第2話 プラ
その建物は、ヨーロッパの片田舎によくあるコテージのような小屋だった。煉瓦造りの壁に、三角の屋根が乗っかっている。こじんまりとした小屋のそばには、「忘却食堂こちら ドアを三回ノックしてください」と書かれた立て看板が置かれていた。幸太郎は、こんな店あったっけかな……と疑問に思いながら、金属製の重厚なドアの前に立つと、ドアノッカーで三回ドアをノックした。
カチャ、という音とともに、コーヒーの芳しい香りがふわりと漂った瞬間、「いらっしゃーい!」という甲高い子供の声が幸太郎の耳を劈いた。目の前には、十歳くらいの女の子が、不適な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。背丈は幸太郎の腰ほどで、白い襟のついた黒いワンピースにフリルのついたエプロンを重ねている。頭のてっぺんで引っ詰めた赤い髪は細かくカールしていて箒に見えた。どうやらこの店のメイドのようだ。
「ぼーっとしてないで、さ、入って! 案内するわ!」
小さなメイドは、呆気に取られる幸太郎の腕をとって、颯爽と店内を進んでいく。
店内は至ってシンプルな作りだった。調度品はアンティーク調の振り子時計くらいで、装飾品の類は一切ない。おひとりさま専用の食堂なのだろうか、客席は木製のカウンターに椅子がひとつだけで、テーブル席はない。
「マスタぁー! お客さん!」
メイドがキッチンに向かって店主に呼びかけた。奥から現れた人物が視界に入った瞬間、幸太郎は思わず息を飲んだ。
「いらっしゃい」
幸太郎に微笑みを向けるその人物は、どこか異国の青年のようだった。歳は二十代前半くらいだろうか、透き通るほど白い肌に、灰色の瞳、くっきりとした目鼻立ちをしている。艶やかな銀色の髪は、無造作に後ろでひとまとめにされ、緩くカールした毛先が時折り風に揺れている。白い長袖シャツから覗く細い腕は、華奢な身体つきを想起させた。幸太郎は、口を半開きにしてだらしない顔をしていた。
「ここに来るお客さんはみんな同じ顔をするんだ」
儚くも美しいその人は、困ったように笑った。その一言で我に返った幸太郎は、急に気恥ずかしさを覚えて、今度は赤面した。
「ところで、君、名前は?」
「天野……天野幸太郎と言います」
この店に入って初めて発した言葉は、緊張のあまり上擦っていた。
「コタロか。うん。いい名前だ」
「幸太郎」が長かったのだろうか、「コタロ」と端折ったその人は、うんうんと頷きながら、「私はルカ。この『忘却食堂』のマスターをやっている」と自己紹介をした。
「あ、このメイドはマドレーヌ。マディと呼ぶといい」
マディと呼ばれたメイドは、カウンター越しにぴょこんと顔を出して、コーヒーを差し出した。幸太郎は小さく礼をして、コップに口をつける。
「おいしい……」
幸太郎が思わず口に出した言葉に、マデイは誇らしげな笑みを見せた。ルカも目を丸くする幸太郎を微笑ましげに眺めている。
「それじゃ、聞かせてくれるかい? 君の痛みを」
「痛み……?」
妙なことを聞く店だ。ひょっとしてここは食堂兼整体院なのだろうか。若干訝しみつつも、身体の不調を思い返す。幸太郎も、もう三十の後半に差し掛かっている。当然ながら、年相応に身体にはガタが出始めている。
「まぁ、肩が上がりにくくなりましたかね」
もう年ですね、と付け足して頭を掻いた。するとルカは首を左右に振って「そっちじゃなくてね、こっち」と、握り拳を自らの胸元に二回、コンコンと当てた。
「……心?」
幸太郎の答えに、ルカはご名答、と言わんばかりに深く頷いた。
心の痛み、か……。幸太郎はしばらく腕を組んで思案した。普段なら、見ず知らずの人間からプライベートな質問をされれば警戒するものだが、奇妙なことに今は自然と答えを探している。だが、どれだけ考えても思い当たる節がない。何か返事をしないと失礼な気がして当たり障りのない回答をする。
「……強いて言うなら、パワハラ気味の上司と自由奔放な部下との関係に毎日心を痛めてますね。中間管理職の悲哀、みたいなものです」
自嘲気味に言う幸太郎を、ルカは真剣な眼差しで見つめていた。違う——。その青い瞳に全てを見透かされているような気がして、思わず下を向いて視線を逸らす。
「あきら……。彼女と……別れたこと……」
そのとき口をついて出た言葉に、幸太郎は自分でも驚いていた。あきらとのことは全て整理できていると、未練などないと、そう自ら信じ込ませてきたのに——。幸太郎は下を向いたまま、ぽたぽたと雫が滴り落ちる壊れた蛇口のように、滔々と語り出した。
「あきらとは五年ほど交際していました。お互い星が好きで気が合って……。でもある日、突然別れを切り出されました。僕のことが分からない、分かり合えない人とは家族にはなれないって……そう言って僕から離れていきました。僕は彼女のことをとても大切に思っていたし、いつだって彼女を喜ばせようとしてきました。記念日だって忘れたことはないんです。彼女にとって『よき彼氏』であったことは間違いない。でも彼女は気付いてしまったんですね。僕の本質に」
「それは、どんな本質?」
ルカに誘導され、幸太郎は、これまで誰にも見せたことのない、心の奥底の暗い影を曝け出す。
「僕には、心がないんです。だから、人を愛するということが分からない……」
「そう……。それは、なぜだと思う?」
「……捨てられたから」
壊れた蛇口から言葉が溢れてくる。決して不快ではない。これまでにない不思議な感覚だった。
「母は、僕が幼い頃に病気で亡くなりました。物心ついたときには父と二人だけの生活だったから、寂しいとか、そんなことは思いませんでした。裕福ではなかったし、贅沢はさせてもらえなかったけど、親子二人でそれなりに楽しく暮らしていました。でも……」
境遇を話すことにはもう慣れたと思っていた。それでも、とりわけ父のことを話すときは、やはりどこか緊張する。
「僕がちょうど十歳の頃、父は家を出て行きました。僕を、捨てたんです」
このとき幸太郎を支配していたのは、自分を捨てた父に対する怒りでも、捨てられた自分に対する憐憫でもなかった。そこにあったのは、ひび割れた心に冷たい水が浸みていくような、果てしない痛みだけだった。
「ありがとう。よく話してくれたね」
否定も肯定もせず、ルカはただ、悲しげな笑みを浮かべていた。まるで痛みを堪えているようだった。
「これで『道』ができた。じゃあ、見させてもらうよ、君の痛みを……君の本当の願いを」
そう言うと、ルカはカウンターから身を乗り出して、幸太郎の両頬を白く細い手で包み込んだ。みるみるうちにその美しい顔が幸太郎に近付いてくる。幸太郎は声も出せず、一人焦っていた。唇を奪われる……そんな下世話な想像をして赤面していると、鼻と鼻がぶつかるほんの少し手前でルカの進行が止まった。突如、ルカの溢れんばかりの大きな青い瞳が真っ黒に変化し、白眼を侵食したかと思うと、ついには光が消えた。その目に宿っていたのは闇だった。なぜだろうか、禍々しくも見えるその闇が、不思議と心地よく感じられる。
どれくらいそうしていただろうか。幸太郎が気付いたときには、ルカは幸太郎から離れ、その瞳は青い輝きを取り戻していた。ルカはしばらく顎に手をやって難しい顔をしていたが、とつぜん何かを閃いたように頷いた。
「コタロ、ちょっと待ってね。マディ、手伝ってくれるかい」
マディは小さな頭を思いっきり上下に振った。ルカはマディにてきぱきと指示をして、調理台に様々な食材や調味料を用意させていた。
手持ち無沙汰になった幸太郎は、改めて店内を見渡す。カウンターの奥を覗くと、キッチンには調理器具がほとんどないことに気が付いた。向かって右側にシンク、左側にコンロとケトルがこじんまりと鎮座しているほかは、大小の布巾がきれいに干されているだけだった。キッチンの上部に設置された棚に目をやると、色とりどりの大小さまざまな食器が整然と並べられている。食堂と銘打ってはいるが、この設備や道具では調理はできないはずだ。何を提供する場なのか見当もつかない。幸太郎は、答え探しを諦めて、大人しく彼らの挙動を眺めていた。
「うーん、これかな」
ルカは棚からシンプルな白いボウルを一皿取り出すと「じゃあ、始めるよ」と言って腕まくりをした。すると、ルカの目が再び漆黒の闇に変化し、どこからともなく靄が立ち現れた。靄はたちまちその範囲を広げ、ルカを包み込んだ。もうルカの姿は見えない。幸太郎は、目の前で繰り広げられている超常現象に、ただ目を白黒とさせるので精一杯だった。
「大丈夫よ。すぐに終わるから」
マディの一言で、幸太郎は失いかけた意識をなんとか繋ぎ止めておくことができた。
どれくらいの時間が経ったろうか。コト、という音と共に周囲の靄が晴れ、ルカが姿を表した。
「おまちどおさま」
ルカの瞳には、また青い光が戻っていた。幸太郎の目の前には、あの白いボウルが置かれていた。ボウルの中には、淡い黄色のドームが浮いている。それには見覚えがあった。
「おつきみライス……なぜこれを……?」
幸太郎の声はわずかに震えていた。
「細かいことはいいからさ。あったかいうちにどうぞ召し上がれ」
思いがけない料理の登場に動揺する幸太郎を制して、ルカは料理人らしく料理を勧める。全然細かいことじゃないんですけど……という小さな抗議を飲み込んで、幸太郎はそのドームに恐る恐るスプーンを入れる。
黄色い半球はオムレツだった。普通のオムレツとは少し違い、卵白を泡立てて作るスフレタイプのオムレツだ。シュワシュワとした感覚がスプーンを通じて腕に伝わる。割れ目から、ホワイトソースとチーズがとろりと流れ出す。さらにスプーンで掘り進めると、ケチャップライスが現れた。オムレツとソースとライスを層にしたスプーンを、ゆっくりと口に運ぶ。その瞬間、ルカを包んだ靄が再び現れ、瞬く間に幸太郎を覆った。な、何なんだ——。そう口走ったのを最後に、幸太郎の意識は遠のいていった。
気が付くと、幸太郎は薄暗い部屋の中にいた。向かって右に四角いテーブルが二つ、左にはカウンター席が四つある。ここも飲食店のようだ。カウンターの奥の厨房から光が漏れている。トントンと、包丁がまな板を叩く音がする。ゆっくりとカウンターに近づくと、人影が見えた。その後ろ姿は、憎くて恋しくてたまらなかった、あの人のものだった。
「父さん……」
そう、そこは幸太郎の父・流太郎(りゅうたろう)の店であり、父と子が暮らす家だった。
流太郎は、街の小さな洋食店の店主だった。生まれ故郷の関西を離れて、この東北の地で裸一貫で開業した。派手さはなかったが、正統派の洋食の数々は着実にファンを掴んだ。開業から数年もすると、馴染みの常連が足繁く通う、地域に愛される名店へと成長した。
飲食店の業務が重労働なのは、今も昔も変わらない。幸太郎が生まれる前は、妻、優香(ゆうか)と二人三脚でそれなりに分担してやってきたが、優香が亡くなってからは、店の営業に加えて家事・育児を流太郎が一人でこなさなければならなくなった。途中パートを雇ったものの、早朝から深夜まで働く生活は変わらなかった。いつもへとへとに疲れ切っていたに違いないが、幸太郎に向かい合うときは、笑顔を絶やさなかった。幸太郎は、そんな強く優しい父を幼いながらも誇りに思っていた。
その父が今、手の届くところにいる——。幸太郎には、父に聞きたい、いや、問い詰めたいことが山ほどあった。意を決して話しかけようとしたとき、厨房の奥のドアが開いて、五、六歳くらいの男の子が目を擦りながらこちらに向かってきた。
「起きたか、こーたろ。おはようさん」
幸太郎は思わず「あっ」と声を漏らした。その少年は、幸太郎だった。幸太郎少年は厨房を通り抜けてカウンター席にちょこんと座った。
「ちょっと待ちや。今、朝ごはん作るさかい」
流太郎は仕込みを中断して、朝食の準備に取り掛かった。ものの数分で、トーストの上にレタスと目玉焼きを乗せたシンプルなオープンサンドができあがった。流太郎は、どんなに忙しくても幸太郎の食事には一切手を抜かなかった。栄養バランスを考慮しながらも、いつだって幸太郎が喜ぶメニューを提供した。そうだ、父の目玉焼きは絶品だったっけな……幸太郎は、幸太郎少年がおいしそうに頬張る様を見ながら、自然と笑みをこぼしていた。そのとき、強い風が吹いて白い靄が幸太郎の視界を奪った。
次の瞬間、幸太郎は夜空の下にいた。さっきより少しだけ背が伸びた幸太郎少年が、せっせとリクライニングチェアを組み立てている。その奥では、流太郎がワゴン車のバックドアを開いて荷物を整理している。
「父さん、早く早く!」
「分かった分かった。今行くさかい」
急かす幸太郎少年を制しながら、流太郎は、サーモボトルからコップに液体を注ぐ。この香りはカモミールティーだ。リクライニングチェアに寝そべる幸太郎少年にコップを差し出して、流太郎も椅子に身体を預ける。
「今日は新月やからな、きれいに見えるはずやで」
どうやら今日はこぐま座流星群の日のようだ。
流太郎の唯一の趣味は天体観測だった。時間があれば自宅のベランダに設置した天体望遠鏡で天体ショーを楽しんでいた。休みという概念のない流太郎には、ほかの家族がするようなレジャーは滅多にできなかったが、クリスマス前のこの一日だけは特別だった。天然の天文台まで遠出して、親子二人で流星群を見るのが恒例行事だった。
「あ、ほら、流れた!」
幸太郎少年は、興奮気味に光に向かって指を差した。
「おお、始まったなぁ」
流太郎も嬉しそうに空を見上げている。しばらくすると、幸太郎少年は表情を曇らせて「今の、お母さんかな」と呟いた。
「どやろなぁ、母さんかもしらんな」
「お母さん、寂しくないかな……」
「そんなことあれへん。母さん、こーたろの逆上がりみてけらけら笑ろとるわ」
流太郎は、幸太郎を遊びに連れて行けない分、いろんな話を聞かせてくれた。料理の話、星の話、そして母の話を。流太郎から聞く母は豪快で、お節介で、涙脆くて、何より優しさに溢れた人物だった。幸太郎は母の写真を引っ張り出しては、流太郎の語る生き生きとした母を想像していた。
ふと、母の像とあきらが重なる。あきらもまた、屈託のない笑顔が印象的な女性で、少し強引なくらい幸太郎の世話を焼いた。凍てついた幸太郎の心にすっと入り込んで、頼んでもないのに暖炉を拵え薪をくべるような人だった。そんな彼女を最初は煩わしく思ったが、いつの間にか、その暖かさに言い知れない心地よさを感じるようになっていた。幸太郎にとって、あきらはまさしく特別な存在だった。そんな彼女をどうして簡単に手放してしまったのか……。幸太郎は、彼女への想いと、彼女を失ったことへの後悔を、今になってようやく噛み締めていた。するとまた、絶妙なタイミングで強い風が吹いた。
幸太郎は、さっきの厨房に戻っていた。流太郎と幸太郎少年が二人並んで調理している。幸太郎少年は流太郎と同じ白いコック帽を頭に被せて自慢気な様子だ。コンロの前で踏み台に乗り、鍋の中の白いソースをぐるぐるとかき混ぜている。
「もうええやろ。ご飯の上にかけてや」
どうやらもう仕上げのようだ。幸太郎少年は、ケチャップライスが盛られた二つの白いボウルにソースをかけ、その上からパラパラとチーズを散らした。
「かけたよ!」
「よっしゃ、じゃあ卵いくで」
流太郎は淡い黄色の生地をその上から流し込むと、予熱したオーブンに急いで運び、天板にお湯を注いで扉を閉じる。
四十分ほどして、オーブンのタイマーが鳴った。流太郎は分厚いミトンをして、オーブンからボウルを取り出した。ボウルを目にした瞬間、幸太郎少年は目をきらきらと輝かせた。
「お月様だ!」
これが「おつきみライス」誕生の瞬間である。
幸太郎は食べるのが遅かった。冷たいものも温かいものも、いつも食べているうちにすっかりぬるくなってしまう。幸太郎でも最後まで適温で食べられるようにと流太郎が考案したのが「おつきみライス」だった。「おつきみライス」の最大の特徴は、オーブンでじっくりと湯煎焼きしている点だ。これによりオムレツはしっとりとしたスフレになり、また、ゆっくりと熱を通すことで中心部までしっかりと温められ、いつまでも温かい状態で食べることができる。もう一つの最大の特徴、いや、欠点は時間も手間もかかることだった。だから店のメニューとしては提供せず、幸太郎だけの特別メニューとなった。
「どや、うまいやろ」
流太郎は目尻に皺を寄せて幸太郎少年を見つめている。
「うん! おいしい! それにね、ずっとあったかい!」
幸太郎少年の反応に、流太郎の目はより一層細くなった。それは、見慣れた父の笑顔だった。
幸太郎は、徐々にこの世界の理を理解し始めていた。これは自分自身の記憶であり、決して干渉することはできない。ただの傍観者として、過去の出来事をなぞっているだけだ。問題は、なぜ自分がこの世界に迷い込んでしまったのか、ということだ。幸太郎はその理由を朧げに掴みかけていた。だから、次に自分が向かう先の見当はついていた。きっと、あの日に違いない——。お決まりの風が、幸太郎を包んだ。
目を開けると、幸太郎の部屋にいた。幸太郎少年はベットに横たわり、布団を頭から被っている。するとコンコン、と部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「こーたろ、いかんか、こぐま座」
声の主は流太郎だった。幸太郎少年はもぞもぞと動いている。ふて寝を決め込んでいるようだ。
「お父さん、一人でも行くで」
「勝手にすれば!」
ふて寝のつもりが反応してしまうところが、幸太郎らしかった。
「さよか……」
ドア越しの流太郎の声は、弱々しかった。
幸太郎の中に苦い痛みが広がっていく。やっぱり、あの日だ——。
この日はちょうど二十五年前の今日だった。学校に持って行く雑巾を用意してくれなかったとか、そんな些細なことで幸太郎少年は不貞腐れていた。子供というのは、簡単に機嫌を直すこともあれば、ぐずぐずといつまでも引きずることもある。この日の幸太郎少年は後者の方だった。クラスのほかの子は皆、親に名前を縫い付けてもらった雑巾を持ってきていたのに、自分だけ名前のない雑巾だったことが、当時の幸太郎少年のプライドを大きく傷付けた。流太郎は「すまんかったなぁ」と何度も謝ったが、幸太郎はなかなか許す気になれなかった。ただ、仕事ばかりの父にもっと自分のことを構ってほしかっただけだったのに、素直になれなかったのだ。
流太郎は幸太郎の機嫌を直すのを諦めたのか、努めて明るく言った。
「ほんなら、行ってきまっさ。お土産の写真、取ってくるさかいな。戸締まり、気ぃつけや」
それが、幸太郎が聞いた流太郎の最後の言葉となった。その日以降、流太郎が家に帰ってくることはなかった。「あまのこうたろう」と書かれたワッペンをガタガタに縫い付けた雑巾をカウンターに残して——。
その日から警察や近所の有志により大規模な捜索が行われたが、一ヶ月経っても流太郎は見つからなかった。後で分かったことだが、店の経営は火の車だった。借金を苦にした失踪、というのが大方の見方で、三ヶ月目には捜索も打ち切られた。
記憶の旅をしなくても、父が自分を捨てるわけがないことは分かっていた。しかし、年端もいかない幸太郎が生きていくには、父に捨てられたのだと整理するほかなかった。あのとき、あんなくだらないことで不貞腐れてないで素直に天体観測について行っていれば……その自責の念は、心も身体も未熟な幸太郎に負い切れるものではなかった。後悔するより、心配するより、心を寄せるより、希望を持つより、憎んだ方がよっぽど楽だった。父への憎しみと引き換えに、幸太郎はあらゆる感情の扉を閉ざした。
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