88歳の誕生日

上野蒼良@作家になる

今日は誕生日

 ――2022年3月16日。今日は、祖母の誕生日だった……気がする。多分。いや、自分が誕生日だからそうだろう。……帰りに、ケーキを2つ買わないとな。




 そんな曖昧な記憶のまま田中圭太たなかけいたは、会社に向かった。彼は、社会に出てもう5年。徐々に頼まれる仕事も増えてきて、残業も多く、後輩の面倒もみたりしつつ、上司に頭を下げなきゃいけない……しかも、仕事以外にも近年ではあちこちで「自分のスキルを手に入れよう」とか「自分の趣味に没頭しよう」とか「転職に関しても考えよう」とか……なんだか、物凄くこなさなきゃいけないものが多いと感じるそんな20代後半だった。



 彼の頭は今、毎日の自分のやる事でいっぱい。だから、彼女を作る時間もないし、大学の友達と久しぶりに飲みに行くなんて不可能だ。



 毎日、仕事をして……英語とプログラムを勉強して……絵を描いて、楽器の練習をし……筋トレをし……そして、少しだけ執筆……最後にようやく寝れるのだ。こんな生活を続けているからか、彼の寝る時間はいつも遅い。睡眠時間も物凄く短い。



 ――今日も、職場に来てすぐに上司に呼び出しをくらって怒られてきた所だ。


「おい! 田中! テメェ、言ったよな。ここは、こうやって書かないとダメなんだって!」


「……すいません」



「まだ、20代で若いっていうのに……テメェはジジイか? あぁ? いつもいつも頼んだ事全部忘れて持ってきやがって! ……次忘れてきたら許さねぇからな!」



「………すいません」



 ――また、怒られた。


 彼は、そう思った。しかし、上司の言う事もまた事実なのだ。実際、彼は今日を合わせて連続8回も頼まれた書類の提出を忘れてきている。これは、さすがの上司もキレて当然だろう。




 彼は、自分の持ち場に戻って椅子に座った。

「よっこいしょ……っと。…………ふぅ」



 すると、周りからヒソヒソと噂をする女達の声が聞こえてきた。

「……ねぇ? 見てよ。あの人、またなんかジジイみたいな声出して座ってるよ~」


「うわぁ~、キモ~。クソジジイ、さっさとやめちまえば良いのに~」




「……」


 彼は、黙って見ないふりを貫いた。そして、仕事に取り掛かるのだった。










         *



「ごちそうさまでした……」


 気づくと昼休憩が始まっていた。田中は、いつも持って持参している野菜たっぷりの小さな弁当箱を平らげ、スマホの画面を見つめた。



 彼にとって、この時間が一番の癒しだった。――好きなゲームを開いて、画面を横向きにする。そして、イヤホンの音をやや高めに設定して、ゲームスタート。



「……いけっ! そこだ! いけ! ――あぁ! クソッ! 馬鹿! 違っ……あっ、アアァァァァァァァァァ!!!!!」



 気づくとこうやって一人、休憩室の中で楽しくゲームをやっているわけだった……。





「――くっそ! ざけんなよ!」






         *



「……おろ? おかしいな……」



 昼休憩の終わりに、彼はトイレに来ていた。そこの鏡でいつも通り、髪の毛を整えたりしていた時、ある事に気づいた。


 彼が、いまいちよく見えないと感じて、顔を鏡のすぐ前まで持ってきて目を極限まで細めて前髪の辺りを見た。


「……でこ、広がってね?」



 それが分かってしまった彼は、すぐに自分のオープンしてしまっているおでこを前髪でクローズして、大きな溜息をついたまま持ち場へ戻って行った。











         *


 その後も何度も彼は、上司に怒られた。――何度も何度も……そして怒られるたびに、周りの人々から冷たい目で見られた。





 ――そうやって、結局やり忘れていた仕事を片付けていくうちに、時間は9時となり、彼は帰る事にした。



 ――今日も、疲れたなぁ……。



「よっこい……しょ」



 なんとか、重たい体を立ち上がらせて駅に向かう。













         *



「ただいま~」


 彼が家に着いた時、既に時刻は10時を指していた。……もう眠くてしょうがない。正直、このまま朝までぐっすり眠りたい所だが、彼にはやる事が大量に残っている。



 ――やんねぇと……。



 そんな事を思っていると、家の奥から元気な女性の声が聞こえてくる。



「……おかえり~。遅かったね? また今日も残業? アンタ、たまにはしっかり休みなさいね~。来週、会社で大事な会議があるんだろう? さっさと飯食って寝なね?」



「……あぁ、そうだったね。来週は、会議だった。ありがとう祖母ちゃん」



 彼は、しわしわによれて弱った笑みを祖母に向けた。――すると、それに相反するように祖母は、明るい太陽のような無邪気さも若干残るエネルギッシュな笑顔を彼に向けてきた。



 ――まっ、眩しい……。




 彼が、いつも仕事から帰ってくると思う事だった。……田中の家は、祖母と彼の2人暮らし。彼が、小さい頃に両親を亡くしてしまい、それで唯一血の繋がっている祖母が、母親代わりに彼を今日まで育ててくれたのだ。


 そんな事があってか、彼と祖母は孫とおばあちゃんの関係というよりも、母と息子のような関係ができており、彼自身も祖母に対して母親のような尊敬と感謝を抱いている。





 ――彼が、スーツを脱いでボタン付きの鼠色の部屋着に着替えていると、向こうで祖母が大きめの声で話しかけてきた。



「……そういえば、ケーキを買って来たかい?」



 しかし、スーツケースのパタンという音に搔き消されてか、彼にはいまいち祖母の言った言葉が耳に入って来ない。


「あんだって?」



 すると、祖母はさっきよりもっと大きい声で話しかける。



「誕生日用のケーキを買ってきたかいって聞いてるんだ!」




 それを聞いてようやく彼は、思いだした。


「あっ、ごめん。忘れた」




「……はぁ? 忘れた。アタシ、あんだけ昨日買ってきてって言ったのに……まぁ、良いよ。どうせアンタ忘れてると思ってたし、お昼に買ってきといたよ。2人分の誕生日ケーキ」



 祖母の呆れた声を、最後までしっかりは聞き取れなかったがとりあえず、彼は申し訳ない想いにかかられる。



「……ごめん。ありがとう」



 その後、彼はご飯を食べ終えた後、祖母の買ってきてくれたケーキの箱を開けた。


「……大きいのは高いからね。小さいケーキを2つ。――ケーキ屋さんに頼んで、アタシとアンタの名前を板チョコに書いてもらったよ。ハッピーバースデイってね」



「うん……」



 田中と祖母の誕生日は、同じ日なのである。だから、毎年一緒に祝い合いながらケーキを食うというイベントがあるわけなのだが……。


 ケーキを買い忘れた事に物凄い申し訳なさを感じている彼は、なかなか乗り気にならない。



「さっ、食べよう! 今日は、大切な誕生日だ! 祝いじゃ!」



 祖母は、ノリノリでケーキの上に乗った名前の書かれた板チョコをバリバリ食いだす。




 彼は、それを見ながら自分の前に置かれたケーキを眺める。









 ――88歳の誕生日を迎えたのは、一体どっちなのだろう……。



 そんな空しい想いに駆られながら、彼はケーキの端っこからチビチビ食いだした。


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