第3話 デセール

 気が付くと、目の前にぱっくりと割れた「お月様」があった。中のホワイトソースがまだ湯気を立てている。戻ってきたのだ、忘却食堂に……。

「おかえり」

 ルカの包み込むような笑顔に、幸太郎は少しずつ安定を取り戻していく。

「僕は……どれくらい気を失っていたんですか?」

「二、三分かな。でも、君にはとても長く感じられたろうね」

 ルカは全てお見通しなのだろう。多くは語らない。幸太郎が料理に手を付けやすいように、ルカは調理台に視線を落とす。

 幸太郎は目を閉じて静かに深呼吸をした。目を開いてスプーンを持ち直すと、黙々とおつきみライスを食べ進めた。ソースとチーズとライスの強い主張を、ふわふわとした卵がまろやかにしてくれる。ホワイトソースはほんの少し出汁の香りがする。隠し味に白だしを加えるのが、流太郎流だった。

 一口、また一口と運ぶうちに、流太郎との記憶が溢れ返ってくる。厨房に立ってフライパンを振るかっこいい父、幸太郎を抱き抱えて、夜空に向かって星の話を聞かせる父、授業参観に一人エプロン姿でやってきた父、父の日に、初めて幸太郎が作った料理に涙する父——。一つ一つを取りこぼさないように、大切に噛み締める。父はいつだって笑顔だった。最後も、細い目をさらに細くして笑っていたに違いない。おつきみライスを口いっぱいに頬張りながら、いつしか幸太郎は泣いていた。

「父さんに、会いたい……」

 幸太郎は身体を震わせて、振り絞るように、何かに縋るように、心から湧き上がった剥き出しの想いを吐露した。

「それが、君の本当の願いだね」

 ルカの一言に、幸太郎ははっと顔を上げた。本当の、願い……。それを自覚した瞬間、様々な思いが幸太郎を駆け巡った。それはまるで、ブラックホールに吸い込まれていった記憶と感情たちが、たちまち物凄い速度で吐き出されていくようだった。幸太郎の中に、もうすっかり忘れ去っていた暖かいものが、じんわりと満ちていく。

 

「あの、ここは一体何なんでしょう……。僕に起きたことは……」

 ルカから差し出されたハンカチでちーんと鼻水を拭いながら、幸太郎は今更ながら至極真っ当な質問をする。

「何って、ここは『忘却食堂』だよ。お客様の心の痛みを、自慢の料理で癒して差し上げるんだ」

 商品を宣伝する営業マンのように淀みなく解説するルカを、幸太郎は訝しげに見つめる。ルカは幸太郎のねちっこい視線を受け止めると、「君、急に疑り深くなったね……。さっきまであんなに素直だったくせに」と唇を尖らせた。

「まあ無理もないか……。コタロはさ、ここで体験したことは現実じゃないって、そう思ってる?」

「え、ええ……。あまりに非科学的な現象ばかりで……。あんなの、あり得ない」

「うん、確かにあり得ないだろうね。君のいる世界では」

「へ……?」

 世界、などという壮大な単語が登場し、幸太郎は素っ頓狂な声を上げた。

「ここは君のいる世界とは別の世界なんだ。君の世界とは異なる物理法則が働いている」

「世界……別の……物理……」

 星好きとはいえ文系の幸太郎は、物理学にはめっぽう弱い。今はただルカの発言をおうむ返しするのが精一杯だった。

「あれ、君、学校で習わなかった? 超弦理論とか多世界解釈とかさ。世界は無限に生じているんだ。今どき、世界がひとつだなんて思ってる方が時代遅れだよ」

 ルカは、幸太郎の世界観を揺るがすような重大な事項を、子供に交通ルールを教えるかのようにさらりと言ってのける。幸太郎は、もはや理解することを放棄した。

「ま、世界の違いなんて大した問題じゃない。いずれにせよ、君の体験は全て本物さ。君の心が一番分かってるはずだよ」

 世界の問題をたった一言で片付けて、ルカは幸太郎の疑問に答えを与えた。幸太郎は自分の胸に手を当てた。確かに、何十年もここに居座り続けたブラックホールは、すっかり消え失せている。自分の中でその存在を押し殺してきた父やあきらのことを、今は鮮明に思い返すことができた。二人を思うと、自然と笑みが溢れる。

「いい目をするようになったね」

 あまりにストレートな褒め言葉に、幸太郎は頬を赤らめる。照れ隠しに「ご、ごちそうさまでした。お代を……」と慌てて勘定を申し出る。するとルカは財布を持つ幸太郎の手をそっと退けた。

「君の世界の通貨なんて貰ってもしょうがないよ」

「そんな……」

 今にも泣き出しそうな幸太郎を見て、ルカは噴き出すように笑った。

「種明かしするとね、この『忘却食堂』は、心の痛みから、その人の本当の望み……願いを引き出す場所なんだ」

 幸太郎は全てが腑に落ちたような気がした。さっきルカの言った「心の痛みを癒す」というのは、願いを引き出したことによる副次的な効果なのだろう。しかし、人の願いを引き出すことでここはどんな利益を得るのだろうか。幸太郎の逡巡を察してルカは先回りする。

「願いがあれば生きていけるでしょう?」

 そうだ……ただ死んでいないだけの、無価値で無意味な人生を送っていた自分が、父に会いたいと気付かされたとき、初めて未来を志向した。あのとき、生きたいと、生きなければならないと明確に思った。その思いは今もこの胸にある。

「君が生きていくこと。それがお代だよ」

 ルカは優しい微笑みを讃えていた。幸太郎には、その姿が聖母に見えた。

「あのドアを出れば、元の世界だ」

 ルカの指差す方向に視線をやる。そこには入ってきたときと同じ、重厚なドアがあった。

「そうそう、君のお父さん、リュウタロはきっとどこかで生きてる。そんな気がするんだ」

 幸太郎は一瞬、はっとした表情を浮かべると、すぐに顔をくしゃっと歪ませた。

「そうですね……。こんな世界がほかにもあるなら……父はきっとどこかで鍋を振っている気がします」

 過去に起きた出来事は今も変わらず自分の中に横たわっている。しかし、それが持つ意味は大きく変わった。もう痛みはない。心は晴れやかだった。父を探そう。そしてあきらに想いを伝えよう——そう決意して、幸太郎はドアを開いた。

 

「ねぇマスター。コタロは大丈夫かしら。これから道を外さず生きていけると思う?」

 マディはカウンターに頬杖をつき、少女には似つかわしくない大人びた表情を浮かべていた。

「マディ、君はまだまだ修行が足りないな。彼は見た目よりずっと芯のある強い男だよ」

 ルカは白いボウルを洗いながら自信たっぷりに答える。

「何より、あの人の忘れ形見だからね」

「え⁈ あの人って……まさか……」

 マディは大きな目をぱちぱちと瞬いた。ルカは重厚なドアに視線をやる。

「彼は必ず辿り着くよ。伝説のシェフ・ドラゴンのもとへ。それが親子ってものだろう?」

 

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