第二章 玄永家の一族 ⑨
「……で? 朝あんな幸せ満開って感じだったのに、なんで今こんなお通夜みたいになってんですか?」
その夜、茨斗が帰宅したのはすっかり暗くなってからだった。智世たちはちょうど夕食を終えたばかりの時間だ。使用人たちは使用人用の食堂で食事を取っているらしく、当主とその家族のためのこの広い食堂には智世と宵江の二人きりだった。
来光との一件以降、なんだか一日中ぎくしゃくしてしまった。せっかく宵江は非番だったというのに、落ち込んでいる妻の傍にずっといさせることになってしまい、輪を掛けて申し訳なかった。
流里が食後の
「来光さんとばったり会ってしまったんですって」
「……あぁ~……」
茨斗は笑顔を貼り付けたまま、乾いた声を上げた。
「それはなんていうか……すんごい災難でしたね」
災難、という茨斗の言葉に智世は思わず顔を上げる。仮にも来光は雇い主側ではないのだろうか。
しかし流里も
「智世さんがお一人のときにうっかり来光さんと鉢合わせしないか様子を見ていたつもりでしたけど、
智世は目を瞬かせた。言葉は違うが、宵江が言っていたことと内容は同じだ。もし智世が来光と出会ってしまったら、確実に嫌われることが彼らにもわかっていたということになる。
「あの、来光さんってどんな方なの? その──普通なら、家督を継ぐのはご長男のはずよね」
少し突っ込んだ質問だとは思ったが、何しろ自分は他ならぬその家督を継いだ次男の嫁なのだから、事情を知る権利はあるはずだ。宵江が当主だと聞いた時点で、智世は何の疑いもなく宵江が長男だと思っていたのだから。
すると智世のために角砂糖とミルクを用意していた十咬が宵江のほうを
宵江は小さく首を横に振り、智世に向き直った。
「その説明は追々必ずする。今はまだ待ってほしい」
考えたくないのに、智世の脳裏に、書庫のあの重厚な木の扉と、古い書物特有の墨と
「……私がよそ者だから?」
それとも。
宵江はそんな智世の内心など知る由もなく、懸命な表情で智世を見つめてくる。
「智世さん」
「……ごめんなさい。余計なことを言いました」
「智世さん、聞いてくれ。それは断じて違う。よそ者だから何も話せないわけじゃない。あなたは雨月家から来た人間だ。だからこそ──」
言いかけて──宵江は言葉を止めた。
智世は
「……私が雨月家の人間だから、何?」
雨月家譜。そして玄永家譜。
雨月家の娘は、玄永家の当主が
雨月家は何の変哲もない一般家庭である。官僚の父と、お嬢様育ちの母と、職業婦人を気取っていた今どきの一人娘がいる、ただちょっと裕福なだけの普通の家。
(──本当に?)
父親は妻にも娘にも自分の仕事をはっきりと説明したことがない。
──父は本当に、内務省警保局勤務の官僚なのだろうか?
何の変哲もない、職業婦人を気取っていた今どきの一人娘は、子どもの頃から異形の影をたびたび見てしまうというのに?
「それが……一体何の関係があるの?」
震える声で問う。宵江は答えない。智世はひどい焦燥感に駆られた。
──贄だから。
(だから……私には話せないの? 何も? 私が……自分が生け贄だって気付いてしまうと都合が悪いから……?)
考えたくもない可能性が頭に浮かび、取りついて離れない。
「……お願い。教えて。あなたは私に一体何を──」
──言いかけたときだった。
どたどたどたどた、と大きな足音が食堂に迫ってきた。
あまりに場の空気にそぐわない物音だったので、智世は一瞬
「茨斗ぉぉ! 戻っているかぁぁ!」
げ、と茨斗が身体を強ばらせる。
重苦しい空気の中に突き進むように入ってきたのは、今日一日姿を見かけなかった紘夜だった。昨日よりもさらに疲れた顔で、書生のような
「うわー、紘夜さんもしかしてまた寝てないんですか?」
重たかった空気をさらに打ち消す好機とばかりに茨斗が明るい声で言うと、紘夜は地団駄を踏まんばかりの勢いで反論した。
「おーまーえーが! 逐一
「だって武器壊したって言ったら紘夜さん怒るじゃないですか」
「当たり前だろう!? どこの世界に備品を壊されて喜ぶ馬鹿がいる! それも狙ったように高価なものから!」
「あ。そういえば今日壊した武器の報告がまだなんでそっち先にやっちゃっていいですか?」
「茨斗ぉぉ! お前はせめて反省したふりぐらいしろ!」
はぁ、と十咬が半眼でため息をつく。そしてお盆に智世の分の珈琲や茶菓子を載せた。
「智世様、ここはうるさいので居間に移動しましょう」
智世は宵江のほうをちらりと見た。茨斗の、壊した武器に関する報告というのはとても気になる──きっと宵江の仕事に深く関係することだろうから──が、さっき智世が問おうとしたことも、恐らく宵江はまだ智世に話す気がない。せっかく仕切り直す空気を茨斗と紘夜が作ってくれたのだから、今夜はそれに乗らせてもらうことにする。智世にも頭を冷やす時間が必要だ。生け贄だ何だという話に、心を容易に揺さぶられてしまわない程度には。
宵江は少し申し訳なさそうな顔で智世を見返してきた。相変わらず、無表情なのに感情が手に取るようにわかる人だ。そこが好ましく思う部分なのだけれど。
そう思って、智世はふと気付いた。
(……来光さんはあんなに表情が豊かだったのに、何を考えているのか全然わからなかった)
十咬に促されるまま、智世は居間に移動する。
「十咬くんは食堂に残らなくてよかったの?」
珈琲のカップを手に取りながら問うと、十咬は、いいんです、と
「僕には智世様のお側に仕えるお役目があるので」
「私、一人でも大丈夫よ。珈琲をいただきながら気分転換に本でも読むから」
だから食堂に戻って、と続けようとしたが、十咬に遮られた。
「いいんです。……僕にはまだ、その資格はありませんので」
「え?」
「婚礼の日にあの制服を着させていただけたのも、当主の晴れの日だから兄弟分が付添人に選ばれたというだけで」
「制服って、皆さんが着てる黒い軍服みたいなあれよね?」
口にしてから、智世はふと気付く。あの黒い制服を、てっきり内務省の一部の警察官が着る制服だとばかり思っていたが、だとするとまだ十代半ばの十咬が婚礼の日に着用していたのは妙だ。普通は少年用の礼装か、制服だとしても学校の制服なのではないだろうか。
智世の問いに、十咬ははっとした顔をした。
「……いえ。申し訳ありません。なんでもありません」
──まだ智世には話せないことが多いのだ。宵江も、そして使用人たちも。
追々必ず説明をする、と言ってくれた宵江の言葉を、今は信じるしかない。余計なことは頭から追い払って。
「……わかったわ。困らせてごめんね」
「これだけは言えます、智世様」
「なぁに?」
なるたけ穏やかに聞こえるように問いかける。まるで弟にそうするように。
十咬は
そして──智世にとっては思いもよらないような、今、一番聞きたい言葉をくれた。
「どんなに言えないことがあっても──宵江様や僕らが智世様を大切に思っていることは確かです。それだけは、どうか信じてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます