第二章 玄永家の一族 ⑩
──智世と十咬が出て行った後の食堂内には、やや緊迫した空気が漂っていた。
テーブルの上には茨斗が広げた大きな地図が載っている。この帝都の地図だ。いくつかの場所に赤と黒で印がつけられている。
流里がそれを眺めながら、どこか
「まったく、誰も彼もが家にまで仕事を持ち帰ってくるものだから、まるで第二の屯所ですよ」
「仕方ないだろう。お前や俺は屋敷の仕事と兼任で、屯所に常時詰めることができないんだから」
紘夜が
「ちょっとちょっと。一応、俺だって屋敷の中じゃ使用人頭って名目なんですけど」
「そういうことは使用人らしいことをちょっとでもしてから言ってくださいね」
流里の言葉に、茨斗は肩を
それで、と宵江が茨斗を促す。茨斗は
「今回もハズレでした。
言いながら、赤で新たな印をつける。
「被害者は」
宵江の問いに茨斗は肩を竦める。
「うっかり現場に居合わせた不運な書生さん。これ情報まとめた資料です」
「やはり被害者には何の共通点もなしか……」
まさにその書生のような
それを受けて流里が嘆息した。
「そりゃあ奴らに共通点のある人間を襲う知恵なんてありゃしないでしょう」
「だが事件が起き始めた頃よりも剣術が明らかに上達しているという事実を見逃すことはできんぞ」
「そうは言いますけどね紘夜、あちらとて一枚岩じゃない。てんでんばらばらに動くという意味では右に出るものはありませんよ」
「本当に親玉なんているんですか?」
茨斗がため息交じりに
「これまでにも奴らによる被害はたびたび出ていた。だが奴らが道具を使っているのは今回の一連の事件が初めてだ。これは明らかに俺たちへの挑戦状だろう。知恵のある者が上に立って奴らを動かしているのだと」
「奴らが意思表示してるとでも言うんですか」
流里の半信半疑の言葉にも、宵江は頷く。
「奴らなのか、奴なのかはわからないがな」
にしても、と茨斗がテーブルに突っ伏した。
「なーんで武器なんか使っちゃうかなぁ。今までみたいに身一つで勝負してくれてたら、動物の仕業なりそれこそ
「仕方ないだろう。被害者が刀傷を負ったのなら、犯人は刀を持った人間だと思ってしまうのは当然のことだ」
紘夜は頭を
「それでだ茨斗、今日お前が壊した武器についてだが」
「あ、いよいよそれ聞いちゃいます?」
「いいから早急に報告しろ」
「今日は珍しい小型の石弓を使ったんですよ。ほらほら、この引き金を引くと矢が飛んでくんですけど、なんとこの
「茨斗ぉぉ!!」
「なんで怒るんですか!? ちゃんと当日に書類出したのにー!」
「そういう問題じゃない! 無駄遣いをするなと言っているのにまったくお前ときたら──」
「それで茨斗、犯人が逃げ込んだ場所は?」
流里が問うと、こら流里邪魔をするな、と
「一応泳がせてみたんですけど、あんま意味なかったですね。逃げ込んだ先にも親玉らしき奴はいなかったし」
言いながら、茨斗は黒い鉛筆で地図に印を書き込んだ。月島の、今度は
赤の印は辻斬り事件が起きた場所だった。
そして
茨斗は何でもない調子で続けた。
「この辺で殺しました」
「一匹も取り逃がさなかっただろうな?」
紘夜の鋭い視線に、茨斗は
「俺がそんなヘマするわけないじゃないですか。帝都の平和は俺たちが守らないとね」
でも、と流里が小さくため息を吐いた。
「やはり事件が起きてからでないと対処できないのは痛いですね。大まかな方向がわかっていても、そこを
「だからこその──奥方様だ」
紘夜が
宵江はじっと地図を、否、どこでもない紙面を
茨斗は椅子の背に
「俺、智世さんに全部教えてあげたほうがいいと思うな。だってあの人、お母さんが被害に遭って、それで結婚を決意したんだろ? きっと喜んで力を貸してくれると思うけどな」
宵江は首を横に振る。
「その通りだ。彼女に一切を説明したら、迷うことなく力を貸すと言ってくれると思う。──だから駄目なんだ。そんな、搾取するようなこと」
反論したのは流里である。
「ですが雨月のご当主様──智世さんのお父上も、それを承知で縁談を進めたんでしょう?」
「それもあるだろうが、一番はこの状況下で娘の身を案じてのことだ。俺たちの、俺の傍にいれば安全だと判断したからだ」
言って、確かに、と宵江は呻く。
「確かに──彼女の中には、力の
「片鱗じゃ困ります。玄永の当主の妻に、雨月の娘がなったんです。その力を玄永家のために使ってもらわなくては。僕らだって奴ら相手にいつまでも勝ち続けられるわけじゃない。知能を手にした親玉がいるというならなおさらです」
「流里」
言い募る流里を、紘夜が首を横に振って止める。
宵江は彼らの顔を見て、口を開いた。
「彼女には必ず説明する。そのときにはきっと力になってもらえるだろう。だがもう少しだけ、俺の覚悟が定まるまで待ってくれ。優柔不断な
続く言葉を待つ使用人たちが、一体何を言うのかと緊張にごくりと
宵江は大真面目な顔で続けた。
「──初恋がやっと実ったんだ。その相手を、俺は大事にしたい」
「……ですよね。宵江さんはそういう人でした」
茨斗は笑って、軽く肩を竦めた。流里も笑う。
「そういう理由なら仕方ありません。大将のために僕らが今しばらくがんばるとしましょう」
「ああ。他の理由なら大将とはいえしばき回したかもしれんが、奥方様への愛ゆえであるならもう何も言うまい」
紘夜も頷く。茨斗が
「確かに今智世さんに事情を説明しようもんなら、この結婚は身体目当てだったのかーって思われちゃいますしね」
茨斗、と宵江が
「ええ。ただでさえ兄上のことで落ち込んでおいでなのだから、しばらくは波風立てないようにしてやりませんとね」
「何、来光様とさっそく
紘夜が頭を抱える。頭を抱えたいのは宵江も同じだったが、これも追々向き合っていくしかない問題だ。来光の意向に反して、現状もう雨月家から嫁が来てしまっているのだから。
何にしても、と茨斗が宵江に告げた。
「俺たちはあんたの味方ですからね」
「ええ、もちろんです」
流里も、そして紘夜も頷いた。
「我ら玄永一族──内務省警保局
──ありがとう、と宵江は呟いた。
* * *
「貞光」
彼を拾った女はそう呼んで、彼を手招いた。
拾われて二年か三年経った。知能がようやく年相応の人間のように育ち始めていた頃だ。それ以前の彼は赤子か幼子か、あるいは──獣のように短絡的にものを考えることしかできなかった。
ただ、彼はいくら成長しようとも、話すことはできなかった。
女は手作りの食事を日に三度彼に食べさせた。がつがつと食べる彼を見ては、そのたびに
「おいしい? あたしのかわいい貞光」
わからない。味などしない。丁寧に火を通された野菜や穀物など、食べるものとも思えない。血の滴るような生の肉でなければ。
けれども彼は
味のしない食糧でも、食わねば死んでしまう。彼には彼を
実の両親は、だから彼を捨てたのだ。力が弱かったから。知能が育ちつつある兆しがあって、異質だったから。彼を愛せなかったから。
そうして四年が経ち、五年が経った。
味のしない食事を、彼はすっかり好むようになっていた。
女の作った料理を食べ、おいしいのだと頷けば、女は幸せそうにする。既に彼は自力で食糧を得られる年齢に達していたけれども、女のもとを離れなかった。
無条件に愛し孤独を埋めてくれる存在を手放すには、彼は女のもとに居すぎていたのである。
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