浮いた話の一つや二つ
染井雪乃
浮いた話の一つや二つ
夏の夜道。バチリ、と目が合った。居酒屋で大人気なく絡んだ
凪の左側に立って告げる。
「トイレットペーパー、特売なんだ。一人一つ。この意味、わかるだろ?」
付き合えよ、とだけ言って、遠野は歩き出す。
爽やかな風貌の遠野とは、歩いているだけで、派手な凪とのミスマッチがすごい。
「俺じゃなくてもよくない?」
「そこにいたから、おまえでいいだろ」
相変わらず無神経な物言いをするやつだとは思ったが、遠野要に鬱憤でも晴らすかのように絡んでしまった夜のことを思えば、返す言葉はなかった。
遠野と連れ立って歩き、スーパーでトイレットペーパーを買った。
スーパーからの帰り道、甘いフラペチーノが有名なコーヒーショップを指差して、遠野が言った。
「コーヒーの一杯くらいは奢るけど」
遠野は新作の胸焼けしそうな甘いドリンクを頼み、凪はエスプレッソを注文した。トイレットペーパーを手に男二人で入る店ではないなと思ったが、時間帯もあってか、静かな時が流れているのは、凪としてはありがたい。
遠野と凪は、もう関係ない。毎日教室で顔を合わせることも、互いへの評価が生活に影響することも、ない。
その場限りの関係みたいなものだ。だから、するっと言葉が出た。
「遠野、米寿って知ってるか?」
「ああ、知ってるぞ。新茶のやつだろ」
八十八しか合っていない返答に、凪は笑ってしまった。
「それは、八十八夜。俺が言ってんのは、八十八歳のお祝いだ」
「八十八夜も八十八歳も誤差だろ」
誤差じゃねえよ、と思ったけど、凪としてはそれくらいの軽い認識が心地よかったので、深く追及はしなかった。
「俺のところは早死にだから、八十八歳まで生きるような元気なのはいないな。じいちゃんばあちゃん皆、俺が中学卒業するくらいまでに死んでる」
何てことないかのように、遠野は言う。遠野の祖父母に少しだけ憐れみを覚えてしまう。
「まあとにかく、じいさんの米寿のお祝いやってたわけ。で、じいさんがさあ、言うんだよ。『凪の孫の顔も見たい』って」
「へえ」
心底興味なさそうな遠野の相槌に、問い返してみた。
「遠野はそういうこと言われたりしないのか?」
「言われない。多分、俺はそういう期待はされてない」
遠野の代わりに、そういう期待は遠野の弟に向くのだと遠野は淡々と言った。
「研究で身を立てようって人間に、色恋に現を抜かせなんて言うやつがいたら、そいつはただの馬鹿だから無視する」
遠野の生きる世界の過酷さを思えば、納得のいく言葉だ。
服飾デザイナーをしている凪だって、過酷な世界にいると自分では思っているが、遠野の世界もまた、過酷なのだ。
「顔もわからないのに、誰かにかわいいとか言うの、面倒だしな」
顔の認識が難しいとされる相貌失認を抱える遠野は、恋愛そのものに興味がわかないようだった。
「米寿のじいさんがさ、『浮いた話の一つや二つ、ないのか』って言うからうざくて。あの世代の人間、結婚して一人前、みたいなのあるだろ」
「ああ、まあ、そうだろうな。教授とかその上の世代とか割と」
「馬っ鹿じゃねえの。片耳聴こえない男と結婚したがる女がいるかよ」
口にしてから、遠野が聞き手でよかったと胸を撫で下ろした。これが、
遠野はそのどちらもしないだろう。凪に、関心がないから。
「そもそもにして、結婚したがるやつは正気じゃねえから、そういう狂気に染まった女も、探せばいるんじゃねえの」
結婚が正気じゃないときたか。遠野はとことん合理的だ。
「遠野って、高校の時付き合ってたやついなかったっけ」
「いねえよ。告白はされたけど、本当に誰かわかんなくて、『おまえ誰?』って返したら泣いて逃げていった。そこで相貌失認って知られなくて安心してたら、『遠野は馬鹿の顔を覚えない』って噂ができた。あれは楽だったな」
「事情知ってても割とクズに聞こえるなそれ」
遠野って学年順位一桁しか取らない優等生だった気がするんだが。
「うるせえよ。結果俺にとってメリットだったんだから、いいだろ」
甘いドリンクを飲み干して、遠野は平然としている。凪にはその味覚が信じられなかった。
「その点、今は楽だな。告白されても、研究以外に興味ないで終われる」
「結婚願望なかったら、遠野くらいクズ貫き通せるのかもしれねえな」
「誰がクズだよ。恋愛感情なんて、成就しないリスクを負って他人にぶつけてんだ。不要と切り捨てられて、キレる方が間違ってる」
正論だった。かなり口の悪い正論を、凪は飲みこめてしまった。
「つーか、糸川って、そんな面倒くせえこと、したいのかよ」
「したいわけねえだろ。でもほら、じいさんがそろそろ死ぬのかと思ったら、それっぽいもん見せるのがいいかとか、考える。遠野は、そういう感覚なさそうだけど」
「あるわけないだろ。そんな面倒な感覚。あるだけ無駄だ」
清々しいまでに合理的で、他人を顧みない遠野。無関係な一人の人間として観察すると、その生き方は美しく見えた。
「死にかけの人間、妙に勘がいいからな。下手な芝居打つくらいなら適当にかわしておけ」
「遠野にしては、いいアドバイスじゃん」
「こんなことも一人で思いつけない糸川があわれだな」
鼻で笑って、遠野は立ち上がった。
「遠野、おまえやっぱクズだな」
「人の手を借りた礼をきちんとする、いいやつだろうが」
「律儀ではあるけど、優しくはねえ」
トイレットペーパーを持った遠野と、コーヒーショップを出た。
「二度と会いたくないときって何つって別れるんだ」
「糸川、それを人はフラグって言うんだ」
呆れた様子で、遠野は凪に手を振って去っていった。
本当に、もう二度と会いませんように。
凪の願いが叶うかは、誰にもわからない。
(了)
浮いた話の一つや二つ 染井雪乃 @yukino_somei
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