ヘブンズ・ビーチ88

石田宏暁

88歳

 真っ白な砂浜。雲ひとつない青空。透きとおった海辺に、引いては返す波の音。まだ幼さの残る、みるからに十代のカップルが一組。



 昨晩は年甲斐もなくキャンプで飲み明かしたが、不思議と頭はすっきりとしていた。


「ねえ、君は自分の余命を知ってるのかい」


「ううん、聞く暇もなかったの。どのみち、そう長くはなかったと思うけど、あなたは?」


 美しく流れる黒髪の少女は、楽しそうに笑っている。ビーチを白い水着姿で歩く姿はまるで妖精のようだった。


「たったの半年だってさ」足に冷たい水を感じて、心地よかった。「ここに来る人の平均寿命を知ってるかい?」


「知ってるけど、興味ないなぁ。私の一日は長い、あなたの一日は短い。ここに来たら、その違いに気付かないと楽しめないわよ」


「興味深いな……体感時間に違いがあるってことかい?」


「口で説明するのは難しいわ。今までの人生ではブレーキをかけることばかり教わってきたでしょ。教育とか躾っていうのかな。身を守るために、問題を回避するために、とにかく危険な目にあわないように」


「ブレーキは必要ないとでも?」


 彼女のたとえ話に閉口した。四十年も前の事故とはいえ、あの日を一日たりとも忘れたことはない。


「そういうワケでもないけど、第二の人生を楽しみたいなら、アクセルの踏み方を知る必要があるわ。物事を難しくしてるのは自分だってことに気付くことが大切なの」


「こう見えても大人なんでね。実年齢が八十八歳の僕に、できるのかな」


「あなたなら出来るわ」


 この場所は仮想現実バーチャル・リアリティが作り出した『ヘブンズビーチ88』と呼ばれていた。余命宣告されたり、肉体に問題を抱えたりした人間が人生の最後を過ごすのが、このデジタルと意識だけの空間だ。


 実際の肉体は病室か集中治療室にいる。管だらけで延命処置をしているだけの人々が数千人単位で暮らしているのだ。


「まるで僕を知ってるような言い方だね」


「過去にとらわれちゃ駄目よ。ここではあなたは新米、子供は忘れることを怖れたりはしないわ。何度でも平気でやり直せるって思う気持ちは何より大切なの」


「やり直さないですむ方法を考えることの方が重要だよ」


「……」彼女は肩を吊り上げて困った顔をした。


 ここに来て数ヶ月。想定していた人口の何十倍、いや何百倍の人間がこの仮想空間に生きていた。大部分の人々は三十代から五十代だった。僕のように十代の容姿で転移してくる人間は珍しいらしく、同世代に見える彼女を見つけるのは容易かった。


「肉体が滅んでも、この世界で生き続けることは可能だというのかな」


「誰でも可能というわけじゃないけど、まあ、そうなるわね。ちょっとしたコツがいるの」


「科学を超越してる。まるで幽霊やオカルト、超常現象の世界だ。それとも君はデータだけの亡霊なのかな」


「難しく考える必要はないわ。この瞬間に喜びがあるなら、過去も未来も全部チャラになるのよ。この瞬間に苦しみがあるなら、あなたは戦わなければならない。恨みとか憎しみは捨てるの、今がすべてなのよ」


「きみの言うことは随分と抽象的だよ」


 茶髪の男と金髪の男が二人、フラフラとこっちに向かってくるのが見えた。昨晩は周回者ラウンダー訪問者ビジターが派手にどんちゃん騒ぎをしていた。酒に麻薬、連中は音楽をがなり立てて一晩中女を追いかけ回していたようだ。


「よう、姉ちゃん」金髪が言った。「昨日から誰も釣れなくてさ、もう誰でもいいからやりてえと思ってたんだ。男でも、かまわないぜ」


 金髪の男は声を立てて笑ったが、茶髪の男は笑わなかった。「いいかもな。男は初めてだよ、なんか興奮してきちまった」と言いながら、僕の全身を舐め回すように見つめた。


 僕は男の腕を当然のように振り払った。礼儀も知らないガキ相手に、身体を許すつもりなど毛頭なかった。これが意識だけの空間だとしても。


「おい、なんだよ。お前らだって裸同然で遊んでる変態だろうが。そっち目的でここに来てるんだろ? 俺たちより気持ちいいことしてるんだろ。いいじゃないか、男の相手だって悪くはないと思うぜ」


「うせろよ」と言った僕の声は僅かに震えていた。茶髪の男は刃渡りが二十センチもあるナイフをチラつかせていたからだ。出鼻を挫かれた気分だった。


「あんた初心者ビギナーだな。余命までは怪我をしたって安全だと思ってるんだろ? だが力ずくで拉致して好きなだけ楽しませてもらうことも出来るんだぜ」


 心臓が跳ねあがり、鼓動が高鳴った。息が苦しく、めまいを感じた瞬間、男は僕の横面を殴りつけた。拳は現実以上に重く、痛みが後頭部まで突き抜けた。


「!!」


 転げ回る僕の鼻柱を、男は容赦なく蹴り上げる。口からは血と酸味のある何かが混じったような液体がこみ上げてきた。視界はグラグラと揺れ、まるで仮想現実とは思えなかった。


 男は僕の腹に足をのせて踏みつけた。両手で足首を掴み、持ち上げようとするが岩のように重い身体はびくともしなかった。痛みより、惨めな感覚が溢れ出した。なんでこんな目にあうんだろうか。


 いいや、僕は惨めに殴られて当然の人間だ。あの日、助手席に涼子を乗せた僕は、運転ミスをした。取り返しのつかない失敗だ。


 対向車線から飛び出したトラックとの正面衝突。妻は帰らぬ人となった。


 どんなに償っても償いきれなかった。相手の居眠り運転が原因だったとはいえ、僕は無意識に自分が助かるようにハンドルをきっていたのだから。


 あれは事故だといって周りの人間は僕に寛容だったが、僕は、僕を許せなかった。


 どうして僕だけが助かったのか。どうして一瞬でも気を抜いてしまったのか。哀れみも孤独も無意味な人生にもうんざりして、僕には後悔しかなかった。


「泣いてんのか」髪を捕まれ、ゆっくりと顔を持ち上げると茶髪の男は言った。「こっちも殴りたくて殴ってるわけじゃないんだよ。調子にのってるとどうなるか、調教してやんないと分かんないだろ。中身はジジイか?」


 悔しさと怒りで、頭の中がぐちゃぐちゃになった。金髪の男は彼女の背中を突き飛ばした。恥ずかしさ、憎しみ、殺意。何十年も生きてきた自分に対しての非礼と、屈辱的な罪に対する罰で、頭の中が渦巻いていた。


「きゃあああー!」


 自分は彼女に見合う人間じゃない。決して許されない過去の出来事。僕は、ずっと抗うことを忘れていたようだ。


 恨み、妬み、常識、正当防衛、非常手段、そんな感情は仮想現実の世界では関係ない――純粋に戦えばいいと彼女は言った。


「うわあああああああああっ!!」


 上半身を攻撃すると見せかけて、足首から甲にかけて重心を思い切りかけて肘鉄を入れた。茶髪は痛みに耐えかね、前かがみになった。


 思い切り頭突きをくらわせ、もう一撃。耳の付近を拳で強打した。何度も何度も。


「っぐ!」


 肝心なのは、最後まで戦い続けるという強い意志だった。相手の頭が陥没するまで手を抜くつもりはない。一瞬でも隙を与えれば、バーチャルでの戦いはどう転ぶか分からないのだ。僕は必要以上に念をいれ、止めを差しにいった。


「ハア……ハア……ハア……ごくっ」


 茶髪の男はゲエゲエと、蛙みたいな音をだしながらもがいていた。口角に血のついた泡がブクブクと広がり、白目を剥いていた。


 四十年前――集中治療室に送られた妻。肉体は滅んでも応急処置として意識だけは仮想空間に残された。僕はずっと現実から目を逸して生きてきた。もっと早く会いに来ることは出来たはずなのに、ついに余命宣告されるまで決心がつかなかった。


「……!?」


 金髪の男は彼女の前に倒れ伏していた。いつの間にか、彼女は自分の体重の二倍もある男を軽くノックアウトしていた。


 そして初めて出会った日のようなワクワクした目を向けて僕を見ていた。その眼差しでやっと彼女が、涼子だと確信できた。


「何かいいなさいよ」


 手を伸ばしたら逃げていってしまいそうな優しい眼差し。何もかも知っているような透き通った空虚な眼差し。僕が怖かったのは、また失ってしまうことだった。


「本当に君なんだね、涼子。また会えるなんて思っていなかったんだ」


「私は絶対に会えるって思ってたわよ」


 僕が彼女にしてあげられることは何もないのに、僕が彼女に求めていることは限りなかった。惨めで、情けなくて涙が溢れた。


「僕だって君に逢いたかった。でも、君が死んでしまったのは僕のせいだ。だから、僕が君を求める資格なんかないと思った。でも……でも……愛してるんだ」


 涼子の肌を唇に感じた時、僕は何もかも理解した。仮想空間では時間の概念を捨てることが出来ること。何年、何十年とたっていても、彼女にとっては一瞬の出来事だったのだ。


「馬鹿ね、事故だったのよ。あなたを見たとき、しっかりと生きてきたのが分かったわ。中途半端でここに来たなら、追い返してたところよ」


 マホガニー製のヨットが見えた。彼女がくるりと身をひるがえすと、瞬きをする間に真っ白なワンピース姿に変わっていた。


「色んな魔法が使えるんだね。僕を……許してくれるのかい?」


「初めから恨んでないってば。私の分までちゃんと生きてくれたじゃない。分かるのよ」


「じゃあ、じゃあ」


「ええ、一緒に生きましょう」


 永遠の世界へ――。

 




 

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ヘブンズ・ビーチ88 石田宏暁 @nashida

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