中華街の無謀な和食料理人、古代の中国にて龍を料理するの段(張華『博物誌』より)

神田 るふ

中華街の無謀な和食料理人、古代の中国で龍を料理するの段(張華『博物誌』より)

 龍を殺す術があるという。

 中国の古典『荘子』の中の一話だ。

 ある所に龍を殺すための術を修業している男がいた。

 修行の末、ついに男は龍を殺す術を身に着けた。

 しかし、その時既に、龍は世界から姿を消していた。

 世の無常と移ろいを、皮肉的に描いた話だ。

 だが、『荘子』が書かれた後も、龍は何度も姿を現している。 

 日本でもよく知られている『三国志』にも龍が出現したことが記されている。

 そして、出現した龍は、その後いずことなく姿を消す。

 龍は自ら姿を消したのだろうか。

 それとも、誰かによって消されたのだろうか。

 龍を殺す術が、今も何処かにあるのだという。


 時として、人生には無理と勢いが必要だ。

 人生は選択の連続である。

 進むか否か、迷う時は常にある。

 その迷いを振り切って先に進むためには、膨大な熱量と呆れ返るような無謀が必要だ。

 何かに浮かされ、何かに憑りつかれたかのように、我武者羅に突貫する蛮勇が無ければできない決断というものが、人生にはあるのだ。

 自分で事業を起こしたり、自分の店を持っている人なら、きっとわかってくれるはずだろう。

 そう。

 俺は決断した。

 人生最初でおそらく最大の決断だ。

 俺は自分の店を開く決断をした。

 調理科のある高校に進学して調理師免許を取り、地元ではちょっと名の知れた店で五年間修業した後、俺は独立する道を選んだ。

 俺は突き動かされていた。

 たぎる情熱が俺の心を、見果てぬ夢が俺の脳髄を、逸る気持ちが俺の脚を、その先へと、もっとその先へと導いていた。

 身体と心に渦巻いていた烈火の竜巻が天へと登り、中空で火の粉となって美しく四散した後、俺はようやく冷静に戻った。

 そして、自分の決断を自省し、いよいよ開店を一週間後に控えたこの時点で思い至ったのだ。

 やっぱり、無理じゃね?

 中華街で和食の店なんて。


 神戸市南京町。

 横浜、長崎と並ぶ、言わずと知れた日本三大中華街である。

 中央通から少し脇にそれ、少々、いや、若干、というより、かなり影が濃い場所にある雑居ビルの二階に、開店予定の俺の店がある。

 とりあえず、半年前まで入っていた唐揚げ屋の面影が残るカジュアルな内装を、モダンな感じの和風調に整備した。次は店の屋号をどうするか迷ったが、前に働いていた店から「心」の字を貰い受けたので、中華風の龍という字とかけあわせて「龍心」にすることにした。

 そして、開店を一週間後に控えた今日。

 ノリと勢いで全速前進フルスロットル突き進んできた俺を、ガランとした店の静けさが一気にクールダウンさせた。

 そういえば、店の看板メニューも決まっていない。募集をかけたバイトの連絡もやってこない。

 店の真ん中でぼんやりと佇み続けて約三時間。何かをしなければならないのだが、何をしていいかがわからない。とりあえず、店の外に出てみることにした。外に出れば、何かがあるはずだ。

 ふと、俺の頭にある建物が思い浮かんだ。

 関帝廟かんていびょう

 中華街の守り神、三国志の英雄、関羽を祀ってある廟だ。

 中国史はさっぱりだが、流石に関羽の名前ぐらいは知っている。ガキの頃によく遊んでいたゲームに出ていたからだ。

 困った時の神頼み、か。

 そういえば、まだ一回も足を運んでいなかった。

 やらない祈りよりも、やる祈り。別に減るものでもないし、ご利益があれば儲けものだ。

 ダメ元で関羽様にお祈りしてみるか。

 店の扉の鍵を閉め、関帝廟に向かおうと階下に降りる。

 ふと、俺は入り口付近にゴミが落ちているのに気が付いた。

 腰をかがめてよく見ると、それはゴミではなくツバメのヒナだった。入り口の天井を見上げると、ツバメの巣が目に入った。巣から落ちてしまったのだろうか。見たところ怪我もなく、ぴいぴいと鳴いている。そういえば、階段の横に脚立があったはずだ。俺は脚立を持ってくると、なんとか雛を巣に戻してやった。ツバメは幸運のシンボルだと聞いたことがある。是非とも、俺に幸運がやって来てほしいものだ。


 平日昼過ぎの十五時ごろ。そこそこな感じの人通りを抜けて、関帝廟の門をくぐり、中に入る。

 入り口で売っていた線香を買って廟に入ると、目の前に大きな坐像が設置してあった。

 関羽の像だ。

 俺以外の参拝客はいない。

 俺は線香に火をともすと、関羽に向かって両手を合わせた。

「どうか、俺の店が繁盛しますように。どうか、新しいメニューが決まりますように、どうかバイトの子が早く決まりますように。どうか…」

「どうか、我らをお助けくださいますように」

 何だ!?

 突然、俺の背後から女の子の声がした。

 祈りに夢中で後ろの女子の邪魔をしていたのかと想い、慌てて振り返ったが、誰もいない。

 気のせいか……?

 最後にバイトのお願いをしたものだから、女子の声の幻聴を聞いてしまったに違いない。今日は早めに帰って寝るか……。

 関羽像に背を向けたまま、俺が廟から出ようとした、その時だった。

「その声、確かに聞き届けたぞ、乙女よ」

 朗々と響くバリトンボイスが俺の背後から木霊した。

 こ、今度は何だよ!?

 俺が腰を抜かしかけながら振り返った視線の先で、先ほど捧げた線香から積乱雲の如く煙が盛り上がり、周囲をあっという間に覆い隠した。

 やばい!火事か!?

 慌てて逃げようかと思ったが、煙はあっという間に俺の周りにとぐろをまき、俺の動きを封じてしまった。

 思わずぞっとした俺の視線の先で、黒い影が浮かび上がっている。

 廟の中で人の形をしているのは、俺と関羽像だけだ。この煙の中では足元もおぼつかない。とりあえず、関羽像につかまって煙が消えるのを待とう。

 そう考えた俺が関羽像に近づこうとした時だった。

 関羽像の影が一回り大きくなった。

 何故だ?俺が近づいて影が大きくなるのならわかる。

 だが、何故、俺が近づく前に影が大きくなる?

 その理由を俺の頭が整理する前に、煙の中から一人の男がぬっと罷り出た。

 でかい。

 身長一七六センチの俺が、首が痛くなるまで見上げた先に、顔がある。おそらく、身長は二メートル近くあるだろう。

 その顔の色はまるでナツメヤシのように紅く、鳳凰を思わせるような両眼は爛々と光を放ち、口元からは髭が滝のように美しく流れている。

 男は堂々とした体躯を中華風の甲冑に身を包み、右手には男の身長すら小さく見えるほどの長大な薙刀を携えていた。

 おいおいおいおい。

 この姿、見たことがあるぞ!俺がガキの頃にやっていたゲームの中で!!!

「か、関羽!?」

 思わず口から出た言葉に、男は力強く頷き、見事な髭を左手でくゆらせた。

「如何にも。我が名は関雲長かんうんちょう。乙女の祈りに感応し、再び世に舞い戻った」

 お、乙女?

 俺は男だぞ!?

 ん?

 待てよ?

 そういえば、俺がお祈りしてる時に女の子の声がしてたよな?

 俺の表情から読み取ったのだろう。関羽は左手を腰に当て、手にした薙刀の柄で床を穿うがった。

「乙女が助けを求めておる。だが、今回の件は我が手にも余る。そこでだ。代わりに貴殿に行ってもらいたい」

 はい?

「我が力を頼りに祈りを捧げている少女に応えることができず、口惜しいと思うていたところに貴殿が現れた。これぞ天佑てんゆう、否、天命であろう」

「あ、あの。俺には何が何だか」

「我が力を一時的に貸し与える。我の名代として使命を果たせ」

 ちょ、ちょっと待ってくれ!

 俺はそんなことをしている場合では……。

 狼狽うろたえる俺の周囲で、また一段と煙が濃くなった。

 その煙の奥から、まるで熊の掌を思わせるような太い手が、ずい、と突き出てきた。

 その手には、あの薙刀が握られている。

「貴殿にこれと扱える力を預けよう。我が愛刀、青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうこと、冷艶鋸れいえんきょである。これを持って行け。そして、成すべきことを成せ」

「いや、あの、ちょっと!」

 有無を言わさず、巨人の如き手から俺の方へ偃月刀が投げ渡された。

「貴殿の武運を祈る。貴殿が使命を終えた時、貴殿の願いも果たされよう」

 頼んだぞ。

 関羽の声が消えると共に、煙も一気に晴れ去った。


 どこだ?ここは?

 ぼんやりとした目で周りを見渡す。どうやら、関帝廟ではないようだ。薄暗い石造りの一室らしく、設置された燭台の灯がうすぼんやりと部屋の中を照らしている。

 眼をこすりつつ、ようやく視力が定まってきた俺の目に入ってきたのは、一人の小柄な少女だった。

 ツバメを思わせるような愛らしい顔立ちで、形の良い黒くて大きな瞳がじっと俺を見つめている。着物のような黒い服、丁寧に結い上げた黒髪。

 全てが真っ黒な女の子だ。

「ふむ」

 少女が小さく頷いた。

「巫女殿、どうやら成功したようです。巫女殿?」

 今更気が付いたが、少女の足元に誰かがうずくまっており、少女がゆさゆさと肩を動かしている。どうやら、こちらも女性のようだ。少女とは対照的に、白い着物と白い羽織で身を包んでいる。髪の毛も長く白いため、てっきり老婆かと思ったが、髪の毛の合間から出てきたのは若い女性だった。目が覚めるような美人だ。だが、両目は白目をむき、鼻と口からは女性が垂れ流すのはどうかという液体を盛大に放流しているため、何とも残念な様子になっている。

 どれだけゆすっても一向に目を覚ますことがない巫女と思しき女性に軽く溜息をつくと、黒い少女は立ち上がり、ぱんぱんと手を鳴らした。

「お入りください。皆々様。召喚の儀は成功したようです」

 鈴の音のように軽やかに響く少女の声が消え入る前に、部屋の奥の鉄製と思しき両開きの扉が勢いよく開け放たれた。続々と、男たちが入ってくる。ある者は甲冑を着込み、またある者は着物に身を包んでいる。デザイン的に、明らかに昔の中国の衣装だ。

 その中から、一際身長の大きな鎧姿の男が歩み出で、少女の隣に並んだ。

 浅黒い肌に髭をたくわえ、如何にも無骨そうな男だが、顔立ちからは誠実そうな雰囲気が伝わってくる。

 男は勢いよく両手を胸の前で組んだかと思うと、俺に対して身をかがめ、うやうやしく礼をした。

「よくぞお出でくだされた!この国の将軍、張珂ちょうかと申します!古の英雄、関羽殿!どうか、この国と民をお救い下され!!!」

 おいおいおいおい。ちょっと待て!

「あ、あの。俺は関羽じゃないんですけど!ほら、髭ないでしょ、髭!」

 自分でも滑稽なくらいオーバーなしぐさで口元をアピールしたのだが……。

「ホゲエエエエエエエエエエエエ!!!」

「うわ!?」

「何事!?」

「ふむ」

 突然の奇声に俺と張将軍と少女の声が重なった。

 今まで臥せっていた巫女らしき女性がガバリと身を起こし、俺を指さす。

「誰だ、お前!!!」

 お前こそ、誰だよ!!!

「オレが呼んだのは関羽だぞ!関羽!でかい!強い!髭!!!だけど、お前は細い!弱い!髭無い!!!誰だよ、お前は!!!」

 むくりと立ち上がった巫女さんが俺の方にぐいぐいと迫りながら、顔を寄せる。

 やっぱり美人だ。美人だが、変だ。しかも、怖い。巫女さんはさらに何かを言おうと大口を開けたが、そのまま後方に昏倒した。黒い少女が髪の毛を引っ張り、後ろに倒したのだ。

 ギエエエエと悲鳴を上げながら床を転がる巫女さんとは対照的な、落ち着き払った少女の声と視線が俺の手元に集中する。

「あなたが関羽であろうと無かろうと、意味のないこと。やつがれが欲しいのはあなたの助力。それにはあなたが手にしている武器が必要なのです」

 武器?この偃月刀か?

「時間がありません。歩きながら話します。それでは張将軍。戦いの準備を。これより、龍を狩り入れます」

 た……戦いだって!?しかも、龍!?


 少女と巫女さん、そして張将軍と俺の四人を先頭に、一同が部屋から外に出る。

 外に出て、ようやくここが王城だとわかった。俺たちがいたのはその最上階で、眼下には石造りの中庭が広がっている。それにしても、外が異様に暗い。陽が射さない所為か、気温も肌寒く、吹き渡る風もまとわりつくような湿り気を帯びている。

「手短に要点だけを話します。この国に龍が現れました。その龍をたおします。以上」

「手短過ぎるだろ!」

「お前みてーな凡愚でもわかるよーに、短く言ったんだろーが!テメーの股間にブラ下がってる棒キレみたいに短くよー!?」

 横でメンチを切りながら、美しい巫女さんが汚い言葉でまくしたてる。まるでヤンキーだ。並んで歩くと身長は俺とほぼ同じ。高身長で、極め付きの美人。本来なら並んで歩くだけでも有頂天だが、なにぶん、キャラが怖すぎる。

「じゃあ、短けーじゃなくて極めて細い小枝を股にお持ちのお前様に、オレがもう少々状況を説明してやる。龍を殺すのはそのちっこくて黒い女の役目だ。この女は今やこの世から絶えた龍殺しの術を使い、中原ちゅうげんの隅から隅まで龍を殺して回ってる。何ともおっかねー女だよ」

「龍を殺す?そういえば、さっきそんなこと言ってたな。龍を狩るとか、なんとか」

「おおよ。この国の宰相が龍殺しのために雇い入れた。で、オレは旅の巫女。この女と行き会って同行してる。何でも、今回は自分だけでは無理だとよ。で、オレの出番ってわけ」

 巫女さんが自信満々とばかりに胸を張る。なかなか、いや、かなりデカい。

「言動も見た目も奇矯ききょう極まりますが、能力は信頼できます。実際、貴公を、いや、目当てのものを召喚しました」

 黒い少女の怜悧な視線が再び俺の手元の偃月刀に注がれる。

「関羽の愛刀、青龍偃月刀。別名、冷艶鋸。貴公には、その武器で龍をさばいていただきます」

「捌く?」

「平たく言えば、龍を料理していただきたく」

 ちょっと待て!

「龍を食うのか?」

「龍が現れてからというものの、空はき曇って陽を隠し、作物が全く育ちませぬ。王は民を救い、慰撫するために龍を殺し、その肉を民に与えよと」

 渋い顔で唸るように張将軍が答える。

「奴は龍を殺す武器と術は身に着けておりますが、料理することはできませぬ」

 そう言うと少女は腰に差していた剣を抜いた。

 ずいぶんと細い剣だ。しかも、金属というよりは石、象牙のようにも見える。

応龍おうりゅうという翼の生えた龍の、羽の軸から造られた剣です。奴の一族が代々伝えてきました」

「それで龍を殺すのか?だったら、その剣で龍を捌けばいいじゃないか」

「おめーは本当に愚鈍だなー。さっきから言ってるじゃねーか。その剣は龍を殺す剣なんだよ。龍を斬るための剣じゃねーんだ」

 呆れたような様子で溜息をつきながら、巫女さんが肩をすくめる。ヤンキーなあんたに愚かだのと何だのとは言われたくない。

「龍の鱗は鋼よりも固い。人間の造った武器じゃあ傷ひとつ付けられねえ」

 俺は城壁に設置されてある巨大なボウガンみたいな兵器に目を止めた。幼児の腕ほどもある太い鉄の矢が設置してある。

「これでもダメなのか?」

といいます。人間相手にはすこぶる有効ですが、龍には効きません。龍に傷をつけるためには龍の血で鍛えられた武器が必要です」

 少女が、つい、と偃月刀を指さした。

「その偃月刀は龍の血を浴びた刀です。その刀を刀工が打ち上げた時、夜空を雷光が走りました。放たれた稲妻が天駆ける龍を穿ち、その血が刀に降り注いで刀身を瞬く間に冷却したといいます。ゆえに、その偃月刀を別名冷艶鋸と呼ぶのです」

 うたうように、滔々とうとうと少女が語る。

「だから持ち主の関羽を呼ぼうとしたのか。なるほど。関羽が自分の手に余るという理由もわかった。関羽は料理ができそうにないもんな」

「おめー関羽に会ったのか?で、てめーがやってきたという寸法か。うめー料理を作るためにか?すげーなそれはたいそうなこった」

 微妙に韻を踏んで煽りまくる巫女さんにムカつきながら、俺は此処に来た経緯を皆に説明した。

「合点いきましたぞ。貴殿は料理人でござったか。関羽殿の刀と料理人の腕。これは心強うござる!これも関羽殿が取り繋いだ巡り合わせでござろう!」

「関羽も天命だとか言ってたけど……俺、只の料理人っすよ?」

「戦いは拙者と龍殺しの乙女にお任せあれ!この命にかけてもお守りしますぞ!」

 堂々と分厚い胸板を張る張将軍。男の中の男だぜ。

「あー。オレは逃げるぞ。巫女だからな。非戦闘員だからな。死ぬなら勝手に死ね。お前の命を踏みにじってオレは生きる」

 堂々と豊かな二つの果実を張る巫女さん。イラつくけど眼福だぜ。

「それでは作戦を説明します。いいですか…?」

 我関せずとばかりに飄々とした物言いで、少女が説明を始めた。

 

「龍は気の塊です。命を失った瞬間にその体は雲散霧消します。つまり、生きているうちに肉をはぎ取る必要があるのです」

 龍殺しの少女、怖い巫女さん、張将軍、そして俺の四人は城の中央広場に集まり、龍退治の計画を立てていた。

 俺たちの周囲を、この国の兵士たちが十重二十重とえはたえと取り囲んでいる。だが、持っているのは武器ではない。それぞれが金属製と思しき打楽器を持っている。こんなので戦えるのだろうか?

「龍が現れたら、張将軍におとりになってもらい龍を引き付けます。その間に料理人殿に龍の肉を切り落としてもらう。その後に、奴が龍にとどめを刺します」

「おっしゃ!それで行こう!気張れよ、おめーら!オレは激励するだけだがな!」

 手を叩いて皆を鼓舞する巫女さんには目もくれず、少女が周囲に控える兵士たちをぐるりと見渡した。

「それでは作戦開始です。皆さん、お願いします」

「よし!一同、かかれ!」

 張将軍の号令一下、兵士たちは手に持った楽器を打ち鳴らし始めた。

 城中に、騒々しい金属音が鳴り響く。

 何なんだ!?いったい!?

「龍は金属音、それも激しい音を嫌います。音を立てるものに怒り狂うのです」

「つまり、おびき出してるってわけか?早く来て欲しいぜ。五月蠅くてたまらん」

「来てなどおりません」

 俺の愚痴に少女が静かに答えた。

 この大騒音だというのに、少女の声は不思議と響く。

「ずっと、そこにいたのです。我々が広場に降りた、その時から」

 少女が指を中空に向ける。

 いつの間にか風が出てきていたのは、さっきからわかっていた。

 その風が雲を棚引かせていると思っていた。

 違う。

 雲が、渦を巻いている。

 まるで、蜷局とぐろを巻く蛇のように。

 雲の合間から、キラキラと何かが光っている。それが光を反射する鱗だとわかるまでに、そう時間はかからなかった。

 待て。

 ちょっと待て。

 この雲の流れの大きさ。

 雲間から見え隠れする胴体。

 これはちょっとヤバいんじゃないの?

 俺の不安が確信に変わる直前に、それは雲を破ってその姿を現した。

 龍だ。

 漫画やゲームで何度も見た、あの龍だった。

 そして、俺の確信は目前の絶対的な現実的光景によって裏付けされた。

 でかい。

 東京タワーとまではいかないものの、京都タワーが怪物の姿になり、空を泳いでいるかのようだ。

 それまで広場に響いていた打楽器の音が、乱れ、か細くなっていく。

 そりゃそうだろう。

 こんな化物を見れば、誰だってビビる。

「頃合いですね。張将軍」

「あいわかった!総員、撤退!」

 張将軍の命令を待っていましたとばかり、兵士たちが城内に駆け込んでいく。

「さて。それではとりかかりましょう。時に、料理人殿」

「な、何だよ?」

「奴の役目は龍を殺すこと。龍の料理など、二の次です。よって、貴方が転ぼうが喰われようが、奴は一切関知しませんので、あしからず」

「上等だ!その代り、俺もお前がどうなろうと手助けしねーからな!」

「それで結構。張将軍、お願いします」

 少女の言葉を受けて、張将軍が軍旗を手にした。

「かしこまり申した!さあ、化物!獲物はこちらだぞ!!!」

 軍旗をはためかせながら、張将軍が広場中を猛ダッシュする。

「龍は五色の糸を忌避します。あの旗に使われている糸は見れば、龍は襲い掛かってくるはずです。その隙を狙います」

 そう少女は言ったのだが。

 龍は一向に張将軍の方へ目を向けない。

 空を旋回しながら飛ぶ龍の視線は、何故かこちらの方に……いや、俺の方だけに向けられている。

 な……何故、俺!?

 ようやく、少女も異変に気が付いたらしい。能面のように動きが乏しかった表情に、軽く怪訝けげんな色が浮かんでいる。そのいぶかしげな表情が、俺に向かってきた。

 少女が俺の胸元に顔を突っ込む。

「お、お、おい!こんな時に何して……!」

 ひょっとして恐怖のあまり俺に抱き着いてきたのかと思ったが、俺の胸元から顔を上げた少女の瞳は冬場の湖のように静まりかえっていた。

「匂います」

「な、なんだって?」

「料理人殿。ツバメに触れましたね?」

 あ。

「そういえば。ここに来る前にツバメのヒナを助けた」

「それです。龍はツバメの肉が好物で……」

 少女の言葉を聞けたのは、そこまでだった。

 いきなり少女に胸倉をつかまれたかと思うと、あらんかぎりの力で俺は放り投げられた。

 木の葉のようにくるくると中を舞いながら俺が見たものは、龍の突撃をモロに喰らって鞠のようにはじけ飛ぶ少女の姿だった。

 叫び声ひとつあげることなく少女は城壁に叩きつけられ、重力に全面降伏するかのように石畳の床に垂直落下した。

 おい。

 おい、おい、おい!!!

「俺のことは助けないって言ったじゃねーか!!!」

 まるで喉から血が迸(ほとばし)りそうな俺の絶叫を受けても、少女は身じろぎひとつしない。

 張将軍も事態を理解したのだろう。お互い蒼白となった顔で固まっていたが……。

「しからば、御免!」 

 軍旗を投げ捨て、張将軍が城に向かって脱兎だっとの如く逃げ去った。

 待て。

 待て、待て、待て!!!

 何が男の中の男だ!いや、俺が勝手に心の中でそう認めただけではあるものの、前言撤回にも程があるわ!

 辺りを見渡すと、広場には俺しかいない。

 当然ながら、巫女さんの姿も、無い。

 まあ、逃げるとは言っていたから有言実行ではあるのだが。

 しかし、俺が絶望に身を打ちひしがれている時間は無かった。

 明確に俺をターゲットとした龍が、身をくねらせながら向かってくる。俺は反射的に身をひるがえし、龍との命をかけた追いかけっこをするハメになった。

 なんてこった。

 ツバメは幸運のシンボルじゃなかったのか。

 仏心ほとげごころを起こしたのに、当の仏は見て見ぬふりかよ。

 逃げながら、俺は猫に追いかけられる鼠の気持ちを痛感していた。完全に弄ばれている状況だ。ふざけやがってという怒りと焦りが、俺の足の運びを狂わせた。

 倒れこんだ俺の顔の先に、龍の巨大な頭が見える。その眼には嗜虐しぎゃくの光がギラついていた。

 俺はどんなふうに喰われるのだろう。せめて、一気に嚥下えんかしてくれ。

 迫りくる絶望に耐え切れず、ついに俺が目を閉じた時だった。

「蛇野郎おおおお!!!巫女はここだぞ!!!ここにいるぞ!!!喰うならオレを喰いやがれ!!!喰え喰え喰え!オレを喰え!!!」

 広場中に罵声と金属音が炸裂した。

 巫女さんだ!

 右手には剣を、左手には盾を持った巫女さんが、城壁の上で舞いながら盛大に剣で盾を打ち鳴らしている。すごいバランス感覚だ。やっぱり只者じゃねえぞ、あの人。

 その横には一人の男が立っている。

 男は先ほど俺が城壁で見かけた弩を抱えていた。

 張将軍!

 逃げたんじゃなくて弩を取りにいったのか!前言撤回を撤回だ!

 龍の瞳に困惑の色が浮かんだのが見て取れた。どちらに向かおうか、迷っている。

 その龍の目に、張将軍が弩の狙いを定めた。

「怪物めえええええ!!!我が正義の一撃、思い知れえええええええええい!!!」

 張将軍の雄叫びと共に弩から放たれた矢が、あやまたず龍の右目を捉える。

 だが、その強弓ごうきゅうは龍の目を貫くどころか、軽い金属音と共に弾き返された。

 目ですら、これかよ!

 そして、あまりに軽いこの一撃が、龍の次の行動を決定づけた。

 ゆっくりと、巫女さんと張将軍の方へと、龍が鎌首をもたげる。

 絶体絶命の二人は、だがしかし、その顔に笑顔を浮かべていた。

 その笑顔の意味を、俺は瞬時に悟った。

「うおおおおおおおおおお!!!」

 完全に無防備となった龍の腹に、俺は偃月刀を突き立てる。

 世界中の銅鑼を鳴らしたかのような悲鳴が、龍の口から放たれた。

 構わず、俺は偃月刀固く握り、猛然と駆け抜ける。

 まるでイワシを研ぎたての包丁で捌くが如く、偃月刀が龍の身を削ぎ落とした。

 やった!

 思わず笑みが浮かんだ俺の身体が軽く宙を舞った。苦痛にのたうつ龍の体当たりを喰らってしまったようだ。床に叩きつけられ、痛みで視界が点滅する俺の方に、今度は敵意と殺意を剥き出しにした龍が向かってくる。

 激痛で、身体が、動かない。

 遠くから聞こえる、巫女さんと張将軍の絶叫。

 近づく、龍の咆哮。

 その中に、一陣の風の音が入り込んだ。

「屠龍の術、照覧しょうらんあれ」

 はっきりと、軽やかに少女の声が響く。

 龍の頭の背後に、黒く小さな影が浮かんだ。

 龍殺しの少女だ。

 天空を軽やかに舞い、少女が龍の頭上に降り立つ。

 龍が異変に気付くよりも早く、少女は剣を抜き構えたかと思うと、龍の後頭部に刃を突き立てた。

 龍の首から五色の閃光が湧水のように迸る。やがてそれは球体の形に収束し、広場の床へと転げ落ち、砕け散った。

 龍の動きが、止まった。

 ゆっくりと、緩慢な動きで龍は床に落下し、そのまま黒い霧となって大気の中へと消滅していく。

 そして、俺が剥ぎ取った肉以外の龍の身体は、完全に消滅した。

 呆然とする俺の前に、一条、また一条と雲の間から光が差してくる。

 光と温もりが、大地に戻ってきた。

 奇妙な達成感と莫大な疲労感が、俺の心身にどっと押し寄せてくる。その波に呑まれるように、俺は眼を閉じ……。

「寝ないでください」

 少女の刺すような言葉とミドルキックが俺のみぞおちを貫通した。

 そ、そうだった。

 寝てる場合じゃない。

 これからが、俺にとっての本当の闘いだ。

「厨房はあるか?すぐに火を起こして、その肉を運び込んでくれ!それから、炊き上げた米があると助かる!」

 少女に活を入れられたみぞおちをさすりながらヨロヨロと立ち上がり、俺は自分の戦場に向かった。


「やったなテメー!やりやがったなオメー!どうよこれから寝所で延長戦それはダメー!?ガハハハハハハのオホホホホホホホ!!!」

「も、もうちょっとだけ優しく……。鼓膜と傷が裂けそうだ……」

 ハイテンション過ぎる巫女さんにヘッドロックをかまされながら、俺は城内の厨房へと向かう。巫女さんの巨大な脂肪の塊が俺の頬に失楽園を造園していたが、身体の他の部分は針山地獄の上で地獄の獄卒たちに金棒で殴られているかの如く激痛が走っていた。

 今頃気づいたが、身体の所々に生傷が出来ているようだ。場所によっては痛みも出血も結構ある。だが、幸いなことに両腕は無事だ。これなら料理できる。

「巫女さん。ありがとうな。おかげで助かった。逃げるんじゃなかったのか?」

「冗談に決まってんだろ?龍に喰われるのも巫女の仕事だぜ?」

「喰われるのが、か?そういえば、『オレを喰え』て言ってなかったか?」

「おうよ。雨乞いの時とかはオレは龍の餌だ。そん時は喜んで喰われるぜ?オレはオレの仕事をしたまでさ。まあ、今回は未遂だったがな!!!」

 下品にゲロゲラ笑ってるが……巫女さん、プロだな。

「じゃあ、俺は今から俺の仕事をするよ。巫女さんを喰いかけた龍を、逆に巫女さんに喰わせてやる」

「ほほう。言うようになったじゃねえか。楽しみにしてるぜ?」

 そう言って微笑んだ巫女さんは、まるで女神のように神々しく、美しかった。


 巫女さんと別れてから厨房に入ると、既に竈に火は起こされ、台の上に龍の肉が横たえられていた。見た所、十メートルは確実にある。

 傍らの椅子にちょこんと座っていた龍殺しの少女が、ぺこりと頭を下げる。

「言われた通り、張将軍と部下の皆さんに肉を運ばせました」

「すまねえ。ところで、あんた、無事か?」

「左肩の骨が外れましたが、自分で直しました。おそらく、左右の肋骨にも数本ヒビが入っているでしょうけど、大事だいじありません」

 大事あるんじゃねえの、それ?

 だが、少女の顔に苦痛の色は一切ない。

「奴の心配よりも、まずは料理の方を」

 澄ました表情で語る少女に、内心、驚きと敬意を覚えながら、俺は台に置かれていた包丁を手にする。

 日本の包丁とは使い勝手が全く違う。肉斬り包丁というやつか。龍の肉は鱗こそ固いものの、肉自体は動物の肉とそう変わらない。自分の全神経と技術を駆使して、龍の肉を切り分けていく。

 巫女さんの豊満かつ放漫なバストに包まれヘブン状態だった俺の頭だったが、中身の脳は料理のことを冷静に考えていた。巫女さんや張将軍、そして龍殺しの少女同様、俺もプロだと言えるかもしれない。

 いや、三人がプロへの道を俺に示してくれたのだろう。

 三人への感謝の気持ちが、痛みと疲労で倒れそうな身体を突き動かしているに違いない。

 そうでなければ、とっくの昔に気絶しているはずだ。

 頭の奥から浮かんでくる様々な思いと感情を確かめながらも、俺の手は止まることがない。

 まず、龍の肉を一片、口に運ぶ。

 美味い。

 まるで、上等な牛の赤身肉と本マグロの中間のような絶妙な味だ。

 この肉の風味を舌と脳に記憶させ、厨房から集めるだけ集めた調味料や香辛料の味と香りを、その場でひとつひとつ確認しながら選択し、龍の肉に塗りこんでいく。

 ある程度味をなじませたところで、龍の肉に鉄串を刺して強火で炙ると、それを包丁で薄く切り落とす。

 幸運にも炊き上がっていた飯があったので、酢と少々の柑橘の汁を混ぜて味を調えた。

 飯の上に炙った龍の肉を乗せ、一気呵成に握りあげていく。

「それは……何ですか?」

 初めて、少女の瞳に好奇の色が走った。

 その表情に嬉しさを覚えつつ、握る手を止めずに俺は答える。

「龍の肉の炙り鮨。名付けて、龍火鮨だ」


「鮨でござるか?これが?」

「はあ。鮨ねえ?」

 張将軍や巫女さんの反応は、厨房での少女の反応と同じだった。てっきり、俺は中国の人なら日本の鮨など知るはずもないと思っていたが、少女たちの表情と反応は知っているものとは違うといった感じだった。どうやら、この時代の中国にも違った形の鮨があるらしい。

 先程の美の化身のような美しさとは打って変わり、胡乱うろんな眼でこちらを見つめる巫女さんには目もくれず、俺はせっせと鮨を握り続ける。張将軍の話によれば、この国の人たちは腹を空かせているらしい。てっとり早く、炭水化物とたんぱく質を摂取するには鮨しかない。俺の少ない容量の脳で考えた最適解の料理が、鮨だった。

 とりあえず、炊き上がった分の米で作れる分だけの鮨は握り終えた。

 さて。

「さあ、まずは味見をしてくれ」

 龍殺しの少女と巫女さんと張将軍が、それぞれ鮨を口に運ぶ。

「む」

「ほほへへへふふふひひひひはははは」

「おお!これは何と!」

 三者三様の声が上がった。

 改めて三人の答えを聞くまでもない。

 大成功だ!

「誠に美味です。こんなにうまい鮨は初めて食べました」

 少女がコクコクと頷きながら、二つ三つ、次々と鮨を口に運んでいく。

「オツなもんだな、この鮨は。おい、将軍さん。酒ねーか?一杯いっぱいやろーぜ?」

「せっかくの申し出でござるが、まずは陛下に献上しとうござる!料理人殿、持っていてもかまわぬか?」

「ああ、もちろんだ。将軍、書くものないか?……お、サンキュ。作り方を書いておくよ。龍の肉はまだあるから、後から皆で作ってくれ。これだけあれば、国の人たちにも十分行きわたるだろう」

 手に持てるだけの鮨を持ち、喜び勇んで出ていく張将軍を見送ると、俺はようやく椅子に腰を落ち着けた。

 身体中から力が抜ける。ようやく、俺の戦いも終わったようだ。

 どっと全身に疲労の重みが圧(お)しかかった俺の肩に、少女の手が軽やかに乗った。

「お疲れ様でした。これでようやく……」

 少女の次の言葉が続くより先に、俺の周囲にモクモクと煙が立ち込めてきた。

「あー。どうやら時間みてーだな。ちょいと早えーが、お別れみてーだ」

「時間?あ、そうか。元の時代に戻るってことか」

 よっこいしょと俺は腰を上げる。最後の最後まで慌ただしい。

「料理人殿、ありがとうございました。貴方のおかげで、奴は使命を果たせました」

「礼を言うのはこっちだ。おかげで、俺も自分の料理に自信が持てたよ」

「む、むごうにがえっでも、だ、だだだだっしゃでヴぁああああああ!!!」

 隣で巫女さんが手をぶんぶん振りながら、盛大に泣いている。目、鼻、口、穴という穴から滝のように水を垂れ流しているので、今回もせっかくの美人が台無しだ。

 煙が濃くなり、二人の姿が霞んでいく。

「じゃあ、俺、帰るぞ!巫女さん!龍に喰われんなよ!それから……」

 一瞬だけ、煙が薄くなった。

 その先に。

 龍殺しの少女の、淡い微笑みがあった。

「さようなら。また何処かで、会えますように」

 涼風のような笑顔と声が吹き抜けた後、俺の周りは厚い煙に包まれ、全てが覆い隠された。

 煙は厚さと重みを増し、周囲だけでなく、俺の意識も暗闇に包まれていく。

 遠くから、声が聞こえてくる。

「よくぞやってくれた。貴殿の願いも、必ずや果たされようぞ」

 関羽からの感謝の言葉を聞きながら、俺は深い眠りに落ちていった。


 俺が目を覚ましたのは、店の中だった。どうやって店に戻ったかどうかは見当もつかない。

 だが、起きてからの俺の行動は早かった。

 すぐさま中華料理に使用する香辛料や調味料の専門卸業者に連絡し、懇意にしている食肉業者にも肉の調達を頼み込んだ。

 それから六日間、厨房に篭りきり、開店前日、ついにその鮨は完成した。

 中華風の炙り肉をメインにした握り鮨だ。

 流石に龍の肉は無理だが、牛、豚、鳥に中華風の仕込みを加えるという、江戸前と中華料理とをハイブリッドさせた鮨である。まあ、時々はワニなんかも出していいかもしれない。

 ようやく、自分の料理を、自分の店を完成できたような気がした。

 窓の外は夕暮れをとうに過ぎ、黄昏時となっている。

 ふと、外の空気が吸いたくなった俺は階下に降りた。

 あのツバメの巣が目についた。

 俺が助けたツバメのヒナが、何食わぬ顔で俺を見下ろしている。

 お前のせいで俺は龍に喰われかけたんだぞ?

 そう思うと何だか楽しくて、思わず吹き出しそうになってしまったが……。

「すいません」

 突然、背後から女の子の声がしたので、慌てて息を引っ込めて振り返った。

「ひょっとして、このビルの二階にある、今度出来るお店の方ですか?大学の掲示板でバイトの募集があったから来たんですけど……。あの?聞いてます?」

 ツバメを思い起こさせるような愛らしい顔立ちと大きな黒い瞳。黒髪は丁寧に結い上げられ、シャツもパンツもバックも真っ黒。

 何故か、変な笑いと、涙が流れた。

「大丈夫ですか?何処か悪いんじゃ?」

「い、いや。大丈夫。バイトの子?待ってたんだ。俺が店長。さあ、上がって」

「あの。実はもう一人、わたしの友達もやりたいって言ってるんです。よろしいですか?」

「もちろんさ!ところで、その子は女の子?ひょっとして髪の毛が白くて、ちょっと変わった物言いをする子だったりとか?」

「どうしてわかったんですか!?その子、ミュージシャン志望で占いも大好きで……」

 微笑みを浮かべながら楽しそうに話す女の子と一緒に、俺は階段を上っていく。

 この店がどうなるか、わからない。俺の料理がウケるかどうかも、わからない。

 でも、この子たちとならきっと、いや、必ずうまくいく。

 階下から吹き上げる五月の夕風が、俺と少女を爽やかに包み込み、高く、高く吹き抜けていった。


 龍を殺す術があるという。

 果たして、死んだ後の龍はどうなるのだろう。

 『三国志』で知られる三国時代の魏から後の西晋の世に政治家・文人として活躍した張華は、彼の著書『博物誌』の中で龍を鮨にして食べたと書き記している。

 彼らはどのように龍を鮨に調理し、食べたのだろうか。

 歴史書は、それ以上は語ってくれない。

 龍を殺した少女と、龍を鮨にした料理人の名前も。

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中華街の無謀な和食料理人、古代の中国にて龍を料理するの段(張華『博物誌』より) 神田 るふ @nekonoturugi

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