君の刻む痛みに濡れる

日月烏兎

君の刻む痛みに濡れる

 溶け合う体温と、乱れた呼吸。

 細めの、だけどちゃんと男の、余計な肉のないその腕が背中に回されて。まるで私を取り込もうとでもするような。

 抗うように、彼の耳へ舌を這わせ軽く歯を当てる。


「ねぇ、噛みついていい?」


 彼はそんな私の戯れに応えることなく、私の首筋へ唇を押し付けた。

 温もり。

 小さな痛み。

 思わず身体が硬くなる。漏らしたくもない吐息が、反射的に零れる。

 そんな私の様子に「これでいいでしょ」と言わんばかりに彼は冷たい笑みを見せた。


「イジワル」


 彼は答えることなく、私の身体を抱きしめ、額へ。目じりへ。頬へ。顎へ。唇を重ねれば、言葉を奪うように彼の舌は私の中を嬲っていく。

 酸素が奪われる。

 息苦しい。

 生き藻掻いて漏れた声は、聞きたくもない嬌声のようで。

 あぁ、とても。生き苦しい。




 ことが済めばいつもはそそくさとシャワーを浴びて着替える彼が、何故か今日に限って私を腕の中に閉じ込めて離さない。

 たったそれだけのことが、私を満たして、そして自己嫌悪に陥らせる。


「今日は余裕あるんだね」


 離れたくもないくせに。

 離れることもできないくせに。

 嫉妬と罪悪感が嫌味のような言葉を吐かせる。 


 軽く首を傾げて、彼は私を見た。


「いつも終わったらすぐ帰っちゃうから」


 彼の目に映る私はとても醜い。

 可愛くなければ、価値がないのに。

 溢れた言葉にすぐ後悔してしまう。


 そんな私の後悔を見透かしたように彼は優しく微笑んだ。私の髪を梳くように、彼の手が私を撫でる。あやすように、あるいは、汚れをはらうように。


「たまにはね。裕子とゆっくりしたいなって」


 撫でられ、甘やかされ、私の心が満たされてしまう。

 こんなことで。

 こんなことが。

 私を満たす。

 私を選んでくれる彼から、逃げられなくなる。


「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ちゃんと仕事は片づけてるし」


 同時に、酷く泣きたい気持ちになった。

 どこか探るような彼の目から逃げるように、私はベッドへ視線を落とす。


「……そう」


 これ以上は、踏み込まない。

 彼がわざとそう答えたことくらいちゃんと分かっているから。

 物分かりが良くて、可愛げのある女でないと、いけないから。


 乱れて汚れたシーツは、まるで私の心のようだ。


「裕子はほんと、可愛いね」


 仕方のない子をなだめるように、撫でて笑う。

 彼の顔は見れない。

 その目にはきっと、言葉とは真逆の嘲りが浮かんでいる事だろう。

 都合が良くて助かる、と。


「何、急に」

「何となくだよ。言いたくなっただけ」


 一度、二度、三度、と口づけを落とされて、身じろぎする私を拘束するように、彼の腕に少し力がこもった。 


「愛してる」


 それは、まるで呪いのような。


「私も」


 続きが、喉に引っかかる。

 小さな棘が抜けない。

 逃げたい。

 のに。


「私も、何?」


 だけど彼はそんな私の罪悪感を許さない。

 とっくに呪われた私に、逃げ場なんてないと教え込むように。

 何、ともう一度繰り返す。


「……意地悪な人」


 分かっているくせに。

 全部、分かっているくせに。


「だって言って欲しいなって」


 最低だ。

 とても、最悪だ。

 なんて気持ちの悪い時間だろう。

 だけど。 


「私も……愛してる……」


 私も、同じ穴の狢なのだ。

 落ちてしまった時点で。

 この身を委ねてしまった時点で。


 涙が零れた。

 そんな権利もないのに。


「ほんと、可愛い」


 染め上げるように、彼の手が私の身体を這う。

 おぞましいのに、嬉しくて。 


「……また?」

「ダメ?」


 どうせ断れないと知っているくせに。


「今は裕子だけのものだよ」


 その笑みは、悪魔のようだ。


 私はきっと地獄に落ちる。

 分かっている。

 それでも、私は彼の背中に腕をまわした。


 私は、私が破滅するその日が待ち遠しくて、恋しくて、仕方がない。

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