氷解

緋糸 椎

氷解

「あ、博兄ひろにィ? おじいちゃんの米寿のお祝いのことなんだけど」

 妹の真弓からの電話だった。正直それどころじゃなかった。妻に浮気され、出て行かれ、離婚を突きつけられ、しかも慰謝料払わないと言われ……その対応でてんてこ舞いなのだ。

「金ならいくらでも払うから、そっちで決めて適当にやっててくれよ、こっちは忙しいんだから」

「忙しいのはみんな一緒。博兄ひろにィだけじゃないんだから」

 真弓は三人兄妹の末っ子で、甘えん坊な上に口が立つ。だから兄弟の中で何かあると必然的に取り仕切る立場となる。ちなみに俺、八重樫博満は長男だ。「それにね、おじいちゃんが博兄ひろにィを指名してるのよ」

「指名!? 一体何の役割を押し付けられるんだ!?」

「おじいちゃん、米寿の記念にタイ旅行に行きたいそうなの。それで、ガイドとして博兄ィに白羽の矢が立ったワケ。……ほら、海外派遣隊やってたでしょ。適任じゃん」

「ちょっと待て、勝手に決めんなよ、俺だって……」

「とにかくおじいちゃんのたっての希望だから、後は本人と打ち合わせしてね」

 そう言って一方的に真弓は電話を切った。


🇹🇭


「おお、すまないね。こんな年寄りの道楽につきあわせて」

 まったくですよ、などと口が裂けても言えない。

「いえ、気楽な独り者なので」

 と、誰に対してだか皮肉をこめて返答する。祖父・八重樫弘明は俺の不機嫌など意に介さず、すっかり旅行を楽しんでいる。


 今回のタイ旅行の目玉は、泰緬鉄道に乗ってバンコク〜ナムトック間を往復することだった。「泰緬」とはタイ・ビルマ間を表す言葉で、昔は文字通りタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ鉄道であった。大戦中日本軍によって敷設されたが、過酷な労働条件で、起用された現地労務者や捕虜が多数死んだため、デス・レイルウェイとも呼ばれる。


 列車がタム・クラセー桟道橋に差し掛かると、崖と川の狭い空間を列車が走り抜け、さながら遊園地のアトラクションのように楽しめた。そうして少し機嫌が良くなったのを見計らうように、弘明じいさんが語り出した。

「この鉄道は、私の父親、つまり君のが作ったんだよ」

「そうだったんですか」

 曾祖父は大戦中、ビルマで戦死したと聞いたが、この鉄道の敷設に当たっていたのか、と得心する。

「しかし米軍の爆撃の犠牲になってね。それで私はアメリカに対して憎悪を抱いていたんだよ。もっとも生き残ったところで戦犯扱いだったろうが、それはどうでもよかった」

 戦争の話か……重たいな。適当に聞き流そうと思った。

「だけど高校生の頃、街頭で外人宣教師が演説しているのを見たんだ。私は思わず近づいて、宣教師の胸ぐらをつかんだよ。『俺の父親はあんたらに殺されたんだ。この人殺し!』と叫んでね」

 意外だった。温厚な弘明じいさんにそんな激しい一面があったとは。

「その宣教師はただオロオロしていたが、そこに級友が通りかかり、『おい八重樫、何やってるんだ?』と声をかけてきた。それを聞いた宣教師は、『あなた、ヤエガシさんですか?』と尋ねたかと思うといきなり私を両手で抱きしめたんだ。気持ち悪くて『やめてくれ!』と叫び、その場から駆け出して行ったんだ」

「その宣教師、どうして『ヤエガシ』という名前に反応したんですか?」

「私も気になって、後になってその宣教師に会うために教会に行ってみたんだ。そして、あの日の反応について尋ねてみた。すると、彼の父親も連合軍兵士としてビルマで戦死したということだった。しかも、日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設に従事して衰弱死したと……その労働は過酷な上、ろくに食事も休憩もさせてもらえなかった。その上、日本軍の士官は動かない捕虜に体罰を与えて無理矢理労働させた…その士官というのがヤエガシという人物らしい」

「ではその宣教師はおじいさんと会って、やっと仇に出会えたと……」

「いや。彼は日本にずっと恨みの感情を抱いていたが、ある時、夢の中で十字架を担いで歩くイエス・キリストを見たそうだ。

『主よ、どこへ行かれるのですか』

 するとキリストは答えた。

『ゴルゴタの丘へ行き、十字架に架かるのだ』

『主よ、あなたは既に十字架で死に、葬られ、蘇られたのではありませんか!』

『そのとおりだ。私は日本人を愛し、彼らの罪をあがなうために十字架に架かった。しかし、あなたはそれでも彼らを許さないという。だから私は、もう一度十字架に掛からなければならなくなったのだよ』

 それを聞いて彼は、いかに自分が神の前に傲慢であったか思い知った。そしてその時、宣教師として日本に行く決意をしたそうだ」

「つまりキリスト様が枕元でお告げになったことで、許しの気持ちがわいたということですか」

「そうらしい。しかし、なかなか心の底から完全には許しきれていないのを感じ、苦しんでいた。ところが私と出会い、ヤエガシと名乗る私にハグすることで、自分の中の苦々しいものが氷解していくのを感じたそうだ」

「しかし、[ヤエガシ]とおじいさんの関連性については何も指し示すものがなかったはずです。なのに、宣教師はおじいさんを[ヤエガシ]の親族だとどうして思ったんですかね」

「私が[ヤエガシ]の親族であるかはあまり意味をなさなかったのかもしれない。でも、[ヤエガシ]は憎しみの象徴だった、それを躊躇なく抱きしめられたのは喜びだったのだろうよ。私もそれを聞いて、色々なわだかまり、恨みごとが氷解していったよ。……教会に行ったおかげで、ばあさんとも知り合えたしな」

 祖父はいたずらっぽくウィンクした。亡くなった祖母と祖父は日曜日になると仲睦まじく教会へ行っていたものだった。俺が妻とうまくいかないとき、どうしたら祖父たちとはこうも違うのかと思っていた。

「もしかしておじいさん、この話を聞かせるために俺を呼んだの?」

 祖父はフフンと軽く笑い、答えない。その代わりに、カンチャナブリで一旦降りよう、と言った。

「クワイ川の眺めはなかなかのものだ、見ていて損はないぞ」

 俺は頷いた。そして、このおじいさんと一緒にいるうちに、いつしか俺自身のわだかまりや恨みごとも消えていってしまうのではないか、と思った。

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