その痛み、忘却食堂にお任せを

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第1話 アントレ

 十二月二十二日、聖なる日を目前に控え輝きを増す街を横目に、天野幸太郎(あまのこうたろう)は一人車を走らせる。ちらりと腕時計に目をやると、午後十時過ぎを指していた。幸太郎は背筋を伸ばしてハンドルを握り直した。これから二時間ほどの長旅になる。今日のような星降る日のために、九十年代のヒットソングを集めたとっておきのプレイリストを準備しておいた。オーディオから流れる懐かしのメドレーに鼻歌を重ねながら、これから始まる天体ショーに向けて、気持ちを高めていく。

 今日はこぐま座流星群の活動が極大となる日だ。かの有名なふたご座流星群やペルセウス流星群に比べて小規模で、一般にはあまり知られていないが、一年を締めくくる「仕事納め」流星群として、天文ファンの間では人気が高い。幸太郎もまた、天文ファンの一人だった。幼い頃から星が好きで家のベランダで天体観測するのが日課だったが、社会人になり深夜まで残業するような多忙な生活を送るようになると、ゆったりと天体観測する余裕もなくなり、今では日常生活の中でも空を見上げることは滅多になくなっていた。それでも、このこぐま座流星群の日だけは毎年欠かさず観測するようにしていた。

 幸太郎が向かう先は、幸太郎が暮らす県庁所在地から百キロほど南にある小さな村だった。土地のほとんどを山林が占め、これといった産業のないその村の唯一の観光資源は、なだらかな傾斜地に聳え立つ一本の滝桜だ。満開を迎える四月頃には、県内外から観光客が押し寄せる。村が賑わうのは一年でたった二週間、桜の見頃が終われば、村は再び静寂に包まれる。

 人口の光が届かないその村は、天体観測に適している。特にオフシーズンで人影の消えるこの時期は空気も澄み切っていて、肉眼でもはっきりと星を捉えることができる。極寒という欠点さえなければ、日本有数の天体観測スポットになり得たに違いない。

 幸太郎の目指す「天文台」は、滝桜が佇む傾斜を登った先にある。滝桜を横目に、最後の坂をミニバンで駆け上がる。頂上に辿り着くと、一気に視界が開けた。目の前には見渡す限りの草原が広がっている。幸太郎は、迷うことなくいつもの場所に車を停めた。

 先客が四人、お馴染みのメンバーが思い思いの場所で、思い思いの体勢でそのときを待っていた。ここでは、会話は最低限に止めるのが暗黙のルールだ。幸太郎は車を降りると、周囲に小さく会釈をしててきぱきとセッティングを始めた。

 そこは幸太郎の特等席だった。物心ついたときから毎年のように訪れているから、最もよく星が見える絶好のスポットを知り尽くしている。ほかの常連組も、最古参の幸太郎には一目置いていて、決して幸太郎のエリアを侵すことはない。

 全ての準備が整うと、湯気の立つコップを両手で包みながら、リクライニングチェアに浅く腰掛けた。今日もいい香りだ……。幸太郎は自ら入れたハーブティーを一口啜り、その出来に満足すると、脇の小さなテーブルにそっとコップを置いた。リラックスした身体を椅子に預けて、天を仰ぐ。

 果てしなく広がる深く濃い青の中に、小さな光が無数に輝いている。あの青の中は、きっと「無」だ。何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。自分もあの青に溶けて無に帰してしまえたらいいのに——。夜空を見上げるたび、幸太郎はいつも同じことを考える。

「こうちゃんって、ロボットみたい。にこにこ笑ってても、心は全然笑ってない」

 そのときなぜか、四年前に幸太郎と別れたあきらの言葉が蘇ってきた。

「ロボット、か……」

 もちろん幸太郎にも感情はある。理不尽なことを言われれば怒りが湧くし、悲しんでいる人がいれば心配になるし、いいことがあれば喜びもする。ただ、持続しないのだ。心に大きな穴がぽっかりと空いていて、喜びも悲しみも楽しみも怒りも苦しみも、感情と名のつくものは全てそのブラックホールに吸い込まれていく。そんな感覚だった。いわば不感症のような幸太郎には、生理的欲求を満たす以外に、生きることの意味や目標を見出すことなどできるはずもなかった。生への渇望がないのと同様に、積極的に死を選ぶほどの高尚な思いも勇気もない。生物学的には間違いなく生きているが、それは単に死んでいないということの裏返しでしかない。まさに生ける屍そのものだ。身体の死が精神の死に追いつくまで、あとどれほどのときを徒に過ごさなければならないのだろうか……。そんなことを考え始めたとき、一筋の光が幸太郎の視界を横切った。始まったのだ。幸太郎はループする思索を振り切って、夢中になって観測した。すると突然、一帯は眩い白い光に包まれ、幸太郎は意識を失った。

 気が付いたときには、深い青が戻っていた。慌てて腕時計を確認すると、午前零時四十分を少し過ぎたあたりを指している。ここに到着したのが零時二十五分頃だから、たいして時間は経っていない。気を失っていたのはほんの数分のようだ。幸太郎は身体を起こすと、首をぐるりと回して周囲を確認する。さっきと変わらないはずの風景に強烈な違和感を覚えた。

「誰もいない……?」

 どれだけ目を凝らしても、人っ子一人見当たらない。天体ショーは始まったばかりだ。常連メンバーがこんなに早い時間に帰ってしまうとは考えにくい。何かがおかしい……。ただならない胸騒ぎを覚えた幸太郎は、椅子から飛び降りて草原を足速に歩き始めた。とりあえず、来た道を戻ってみることにした。

 坂を降り始めてすぐに目に入った光景に、幸太郎は唖然とした。通り過ぎたときは蕾すらつけていなかった滝桜が、今は枝から無数の薄桃色の花を垂れ下げている。幸太郎は、初めて目にする満開の滝桜に心を奪われた。しばらく桜に見惚れていたが、ふと視線を移すと、奥の方に小さな建物があることに気が付いた。幸太郎は、吸い寄せられるように、その建物に足を向ける。

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