潮風が香る島の長老

宇目埜めう

潮風が香る島の長老

 島に降り立つと潮の香りが強く鼻腔をかすめた。真っ先に目についたのは、墨汁をこぼしたように真っ黒な猫。鼻を通り抜けていく潮風と波止場で気怠げに伸びをする猫は、島が私を歓迎してくれている証拠あかしのようだった。


 本土からは、船で一時間ほど。太平洋に浮かぶこの島は、つい最近──といっても、七十年ほど前らしいが──発見されたらしい。

 七十年前にこの島に上陸した人々は、気候が温暖で太平洋上にあるにも関わらず、天候が荒れることが滅多にないこの島を地上の楽園と呼び、村を作った。

 最初に上陸したのは、数名の人間と数匹の猫。それが今では、五十名ほどの人間と猫が暮らす島となった。


「やぁやぁ。よく来たね」


 上陸して最初に出迎えてくれたのは、優しい笑顔が印象的なお爺さん──村長の村上むらかみさんだ。七十年前からこの島で暮らしているらしい。島の歴史のすべてを知っている唯一の人だと聞いた。まさに長老といった感じだ。


「こんにちは。わざわざお出迎えいただいて、ありがとうございます」


「いいんだよ。滅多に移住者なんて来やしないんだ。珍しもの見たさが半分だよ」


 村上さんは、顔じゅうを皺くちゃにして笑う。七十年前からこの島で暮らしているのだから、相当に高齢なはずだが、よぼよぼとは程遠い。


「そんな。私のことなんてすぐに見飽きちゃうと思いますけど」


「そんなこたぁないよ。この島も高齢化が進んでいてな。あなたみたいに若いお嬢さんは珍しいんだよ」


 村上さんは、「若い」と言うが、私はもう三十八歳。決して若くはない。


「若くないですよ。もういい年です」


 自嘲気味言うが、村上さんは真っ向から否定してくれた。


「何を言ってる。本土ではどうか知らんが、この島ではかなり若い。まだまだひよっこだよ」


「そうなんですか? 私、三十八歳ですけど……。あの、失礼でなければ……」


「なんだい? ワシの年齢かな?」


 村上さんは、私の質問を先回りしてまたくしゃっと笑った。


「えっと……はい。おいくつなんですか? 確か、島に村ができたときからと聞いているのですが……」


「そうじゃなぁ。あの時は、十六で……この島ももう七十年になるから……うん。八十六だね」


 顔の片側だけくしゃっとして笑う。その顔がなんだかウインクしているみたいだったのと、島での年月を基準に自分の年を答える村上さんがなんだかおかしかった。大っぴらに笑ってしまっては失礼だろうと思って、視線を落とすと、村上さんの足元に数匹の猫がすりよっているのが見えた。

 人間と同じくらいの数の猫が暮らすこの島は、猫目当てで移住する人も多い。私もその一人だ。

 ようやく、笑いも落ち着いてきたところで、視線を上げる。


「ということは、村上さんがこの島では最年長ですね」


 私が尋ねると、村上さんはゆっくりと首を振った。


「いんや、長老はワシじゃないよ」


 意外だったが、冗談を言っている風でもない。


「それじゃあ、村上さんの他にも最初の移住者がいるんですか?」


 最初に島に渡った人は、もう村上さんしかいないと聞いたが、間違いだったのかもしれない。


「いやいや。ワシの他はもうみんな死んでしまったよ」


 尋ねてしまってから、村上さんよりも後に移住した村上さんよりも年上の人がいるに決まってると思い当たる。悪いことを聞いてしまったと思って、気まずくなる。


「ほれ。あそこにいる」


 そんな私の心配をよそに、村上さんはそれまでと変わらない調子で言った。

 村上さんの指差す先には、一見して誰かがいるようには見えない。私が首を傾げていると、村上さんはもう一度「あそこにいる」と言った。

 村上さんの言うには、私が乗ってきた船が停泊しているだけだ。


「あそこだよ。あそこの波止場の先」


 村上さんのヒントを頼りにもう一度目を凝らすと、波止場の先で何かが動くのが見えた。


「──あれって?」


「うん。アレが最年長。うちの長老だよ」


 村上さんが指差した先で、墨汁をこぼしたように真っ黒な猫が伸びをする。


「あの猫ちゃんが?」


 私が尋ねると村上さんは、また顔をくしゃっとして笑った。


「そうだよ。信じられないかも知れないけどね」


 嘘をついているようには見えない。私は思わず尋ねた。


「あの猫ちゃんは、何歳なんですか?」


「八十八歳だね」


 もう一度、黒猫に目を向ける。墨汁みたいに黒い猫は、もうそこにはいない。

 フワリとした風が潮の香りとともに、私の髪をかき上げた。

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