に余裕が出たからだろうか、今さらになって、自分から宵江に抱きついてしまったことが恥ずかしくなってきた。まだ結婚して日が浅いというのに、はしたなく思われやしなかっただろうか。とはいえあのとき宵江は、智世が来光のことでひどく落ち込んでいると気付いてくれていたようだから、心が弱っていたことに免じて、ものの数に含めないでいてくれるといいのだけれど。

 そんなことを思い返していたからか、その夜、仕事を終えて帰宅した宵江の姿に智世はれてしまった。朝に比べてやや疲れたような表情や、わずかに乱れた髪や襟もとがいつもより男らしく見えて、何だか見てはいけないものを見てしまった気がして頰が熱くなる。

 寝室はその後もずっと別だった。宵江は毎日、朝早くに仕事に出ていく。夕方に帰宅することもあれば、夜遅くまで帰ってこないこともあった。他の者は屯所に寝泊まりすることもあるようだったが、宵江はどんなに遅くなろうとも必ず家に帰ってきてくれた。

 玄永家での生活に慣れてきた頃、使用人たちがたびたびあの軍服のような黒い制服を着て外出することに、智世は疑問を覚え始めた。そもそも嫁いできたばかりの頃、使用人頭だという茨斗が部下を引き連れて制服姿で出かけたことがまず不自然だったのだ。使用人頭といえば屋敷の家政を取り仕切る長のはずである。その長が毎日のように制服を着て──軍刀を腰に帯びて出て行く。

 時には流里が、そして紘夜が同じように出かけていくこともあった。流里は着物姿のままではあるものの、決まって制服姿の部下を何人か連れていた。それは紘夜も同様だった。

 やはり玄永家の使用人たちは使用人でありながら内務省に勤めていて、宵江の仕事においての部下でもあるのだ。そしてまだ少年の十咬はその中に入っていない。

 制服を着て武器を帯びて、部下を何人も引き連れて──そして妻にすらその職務内容を話せないなんて。もはや裏方の警保局などではなく、前線に出て国防か何かに関わっているとしか思えなかった。

 使用人たちやその部下たちは、時に怪我をして帰ってくることがあった。深刻な怪我だったことこそないが、そのたびに智世は、やはり彼らは何か危険な任務に就いているのだ、と気をんだ。

「私のこと、もっと頼ってくれてもいいと思うのよね」

 智世は絹さやの筋を取りながらぼやいた。

 宵江が連日仕事に出て、そろそろ一月が経とうという頃だ。この頃には智世も家事を手伝わせてもらえるようになっていた。というより、家で優雅に過ごすことがすこぶる苦手な智世が、女中たちに何か自分にも仕事をもらえないかと頼み込んだのだ。女中たちは顔を真っ青にして恐縮していたが、仕事をしていないと死んでしまいそう、と智世がこぼしたらようやく首を縦に振ってくれたのである。女中たちがというよりも、女中頭の流里が、だが。

 その流里は今日も出かけている。茨斗もだ。なんだか使用人たちが出かけることが、この一週間ほどで特に増えた気がする。また例の屯所とやらに行ったのだろうか。屯所から、果たして彼らはどこに行って、何をしているのだろうか。

 家事を手伝わせてもらうようになってからすっかり顔なじみになった女中の一人が、智世の言葉に首を傾げた。彼女と二人、ちゆうぼうで大量の野菜の下ごしらえをしている最中である。

だん様のことでございますか」

「宵江さんもだし、茨斗さんや他のみんなもそう。相変わらず私には何も話してくれないんだもの」

 そのことは、別にいいのだ。智世とて、家族とはいえ部外者に話せないことなどこの世に山とあることぐらい承知している。電話交換手であった頃には、智世ですらそういったことはあったのだから。

 問題はそこではないのである。

「話せないことを話してくれとは言わないわ。でも、私だってみんなの役に立ちたいのよ。みんなが朝から晩まで一生懸命働いて、時には怪我までして帰ってくるのに、私は家で日がな一日ゆっくり過ごすだけだなんて」

「こうして私どもを手伝ってくださっているではありませんか」

「あなたたちの仕事を奪ってしまってるだけだわ。そんなの手伝ってるって言えないでしょ」

 わかってるの、ごめんなさい、と智世は嘆息する。女中はとんでもないと首を横に振る。

「奥様が手伝ってくださるお陰で、私どもは今まで手が回らなかった仕事にまで手をつけることができているんですよ」

 それに、と女中は里芋の皮をいていた手を止めた。

「奥様がお輿こしれなさってから、旦那様はすっかり体調がよくなられて。奥様がそこにいてくださるだけで十分だという証拠でございます」

「……え?」

 智世は絹さやから女中の顔へ視線を移す。

「宵江さん、どこか悪かったの?」

 宵江からそんな話は聞いたことがない。使用人たちからも、父からもだ。

 女中は、はっとして口もとを押さえた。明らかに、不用意に口を滑らせてしまったという表情だった。

「も、申し訳ありません。私からはこれ以上は」

「……大丈夫。無理に聞き出したりしないから」

 女中はあんした顔をした。

 彼女に限らず、流里がとりまとめている女中たちは、皆離れで暮らしている。黒い制服の彼らとは別棟だそうだ。離れに住まう彼ら彼女らは玄永家の配下ではあるけれども、側近ではない。軍隊で言うならば一兵卒の立場だ。

 その彼ら彼女らですら──智世にはいまだ隠されている何かを知っている。

 最初に感じたのは寂しさと疎外感だった。

 でも今は、隠された何かが明かされる日が来るのを少し恐ろしくも感じる。

 極力考えないようにはしているものの、やはりにえという言葉がもたらした印象は強烈で、ことあるごとに脳裏をかすめていくのだ。そんな不安も、宵江の顔を見れば吹き飛びはするのだが。

「……奥様。私ごときが申し上げるまでもないことかもしれませんが」

 女中はしんまなしで智世を見つめた。

「旦那様は本当に、心から奥様を愛しておいでですよ」

「あい……!?」

 ぼっ、と智世の頰が熱くなる。

 宵江からは口に出しては、そういった言葉を聞いたことがない。

 だが口には出さずとも、宵江は智世の前では何もかもだだ漏れなのだ。

 よくできた人形のように美しい顔立ちで、宝石のようなひとみを持つ、妻の前でも無表情で言葉数も少ない、やや冷たく恐ろしくも見える夫。恐らく世間一般の目から見た評価はそんなところだと思う。実際、近所を散歩していると、噂好きの者たちからそういう言葉を悪気なく浴びせられたこともある。

 だが智世の目からは、初めて出会ったあの婚礼の日からずっと、宵江に対する印象はまるで変わらない。

 智世がここにいてくれてうれしいと、全身で喜びを示してくれる。

 来光とのかいこうの後の、あの抱擁以降は、彼から智世に触れてきたことは一度もないが──それでも智世を見つめる瞳からも、語りかけてくる声からも、智世のことがいとしくてたまらないのだという気持ちがあふれているのだ。

 それが勘違いや思い上がりだなんて思いようもないほど明確にだ。

 とはいえ第三者からはっきりと言葉にされると非常に照れくさかった。

「旦那様は今も十分、奥様を頼っておいでだと思います。行動ではなく、心のり所という意味で、そのように思われているのだと思います」

 女中は穏やかに微笑んだ。

「きっと時が来れば、行動においても奥様を頼られることでしょう。だから今は、旦那様の心休まる場所でいて差し上げてください」

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贄の花嫁 優しい契約結婚 沙川りさ/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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